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41、買い出しへ
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ここはどこだろう。
見慣れた病院の床に天井が見えた。朝日の差し込む病室に入ると母がベッドの上でどこまでも優しく澄んだ目を向けてくれた。
「どう……して」
「おいで、有之助」
母の声だ。あれほど聞きたいと思っていた、鈴のように涼しげな声。有之助は震える足で一歩一歩床を踏み、やっと母のそばに座った。食い入るように母の顔を見つめ、眠り続けたままでないことを確かめたかった。間違いない、目の前にいるのは母だ。
「有之助、会いたかった」
こんなふうに喜んでくれる母の顔が見たかった。有之助は確かに触れられる母に手を伸ばし、ギュッと抱き締めた。
「僕も会いたかったよ。母さんっ! かあさん!」
母は怒っていなかった。油を探しに行く旅をしに、1人病院に置いていったことを。ずっと心の中に残っていたしこりが、和らいでいく。もう、頑張らなくていいのかもしれない。だって、母の病気は良くなったのだから。なんて温かい気分なのだろう。
そのとき、母の力が急に強くなった。
「どうして私を1人残して行ったの?」
「え?」
「どうしてなの?」
「聞いてよ。僕は、母さんの病気を治したくて町を出るしかなかったんだ。どんな病気でも治る油があるって、聞いた。だから、全て母さんのために……」
「真っ赤なうそ」
「ちがう、ちがうんだ!」
母は顔をゆっくり上げると有之助の首を両手でしめつけ馬乗りになった。
「全部、知っているんだよ。病気の母さんを置き去りにして出て行った。父さんと一緒なのね、あなたも」
「母、さん……」
有之助は絞り出すような声で呼んだ。
「あなただけは、あなただけは私のそばにいてくれると、そう思っていたのに、有之助。なぜ? なぜなの? おいしいものを食べて、幸せそうに笑っているの? 本当に、ひどい息子。人でなし!」
そんな。
有之助は首をしめられながら滝のように涙を流した。だが、一方で、ふと腑に落ちるような心地もあった。
あぁ、悪いのは僕なんだ。
母をこんなにも追いつめ、泣かせ、怒鳴らせているのは誰だ? 僕じゃないか。信之助も守れず、母をも裏切り、自分だけ……
”父さんと一緒なのね”
母の言葉が頭の中をグルグル回った。
母と自分たちを捨て、二度と戻ってこなくなった父。母を愛しているのなら、一度でいいから戻ってきてほしかった。でも、父は来なかった。家族だけど、ずっと許せずに恨んできた。
結局、同じじゃないか。
僕は、父さんとおんなじだ。
「ごめん……母さん……ごめんね。全部、僕のせいだ。ごめんなさい」
「あぁぁあああ!」
首を押さえながら有之助はのたうち回った。真っ暗な部屋の中、大量に汗をかき、息が苦しい。ここはどこだ?
「有之助!」
涙に濡れた有之助の目元を穂海がハンカチで拭い、ひんやりとした手を頬に当てた。
「悪い夢だよ、全部」
「夢……? あぁ、夢か、夢なのか」
一気に気が抜けて有之助は布団に突っ伏した。ここは白門荘だ。今の騒ぎで次男も起こしたのか、近くでもぞもぞ動く気配がした。首に生々しく残るしめられた感覚。
拳を握りしめ、有之助は布団の中でわめいた。母を置き去りにして、のうのうと旅をして、ご飯も食べて、楽しくおしゃべりもして――全て、罪深く感じる。信之助は人でなしにだけはなるなと言った。それなのに、自分ときたら、母になにもしてあげられない。遠くにいる。
黙れ、泣くんじゃない。
自分で決めたことだろ?
こんな所でクヨクヨするんじゃない。
どうせ向こうに残っていようが。
僕は毎日後悔し続けていたはずだ。
母を助けられないもどかしさも。
信之助を死なせてしまった後悔も。
どの道忘れることはできない。
心に、記憶に、体に――
深く刻み込まれているのだから。
有之助は布団をギュッと握りしめて目を閉じた。眠るのが怖くて仕方がない。
「大丈夫だよ」
闇の中に響く優しい声色が聞こえた。汗で寝苦しく振り向くと、穂海がピタリと冷たい手を熱っぽい有之助の額に重ねた。
「穂海」
「大丈夫だから、おやすみ」
すーっと心の中が穏やかになっていくのが分かった。彼女の冷たい手は頭の中の熱まで冷ましてくれた。有之助はゆっくり瞼を閉じ、そのまま深い眠りに落ちていった。
恐らく二度寝したのだろう。再び起きると朝日が目にかかっていた。時計を見るともう10時を回っている。隅っこの布団を見てみると、守はまだ寝息を立てていた。布団を畳み、服を着替えていると次男が外から帰ってきた。彼は開口一番こう言った。
「買い出しに行く」
有之助と穂海は布団にもぐりかめみたいになっている守をゆすった。
「守、次男が買い出しに行くって。僕たちも早く準備しよう」
守はやっと起きていつもの着物に着替えた。町に繰り出すと、次男の指示で一週間分の生活用品を買いそろえた。有之助と穂海、守は山のような荷物を持って次男の後について行った。
「次男さん、ちょっといったん荷物置いてきていいですか?」
有之助は荷物から顔をひょこっとのぞかせた。
次男は3人から半分ずつ荷物を奪うとまた歩き出した。もうだいたいの物は買ったはずなのに、と思ってついていくと、今度は老舗呉服屋に入っていった。展示されている着物の値段を見て思わず目玉が飛び出た。有之助が一カ月働いてもらえる給料とほぼ同じではないか。
次男は袖から券を取り出して見せた。
「ここは呉服屋夫人が営む店の系列らしい。夫人から券をもらっている。3人とも好きな着物を選べばいい」
そういうと次男は休憩スペースのいすに座って腕を組んだ。有之助は呉服屋夫人の気遣いがあまりにもうれしくて、思わず目がうるんだ。
”あなた方の無事をお祈りします”
見ず知らずの自分にかけてくれた言葉が、今も鮮明に思い出される。有之助はあることを思いつき、奥にいた店員にこう尋ねた。
「すみません、ここは修繕もやっていますか?」
「はい、お時間はいただきますがお直しもやっています」
「本当ですか! 呉服屋の夫人からいただいた券で、どうしても修繕していただきたいものがあるんです。今、持ってきます!」
「ちょっと、有之助! どこに行くの?」
「ごめん、穂海、守。ちょっと宿まで取りに行くものがある。ついでに荷物も置いてくるから、先に選んでてくれるか?」
有之助はひたすら人だかりの中を走って宿に戻った。
見慣れた病院の床に天井が見えた。朝日の差し込む病室に入ると母がベッドの上でどこまでも優しく澄んだ目を向けてくれた。
「どう……して」
「おいで、有之助」
母の声だ。あれほど聞きたいと思っていた、鈴のように涼しげな声。有之助は震える足で一歩一歩床を踏み、やっと母のそばに座った。食い入るように母の顔を見つめ、眠り続けたままでないことを確かめたかった。間違いない、目の前にいるのは母だ。
「有之助、会いたかった」
こんなふうに喜んでくれる母の顔が見たかった。有之助は確かに触れられる母に手を伸ばし、ギュッと抱き締めた。
「僕も会いたかったよ。母さんっ! かあさん!」
母は怒っていなかった。油を探しに行く旅をしに、1人病院に置いていったことを。ずっと心の中に残っていたしこりが、和らいでいく。もう、頑張らなくていいのかもしれない。だって、母の病気は良くなったのだから。なんて温かい気分なのだろう。
そのとき、母の力が急に強くなった。
「どうして私を1人残して行ったの?」
「え?」
「どうしてなの?」
「聞いてよ。僕は、母さんの病気を治したくて町を出るしかなかったんだ。どんな病気でも治る油があるって、聞いた。だから、全て母さんのために……」
「真っ赤なうそ」
「ちがう、ちがうんだ!」
母は顔をゆっくり上げると有之助の首を両手でしめつけ馬乗りになった。
「全部、知っているんだよ。病気の母さんを置き去りにして出て行った。父さんと一緒なのね、あなたも」
「母、さん……」
有之助は絞り出すような声で呼んだ。
「あなただけは、あなただけは私のそばにいてくれると、そう思っていたのに、有之助。なぜ? なぜなの? おいしいものを食べて、幸せそうに笑っているの? 本当に、ひどい息子。人でなし!」
そんな。
有之助は首をしめられながら滝のように涙を流した。だが、一方で、ふと腑に落ちるような心地もあった。
あぁ、悪いのは僕なんだ。
母をこんなにも追いつめ、泣かせ、怒鳴らせているのは誰だ? 僕じゃないか。信之助も守れず、母をも裏切り、自分だけ……
”父さんと一緒なのね”
母の言葉が頭の中をグルグル回った。
母と自分たちを捨て、二度と戻ってこなくなった父。母を愛しているのなら、一度でいいから戻ってきてほしかった。でも、父は来なかった。家族だけど、ずっと許せずに恨んできた。
結局、同じじゃないか。
僕は、父さんとおんなじだ。
「ごめん……母さん……ごめんね。全部、僕のせいだ。ごめんなさい」
「あぁぁあああ!」
首を押さえながら有之助はのたうち回った。真っ暗な部屋の中、大量に汗をかき、息が苦しい。ここはどこだ?
「有之助!」
涙に濡れた有之助の目元を穂海がハンカチで拭い、ひんやりとした手を頬に当てた。
「悪い夢だよ、全部」
「夢……? あぁ、夢か、夢なのか」
一気に気が抜けて有之助は布団に突っ伏した。ここは白門荘だ。今の騒ぎで次男も起こしたのか、近くでもぞもぞ動く気配がした。首に生々しく残るしめられた感覚。
拳を握りしめ、有之助は布団の中でわめいた。母を置き去りにして、のうのうと旅をして、ご飯も食べて、楽しくおしゃべりもして――全て、罪深く感じる。信之助は人でなしにだけはなるなと言った。それなのに、自分ときたら、母になにもしてあげられない。遠くにいる。
黙れ、泣くんじゃない。
自分で決めたことだろ?
こんな所でクヨクヨするんじゃない。
どうせ向こうに残っていようが。
僕は毎日後悔し続けていたはずだ。
母を助けられないもどかしさも。
信之助を死なせてしまった後悔も。
どの道忘れることはできない。
心に、記憶に、体に――
深く刻み込まれているのだから。
有之助は布団をギュッと握りしめて目を閉じた。眠るのが怖くて仕方がない。
「大丈夫だよ」
闇の中に響く優しい声色が聞こえた。汗で寝苦しく振り向くと、穂海がピタリと冷たい手を熱っぽい有之助の額に重ねた。
「穂海」
「大丈夫だから、おやすみ」
すーっと心の中が穏やかになっていくのが分かった。彼女の冷たい手は頭の中の熱まで冷ましてくれた。有之助はゆっくり瞼を閉じ、そのまま深い眠りに落ちていった。
恐らく二度寝したのだろう。再び起きると朝日が目にかかっていた。時計を見るともう10時を回っている。隅っこの布団を見てみると、守はまだ寝息を立てていた。布団を畳み、服を着替えていると次男が外から帰ってきた。彼は開口一番こう言った。
「買い出しに行く」
有之助と穂海は布団にもぐりかめみたいになっている守をゆすった。
「守、次男が買い出しに行くって。僕たちも早く準備しよう」
守はやっと起きていつもの着物に着替えた。町に繰り出すと、次男の指示で一週間分の生活用品を買いそろえた。有之助と穂海、守は山のような荷物を持って次男の後について行った。
「次男さん、ちょっといったん荷物置いてきていいですか?」
有之助は荷物から顔をひょこっとのぞかせた。
次男は3人から半分ずつ荷物を奪うとまた歩き出した。もうだいたいの物は買ったはずなのに、と思ってついていくと、今度は老舗呉服屋に入っていった。展示されている着物の値段を見て思わず目玉が飛び出た。有之助が一カ月働いてもらえる給料とほぼ同じではないか。
次男は袖から券を取り出して見せた。
「ここは呉服屋夫人が営む店の系列らしい。夫人から券をもらっている。3人とも好きな着物を選べばいい」
そういうと次男は休憩スペースのいすに座って腕を組んだ。有之助は呉服屋夫人の気遣いがあまりにもうれしくて、思わず目がうるんだ。
”あなた方の無事をお祈りします”
見ず知らずの自分にかけてくれた言葉が、今も鮮明に思い出される。有之助はあることを思いつき、奥にいた店員にこう尋ねた。
「すみません、ここは修繕もやっていますか?」
「はい、お時間はいただきますがお直しもやっています」
「本当ですか! 呉服屋の夫人からいただいた券で、どうしても修繕していただきたいものがあるんです。今、持ってきます!」
「ちょっと、有之助! どこに行くの?」
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