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駆けつけた救世主

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その日、帰ろうとすると、柴崎くんに呼び止められた。

「澤田さん、今日はぼくに家まで送らせてもらえないかな」

「え……」

いきなりの申し出に戸惑ってしまう。

「そう言ってくれるのはうれしいけど……でもいまわたし、成宮さん……いまつきあっている人のところに泊まってるから……」

ごめんなさい、と頭を下げる。
柴崎くんの気持ちはうれしいけど、そこまで甘えるわけにはいかない。
そこへ、ひょいと成宮さんが顔を覗かせた。

「あれ、璃乃ちゃん。さっそく浮気?」

「ちっ……違いますっ」

またなにを無邪気な顔をしてとんでもないこと言うのかな、この人は!

「だよね、璃乃ちゃんは浮気なんて器用なことできないよね」

くすくす笑って、成宮さんは手招きをする。

「帰ろう、璃乃ちゃん。今夜はパスタがいいな」

パスタ……
新田さんの好物だ……。

ちらりと、まだパソコンに向かっている新田さんを盗み見る。
ぼんやりとパソコンの画面を眺めていた新田さんは、わたしの視線に気づいたのか、ふっと顔を上げてこちらを見た。
一瞬視線が合って、わたしは慌てて成宮さんの元に駆け寄る。

「澤田さん、……新田さんとよりが戻るとかそういうことがない限り、ぼくはあきらめないからね」

柴崎くんは真面目な顔でそう言って、指で眼鏡を押し上げて先にフロアを出て行った。
その後ろをのんびりエレベーターに向かってわたしと一緒に歩いていた成宮さんが、顔を覗き込んでくる。

「俺とつきあうより、あの男とつきあったほうがよかった?」

「そんな……」

わたしはうなだれて、かぶりを振る。

「わたしには、新田さんしかいません。新田さんでなければ、つきあう相手が誰であろうとおなじなんです」

「だろうねぇ」

特別気を悪くするでもなく、成宮さんはあっさりと相槌を打つ。

「新田さんと別れる直前まで、璃乃ちゃんと新田さん、仲良しオーラ全開だったからね。いまだってちょっと痴話喧嘩って感じだし」

「……やっぱり痴話喧嘩っていうふうに見えますか?」

「それ以外のなにものにも見えないよ」

でも、と成宮さんは釘を刺した。

「でも、いまは璃乃ちゃんは俺とつきあってるんだからね?」

「……わかってます」

「どこまで“わかって”るのかなー」

ほんとうにわかっているのに、成宮さんはそんな謎めいたことを言う。
成宮さんの車に乗って途中スーパーに寄り、食材を買ってマンションに帰る。
パスタということでちょっと心を込めすぎて、ミートソースを作りすぎてしまった。

「おいしかったから、明日の朝も俺、これでいいや」

成宮さんは、そう言ってくれたけれど……
新田さんのことを想ってこれを作ったなんて、とても言えない。

先にお風呂に入らせてもらって、リビングのソファに座り込む。
次にお風呂から上がってきた成宮さんが、「あれ」と小首をかしげた。

「璃乃ちゃん、寝室で寝ないの?」

「わたしは、ここでいいです。体調もよくなりましたし。それに……わたし、思い出したんですけど、成宮さん、つきあってる人いましたよね? ミホさんていう」

そう、わたしはそのことをお風呂に入っているあいだに思い出したのだ。
思い出すのが、遅すぎた。

「ミホさんに……申し訳ないですし」

「あー、あの人。別につきあってるわけじゃないよ? たまに恋人ごっこみたいなことはするけど、あの人には他にちゃんとした彼氏がいるし」

「え……そうなんですか?」

「うん。言ってなかったっけ」

そんなの、初耳だ。

「だから璃乃ちゃんはなんにも気兼ねしなくていいんだよ」

「でも……」

それでも、成宮さんと一緒のベッドに寝るのはまだ抵抗がある。
ゆうべは熱があってそれどころじゃなかったから、成宮さんが隣で寝ていても気にする余裕もなかったけれど。

「早く寝室に入らないと、お姫様抱っこして連れてくよ?」

「……わかりました」

それを切り札にされたら、従うしかない。
ため息をつきつつ、わたしは寝室に入り、ベッドに座る。

と──
成宮さんもベッドに上がってきて、わたしに身体を寄せてきた。

コロンの香りが抜けていないのか、それとも成宮さん自身の香りなのか、柑橘系の爽やかな香りがする。

「この寝室って、新田さんの寝室と壁一枚隔てただけなんだよね」

「え……?」

「璃乃ちゃんのイイ声、新田さんに聞かせてあげたら新田さん、どんな反応するかなあ」

そう言いながら成宮さんは、わたしの身体に手をかけて一気に押し倒した。

「なっ……成宮さんっ……!?」

「わかってるって、璃乃ちゃん言ったよね」

わたしに覆いかぶさりながら、成宮さんはニッと笑う。

「男とつきあうって、こういうことだよ。“わかって”なかったでしょ」

「……っ」

「璃乃ちゃんの体調が治ったんなら、俺も我慢する理由なんてないしね」

「やっ……!」

首筋に、成宮さんがくちづけてくる。ビクンと身体がはねるのがわかった。
暴れても、成宮さんの身体はびくともしない。どいて、くれない。
まさかこのまま、ほんとうに……!?

「いや……やだっ……! 助けて、新田さん──!!」

とっさに、そう叫んでいた。
前に新田さんに抱かれたとき、わたしの声が成宮さんに聞こえていたかもしれない。だとしたら、わたしのこの叫びも新田さんに聞こえるかもしれない。
聞こえたとして、新田さんが来てくれるかもわからないのに。
だけど、そんなことまで考える余裕が、いまのわたしにはなかった。

「ん……っ……!」

わたしがもう叫べないようにしようと思ったのか、成宮さんがわたしの顎をつかんで唇を自分のソレでふさぐ。
嫌だ、こんなの絶対、イヤ。
新田さん以外の人にこんなことされるなんて、イヤ──!!

ダン!と壁がくぐもった音を立てたのは、そのときだ。
けれど、それは一度だけ。すぐにしーんと静まりかえる。

いまのは、もしかして……?
少しばかり期待してしまったわたしのパジャマの胸のボタンを、成宮さんが外し始める。

「な……るみや、さんっ……!」

「もう少しかな」

成宮さんの、その言葉の意味がわからない。彼は実に楽しそうに、鼻歌を歌いながら片手でわたしの両手を拘束し、もう片方の手でパジャマのボタンをすべて外してしまう。

ガン!
と、今度はこの成宮さんの部屋の玄関の扉が音を立てた。

ガンガンガンガン、と──ものすごい勢いで誰かがノックしている。

「きたきた」

くすっと笑って成宮さんはあっさりわたしの上からどいて、寝室を出て行った。
なに……? いったいなにが起きてるの……?

「はいはーい、ようこそ新田さん。待ってたよ」

ガチャリと扉を開ける音と、成宮さんが歌うようにそう言う声。
そして──。

「璃乃、無事か!?」

新田さんの声が響き渡って、はっとした。
こちらへやってくるせわしない足音がしたかと思うと、開きっぱなしの寝室の入り口から、部屋着姿の新田さんが姿を現す。
ふいに、涙がこみあげた。

「新田さん……!」

「璃乃……!」

新田さんが乱れたわたしのかっこうを呆然と見つめていることに気がつき、わたしは急いでパジャマのボタンをはめ直す。
そうしているあいだに、駆け寄ってきた新田さんにきつくきつく抱きしめられた。
おひさまの香り、わたしを幸せにする香りがふわりとわたしを包み込む。
たまらずに、わたしは新田さんを抱きしめ返していた。

きてくれた……新田さん。
わたしのピンチのときに駆けつけてくれた……わたしの、救世主。
上原先輩がわたしにとっての神様なら、新田さんはわたしの……救世主だ。

「おまえの声が聞こえて、……おまえになにかあったらどうしようかと思った」

「新田さん……」

「そう思うの、遅すぎだよ新田さん」

見ると寝室の入り口に背をもたせかけるようにして、成宮さんがにこにこ微笑んでいる。

「璃乃ちゃんが俺とつきあってるって聞いたんなら、もっと早く焦燥感を抱かなくちゃ。璃乃ちゃんが新田さんに助けを呼ばなくちゃ、このままシちゃってたよ、俺。まあ璃乃ちゃんの裸は成り行き上見ちゃったけどね」

「な……!」

新田さんのこめかみあたりに青筋が立つのが見えた気がして、わたしは焦る。

「あ、あの、雨に当たって熱を出しちゃって……それで、成宮さんのところでシャワーを借りてるあいだに意識がなくなっちゃって……そのときだけです」

「それだけでじゅうぶんだ! 俺以外の男に裸を見せるな!」

「ごめんなさい」

しゅんとするわたしを見下ろして、新田さんは苦しそうな顔をする。

「……いや、……いまの俺にはこんなこと言う権利なんかないんだよな。俺のほうこそ、すまない。だけど……俺はおまえをあきらめたわけじゃない」

新田さんはわたしの頬をそっと撫でる。

「一度、家に帰ってこないか? 少し、話がしたい」

そう提案されて、この期に及んでわたしは迷う。

「でも、あの……新田さんには、小柳さんが……」

「やっぱり美由紀が絡んでたのか」

新田さんの眉間のしわが、深くなる。

「なんだか、複雑な事情がありそうだね」

黙ってわたしと新田さんのやり取りを聞いていた成宮さんが、ふうっとため息をつく。

「璃乃ちゃん、今夜だけ解放してあげる。一晩新田さんと話をして考えて、それでもやっぱりだめってなったら俺のところにまた来なよ。俺はいつでも待ってるからさ」

「成宮さん……ありがとうございます」

成宮さんの言葉に背中を押されて、わたしはそのとおりにすることにした。
荷物を持って出て行くとき、新田さんが成宮さんを睨みつける。

「あんたは璃乃のことが好きなのか?」

「んー? 可愛い女の子はみんな好きだよ?」

「だったら別に璃乃じゃなくても他にもたくさんいるだろう」

「それは俺の気分次第かなあ」

どこまでも食えない成宮さんに対してひとつ舌打ちをして、新田さんはわたしを連れて部屋を出た。
すぐ隣の新田さんの部屋に入ると、ほっと心の底から安心する。
出て行ったのはまだついおとといのことなのに、ずいぶん長い間留守にしていた気がする。
わたしはリビングのソファに座るよううながされ、新田さんはわたしにココアを淹れてくれた。
自分にはコーヒーを淹れて、わたしの隣に座る。

「突然別れようなんて言い出したから、なにが起きたのかわからなかった」

新田さんは、切り出す。

「おまえが出て行ってからすぐに美由紀から連絡があって、追いかけていけなかったんだが……おまえが別れを切り出すのと美由紀から連絡が入るタイミングが合いすぎる。なにがあったのか、話してくれないか?」

話したいのは、やまやまだ。
だけど……話すことで小柳さんの目的の邪魔になったり、しないだろうか。わたしが小柳さんと新田さんの邪魔をすることに、なったりしないだろうか。
迷っていると、新田さんは顔を覗き込んできた。

「まあ、だいたいなにがあったのかは推測できるが……俺を信じて話してみてくれないか?」

「……新田さん」

「俺に隠し事はするな。それとも、俺はおまえにとってそんなに信頼に値しない人間か?」

わたしは大きく左右に首を振る。
そうだ、わたしは今回、新田さんのことをちっとも信じていなかった。
わたしが好きになった人のことを、信じようともしていなかった。
そのことに、改めて気づかされる。

「あの……おとといのことなんですけど……」

そうしてわたしは、小野さんの一件のときのように、ことのすべてを新田さんに話した。
途中コーヒーを飲みつつ、新田さんはただ静かに相槌を打つだけで、口を挟まないで聞いていてくれた。
話し終わったころには、わたしの手の中のココアは、すっかりぬるくなってしまっていた。

「……なるほどな」

今度は新田さんが口を開く。

「美由紀とは確かに三年前、つきあっていた。身体の関係も確かにあった。……美由紀に電話をもらったとき、確かに言われた。俺とのあいだにできた息子を産んだ、結婚してくれって。避妊してたのにできたのか?って聞いたら、『避妊なんて所詮は百パーセントじゃないじゃない』って返されて、二の句が告げなかった」

新田さんはコーヒーを飲み干した。

「だけど、美由紀の様子もおかしいんだ。とある確認のために息子に会わせてくれって言っても『結婚するまではだめ』ってしどろもどろになるしな。それでもこの件を俺自身の手ではっきりさせるまではおまえに顔向けできないと思ったから、決定的なことはまだ言えないんだが……」

そこで新田さんは、優しい瞳をわたしに向ける。

「この件は必ず俺が決着をつける。それまで待っていてくれないか」

「え……でも、」

「たぶん間違いなく、俺に息子はいない。ただ、その確証がちゃんと欲しい。それまで俺を信じて待っていてくれないか」

新田さんに、子供はいない……?
じゃあ小柳さんは、嘘をついていたの……?
でも、なんのために……?

わからないことだらけだったけれど、新田さんの大きな手で片手を包み込まれたら、じんわり胸があたたかくなる。
──あの新田さんが、ここまで言ってくれてるんだ。きっと、新田さんの言うことのほうが正しい。

「……わかりました。新田さんを信じます」

「ありがとう、璃乃。……不安にさせて、すまない」

そっとかぶりを振るわたしの頬に手を添えて、額にキスをくれる新田さん。

「明日は休日だから、美由紀に会って話をしてくる。今度こそ、俺に子供はいないって証拠をつかんでやる」

「……はい」

「そのあとはたっぷり可愛がってやるから、覚悟しろよ」

新田さんは、悪戯っぽく笑った。
ああ、いつもの新田さんだ。

「わたし……あんなに新田さんを傷つけること言ったのに……許して、くれるんですか?」

思わず涙ぐんでしまってそう尋ねると、新田さんはくしゃくしゃとわたしの頭を撫でてくれる。

「おまえのことだから、俺と美由紀とのことを思ってそうしてくれたんだろ? それだけ俺はおまえに愛されてるってことだ。つらかったのはおまえのほうだろ?」

そんな優しいこと言われたら、涙が出ちゃうじゃないですかっ……。
新田さんは優しい笑顔で、頬を伝うわたしの涙を拭い取ってくれる。

「泣き虫璃乃。……愛してる」

「わたしも……愛してます……」

その声はとてもとてもちいさかったけれど、新田さんの耳にはちゃんと届いたみたいで
新田さんは、照れたように、だけど満足そうに、笑った。
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