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3、地底人らしく
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世の中、大抵のことはお金で解決できる。友子はそう言っていたけれど、どんなにお金があっても母と父は戻らないし、このさみしさを埋めることはできない。そもそも結の家は裕福ではなかった。
金一郎のわずかな年金は生活費だけで7割は消え、残りの3割は持病の通院費に消える。彼は決して自分のことを貧しいとは言わなかったが、毎日がカツカツなのは結にも分かった。自分が早く働けるようになったら、家にお金を入れて金一郎に少しは楽をさせてあげられるのに。結は小さな自分の手を見つめながらそんなことを思った。
ドアの向こうから金一郎の声が聞こえた。たぶん、いつもなら真っすぐ居間に行っておしゃべりするのに、今日は部屋にこもりっきりだから心配してきたのだろう。結は心配かけさせまいと目元をぬぐい、写真を元の場所に戻してドアを開けた。
「どうしたんだい? 元気がなさそうに見えるが」
結はぎこちなく笑顔をつくった。
「今しがたお菓子を作ったところだよ。さぁ、おいで。一緒に食べよう」
出来立てのお菓子を頬張りながら、テレビを眺める金一郎の笑った顔を眺める。なんてことのない、穏やかで幸せなひとときだった。金一郎は、結が虫嫌いなのを知っているので食卓に昆虫料理を出すことはない。だから、今回も安心して食べられるリンゴの焼き菓子だった。
夕食を金一郎と一緒に作り、2人は夜の9時くらいまで居間で一緒に過ごした。明日はいつもより30分早出なので、結はお風呂に入ってすぐベッドにもぐった。やっぱり家の中が一番落ち着く。虫に邪魔されることのない自分だけの領域。心の底から安心できる場所だった。
しかし、早く寝ようと思った日に限って寝つきが悪い。結は小さなランプの明かりを頼りに明日の旅程表を眺めた。
~1日目~
午前 地底開拓記念センター訪問。
午後 遊園地自由行動。
~2日目~
午前 競虫観戦。
午後 昆虫協会訪問。社会科見学。
結が一番楽しみにしていたのは遊園地での自由行動。次に、友子と大いに盛り上がった平沢尊守の望遠鏡追っかけ。1日目と2日目にそれぞれ楽しみなことが一つずつあるのは幸いなことだった。全部が救いのない日程だったらたぶん、乗り切れない。結は楽しみな予定がつぶれないようにと願いながらランプの明かりを消した。
ブロマイドを枕の下に入れて寝たせいか変な夢を見た。平沢尊守が競虫で1位になり、大喝采の中観客に手を振って笑っている。自分と友子がサインをもらうために待っていると、彼が巨大なカブトムシに乗って目の前まで飛んできた。
『一緒に空中散歩でもどう?』
まるでお姫様になった気分だ。彼の手を取り、結は一緒にカブトムシのツノにつかまりながら空に飛び立った。
『しっかりつかまってて』と言うので彼の腰に手を回した。だが、カブトムシというのは2人乗りに不向きで、羽にぶつかって結は真っ逆さまに落ちていく。ぶつかる、私はもう死んだ。地面にぶつかる寸前で目が覚めた。
枕の下に手をゴソゴソやると、ブロマイドは床に落ちて反対向きになっていた。前半は淡い恋心みたいにウキウキした気分だったのに、カブトムシからの転落死なんて寝覚めが悪過ぎる。
結は修学旅行のかばんを背負って家を出た。学校に着くともうみんな集合していて、あとは先生たちが来るのを待つだけだった。友子が手招きするので隣に重いかばんを下ろして座った。
「いい夢見れた?」
友子の言葉が嫌味に聞こえる不思議。
「まぁ」
結は言った。
「さえない顔ね!」
「カブトムシから落ちたの」
「カブトムシ?」
誰かに肩をツンツンされて振り返ると、巨大グモが細長い足をクチャクチャ動かして腹を見せていた。結は、この世の終わりみたいな金切り声を上げて地面をはった。クモを片手に持って爆笑する意地悪な男子の田中直樹が主犯だ。
彼は周りの男子と一緒になってゲラゲラ笑いこけていたが、結は顔も見たくなくて猛スピードで走り去った。とにかく虫のいなさそうな校舎に逃げ込もうとしたところで、強面の学年主任高橋先生にぶつかった。
「まぁっ! そんなに急いでどうしたのです? 近江結さん、集合の時間はとっくに過ぎているはずですよ。さぁ、元の場所に戻って」
結は先生を振り切ろうとまた足を踏み出した。
「近江さん!」
怖い先生の声で足が止まった。
「そんなに慌ててどうしたんです」
「先生! 違うんです」
友子が現れて高橋先生に抗議した。
「田中がクモを使って驚かせたんです。だから結はびっくりして」
先生に呼び出された田中はポケットに手を突っ込んでやってきた。
「虫を使って人を驚かせるのはたちの悪いいたずらですよ。虫をそういうことに利用してはいけません。前にも忠告したはずですよ。分かりましたか?」
「でも、先生」
「分かったのか尋ねているのですよ。はいか、いいえで答えてください」
しぶしぶといった感じで田中は「はい」と言った。
「だったら、近江さんに直接謝罪してください」
うつむく結に唇をすぼめる田中。両者はしばらくバチバチと視線をぶつけていたが、先生の前ということもあり田中は「謝ります」とだけ言った。これで一件落着と思いきや「クモに」。
「まぁ!」
先生は顔を真っ赤にした。田中は猛ダッシュした。
「やーい! 弱虫ぃ!」
「待ちなさい!」
先生の手を逃れて田中はみんなの所へ戻っていった。どう処罰したらいいものかと考えているのか、高橋先生は鼻の穴から荒い息を吐いて腕を組んだ。先生は歩いていこうとしてからピタリと足を止めて言った。
「近江さん、悪いのはからかう田中さんですが、あなたも少し冷静に対処してください。お母さまは素晴らしい昆虫師だったというのに、あなたときたらクモ一つでこうも騒ぎ立てて。少しはお母さまを見習って昆虫に慣れてください」
先生はなぜあんなひどいことを言うのだろう。昆虫師だった母を見習え、なんて。親子だから母親とそっくりでなければいけないのだろうか。
地底人だから、地底人らしくなければいけないのだろうか。ほら、先生がみんなの前で怒るから、またみんな笑ってる。こんなだから、学校が嫌なのだ。友子は金一郎と同じで味方になってくれたけど、ほかの子たちは違う。虫を見ても動揺しないし、おいしいと言って昆虫料理を食べる。それができない結は変な人だと思われている。金一郎が学校の先生だったらどんなにいいことか。
金一郎のわずかな年金は生活費だけで7割は消え、残りの3割は持病の通院費に消える。彼は決して自分のことを貧しいとは言わなかったが、毎日がカツカツなのは結にも分かった。自分が早く働けるようになったら、家にお金を入れて金一郎に少しは楽をさせてあげられるのに。結は小さな自分の手を見つめながらそんなことを思った。
ドアの向こうから金一郎の声が聞こえた。たぶん、いつもなら真っすぐ居間に行っておしゃべりするのに、今日は部屋にこもりっきりだから心配してきたのだろう。結は心配かけさせまいと目元をぬぐい、写真を元の場所に戻してドアを開けた。
「どうしたんだい? 元気がなさそうに見えるが」
結はぎこちなく笑顔をつくった。
「今しがたお菓子を作ったところだよ。さぁ、おいで。一緒に食べよう」
出来立てのお菓子を頬張りながら、テレビを眺める金一郎の笑った顔を眺める。なんてことのない、穏やかで幸せなひとときだった。金一郎は、結が虫嫌いなのを知っているので食卓に昆虫料理を出すことはない。だから、今回も安心して食べられるリンゴの焼き菓子だった。
夕食を金一郎と一緒に作り、2人は夜の9時くらいまで居間で一緒に過ごした。明日はいつもより30分早出なので、結はお風呂に入ってすぐベッドにもぐった。やっぱり家の中が一番落ち着く。虫に邪魔されることのない自分だけの領域。心の底から安心できる場所だった。
しかし、早く寝ようと思った日に限って寝つきが悪い。結は小さなランプの明かりを頼りに明日の旅程表を眺めた。
~1日目~
午前 地底開拓記念センター訪問。
午後 遊園地自由行動。
~2日目~
午前 競虫観戦。
午後 昆虫協会訪問。社会科見学。
結が一番楽しみにしていたのは遊園地での自由行動。次に、友子と大いに盛り上がった平沢尊守の望遠鏡追っかけ。1日目と2日目にそれぞれ楽しみなことが一つずつあるのは幸いなことだった。全部が救いのない日程だったらたぶん、乗り切れない。結は楽しみな予定がつぶれないようにと願いながらランプの明かりを消した。
ブロマイドを枕の下に入れて寝たせいか変な夢を見た。平沢尊守が競虫で1位になり、大喝采の中観客に手を振って笑っている。自分と友子がサインをもらうために待っていると、彼が巨大なカブトムシに乗って目の前まで飛んできた。
『一緒に空中散歩でもどう?』
まるでお姫様になった気分だ。彼の手を取り、結は一緒にカブトムシのツノにつかまりながら空に飛び立った。
『しっかりつかまってて』と言うので彼の腰に手を回した。だが、カブトムシというのは2人乗りに不向きで、羽にぶつかって結は真っ逆さまに落ちていく。ぶつかる、私はもう死んだ。地面にぶつかる寸前で目が覚めた。
枕の下に手をゴソゴソやると、ブロマイドは床に落ちて反対向きになっていた。前半は淡い恋心みたいにウキウキした気分だったのに、カブトムシからの転落死なんて寝覚めが悪過ぎる。
結は修学旅行のかばんを背負って家を出た。学校に着くともうみんな集合していて、あとは先生たちが来るのを待つだけだった。友子が手招きするので隣に重いかばんを下ろして座った。
「いい夢見れた?」
友子の言葉が嫌味に聞こえる不思議。
「まぁ」
結は言った。
「さえない顔ね!」
「カブトムシから落ちたの」
「カブトムシ?」
誰かに肩をツンツンされて振り返ると、巨大グモが細長い足をクチャクチャ動かして腹を見せていた。結は、この世の終わりみたいな金切り声を上げて地面をはった。クモを片手に持って爆笑する意地悪な男子の田中直樹が主犯だ。
彼は周りの男子と一緒になってゲラゲラ笑いこけていたが、結は顔も見たくなくて猛スピードで走り去った。とにかく虫のいなさそうな校舎に逃げ込もうとしたところで、強面の学年主任高橋先生にぶつかった。
「まぁっ! そんなに急いでどうしたのです? 近江結さん、集合の時間はとっくに過ぎているはずですよ。さぁ、元の場所に戻って」
結は先生を振り切ろうとまた足を踏み出した。
「近江さん!」
怖い先生の声で足が止まった。
「そんなに慌ててどうしたんです」
「先生! 違うんです」
友子が現れて高橋先生に抗議した。
「田中がクモを使って驚かせたんです。だから結はびっくりして」
先生に呼び出された田中はポケットに手を突っ込んでやってきた。
「虫を使って人を驚かせるのはたちの悪いいたずらですよ。虫をそういうことに利用してはいけません。前にも忠告したはずですよ。分かりましたか?」
「でも、先生」
「分かったのか尋ねているのですよ。はいか、いいえで答えてください」
しぶしぶといった感じで田中は「はい」と言った。
「だったら、近江さんに直接謝罪してください」
うつむく結に唇をすぼめる田中。両者はしばらくバチバチと視線をぶつけていたが、先生の前ということもあり田中は「謝ります」とだけ言った。これで一件落着と思いきや「クモに」。
「まぁ!」
先生は顔を真っ赤にした。田中は猛ダッシュした。
「やーい! 弱虫ぃ!」
「待ちなさい!」
先生の手を逃れて田中はみんなの所へ戻っていった。どう処罰したらいいものかと考えているのか、高橋先生は鼻の穴から荒い息を吐いて腕を組んだ。先生は歩いていこうとしてからピタリと足を止めて言った。
「近江さん、悪いのはからかう田中さんですが、あなたも少し冷静に対処してください。お母さまは素晴らしい昆虫師だったというのに、あなたときたらクモ一つでこうも騒ぎ立てて。少しはお母さまを見習って昆虫に慣れてください」
先生はなぜあんなひどいことを言うのだろう。昆虫師だった母を見習え、なんて。親子だから母親とそっくりでなければいけないのだろうか。
地底人だから、地底人らしくなければいけないのだろうか。ほら、先生がみんなの前で怒るから、またみんな笑ってる。こんなだから、学校が嫌なのだ。友子は金一郎と同じで味方になってくれたけど、ほかの子たちは違う。虫を見ても動揺しないし、おいしいと言って昆虫料理を食べる。それができない結は変な人だと思われている。金一郎が学校の先生だったらどんなにいいことか。
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