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1、宝石より価値あるもの
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扉を開けると主人の宝屋長次郎(たからや・ちょうじろう)がいつもの数倍いかめしい顔で立っていた。
「今日はお偉い地主がうちで食事をする。粗相でもしてみろ、ただじゃ済まさんからな」
乱暴に扉が閉まった。
早朝一番、このあいさつは強烈だ。
冬の暖房もない部屋を使有之助(つかい・ありのすけ)は素足で歩き、綿性の寝巻からいつもの仕事着に着替えた。なんの柄もついていない灰色の生地だが、普段着よりしっかりしている。宝屋は常に見栄えを気にする主人で、いつだって客の前では自分がどんなにいい使用人を連れているのかを知らしめたがった。だから、仕事中は高級な生地の着物を着させてくれるのだ。
一方で、普段着に与えられているのはかび臭い着物一着。有之助は着替えて髪の手入れをしながら鏡台の前に座った。何度見ても地味な着物には浮いて見える髪の色。秋になると深い赤色に染まるニシキギの葉のように、有之助の髪は燃えるような赤色をしていた。今はだいぶ落ち着いたが、小さい頃はもっと赤かったのだと母は話してくれた。右の手首にはみみずばれのような痕があるが、これは物心ついた時からあったものだ。
使用人として宝屋の屋敷で働く有之助と母に与えられているのは、この小さく寒々しい屋根裏部屋一つ。夏は暑く冬は寒い。たんすに机と座布団が2枚。壁にかかった目も覚めるような赤色の着物だけが部屋に色どりを与えていた。流水模様に銀の舞鶴が刺しゅうされている着物だ。母が宝屋の屋敷に来る前から大切にしてきたもので、有之助が18になったら着させたいのだと言う。もう耳にたこができるほど聞いた話だ。今14の有之助はあと4年も待たなければいけない。
心地よい足音が扉の向こうから聞こえてきた。歩き方で誰なのか分かるのも長年の経験で身に染みた習慣だった。トットッと爪先で床を優しく蹴るように歩く足音は母だ。うれしさを顔に出さないように有之助が扉を開けると、ちょうど大量の洗濯物を抱えて横切ったところだった。
「母さん、おはよ」
「おはよう、有之助。おにぎり握っておいたから食べてね」
母はいつも有之助より2時間早く起きる。玄関掃き、部屋の換気、窓拭き、朝一の洗濯物――、やることは山積みだ。それでも母は宝屋の朝食準備ついでに、おにぎりを握って台所に寄せておいてくれる。有之助は母がにぎる丸々とした塩むすびが大好きだった。この日も例のように台所へ行くと、のりの笑顔印がついたおにぎりがちょこんと一つ置いてあった。笑顔の時もあれば、猫や犬の顔の時もある。いつも生真面目に働く姿からは想像がつかないほど遊び心のある人だ。
有之助はおにぎりを食べ終えて母の手伝いに向かった。冬の厳しい寒さの中、素手で大量の洗濯物を洗い、物干しざおに干していく。慣れた仕事ではあったが、あかぎれだらけの母の手を見るたびに、もっと楽をさせてあげられないものかと心を痛めた。でも、それは母も同じだった。いつも、まめやあかぎれをつくる有之助の手をとって謝るのだ。
宝屋は名前の通り宝石商の裕福な男だ。彼の屋敷は部屋が12もある邸宅で、いつも商談相手を招いては盛大な宴会を開いたり、会議を開いたりする。それを2人の親子だけで部屋の掃除、洗濯、食事の準備、お客様の世話までしなければならない。どんなに理不尽な仕事量で回らないことがあっても、宝屋は仕事の遅れをこっぴどく叱りつける。許しはしないのだ。母はきっと怖い思いをたくさんしているはずなのに、ただ耐えるだけ。有之助の前ではいつも笑顔を絶やさなかった。
12時ちょうど。お客様が車で到着したので、有之助と母は玄関前に整列してお出迎えした。宝屋とお客様が話し込んでいる間に、有之助と母は台所に引っ込んですぐにお茶の準備をした。客間に行って母がお茶とお菓子を出し、休む間もなく昼食の支度にとりかかる。今日はまだ1人だから手が回らないということはない。この日の昼食は、米をだし汁で煮たものにときたまごを流し込んだ料理、野菜の盛り合わせ、酢漬け。皿を用意し、母が作った料理を盛りつける。お盆に並べるのはいつも有之助の役目だった。
母の笑顔が合図で有之助は大きなお盆を持ち台所を出た。宝屋とお客様は外国での商売について話し込んでいる真っ最中で、有之助は話の邪魔にならないよう息を殺してテーブルの上に食事を出した。こういうときに母の教え「空気のようになる」は大いに役立った。そこにいないつもりで空気を演じなさい。母は何度もそう教えてくれた。事実、宝屋とお客様は使用人の有之助など目にも入っていない様子だった。
宝屋の分を運びに戻ろうとしたとき、ふと聞き捨てならない言葉に足が止まった。
「うちの使用人ですか? えぇ、特に、あの女は高い買い物でしたよ」
有之助はお盆を手に持ったまま硬直した。それに今、なんと言った? 宝屋は確かに買い物と言った。有之助には、つまるところ母を買ったのだと理解できた。
「とはいえ、宝石に勝る価値などありはしません。しょせん、使い捨てですから、物と同じですよ。物と。効率よく考えなくてはねぇ」
「ばかにするな」
気付いたらそう口走っていた。こんな話を聞いておいて、空気になれなんて守れるはずもなかった。
宝屋は血相を変えて立ち上がると、ギラギラ宝石のついた指を有之助の胸に突きつけた。
「お客様の前でなんてことをっ!」
「お客様の前だろうと関係ない!」
宝屋の眉がぐにゃりと曲がった。
「母さんには美しい心があるんだ。その輝きは宝石にも勝る。それを使い捨てだとか、物みたいに言うなら、絶対に許さない」
「今日はお偉い地主がうちで食事をする。粗相でもしてみろ、ただじゃ済まさんからな」
乱暴に扉が閉まった。
早朝一番、このあいさつは強烈だ。
冬の暖房もない部屋を使有之助(つかい・ありのすけ)は素足で歩き、綿性の寝巻からいつもの仕事着に着替えた。なんの柄もついていない灰色の生地だが、普段着よりしっかりしている。宝屋は常に見栄えを気にする主人で、いつだって客の前では自分がどんなにいい使用人を連れているのかを知らしめたがった。だから、仕事中は高級な生地の着物を着させてくれるのだ。
一方で、普段着に与えられているのはかび臭い着物一着。有之助は着替えて髪の手入れをしながら鏡台の前に座った。何度見ても地味な着物には浮いて見える髪の色。秋になると深い赤色に染まるニシキギの葉のように、有之助の髪は燃えるような赤色をしていた。今はだいぶ落ち着いたが、小さい頃はもっと赤かったのだと母は話してくれた。右の手首にはみみずばれのような痕があるが、これは物心ついた時からあったものだ。
使用人として宝屋の屋敷で働く有之助と母に与えられているのは、この小さく寒々しい屋根裏部屋一つ。夏は暑く冬は寒い。たんすに机と座布団が2枚。壁にかかった目も覚めるような赤色の着物だけが部屋に色どりを与えていた。流水模様に銀の舞鶴が刺しゅうされている着物だ。母が宝屋の屋敷に来る前から大切にしてきたもので、有之助が18になったら着させたいのだと言う。もう耳にたこができるほど聞いた話だ。今14の有之助はあと4年も待たなければいけない。
心地よい足音が扉の向こうから聞こえてきた。歩き方で誰なのか分かるのも長年の経験で身に染みた習慣だった。トットッと爪先で床を優しく蹴るように歩く足音は母だ。うれしさを顔に出さないように有之助が扉を開けると、ちょうど大量の洗濯物を抱えて横切ったところだった。
「母さん、おはよ」
「おはよう、有之助。おにぎり握っておいたから食べてね」
母はいつも有之助より2時間早く起きる。玄関掃き、部屋の換気、窓拭き、朝一の洗濯物――、やることは山積みだ。それでも母は宝屋の朝食準備ついでに、おにぎりを握って台所に寄せておいてくれる。有之助は母がにぎる丸々とした塩むすびが大好きだった。この日も例のように台所へ行くと、のりの笑顔印がついたおにぎりがちょこんと一つ置いてあった。笑顔の時もあれば、猫や犬の顔の時もある。いつも生真面目に働く姿からは想像がつかないほど遊び心のある人だ。
有之助はおにぎりを食べ終えて母の手伝いに向かった。冬の厳しい寒さの中、素手で大量の洗濯物を洗い、物干しざおに干していく。慣れた仕事ではあったが、あかぎれだらけの母の手を見るたびに、もっと楽をさせてあげられないものかと心を痛めた。でも、それは母も同じだった。いつも、まめやあかぎれをつくる有之助の手をとって謝るのだ。
宝屋は名前の通り宝石商の裕福な男だ。彼の屋敷は部屋が12もある邸宅で、いつも商談相手を招いては盛大な宴会を開いたり、会議を開いたりする。それを2人の親子だけで部屋の掃除、洗濯、食事の準備、お客様の世話までしなければならない。どんなに理不尽な仕事量で回らないことがあっても、宝屋は仕事の遅れをこっぴどく叱りつける。許しはしないのだ。母はきっと怖い思いをたくさんしているはずなのに、ただ耐えるだけ。有之助の前ではいつも笑顔を絶やさなかった。
12時ちょうど。お客様が車で到着したので、有之助と母は玄関前に整列してお出迎えした。宝屋とお客様が話し込んでいる間に、有之助と母は台所に引っ込んですぐにお茶の準備をした。客間に行って母がお茶とお菓子を出し、休む間もなく昼食の支度にとりかかる。今日はまだ1人だから手が回らないということはない。この日の昼食は、米をだし汁で煮たものにときたまごを流し込んだ料理、野菜の盛り合わせ、酢漬け。皿を用意し、母が作った料理を盛りつける。お盆に並べるのはいつも有之助の役目だった。
母の笑顔が合図で有之助は大きなお盆を持ち台所を出た。宝屋とお客様は外国での商売について話し込んでいる真っ最中で、有之助は話の邪魔にならないよう息を殺してテーブルの上に食事を出した。こういうときに母の教え「空気のようになる」は大いに役立った。そこにいないつもりで空気を演じなさい。母は何度もそう教えてくれた。事実、宝屋とお客様は使用人の有之助など目にも入っていない様子だった。
宝屋の分を運びに戻ろうとしたとき、ふと聞き捨てならない言葉に足が止まった。
「うちの使用人ですか? えぇ、特に、あの女は高い買い物でしたよ」
有之助はお盆を手に持ったまま硬直した。それに今、なんと言った? 宝屋は確かに買い物と言った。有之助には、つまるところ母を買ったのだと理解できた。
「とはいえ、宝石に勝る価値などありはしません。しょせん、使い捨てですから、物と同じですよ。物と。効率よく考えなくてはねぇ」
「ばかにするな」
気付いたらそう口走っていた。こんな話を聞いておいて、空気になれなんて守れるはずもなかった。
宝屋は血相を変えて立ち上がると、ギラギラ宝石のついた指を有之助の胸に突きつけた。
「お客様の前でなんてことをっ!」
「お客様の前だろうと関係ない!」
宝屋の眉がぐにゃりと曲がった。
「母さんには美しい心があるんだ。その輝きは宝石にも勝る。それを使い捨てだとか、物みたいに言うなら、絶対に許さない」
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