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第3章:白桜夢流~NON ILYOUVE~
Ⅳ
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◇
わたしはいろいろな場所に連れていかれた。
中でも遊園地では一番時間を費やした。
街に行ったことがない、というのは本当のことだったから、わたしはそれなりに楽しむことができた。
「嬉しいですね」
観覧車に乗っているとき、シオウはそう言って向かいの席からわたしを見つめた。すでに日は暮れて、空に星が瞬き始めていた。
「意識を取り戻したときから、あなたの態度がとても人間らしくなっている。それはねユウイ、ショートと同時にぼくの言ったことを受け入れた、その証拠なんですよ」
「───人間らしくなった? わたしが?」
驚いて、わたしは聞き返した。そんな自覚はなかったのだ。
「自分では変化に気づかないかもしれませんが、周りから見るとよく分かりますよ。驚いたり楽しんだり、その確率が増しているでしょう」
そう……だろうか。
「表情は相変わらず変化なしですけど、ぼくには分かるんですよ。あなたの笑顔を見る日がくるのも、そう遠くないかもしれませんね」
なんと答えていいか分からずに、わたしはただうつむいた。
観覧車が上へ上へと上がる間、わたしとシオウはしばらく黙っていた。重苦しい沈黙ではなく、それはほっとするようなものだった。
頂上にきたとき、シオウは窓の外を指差した。
「夜景がきれいですよ」
見ると、そこにはネオンがいくつも重なり合って闇に煌めいていた。
「光の海」
わたしはぽつりとつぶやいた。海というものを直接見たわけではないけれど、光の海というものがあるのならきっとこんなものだろうと思ったのだ。
夜空に花火が上がった。
わたしをじっと見つめていたシオウはたずねてきた。
「では、あれは?」
「あれは、空の花」
「───素敵ですね」
そう言って外に目をやるシオウに、わたしは見惚れた。光の海よりも空の花よりも、彼のほうがもっときれいに見えたのだ。
「飛沢博士がつけてくれたぼくの名前。本当は人間のように漢字なんですよ」
わたしが見つめていると気づいているだろうか。外を眺めたまま、彼は言った。
「星の桜と書いて、星(し)桜(おう)。博士ってロマンチストでしょう?」
───星の桜。
しおう。
とても似合っていると思ったとたん、また胸のどこかが縮んだような気がした。
◇
観覧車から降りると、「桜を見に行きましょうか」とシオウが言った。
「今ならちょうど時期ですし、ぼくの名前の元になった花をユウイにも見てもらいたいんです」
桜の花。少し興味が出て、わたしはうなずいた。
「こっちです」
嬉しそうにわたしの手を取るシオウ。
彼にひっぱられて身体の向きを変えたわたしの視界に、ひとつの人影が映った。
───あれは……!
人ごみにすぐまぎれてしまったが、間違いない。わたしと同じように白王博士に造られた男型ヒューマノイド、ユイキだ。研究所でわたしと一、二を争える唯一のヒューマノイド。冷たい表情でわたしを見ていた。
───監視。
見届けにきたのだ。
あまりに時間がかかりすぎているから、わたしが戻ってこないから。探し出して見届けるために、彼はよこされたのだろう。
白王博士の命令が耳元によみがえる。
───わたしは改めてうなずいた。
分かって、いると。
何よりも、自分に言い聞かせるように。
遊園地からだいぶ歩いた。
桜の名所としてつくられたその山に着いたときには、おそらくもう真夜中はすぎていただろう。
桜は満開だった。観光用に設置されたライトが、ぼんやりと下から桜の美しさを失わない程度に照らしている。
ここは二十四時間開放されているらしいが、時間が時間だからわたし達以外に人はいない。
───いや、どこかでユイキがわたし達をみはっているだろうけれど。
「飛沢博士には逃げてもらいました」
しばらく桜を見上げていたシオウが、ふいにうっとりした表情のまま言った。
「ぼくを殺すのは構いません。でも博士だけは見逃してもらえませんか」
「!」
知っていたのだ。シオウは、わたしの目的を。
シオウの瞳がこちらを向く。
そのときわたしは初めて、彼の瞳が優しい桜色であることに気がついた。
「あなたの弱点ですよ、そこが。察知能力の数値が低いところ。白王博士が造ったヒューマノイドが謹慎処分にされている人間の元にやってくる、あからさまに怪しいとは思いませんか。
いや、……もっともあなたを造ったのが白王博士だなんて、たぶんぼくにしか分からなかったでしょうけどね。飛沢博士だけなら騙せたでしょう」
「最初から気づいて……? ならどうして今まで、」
言いかけてから気づく。シオウが先手を取った。
「飛沢博士を逃がすためにあなたを利用したことは謝ります」
やっぱり───。
「博士にはあのまま終わってほしくなかったのです。ぼくが消えても博士がいればまた代わりは生まれるけれど、博士がいなくなっては何も生まれない。博士はこれからの時代に必要な人です」
シオウはわたしに向かい合う。
「ぼくを殺せばどこかであなたをみはっている誰かに、ぼくがヒューマノイドであることが知れる。それだけでもあなたは白王博士の機嫌を良くさせることができるでしょう。お手柄だと言える。ユウイ、飛沢博士を取り逃がしても咎めはない」
どこまでさといのだろう、彼は。どこかに潜んでいるユイキの気配にも気づいていたなんて。
わたしは手をのばしてシオウの首にかけた。しかし、それ以上指が動かなかった。
ふと、シオウは微笑んだ。
「ためらうとあなたが処分されますよ」
そんなことは分かっていた。
でも、本当に指が動かせないのだ。
シオウはじっとわたしを見つめていたが、やがてシャツの襟を開いて水晶色のペンダントを取り出した。今まで服の下に隠れていて、そんなものをしているなんて気づかなかった。
「これをね、ユウイ。あなたにあげる。ぼくの首から外してください」
優しい笑顔。惹かれるように、わたしはシオウの首にかけていた手を離し、手探りで留め金を外した。
とたん、わたしは抱きすくめられた。強く優しく。
「飛沢博士の『欠陥品』には共通点があるようで、ナキと同じようにぼくも特殊な電磁波がないと駄目なんですよ」
機械が軋む音が聞こえる。
なに───どうして? この音───どこから?
「でもあなたのほうが大切だ。こんなに心惹かれる人にめぐり逢えて、幸せですよ。ぼくの夢のきっかけをつくってくれた、ユウイ」
───シオウ?
「あなたを愛しています」
シオウの身体。
壊れていく。
わたしのすぐ傍で、崩れていく。
顔を上げる───シオウ。
優しい笑み。
「───ああ、あなたのほうがぼくよりも人間に近い。それはオイルですか、……ユウイ」
崩れかけた指が頬に触れる。拭い取られた透明の液体───わたしの瞳から流れたもの。なんなのか、なぜなのか、わたしにも分からない。
「ぼくは自分勝手ですね。あなたの笑顔があんなに見たかったのに。ぼくのために泣いてくれている、そのことのほうが嬉しいなんて」
シオウ。消えていく。
わたしを抱いた指。
腕。
笑顔。
消えていく。
「……お祝いに人間名をあげます。……機械のぼくがつけるのも───変でしょうけどね……。───ユウイ。優しさを維(つむ)ぐひと。優維」
……優維………。
それが、最後の言葉。
さらりと彼が風にとけたあとも、わたしは動くことができなかった。
桜の花びらが散る。
彼と共に散る。
◇
わたしはユイキと共に研究所に戻った。
シオウの言ったとおり、わたしの取った行動は高く評価され、白王博士に「さすがだ」という異例の言葉をもらった。白王博士にそんな言葉を言わせたのはわたしが初めてだったろう。
でも、わたしはその晩のうちに再び研究所を出た。こっそりと、セキュリティにひっかからぬように抜け出した。二度と戻らぬ覚悟で。
そしてわたしは歩いた。幾日も幾日も。
時折研究所から追っ手がきたが、所詮わたしより高レベルのヒューマノイドはいない。ためらわず、わたしは彼らを破壊した。
やがて白王博士もあきらめたのか別に考えがあるのか、追っ手はこなくなった。
ユイキの姿は一度も見なかった───これからはわたしが今までしていた仕事を彼が引き継ぐことになるのだろう。
わたしは初めて海に出た。そこで隠れて船に乗り、最終まで行って降りた。
そこは小さな島だった。こぼれ落ちそうなほど満開の桜の木で埋め尽くされていた。
「船が出るよ、お嬢さん」
カメラを持った中年の男が、わたしに声をかけた。どこかの写真家だろう。
「これが最終便だよ、乗り遅れるよ」
「いいのです」
できるだけやわらかく、わたしは答えた。わたしを案じてくれた彼を、極力傷つけないように。男はわたしを気にしながら去っていった。
やがて汽笛が聞こえてきた。船が島を出ていく。
夜が訪れた。
月と星が、この島ではことさらにきらきら輝いて見えた。
わたしは桜の根元に腰をおろした。そっと、幹に背をつけてみる。
ひらひら、花ぴらが舞い落ちる。シオウ。あなたの笑顔のように。
「───」
わたしの頬に、また液体が滑り落ちる。
オイルではない。わたしはそんなものを動力にするほど旧式できない。おそらくは、錆びつかないよう外気からの水分をとどめ置いて蒸発させる機能が壊れたのだろう。
けれど。
───なぜ、なのだろう。
なぜ彼のことを思うと壊れてしまうのだろう。
胸が軋む。液体が頬を濡らす。
───いや、わたしにはもう理由が分かっていた。否、気づくのが遅すぎた。
「シオウ。あなたが好き」
気づいたのはシオウが壊れていくとき。最後の笑顔を見た瞬間。
察知能力。わたしの唯一の欠陥。
自分の気持ちにさえ、疎すぎた。
ひらひら、にじむ視界に花びらが舞う。風に散る。
シオウ、あなたがそこにいる。あなたにもう一度逢いたい。
胸が軋む。歯車が動きを止める音。身体のあちこちが機能を止めていく。
レベルが高いと言われていたわたし。
でも感情を持ってしまった。
白王博士が知ればきっと「欠陥品」だとためらいなく処分しただろう。
ああ、それでも良かった。シオウ、あなたがいないのだから。
指が動かなくなる前に、わたしはポケットの中のペンダントを握りしめた。
水晶のペンダント。あなたを殺した証。
こうして握っていれば、次に目覚めたときあなたに逢えるかもしれない。
桜の木。桜の花びら。
あなたに抱かれていたようにこうして包まれていれば、それが叶うかもしれない。
……ああシオウ、これが夢というものだろうか。
あなたがいないと哀しくて、機能のすべてが止まってしまうほど恋しくて。
静かだ。花びらの散る音だけが聞こえる。
視界のすべてが桜色に染まる。
あなたの瞳の色に染まる。
<優維………>
どこかで、……あなたの優しい呼び声が聞こえる。
───シオウ。
もう一度、あなたに逢いたい。
《第3章 白桜夢流~NON ILYOUVE~:完》
わたしはいろいろな場所に連れていかれた。
中でも遊園地では一番時間を費やした。
街に行ったことがない、というのは本当のことだったから、わたしはそれなりに楽しむことができた。
「嬉しいですね」
観覧車に乗っているとき、シオウはそう言って向かいの席からわたしを見つめた。すでに日は暮れて、空に星が瞬き始めていた。
「意識を取り戻したときから、あなたの態度がとても人間らしくなっている。それはねユウイ、ショートと同時にぼくの言ったことを受け入れた、その証拠なんですよ」
「───人間らしくなった? わたしが?」
驚いて、わたしは聞き返した。そんな自覚はなかったのだ。
「自分では変化に気づかないかもしれませんが、周りから見るとよく分かりますよ。驚いたり楽しんだり、その確率が増しているでしょう」
そう……だろうか。
「表情は相変わらず変化なしですけど、ぼくには分かるんですよ。あなたの笑顔を見る日がくるのも、そう遠くないかもしれませんね」
なんと答えていいか分からずに、わたしはただうつむいた。
観覧車が上へ上へと上がる間、わたしとシオウはしばらく黙っていた。重苦しい沈黙ではなく、それはほっとするようなものだった。
頂上にきたとき、シオウは窓の外を指差した。
「夜景がきれいですよ」
見ると、そこにはネオンがいくつも重なり合って闇に煌めいていた。
「光の海」
わたしはぽつりとつぶやいた。海というものを直接見たわけではないけれど、光の海というものがあるのならきっとこんなものだろうと思ったのだ。
夜空に花火が上がった。
わたしをじっと見つめていたシオウはたずねてきた。
「では、あれは?」
「あれは、空の花」
「───素敵ですね」
そう言って外に目をやるシオウに、わたしは見惚れた。光の海よりも空の花よりも、彼のほうがもっときれいに見えたのだ。
「飛沢博士がつけてくれたぼくの名前。本当は人間のように漢字なんですよ」
わたしが見つめていると気づいているだろうか。外を眺めたまま、彼は言った。
「星の桜と書いて、星(し)桜(おう)。博士ってロマンチストでしょう?」
───星の桜。
しおう。
とても似合っていると思ったとたん、また胸のどこかが縮んだような気がした。
◇
観覧車から降りると、「桜を見に行きましょうか」とシオウが言った。
「今ならちょうど時期ですし、ぼくの名前の元になった花をユウイにも見てもらいたいんです」
桜の花。少し興味が出て、わたしはうなずいた。
「こっちです」
嬉しそうにわたしの手を取るシオウ。
彼にひっぱられて身体の向きを変えたわたしの視界に、ひとつの人影が映った。
───あれは……!
人ごみにすぐまぎれてしまったが、間違いない。わたしと同じように白王博士に造られた男型ヒューマノイド、ユイキだ。研究所でわたしと一、二を争える唯一のヒューマノイド。冷たい表情でわたしを見ていた。
───監視。
見届けにきたのだ。
あまりに時間がかかりすぎているから、わたしが戻ってこないから。探し出して見届けるために、彼はよこされたのだろう。
白王博士の命令が耳元によみがえる。
───わたしは改めてうなずいた。
分かって、いると。
何よりも、自分に言い聞かせるように。
遊園地からだいぶ歩いた。
桜の名所としてつくられたその山に着いたときには、おそらくもう真夜中はすぎていただろう。
桜は満開だった。観光用に設置されたライトが、ぼんやりと下から桜の美しさを失わない程度に照らしている。
ここは二十四時間開放されているらしいが、時間が時間だからわたし達以外に人はいない。
───いや、どこかでユイキがわたし達をみはっているだろうけれど。
「飛沢博士には逃げてもらいました」
しばらく桜を見上げていたシオウが、ふいにうっとりした表情のまま言った。
「ぼくを殺すのは構いません。でも博士だけは見逃してもらえませんか」
「!」
知っていたのだ。シオウは、わたしの目的を。
シオウの瞳がこちらを向く。
そのときわたしは初めて、彼の瞳が優しい桜色であることに気がついた。
「あなたの弱点ですよ、そこが。察知能力の数値が低いところ。白王博士が造ったヒューマノイドが謹慎処分にされている人間の元にやってくる、あからさまに怪しいとは思いませんか。
いや、……もっともあなたを造ったのが白王博士だなんて、たぶんぼくにしか分からなかったでしょうけどね。飛沢博士だけなら騙せたでしょう」
「最初から気づいて……? ならどうして今まで、」
言いかけてから気づく。シオウが先手を取った。
「飛沢博士を逃がすためにあなたを利用したことは謝ります」
やっぱり───。
「博士にはあのまま終わってほしくなかったのです。ぼくが消えても博士がいればまた代わりは生まれるけれど、博士がいなくなっては何も生まれない。博士はこれからの時代に必要な人です」
シオウはわたしに向かい合う。
「ぼくを殺せばどこかであなたをみはっている誰かに、ぼくがヒューマノイドであることが知れる。それだけでもあなたは白王博士の機嫌を良くさせることができるでしょう。お手柄だと言える。ユウイ、飛沢博士を取り逃がしても咎めはない」
どこまでさといのだろう、彼は。どこかに潜んでいるユイキの気配にも気づいていたなんて。
わたしは手をのばしてシオウの首にかけた。しかし、それ以上指が動かなかった。
ふと、シオウは微笑んだ。
「ためらうとあなたが処分されますよ」
そんなことは分かっていた。
でも、本当に指が動かせないのだ。
シオウはじっとわたしを見つめていたが、やがてシャツの襟を開いて水晶色のペンダントを取り出した。今まで服の下に隠れていて、そんなものをしているなんて気づかなかった。
「これをね、ユウイ。あなたにあげる。ぼくの首から外してください」
優しい笑顔。惹かれるように、わたしはシオウの首にかけていた手を離し、手探りで留め金を外した。
とたん、わたしは抱きすくめられた。強く優しく。
「飛沢博士の『欠陥品』には共通点があるようで、ナキと同じようにぼくも特殊な電磁波がないと駄目なんですよ」
機械が軋む音が聞こえる。
なに───どうして? この音───どこから?
「でもあなたのほうが大切だ。こんなに心惹かれる人にめぐり逢えて、幸せですよ。ぼくの夢のきっかけをつくってくれた、ユウイ」
───シオウ?
「あなたを愛しています」
シオウの身体。
壊れていく。
わたしのすぐ傍で、崩れていく。
顔を上げる───シオウ。
優しい笑み。
「───ああ、あなたのほうがぼくよりも人間に近い。それはオイルですか、……ユウイ」
崩れかけた指が頬に触れる。拭い取られた透明の液体───わたしの瞳から流れたもの。なんなのか、なぜなのか、わたしにも分からない。
「ぼくは自分勝手ですね。あなたの笑顔があんなに見たかったのに。ぼくのために泣いてくれている、そのことのほうが嬉しいなんて」
シオウ。消えていく。
わたしを抱いた指。
腕。
笑顔。
消えていく。
「……お祝いに人間名をあげます。……機械のぼくがつけるのも───変でしょうけどね……。───ユウイ。優しさを維(つむ)ぐひと。優維」
……優維………。
それが、最後の言葉。
さらりと彼が風にとけたあとも、わたしは動くことができなかった。
桜の花びらが散る。
彼と共に散る。
◇
わたしはユイキと共に研究所に戻った。
シオウの言ったとおり、わたしの取った行動は高く評価され、白王博士に「さすがだ」という異例の言葉をもらった。白王博士にそんな言葉を言わせたのはわたしが初めてだったろう。
でも、わたしはその晩のうちに再び研究所を出た。こっそりと、セキュリティにひっかからぬように抜け出した。二度と戻らぬ覚悟で。
そしてわたしは歩いた。幾日も幾日も。
時折研究所から追っ手がきたが、所詮わたしより高レベルのヒューマノイドはいない。ためらわず、わたしは彼らを破壊した。
やがて白王博士もあきらめたのか別に考えがあるのか、追っ手はこなくなった。
ユイキの姿は一度も見なかった───これからはわたしが今までしていた仕事を彼が引き継ぐことになるのだろう。
わたしは初めて海に出た。そこで隠れて船に乗り、最終まで行って降りた。
そこは小さな島だった。こぼれ落ちそうなほど満開の桜の木で埋め尽くされていた。
「船が出るよ、お嬢さん」
カメラを持った中年の男が、わたしに声をかけた。どこかの写真家だろう。
「これが最終便だよ、乗り遅れるよ」
「いいのです」
できるだけやわらかく、わたしは答えた。わたしを案じてくれた彼を、極力傷つけないように。男はわたしを気にしながら去っていった。
やがて汽笛が聞こえてきた。船が島を出ていく。
夜が訪れた。
月と星が、この島ではことさらにきらきら輝いて見えた。
わたしは桜の根元に腰をおろした。そっと、幹に背をつけてみる。
ひらひら、花ぴらが舞い落ちる。シオウ。あなたの笑顔のように。
「───」
わたしの頬に、また液体が滑り落ちる。
オイルではない。わたしはそんなものを動力にするほど旧式できない。おそらくは、錆びつかないよう外気からの水分をとどめ置いて蒸発させる機能が壊れたのだろう。
けれど。
───なぜ、なのだろう。
なぜ彼のことを思うと壊れてしまうのだろう。
胸が軋む。液体が頬を濡らす。
───いや、わたしにはもう理由が分かっていた。否、気づくのが遅すぎた。
「シオウ。あなたが好き」
気づいたのはシオウが壊れていくとき。最後の笑顔を見た瞬間。
察知能力。わたしの唯一の欠陥。
自分の気持ちにさえ、疎すぎた。
ひらひら、にじむ視界に花びらが舞う。風に散る。
シオウ、あなたがそこにいる。あなたにもう一度逢いたい。
胸が軋む。歯車が動きを止める音。身体のあちこちが機能を止めていく。
レベルが高いと言われていたわたし。
でも感情を持ってしまった。
白王博士が知ればきっと「欠陥品」だとためらいなく処分しただろう。
ああ、それでも良かった。シオウ、あなたがいないのだから。
指が動かなくなる前に、わたしはポケットの中のペンダントを握りしめた。
水晶のペンダント。あなたを殺した証。
こうして握っていれば、次に目覚めたときあなたに逢えるかもしれない。
桜の木。桜の花びら。
あなたに抱かれていたようにこうして包まれていれば、それが叶うかもしれない。
……ああシオウ、これが夢というものだろうか。
あなたがいないと哀しくて、機能のすべてが止まってしまうほど恋しくて。
静かだ。花びらの散る音だけが聞こえる。
視界のすべてが桜色に染まる。
あなたの瞳の色に染まる。
<優維………>
どこかで、……あなたの優しい呼び声が聞こえる。
───シオウ。
もう一度、あなたに逢いたい。
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