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その男が抱いた女は…

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ひなたのようでいて、それでいて甘い香り。
このにおい、好き。
ずっと、嗅いでいたい。

そう思いつついい気分で目を覚ますと──

「っっっ!!」

危うく悲鳴を上げるところだったわたしの口を、目の前にいる新田さんの手が覆う。
どうしてかわたし、新田さんの胸の中にすっぽりとくるまっているのだ。
ゆうべ寝る前はきちんと、背中合わせで離れて寝たのに……!

「間違っても悲鳴なんか上げるなよ。隣の人間に聞こえたら、変な噂が立つだろ」

コクコクと小刻みにうなずくと、新田さんはようやく手を離してくれる。
なんとなく小声になりながら、聞いてみた。

「どうしてわたし、こんな体勢になってるんですかっ?」

「おまえ、寝ついたと思ったら俺のほうに転がってきて、しがみついて離れなかったんだよ。仕方ないから、そのまま寝た。俺もいまさっき起きたところだ」

わたしのほうからしがみついて離れなかったとか……!
ああ、なんて恥ずかしい。

「さ、会社行く準備するぞ」

新田さんは何事もなかったかのような表情で起き上がり、着替えを手に取る。
新田さんは寝室で着替えるから、わたしは洗面所を使わなくてはならない。もちろんそのあとで、新田さんも洗面所を使う。
わたしも慌てて着替えを引っ掴むと、洗面所に行った。

鏡を見ると、顔が真っ赤だ。
ああ、こんな顔、新田さんに見られちゃったんだ。

別に新田さんのことを好きとかそういうわけではないけれど、上原先輩に似ている新田さんのことは、やっぱり意識せずにはいられない。

顔を洗って着替えをし、メイクもしてからキッチンに行く。
既に新田さんがパンをトーストしてくれていたりしたため、わたしは慌てて、

「あとはわたしがやります! 食事はわたしの管轄ですから!」

あとを引き継いでオムレツを作った。
うーん、しかしこのままでは毎日カレーなんてことになりそうだし、そうだとしても食材が底を尽きそうだ。

「新田さん、今日の帰り道スーパーに寄ってもいいですか?」

「そうだな。ちゃんと料理するなら食材も必要か」

冷蔵庫を覗きながらのわたしに、新田さんもうなずく。

「新田さんの好きな食べ物って、なんですか?」

「好き嫌いは特にないが……そうだな、強いて言うならグラタンが好きだ。あとはパスタ系とか」

わりとお子様な好物だな、と思うと自然に口元がほころんだ。
ようし、じゃあ今夜はグラタンを作ろう。

パスタとグラタンが好きなら、パスタグラタンがいいかな?
それともオーソドックスにマカロニグラタンがいいだろうか。海老もブロッコリーもたっぷり入れて。
元カレの雅史のために食事を考えていたときよりも、なぜかうきうきしている自分に、わたしは驚いていた。



危機はその日のお昼休憩のときに訪れた。
ちょうど会議が長引いているらしく、まだ新田さんは戻ってこない。

ひやひやしていると、

「澤田さ~ん」

「今日こそ話、聞かせてもらうわよ~」

案の定、女性社員の皆さまに両脇からガシッととらえられてしまった。
そしてそのまま社員食堂に連れられていく。
ゆっくりランチを選ぶ暇もなく、あれよあれよといううちに隅のほうの席に連れて行かれ、取り囲まれた。

「で、実際どうなの? 運気、上がったりした?」

女性社員のひとりの第一声に、あっけにとられてしまう。

「運気……? なんの、ことですか?」

「やだぁ澤田さん、知らないで結婚したの?」

お弁当持参のショートボブの女性社員がそう言い、にまにまとほくそ笑む。

「新田さんてすっごいテクニシャンなんですって! しかも抱かれたら運気が上がるって社内でもっぱらの評判なのよー!」

きゃー、と女性社員たちは盛り上がる。
まさか新田さんにそんな噂があったなんて思ってもみなかったわたしは、顔が熱くなってきてしまう。
テクニシャンというのはあたっているかも……。だって、キスしただけでとろけそうだったし、ふわふわ頭の芯も身体の芯もとろけそうだったし。

そんなことをつい思い返していると、

「澤田さん、顔真っ赤! ゆうべも愛し合っちゃったんでしょ? 思い出しちゃった?」

なんて冷やかされるものだから、今朝ぴったり新田さんと密着していたことまで思い出してしまって、ますます身体中が熱くなる。

「しばらくは澤田さんのこと、観察ね!」

「そうね、これで澤田さんにいいことばかり起きたら、運気が上がったってことで新田さんの噂もホンモノってことよね!」

女性社員が勝手に盛り上がるものだから、困ってしまう。
せっかくの美味しいランチにも、手がつけられない始末。

そこへ渦中の新田さんが、

「悪い、璃乃。会議で遅れた。あっちで食事しようか」

颯爽と現れたものだから、女性社員がまたまたキャーッと歓声を上げる。
これ以上新田さんの妙な噂を聞かないようにしよう、じゃないと恥ずかしくて身が持たない。
そう思って、わたしは急いで自分のぶんのランチを持って新田さんと一緒に反対側の隅の席に移動した。

「なにか困ったことを聞かれたりしなかったか?」

ランチを食べながら、新田さんが尋ねてくる。
その男らしくて、でもキレイな顔に見惚れてしまう。
改めて思うけど、この人とキスなんてしちゃったんだ……。
それどころか、指、まで……。

「どうした? 顔が赤いぞ」

指まで入れられた、というところまで思い出して、わたしは慌ててかぶりを振る。

「なっ! なんでもありませんっ!」

そしてランチのお味噌汁をかきこむ。
お椀の陰から新田さんを見ると、不思議そうにわたしの顔を見つめている。

「やっぱりなにか言われたんだな?」

そう突っ込まれて、ゴホッと咳き込んでしまう。
むせるわたしの背中を新田さんがさすってくれた。

「……新田さんに抱かれたら、運気が上がるそう……ですね」

そろそろとそう切り出してみると、新田さんは苦い顔をした。

「ああ、その噂か。気にするな」

「気になりますよ、おかげでわたし、これから運気が上がるかどうかの観察対象になっちゃったんですよ!?」

「させておけ」

しれっとした顔で、新田さんはご飯を口に運ぶ。
そういう噂が立っているということは、実際に新田さんに抱かれた誰かがいて、実際に運気が上がったりしたから……なんだろうな。
そうでなければ、そんな噂が立つわけがない。
火のないところに煙は立たないとも言うし。

「……新田さん、女性関係激しかったんですか?」

「そんな覚えはないな。人並みじゃないか?」

新田さんの言う「人並み」がどれほどのものなのかが分からない。
なにしろこのルックスなのだ、相当モテただろうし現在も実際モテているし、それなりに女性経験もあったのだろう。

そう考えると、なぜだか胸がモヤモヤしてきた。
このモヤモヤはいったい、なんだろう?

「あれ、新田さん。また会いましたね」

考える暇もなく、意識が現実へと引き戻される。
見上げると、マンションの隣人である男の人がトレイを片手に持っていた。
確か……成宮さんっていったような。

「ああ、成宮さん。どうも。これから食事ですか?」

「いや、俺はもう戻るとこ。そういえばおたくのとこの部長さんが、新田さんを探してるみたいでしたよ」

「会議のことかな。すみません、ありがとうございます」

ちょうど食べ終わった新田さんは立ち上がり、

「璃乃、先に戻ってるから」

わたしに向けてそう言い、わたしがうなずくのを確かめると去って行った。

「新田さんに抱かれると運気が上がるって、ホント?」

まさか成宮さんにまで聞かれるとは思ってもいなかった。別のオフィスなのに、成宮さんの耳にまでそんな噂が入っているのか。
もしかしたらこのビル全体に、噂が行き届いてしまっていたりして。

完璧に油断したわたしは、またまた顔が熱くなってしまう。
成宮さんはそんなわたしを見下ろして、クスクス笑っている。

「璃乃ちゃん、かーわいい」

「かっ……からかわないでくださいっ!」

ご飯の残りをかきこむようにして食べると、わたしは立ち上がった。
そのままトレイを返しに行こうとすると、耳元でささやかれる。

「璃乃ちゃん、旦那にも敬語なんだ?」

ギクリとして成宮さんを見上げると、彼は甘いマスクに薄い笑みを浮かべていた。

「か……会話、聞いてたんですか?」

「ちょっとだけね。すぐ後ろで食べてたから、聞こえちゃったんだよ。でも、とぎれとぎれだから安心して?」

なんてことだろう。
いくらとぎれとぎれだとはいえ、危ないことに変わりはない。

「ねぇ、なんで敬語なの?」

「──会社では公私混同をさけるために、そうしてるんです」

苦し紛れにそう答えると、

「一緒にランチは食べるのに?」

鋭い突っ込みが返ってくる。
ここで弱気になったら、負けだ。
わたしはキッと成宮さんを睨みつける。

「──なにが言いたいんですか」

「別に。ただ、璃乃ちゃんと新田さんて仲良しオーラが出てないなぁって思ってさ」

仲良しオーラ……。確かにそんなもの、出逢ったばかりなのだから出ているわけがない。
そういうものは、分かる人には分かってしまうものなのだろう。そして成宮さんはきっと、かなりその手の鼻が利く。

「まぁ、ちょっと気になっただけだし、他言もしないから。気にしないでね?」

成宮さんは読めない笑顔のまま、片手を挙げて去っていく。
どっと、疲れが押し寄せてきた。
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