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Ⅷ
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なぜ───?
また 「あれ」はやってくるの? なぜ?
「絶望」───
それは
玲が消してくれた はずだったのに
その夜のうちに、簡単な荷物だけ急いで作り、わたしと玲は研究所の出口へと向かった。
早足で、けれど足音を立てずに慎重に廊下を歩く。
所長室の前までくると、少し開いた扉の隙間から声が漏れてきた。
父が電話をしているようだった。
「ああ、確かに雪神玲はレクリア開発の実験体にふさわしい」
ビクリとわたしの身体が硬直する。
否定してきた単語を、父は現実として言っていた。
「まさか。いくら頭が良くてもあの子は自分のことにはうとい。レクリアが実は未完成だなんて夢にも思っていないだろう」
恐怖と哀しさに震え始めるわたしの身体を。
玲が、後ろからそっと抱きしめた。
「行こう、芽生」
耳元でささやきかけてくる。
その口調はまるで、何もかもを知っていたようで。
振り向くわたしと、玲の視線がぶつかる。
薄暗い照明が照らす中、玲は苦しそうに表情を歪めていた。
父の声が、わたしに追い打ちをかける。
「どのみちあと数日で彼は死ぬ、脳にまで癌細胞が回りきっているからな。それまでにレポートを仕上げなければ」
死 ヌ ───?
誰 が ……?
ドクン ドクン ドクン
ああ、
早鐘を打つこの心臓の音は、かつてもあった。
これは絶望の足音。
ぜつぼうの、あしおと───。
「芽生、行こう。オアシスに行こう」
がたがたと震えるわたしの身体を、痛いくらいに抱きしめて。
玲が再び強くささやく。
「ぼくのことならいいんだ。まさかあと数日しかもたないなんて思ってもいなかったけど……大丈夫、未完成の時のデータを見せてもらったことがあったけど、レクリアが不死なのは確かだから」
───だって玲は「玲の部分」である脳すら手遅れなんでしょう?
わたしの無言の問いを、玲は察したようだった。
「レクリアになれば、この身体が朽ち果てても空気中や地中に漂う物質のひとつになってまで生き続ける」
玲の声は、どこまでも優しい。
「魂がこの世に残るってことだ。そしたら事実上『死んでも』、芽生───きみを見守り続けて、愛し続けていける」
───そんなの、イヤ。
わたしの瞳から、涙が頬を伝って床にこぼれ落ちる。
───そんなの、いなくなるのと何も変わらない。わたしの前からいなくなるのと変わらない……!
さっき言ってくれたばかりじゃない。
一緒に暮らそうって、幸せにするって、そう言ってくれたばかりじゃない……!
「芽生……」
苦しそうだった玲の片手がわたしから離れ、白に近い薄茶色の髪をつかむ。
かきむしるように頭を抑えた。
「背が、」
のびたね、芽生。
その言葉と共に彼はその場にくずおれた。
「……! ……!」
声にならないわたしの声。
なぜ彼がそんなことを言ったのかも、わたしには分からない。
ただ、目の前で息を荒くする玲の身体を下からすくうようにして、自分の身体で持ち上げた。
あなたを、こんなところで死なせはしない。
こんな腐り切った世界で死なせはしない。
ドクン ドクン ドクン
押し寄せてくる
絶望が 憎悪が 哀しみが
玲───あなたがいなくなるのなら。
わたしがこの世に居続ける意味もない。
そして、
わたしが絶望に喰われるのを止める術(すべ)もない。
玲を引きずるようにして、いつか辿った道を手繰り寄せるようにして進む。
「だめ、だ……芽生……」
玲の声がわずかに聞こえる。
脱出ポッドにその身体を押し込むようにして入れて、遠隔スイッチのリモコンを取る。
ポッドの入口を閉めた。
わたしの頭は哀しみと悔しさで支配されていた。
腕に傷つけた、血のように。
わたしの視界までが、赤に染まったように見えるほどに。
かつてのように。
かつて以上に。
自分も含めたこの世の人間たちへの憎悪がこみ上げる。
自分のことしか考えていない人間たち。
だから玲を騙してこんなひどいことができたのだ。
そして、それを知ってもわたしは、
わたしは───こんなことしか、できない。
ただ
そのスイッチを押して
世界中の人間を殺すこと しか
「芽生───!」
ああ、
真っ赤だ
なにもかもが、
真っ赤だ───
また 「あれ」はやってくるの? なぜ?
「絶望」───
それは
玲が消してくれた はずだったのに
その夜のうちに、簡単な荷物だけ急いで作り、わたしと玲は研究所の出口へと向かった。
早足で、けれど足音を立てずに慎重に廊下を歩く。
所長室の前までくると、少し開いた扉の隙間から声が漏れてきた。
父が電話をしているようだった。
「ああ、確かに雪神玲はレクリア開発の実験体にふさわしい」
ビクリとわたしの身体が硬直する。
否定してきた単語を、父は現実として言っていた。
「まさか。いくら頭が良くてもあの子は自分のことにはうとい。レクリアが実は未完成だなんて夢にも思っていないだろう」
恐怖と哀しさに震え始めるわたしの身体を。
玲が、後ろからそっと抱きしめた。
「行こう、芽生」
耳元でささやきかけてくる。
その口調はまるで、何もかもを知っていたようで。
振り向くわたしと、玲の視線がぶつかる。
薄暗い照明が照らす中、玲は苦しそうに表情を歪めていた。
父の声が、わたしに追い打ちをかける。
「どのみちあと数日で彼は死ぬ、脳にまで癌細胞が回りきっているからな。それまでにレポートを仕上げなければ」
死 ヌ ───?
誰 が ……?
ドクン ドクン ドクン
ああ、
早鐘を打つこの心臓の音は、かつてもあった。
これは絶望の足音。
ぜつぼうの、あしおと───。
「芽生、行こう。オアシスに行こう」
がたがたと震えるわたしの身体を、痛いくらいに抱きしめて。
玲が再び強くささやく。
「ぼくのことならいいんだ。まさかあと数日しかもたないなんて思ってもいなかったけど……大丈夫、未完成の時のデータを見せてもらったことがあったけど、レクリアが不死なのは確かだから」
───だって玲は「玲の部分」である脳すら手遅れなんでしょう?
わたしの無言の問いを、玲は察したようだった。
「レクリアになれば、この身体が朽ち果てても空気中や地中に漂う物質のひとつになってまで生き続ける」
玲の声は、どこまでも優しい。
「魂がこの世に残るってことだ。そしたら事実上『死んでも』、芽生───きみを見守り続けて、愛し続けていける」
───そんなの、イヤ。
わたしの瞳から、涙が頬を伝って床にこぼれ落ちる。
───そんなの、いなくなるのと何も変わらない。わたしの前からいなくなるのと変わらない……!
さっき言ってくれたばかりじゃない。
一緒に暮らそうって、幸せにするって、そう言ってくれたばかりじゃない……!
「芽生……」
苦しそうだった玲の片手がわたしから離れ、白に近い薄茶色の髪をつかむ。
かきむしるように頭を抑えた。
「背が、」
のびたね、芽生。
その言葉と共に彼はその場にくずおれた。
「……! ……!」
声にならないわたしの声。
なぜ彼がそんなことを言ったのかも、わたしには分からない。
ただ、目の前で息を荒くする玲の身体を下からすくうようにして、自分の身体で持ち上げた。
あなたを、こんなところで死なせはしない。
こんな腐り切った世界で死なせはしない。
ドクン ドクン ドクン
押し寄せてくる
絶望が 憎悪が 哀しみが
玲───あなたがいなくなるのなら。
わたしがこの世に居続ける意味もない。
そして、
わたしが絶望に喰われるのを止める術(すべ)もない。
玲を引きずるようにして、いつか辿った道を手繰り寄せるようにして進む。
「だめ、だ……芽生……」
玲の声がわずかに聞こえる。
脱出ポッドにその身体を押し込むようにして入れて、遠隔スイッチのリモコンを取る。
ポッドの入口を閉めた。
わたしの頭は哀しみと悔しさで支配されていた。
腕に傷つけた、血のように。
わたしの視界までが、赤に染まったように見えるほどに。
かつてのように。
かつて以上に。
自分も含めたこの世の人間たちへの憎悪がこみ上げる。
自分のことしか考えていない人間たち。
だから玲を騙してこんなひどいことができたのだ。
そして、それを知ってもわたしは、
わたしは───こんなことしか、できない。
ただ
そのスイッチを押して
世界中の人間を殺すこと しか
「芽生───!」
ああ、
真っ赤だ
なにもかもが、
真っ赤だ───
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