蠍の舌─アル・ギーラ─

希彗まゆ

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『彼』

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 ◆

  ─── 明け方近くになって、やっと雪が止んだ。それでもまだ薄暗い。月はようやく出たけれど、まだ雲の量が多い。
 あたりに家のあかりはない。それもそのはずだ、ここは森の中なのだから ─── この家の近くに人は住んでいないのだから。

 開けた扉を後ろ手に閉め、『彼』はそっと足を踏み入れる。床がみしりと音を立てる。
 家の中は暗い。うっすらとさす窓からの月光だけが頼りだ。限りなくわずかでは、あったけれど。

 別荘の管理を任せている者がいるが、彼には常に「いつでも使えるように」と義母が指示しているから電気も通っているはずである。けれど『彼』はスイッチの脇を通っても手をのばさなかった。

 大広間を横切り、左側の階段をゆっくり昇る。
 ゆっくりと ─── そして二階の、長いこと開けずにいた部屋の前へ立つ。

(ここからはじまった)

 始まりはこの部屋だ。何もかも。
 さっきまで本州にいたからか、とても寒く感じる。いや ─── おそらくこの地方でも例年よりいくぶん寒いのだろう。吐く息が白い。
 暖房をという頭はなかった。

 扉を開く。
 この部屋だけは誰の手もつけられていなかった。あの日のまま、時が止まっている。
 バルコニーに出る窓ガラス、そこから入る薄明かりに照らされて、床に無造作に落ちている本やクッション、ぬいぐるみ。編みかけの何かや毛糸、手芸の道具……。

 順々に目を移しながら歩いていた『彼』は、ふと続き部屋の扉が開きかけていることに気がついた。
 ここは ─── 元々開いていたのだろうか? あの日から全部閉めきってしまった記憶があるのに。
『彼』はそっと足を進ませる。扉に手をかけ、ゆっくり開いた ─── 一歩、足を踏み入れる。

 寒いな……

 小さくつぶやいた声に、彼はびくりとして辺りを見渡した。そして目の前に「鏡」を見つける。
 いつも自分が見ている「鏡」。月光に照らされて、そこに「自分」が映っている。

〈やっぱり来たな。 ─── お前がここに来るのは自分の罪を確かめるときだ。自分を責めるときだ〉

「鏡」はどこか悲しい面持ち。

〈ふたりを殺したのはお前なんだな。どうしてだ? なぜあんなことを?〉

 問われても彼は黙っていた。長い沈黙のあと、彼はようやく口を開いた。

「 ─── なぜ、お前は、おれを、助けた」

 熱に浮かされたような口調。走ってきたわけでもないのに胸が苦しい ─── この、凍てつくような寒さのせいだろうか?

「あの時 ─── なぜ、おれをかばった。おれを助けた。おれに恩を着せるためだろう? そしておれより優位に立ちたかったからだろう?  ─── お前はおれを憎んでた。なのにおれを助けた。理由はそれしか考えられない!
 おれを助けることでお前はこの先永劫の勝利を得ようとしたんだ!」

「鏡」は黙って彼を見つめていたが、小さくかぶりを振った。

〈そうだ、確かに一時期、お前を嫌っていた。憎んでいた。でもお前を助けたのはお前に罪を負わせたくなかったからだ〉
「そんな理屈が通るか!」

 彼の怒鳴り声が、広い家に反響する。

「お前がおれを助けたのはおれのために罪をかぶったのは、おれのためじゃない、おれに敗北を味わわせて束縛するためだ。自分のためだ!」

 声が震える。
  ─── 自分はもうカウントをしていない。その領域を既に越えているのだ。

(赤イ雪ハモウ積モリ積モッテシマッタ。取リ返シガツカナイクライニ)

「夜」の自分がつぶやく。いや、 ─── 今のは「通常」の自分だろうか? もう「夜」の自分と「通常」の自分の立場が入れ替わってしまったのだろうか? 普通の自分はもう心の底に沈められ、そうしてつぶやくだけになってしまったのだろうか。

「最初から、……お前がいなければ良かった。お前を消してしまえば良かったんだ」

 胸が苦しい。彼は震える手でぎゅっと拳を作り、何かに操られたようにポケットに移動させる。

〈おれがいなければ ─── お前は救われたか?〉
「そうだ」

(ソウダ。オ前ガ ─── 、「鏡」ノ中ニイル「オレ自身」ガイナケレバ。「鏡」ノ自分ヲ始メカラ壊シテイレバ)

「そうすれば、おれの中にお前を見つけて苦しむことはなかった。お前の中におれを見つけて苦しむことはなかった」

 そっと手を抜く。カチャリ、 ─── 何かの金属音。
「鏡」は微動だにしない……いや、当たり前だ。それは「鏡」なのだから。
 一息に足を踏み出した。
 胸が、 ─── 苦しい。「鏡」さえなくなればこの苦しみは取れるのだ。
 そう、きっと。
 刃がうなる。「鏡」に触れる……!

「 ────── 」

 不思議な手応えがあった。

「鏡」、
 そのはずなのにそれは割れなかった。

 彼は瞠目し、「鏡」を見つめる。
 彼がナイフを抜いても胸の傷を押さえもせず、「鏡」は彼を見つめていた。

「鏡」が口を開く。

「おれ達は」

 ……「鏡」の声が、突然現実的に聞こえてくる。今までは耳にくぐもるようだったのに、頭が冷めていくにつれ急速に鮮明になる。

「おれ達は」

 もう一度、かすれた声で「鏡」は言った。

「もっと早く、……話をするべきだった」

 ゆっくりと歩み、手をのばす。彼の肩に両手をかけ、首に回す。背中に滑らせ、つよくつよく抱きしめる。

 哀しそうに。
 優しげに。

 ひとことだけ、この世の未練をつぶやいた。

「『うるう』 ────── 」
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