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つきあわない?

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翌朝、目が覚めると雨が降っていた。
雨が降り始めても、わたし起きなかったんだ。
なんて図太い神経をしているんだろう。
そう思いながら起き上がろうとすると、くらりと身体が傾いでベンチから落ちてしまった。

「いったぁ……」

しこたま腰を地面に打ってしまう。
だけど、気がつくと、痛いところは腰だけじゃない。身体の関節のあちこちが痛い。
それに、身体も重いしなんだか熱っぽい。
頬に手を当ててみると、やっぱりかなり熱を持っていた。
雨で起きなかったのは、熱が出てしまっていたからかもしれない。
たぶんこの熱は、精神的なものからだ。寒い中ベンチで寝たからもあるだろう。
せめて、バッグの中から服を出して身体にかけて眠ればよかった。
いまさらそう思っても、遅い。
熱と雨に濡れている身体のダブルパンチで、このままだと会社に行けそうにない。
熱だけならなんとかなるけれど、この濡れた身体はどうにかしないと会社に入れてももらえないだろう。
会社に行けば嫌でも新田さんに会うだろうし、ほんとうは行きたくなかったけれど、仕事だからそうもいかない。
これで仕事までなくなったら、洒落にならない。

「……でも、やめるって言っちゃったんだっけ……」

そうだった。新田さんにも、いまの仕事に区切りがついたらやめると豪語しちゃったんだった。
それは小柳さんに「新田さんと離婚します」と言ったときから決めていたことだけど、だとしても次の仕事を見つけないといけない。せめて、バイトだけでも。

「っくしゅん!」

くしゃみが出て、ぶるぶるっと身体を震わせる。
とにかく、この濡れた身体をどうにかしよう。
どこかでシャワーを借りて着替えなくちゃ。でも、どこで?
熱で朦朧とする頭で一生懸命考えていると、声がかけられた。

「りーのちゃん」

聞き覚えのあるその声に振り返ると、なんと、成宮さんが私服姿で立っていた。
まだ朝も早い、というか明け方近くだから私服姿というのはわかるけれど、どうして成宮さんがここにいるの?

「びっくりした? 俺の縄張り、広いんだよ」

にこにこといつもの得体の知れない笑顔で、彼は言う。

「シャワー浴びさせてあげるから、おいでよ。とりあえず荷物も持って」

「でも、」

「いいから、早く」

手をつかまれ、半ば強引に成宮さんの青い傘の中に入れられる。ぱたぱたと、傘に当たる雨音が耳にぼんやりと聞こえる。
そのまま、公園の前で駐車してあった成宮さんの車の中に、押し込まれるように入った。

「シート、濡れちゃいますっ……」

「いいのいいの。璃乃ちゃんのためなら。ほらシートベルトして」

言いながら成宮さんは、助手席のわたしのシートベルトをきちんとしめてくれる。
そして、ゆっくりと車を運転し始めた。
成宮さんの車に乗ったなんて知ったら、新田さん、どんな顔をするかな。

……なんて、ね。

もう新田さんはわたしのことなんて、嫌いになったに違いない。
そうでなくとも、あれだけ傷つけられたら顔も見たくないに違いないのに。
こんなふうに思う自分が、なんだか滑稽だ。

成宮さんに連れてこられた場所は、やっぱりというか成宮さんの住んでいるマンション。
つまり、……新田さんも住んでいるマンション。

「あの、わたし……」

「いいから、ほら早く入って。早くしないとお姫様抱っこしちゃうよ?」

マンションの前で渋るわたしに、成宮さんはトドメのひと言。
お姫様抱っこなんて、新田さん以外にされたくない……!
というか、お姫様抱っこじゃなくても、新田さん以外の誰にも触れられたくない……!
その一心から、わたしは慌てて成宮さんのうながすとおり、彼の部屋に入った。

「お風呂も沸かそうか?」

「シャワーだけで、いいです」

とりあえずとっとと浴びさせてもらって、退散しよう。
ここにいると、隣の部屋の新田さんのことを嫌でも考えてしまう。
……そうでなくとも考えてしまうのだけれど。

びしょびしょになって脱ぎづらい服を苦労して脱いで、成宮さんに言われていたとおり、洗面所の籠の中に入れる。
このスーツは、もうだめかな。安物だったから、雨にも弱いかも。
大事に着ようと思っていた一着なのに、とますます哀しい気持ちになる。

シャワーを浴びているうちに、ますます熱が上がったらしい。
熱いお湯の雨の中、わたしはふらふらと意識を手放してしまった。



遠くで、誰かの声が聞こえる。
それは怒鳴り声のようでもあり、すすり泣きのようでもあった。
哀しんで苦しんで、でもわたしを心配して怒ってくれている……誰かの声。
それが新田さんの声だ、と気づいたわたしは、ようやく重い瞼を押し上げた。

白い、見慣れた天井。だけど、どこか“違う”天井が視界に入る。
ああ、いまのは夢だったんだ……。
新田さんと別れたのに、新田さんの声なんて聞こえるはずがない。
わたしも、重症だな。

いまのわたしを上原先輩が見たら、どう思うだろう。
こんな決断しかできなかったわたしを、責めるだろうか。あの高校時代のひとときは無駄だったと、嘆くだろうか。

それにしても──身体が痛い。
首だけ回してみると、わたしはどこかの寝室のベッドに寝かされていた。
その見慣れたつくりから一瞬、新田さんの部屋かと思ってビクッとする。

でも、ベッドに腰かけている男の人が成宮さんだと気づいて、自分の身に起きたことを理解した。
わたし……シャワーを借りている最中に、倒れちゃったんだ。

「なる、みやさん……」

声が、がさがさとかすれている。
いまがいつなのかわからないけれど、明け方よりも風邪はひどくなっているようだった。

「あ、璃乃ちゃん起きた?」

ケータイをいじっていた成宮さんが、気づいて顔を覗き込んでくる。

「お風呂場で大きな音がしたから行ってみたら、璃乃ちゃん倒れてたから、ここまで連れてきたんだよ。あ、身体はちゃんと拭いてあげたから、安心して?」

「かっ……」

身体って……っ。
拭いてあげたって……っ。
きしむ身体を叱咤して上半身だけ起こしてみると、なんと、わたしは素っ裸だった。

「っ……!!」

がばっ!と音が立つくらいに勢いよく、両腕でシーツを肩まで引っ張り上げて身体を隠す。
見られた! 成宮さんに裸、見られたっ!
恥ずかしさのあまり悶絶するわたしに、くすくす笑う成宮さん。

「ピンク色に染まった璃乃ちゃんの身体、可愛かったなぁ」

「なっ……成宮さんっ……!」

「大丈夫だって。さすがの俺も病人に手を出すほど節操なしじゃないから」

そう言いつつも、身体ごと顔を近づけてくるのは、どうして?

「璃乃ちゃん。新田さんと離婚でもした?」

まっすぐに言い当てられて、ドキリとする。どうしてこの人はいつもこう、勘が鋭いんだろう。
どう答えていいのかわからなくて口をもごもごさせるわたしに、成宮さんは笑いかける。

「隠さなくてもいいよ。というか、俺に隠し事しても無駄だよ?」

「……成宮さんて、いったい何者なんですか」

常々考えていたことを口にすると、成宮さんは「そうだなあ」と小首を傾げて考えに耽る真似をする。

「何者ならいい? 俺が何者なら、璃乃ちゃんは納得する?」

「……ふざけないでください」

睨みつけると、「ははっ」とさもおかしそうに笑われる。それがまた、憎たらしい。

「助けていただいたことには、お礼を言います。ありがとうございました。……わたし、会社に行かなくちゃ」

「裸でいくのー?」

「そんなわけないでしょっ!?」

……いけない。この人と話していると、調子が狂う。
気を取り直して、それでもせいいっぱいつんとしてみせながら、尋ねる。

「わたしの服、どこですか?」

「璃乃ちゃんの手の届かないところにしまっちゃった」

「なっ……」

「だってそうでもしないと璃乃ちゃん、ここから出て行っちゃうでしょ?」

この人、ほんとうにただものじゃない。曲者すぎる。
いくらなんだって、服まで隠さなくたっていいのに。

「せめて下着くらい……」

「俺、やるからには徹底する主義なの」

そう言ってへらへら笑うその整った顔を、いますぐ叩いてやりたい。
助けてもらったんじゃなければ、ほんとにそうしてやるのに。

「ねえ、璃乃ちゃん」

「……近づかないでください」

「俺とつきあってみない?」

この人はいったいまた、なにを言い出すんだろう。
唖然として成宮さんを見上げるわたしの頬に、彼は大きな手を添える。

「いろんな意味で、そうしたらいろいろ解決するかもよ?」

「……どういう、意味ですか」

「ていうか面倒だから、璃乃ちゃんに選択肢はナシ。たったいまから璃乃ちゃんは俺の婚約者ね。はい、けってーい」

「だから、どうい──ン……っ……!」

いきり立つわたしの唇に、成宮さんはあっという間にキスを落とした。
浅く深く、角度を変えて。幾度も幾度も。
時折唇を舐めてくるのが、慣れている感じがして嫌だ。なのに、新田さんに慣らされた身体の芯がゾクリと反応してしまう。
相手は、新田さんじゃないのに。好きな人なんかじゃないのに──!

じたばたと暴れても、成宮さんの両腕にがっちりと身体を抱きしめられていてかなわない。
ようやく成宮さんが唇を離したときには、わたしの息はすっかりあがってしまっていた。

「キスだけで泣いちゃうんだ。やっぱり璃乃ちゃん、かーわいい」

「ふ……ざけ、ないで……」

「俺はいつだって真面目だよ」

「どこがですか!」

目尻から伝うわたしの涙を、成宮さんの長い指がそっと拭う。
わたしに顔を近づけて、妖艶な笑みを浮かべる、成宮さん。

「いいから、俺の言うとおりにしなよ。新田さんがどうなっても、いいの?」

その言葉の意味はわからなかったけれど、成宮さんならなにをしでかすかわからない、得体の知れない恐さがあった。
こんなの、全然わけがわからないけど。なにがどうなっているのか、まったくつかめていないけど。
新田さんを引き合いに出されてしまったら、成宮さんの言うとおり、わたしに他に選択肢はない。
がくりと顎を引くようにうなだれると、成宮さんは満足したように立ち上がった。

「よし、決定ね。じゃあ今日は璃乃ちゃんは会社を休んでベッドで寝てること。俺も有給とったから、看病してあげられるよ」

そんなの、いらない。ひとりで、いたい。
それが本心だったけれど、反論するとまた成宮さんを面白がらせるだけだと思って、ただうなずいた。

……もう吹っ切れたはずの上原先輩のことが、脳裏をかすめる。
わたしにとって、もう上原先輩は、神様のような存在なのかもしれない。苦しいときの、神頼み、みたいな。

上原先輩。
どうか、新田さんに笑顔を。幸せを、運んでください。
わたしのことをいくら憎んでもいいから、わたしのことを踏み台にしてでもいい、新田さんを幸せに導いてあげてください。

ようやく成宮さんが持ってきてくれた部屋着を身に着けて、彼がつくって運んできてくれた卵粥をぼうっと食べながら、わたしは心の底から上原先輩に祈っていた。
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