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舞い戻った時間(とき)は
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「どうしたの、ひかり」
ぼうっとしているわたしの背後から、疲れたような母の声。
「拝んだら、夕食食べちゃいなさいね」
拝んだら──。
わたしは仏壇の前に座っていたのだ。
目の前には、何年か前に亡くなった祖父と祖母の遺影がある。
そうだ、わたしは確かにいつもここで、天国の父にまで届けばいいと携帯で父のアドレスにメールを打っていた。それが日課になっていたのに。
(それも、瑠璃くんの記憶と一緒に消えちゃってたのかな)
くすんと鼻をすすりながら、無意識に握りしめたままの携帯を開く。きていたはずのメールがすべて消えている。
(0件からはじまり?)
今の自分にはちょうどいいかもしれないと泣きたくなって──ふと気づいた。
(この携帯──黒い)
あの番人からもらった携帯のままだ。
(どうして?)
立ち上がり、カレンダーを見る。
十一月に逆戻りしている。
「母さん、これ今日の新聞?」
「そうよ」
台所で洗い物をしながら、母がどこか呆然とつぶやく。
新聞の日付を見て、わたしは顔を上げた。
(【この世】にはまだ父さんがいる)
手が震える。
「ひかり? おかずあっためたらガスの元栓閉め忘れないようにね? お母さん、今夜もお父さんのところだから」
母の言葉が、それが真実だと物語っている。
そうだ、この時期確かに衰弱しきった父の元へ母は泊まり込みで看病しに行っていた。時々洗濯物をかえにくるくらいで──。
「母さん、わたしも行く」
「駄目よ。明日学校でしょう」
「明日は休む! 今日だけ! ね、お願い!」
必死のわたしに母は驚いたようだった。
すぐに微笑んでくれたのは、きっと父がもう長くはもたないと分かっていたからだろう。
「いいわ、今回だけよ。寿樹に書き置きしていきましょう。すぐ支度できるわね?」
「このままでいい」
幸いわたしは私服だった。上着だけ羽織り、母と共に外に出る。
(父さんに会える)
残り時間は少なくても。
(父さんにまた会える)
少しは前より優しい言葉をかけられるだろうか。
父に笑顔を見せられるだろうか。
タクシーの中、祈るような気持ちでいたわたしの手を母が握る。
「お父さん──」
言いかけて、母はかぶりを振った。なんでもない、というふうに。
前のわたしだったら、自分の気持ちに押しつぶされそうになっていてとても気遣えなかっただろう。
でも、今は。
「だいじょうぶだよ」
小さな声でそう言って、母の手を握り返した。
(だいじょうぶだよ、母さん……わたしがいるから)
一瞬泣きそうになった母は、慌てて目をそらした。次にはもう笑顔になっている。
「そうね」
瞳は濡れていたけれど。
◇
個室の扉が開く。
廊下を歩いているときからドキドキしていた鼓動がひときわ高く鳴った。
横たわった父をそこに見たとき、わたしは泣きそうになった。
「とうさん」
カーテンの隙間から窓の外を見ていた父は、やせこけた顔に笑みを浮かべてわたしを見つめる。
「ひかりも来たのか」
「うん」
なんでもない会話が、こんなに嬉しくて懐かしい。
わたしは涙を必死でとどめ、しばらく母と共に父の世話をした。
父は一日のほとんどを眠りと共に過ごすようになっていて、今もまた眠りについたようだった。
話をしなくても、こうしてそばにいられることがこれほど幸せなことだと思わなかった。
「そういえばね、ひかり」
父を起こさぬよう気遣った母が小声で声をかけてくる。
「瑠璃くん、今日退院したみたいだけど、あなた会った?」
「あ」
王月瑠璃。腕の骨を折って入院していたはずだ。父とは中庭で会ったと聞いていたが、退院の日が今日だったのは失念していた。
(瑠璃くんの存在が母さんにも分かってるってことは、ホントに過去に戻ってる証拠だ……)
胸がちくりと痛む。小声で母に返す。
「会ってない。と、思う」
「会ってきなさい」
「え?」
驚くわたしに、母は呆れたように教えてくれる。
「退院したら中庭の桜の木の下で会おうってあなた達、約束してたんでしょ? 瑠璃くんに聞いてるわよ」
そうだ──そうだった。わたしの中ではまだ記憶があやふやだ。
夜だけれど、瑠璃くんならばきっとまだその場所で待っている。
そんな気がして、わたしは立ち上がった。
◇
(もしかしたら、暁のこと言ったら瑠璃くんがこれから遭う事故も防げるかもしれない)
中庭に走りながら、思う。
(そうしたら、全部いいほうにかわれるかもしれない)
少なくとも、暁がかかわった悪いことは回避できるかもしれない。
桜の木の下に、ライトに照らされて人影が見えた。
「瑠璃く──」
声をかけて駆け寄ろうとしたわたしの言葉が途切れた。
こちらを向いた人影、その背後から見覚えのあるもうひとつの人影が近づいてくる。
(暁だ)
本能で、さとった。
(【最悪の日】は今日の日付じゃないはずなのに!)
「瑠璃くん! そいつに近づかないで!」
驚いた瑠璃くんがわたしを振り向くのと、わたしが瑠璃くんをかばうのと、暁が手のひらを突き出すのと。
同時だった。
ぼうっとしているわたしの背後から、疲れたような母の声。
「拝んだら、夕食食べちゃいなさいね」
拝んだら──。
わたしは仏壇の前に座っていたのだ。
目の前には、何年か前に亡くなった祖父と祖母の遺影がある。
そうだ、わたしは確かにいつもここで、天国の父にまで届けばいいと携帯で父のアドレスにメールを打っていた。それが日課になっていたのに。
(それも、瑠璃くんの記憶と一緒に消えちゃってたのかな)
くすんと鼻をすすりながら、無意識に握りしめたままの携帯を開く。きていたはずのメールがすべて消えている。
(0件からはじまり?)
今の自分にはちょうどいいかもしれないと泣きたくなって──ふと気づいた。
(この携帯──黒い)
あの番人からもらった携帯のままだ。
(どうして?)
立ち上がり、カレンダーを見る。
十一月に逆戻りしている。
「母さん、これ今日の新聞?」
「そうよ」
台所で洗い物をしながら、母がどこか呆然とつぶやく。
新聞の日付を見て、わたしは顔を上げた。
(【この世】にはまだ父さんがいる)
手が震える。
「ひかり? おかずあっためたらガスの元栓閉め忘れないようにね? お母さん、今夜もお父さんのところだから」
母の言葉が、それが真実だと物語っている。
そうだ、この時期確かに衰弱しきった父の元へ母は泊まり込みで看病しに行っていた。時々洗濯物をかえにくるくらいで──。
「母さん、わたしも行く」
「駄目よ。明日学校でしょう」
「明日は休む! 今日だけ! ね、お願い!」
必死のわたしに母は驚いたようだった。
すぐに微笑んでくれたのは、きっと父がもう長くはもたないと分かっていたからだろう。
「いいわ、今回だけよ。寿樹に書き置きしていきましょう。すぐ支度できるわね?」
「このままでいい」
幸いわたしは私服だった。上着だけ羽織り、母と共に外に出る。
(父さんに会える)
残り時間は少なくても。
(父さんにまた会える)
少しは前より優しい言葉をかけられるだろうか。
父に笑顔を見せられるだろうか。
タクシーの中、祈るような気持ちでいたわたしの手を母が握る。
「お父さん──」
言いかけて、母はかぶりを振った。なんでもない、というふうに。
前のわたしだったら、自分の気持ちに押しつぶされそうになっていてとても気遣えなかっただろう。
でも、今は。
「だいじょうぶだよ」
小さな声でそう言って、母の手を握り返した。
(だいじょうぶだよ、母さん……わたしがいるから)
一瞬泣きそうになった母は、慌てて目をそらした。次にはもう笑顔になっている。
「そうね」
瞳は濡れていたけれど。
◇
個室の扉が開く。
廊下を歩いているときからドキドキしていた鼓動がひときわ高く鳴った。
横たわった父をそこに見たとき、わたしは泣きそうになった。
「とうさん」
カーテンの隙間から窓の外を見ていた父は、やせこけた顔に笑みを浮かべてわたしを見つめる。
「ひかりも来たのか」
「うん」
なんでもない会話が、こんなに嬉しくて懐かしい。
わたしは涙を必死でとどめ、しばらく母と共に父の世話をした。
父は一日のほとんどを眠りと共に過ごすようになっていて、今もまた眠りについたようだった。
話をしなくても、こうしてそばにいられることがこれほど幸せなことだと思わなかった。
「そういえばね、ひかり」
父を起こさぬよう気遣った母が小声で声をかけてくる。
「瑠璃くん、今日退院したみたいだけど、あなた会った?」
「あ」
王月瑠璃。腕の骨を折って入院していたはずだ。父とは中庭で会ったと聞いていたが、退院の日が今日だったのは失念していた。
(瑠璃くんの存在が母さんにも分かってるってことは、ホントに過去に戻ってる証拠だ……)
胸がちくりと痛む。小声で母に返す。
「会ってない。と、思う」
「会ってきなさい」
「え?」
驚くわたしに、母は呆れたように教えてくれる。
「退院したら中庭の桜の木の下で会おうってあなた達、約束してたんでしょ? 瑠璃くんに聞いてるわよ」
そうだ──そうだった。わたしの中ではまだ記憶があやふやだ。
夜だけれど、瑠璃くんならばきっとまだその場所で待っている。
そんな気がして、わたしは立ち上がった。
◇
(もしかしたら、暁のこと言ったら瑠璃くんがこれから遭う事故も防げるかもしれない)
中庭に走りながら、思う。
(そうしたら、全部いいほうにかわれるかもしれない)
少なくとも、暁がかかわった悪いことは回避できるかもしれない。
桜の木の下に、ライトに照らされて人影が見えた。
「瑠璃く──」
声をかけて駆け寄ろうとしたわたしの言葉が途切れた。
こちらを向いた人影、その背後から見覚えのあるもうひとつの人影が近づいてくる。
(暁だ)
本能で、さとった。
(【最悪の日】は今日の日付じゃないはずなのに!)
「瑠璃くん! そいつに近づかないで!」
驚いた瑠璃くんがわたしを振り向くのと、わたしが瑠璃くんをかばうのと、暁が手のひらを突き出すのと。
同時だった。
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