セクスレス

希彗まゆ

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ガナッシュ 1

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「皐月ー、こっちこっち!」

扉のベルを鳴らしながらカフェに入ると、夏美は先に来ていて、一番奥の隅っこの席で手を振ってわたしを呼んだ。
夏美ったら、そんなに大きな声を出したら目立つのに。

美人な夏美は人に見られることに慣れているかもしれないけれど、見た目も中身も平凡なわたしは、それなりに人目を気にしてしまう。
しかも夏美の席の脇にはアヤが立っているものだから、お客の視線をふたりは一身に集めている。

わたしは急いで席まで行って、夏美の正面に座った。
今日は飲み物だけでなく、夏美と一緒に昼食を摂る約束だ。

「いらっしゃいませ」

よそゆきのものかどうかわからないキレイな笑顔を見せて、アヤがわたしに向けて言う。

「どうも……」

わたしはといえばこの前のことを思い出して、アヤの顔をまともに見れずにそれだけ口にする。

どうしよう、ガトーオペラのお礼を言ったほうがいいのだろうか。
でも、夏美の前でその話を出したら、夏美になにがあったか根掘り葉掘り聞かれそう。
なにがあったかっていうほどなにかあったわけでもないのに。

無愛想な女だと、思われただろうか。
気になってちらりと目線を上げると、アヤはまだわたしを見つめていて、クスッと笑った。
顔が赤くなるのが、自分でもわかる。

「夏美さんは豚ヒレ肉とキノコのクリームソースで……皐月さんは、なににする?」

メニューを広げるアヤと、すかさずメニュー表の一点を指さす夏美。

「ここのカフェでご飯食べるなら、ワンプレートのがいいわよ。どれも絶品だから」

「あ、じゃあ……この、オムレツランチプレートで」

「了解」

アヤはそう言って、笑顔を残して去っていく。
わたしに会いたいって言ってるって夏美は言ってたけど……そのわりにはアヤ、やけにあっさりしている。

「オムレツって、相変わらず皐月の味覚って子供ねえ」
「いいじゃない、好きなんだもん」

からかう夏美に口を尖らせるわたしに、この前の金髪の若いウェイターがわたしのぶんのお水とおしぼりを持ってきてくれた。
一瞬目が合ったけれど、彼はなにも言わずにまた厨房へと去っていく。
少し気にかかったけれど、夏美の言葉のほうに気を取られた。

「ゆうべアヤから電話があってね、皐月さんはもうお店にこないの?って言ってたのよ」

「……社交辞令じゃないの?」

だって、アヤが特別わたしを気にする理由なんか、ないもの。
それに、さっきの態度を見てもそう思う。

というか夏美は、アヤとケータイ番号とか交換しているんだ。ちょっと、羨ましいかもしれない。
どこかで否定してほしかったのに、夏美はあっさりと、

「そうかもね。アヤのことだし」

なんて言う。
やっぱり社交辞令だったんだ、と思うと少し淋しくなったけれど、まだ二回しか会ってないんだから仕方がない。
夏美と世間話をしているうちに、アヤがふたつのプレートを両手に持ってやってきた。

「こっちが夏美さんのクリームソース。で、こっちがオムレツランチね」

「わあ、美味しそう!」

オムレツとかオムライスに目がないわたしは、思わず声を上げてしまう。
パンとサラダとオムレツは見た目のバランスが絶妙で、しかもオムレツにはデミグラスソースがたっぷりとかかっていて、美味しそうな香りを放っている。
するとアヤと夏美が、一緒になって笑った。

「ね? 皐月って、子供よね」
「そこが皐月さんのいいところなんじゃないかな」

なんて、恥ずかしい。
もうなにも言うまいと、わたしはオムレツを食べることに専念することにした。

見た目だけでなく本当に美味しい。
いままで食べたオムレツの中で、ダントツで一番。

夢中で平らげていたわたしがふと気がつくと、アヤの姿はもうなかった。
当然といえば当然か。人気のあるアヤが、わたしたちにつきっきりになるわけにもいかないだろうし、それ以前にアヤは店員なのだから仕事があるのだろう。

見ると、珍しくアヤの姿はホールにない。
厨房にいるのだろうか。

いち早く食べ終わった夏美がナフキンを一枚取って口元を拭き、

「お化粧直してくる」

と席を立つ。
そのころにはわたしも食べ終えていて、オムレツの味を思い出しながらしばらくぶりに幸せな気分に浸っていた。

「アヤさんがなにをしてるか、気になりませんか?」

ふとそう声をかけられて隣を見ると、あの金髪の若いウェイターが、わたしのコップにお水を足しているところだった。

「なにをしてるかって、どういう意味ですか?」

「気になるなら、店の二階に行ってみてください。通常は関係者しか入れませんけど、化粧室の隣の階段から行けますから」

それだけ言って、彼は踵を返してしまう。
彼は、なにが言いたいのだろう? わからなかったけれど、そう言われてしまうと途端に気になってきてしまう。

夏美が化粧室から戻ってくる前に、ちょっとだけ覗いてこようか。
好奇心も手伝って、わたしはそっと席を立った。
わたしが座っていた席と反対側の奥に化粧室があり、少し離れたところに「関係者以外立ち入り禁止」と書かれた扉がある。

ここ、かな……?

そっと扉を開くと、はたして階段があった。
薄暗い電灯のもと、足元に気をつけて階段を昇っていくと、左側に扉があって少しだけ開いていた。

扉には「倉庫」と札がかけられている。
こんなところに、アヤがいるの……?

開いている隙間から中を覗いてみたわたしは、息を呑んだ。
そこには確かにアヤがいて、──夏美と抱き合ってキスをしていたから。

どうして? どうして、夏美がアヤとキスなんてしているの?
ふたりはそういう仲だということ? それよりも、……アヤは……男だったっていうこと……?

夏美はうっとりとアヤを見上げ、

「もう一回……」

とキスをねだる。
アヤは、ふっと笑って抱きしめている夏美の身体を少しだけ焦らすように揺らす。

「さっきから何回してるの。お金、相当かかってるよ?」

「アヤとキスができるなら、いくらかかったっていいわよ」

そう言って夏美は、焦れたようにお化粧直し用のポーチから万札を一枚取り出し、アヤに手渡す。
アヤは受け取ってズボンの尻ポケットにそれをしまうと、にっこりと笑った。

「毎度。夏美さんはほんと、いいお客だよ」
「いまはお客扱いしないで」
「はいはい」

そしてアヤは、夏美と濃厚なキスを交わす。
わたしはすっかり頭が混乱して、真っ白になってしまっていた。

ふと、夏美とキスをしながらアヤが目を開き、扉のほう──わたしのほうを見る。
一瞬視線が合ったような気がして、わたしは慌てて扉から離れる。

「そろそろ戻らないと、皐月を待たせすぎちゃう」
「そうだね」
「じゃあ、またね。アヤ」

夏美がこちらに向かってくる気配。
慌ててわたしは、廊下に積み上げられている段ボールの陰に隠れた。

僅差で扉が開き、夏美が出てきて階段を降りていく。
まだドキドキする心臓を抱えながら、夏美のあとを追いかけようと思ったわたしの目の前に、影が覆いかぶさった。

ドキッとして見上げると、アヤがわたしの目の前に立っている。

「あ……」
「見てたでしょ」

アヤは目を細めて微笑を浮かべながら、腕を突き出して壁に手をつく。
わたしはアヤと壁とに挟まれる形になった。

──これでは、逃げようがない。

「見てたよね?」

バクバクと鳴り響く、わたしの心臓。どうしよう、なんて答えよう。

「アヤさんは、……男、だったの?」

出てきた台詞は、アヤの質問とはまったく関係のないことで。
それでもアヤは、答えてくれた。

「ボクの性別がどっちなのか、知っている人はいないよ。夏美さんだって、知らない」

「でも、じゃあなんで夏美はキスなんて──」

思わず言ってしまって、しまった、と思う。
見てたってことが、ばれた!

顔から血の気が引きかけるわたしの顎に、アヤはクッと指を添えたかと思うと、次の瞬間、わたしはアヤに唇をふさがれていた。
やわらかくて、熱い唇。

アヤのキスは、とてもとても甘かった。唇の隙間から入ってきたアヤの舌ですら、とろけるように甘かった。
抵抗することすら忘れるほど恍惚としてしまったわたしは、アヤの唇が離れたところでようやく我に返る。

「な、なにするんですか!」
「これで、皐月さんは誰にも言えないよね」

確信犯の目つきをして、アヤはクスリと笑う。
そして再び顔を近づけてきたかと思うと、耳元でささやいた。

「溶かしたチョコレートにたっぷりの生クリームが入った、口溶けのいい……ガナッシュみたいだね、皐月さんの舌と唇。こんなキス、初めてだよ」

「……!」

顔が、恥ずかしさでかぁっと熱くなる。
それを言うなら、逆だ。アヤの舌と唇のほうが、ガナッシュみたいだった。

「早く戻らないと、夏美さんが不審に思うよ」

アヤの言葉にハッとして、わたしはアヤを振り切るようにしてその場を後にした。
席では、夏美がいつのまにかコーヒーを頼んで飲んでいる。
わたしに気がつくと、夏美は目を丸くした。

「あれ? 皐月も化粧室に行ってたの? 入れ違いだった?」

「あ、ううん……わたしは化粧室じゃなくて……窓の外を見てたら、知ってる人が通ったから……外に出て挨拶してたの」

「なぁんだ、そうなの」

夏美はどこかほっとしたように、またコーヒーをすする。
席に座りながら視線を感じて振り返ると、厨房に戻りながらのアヤと目が合った。
微笑むアヤを見て、思う。

──確かにこれじゃあ、夏美に問いただすことなんてできない。どうしてアヤとキスをしていたかなんて、どうしてお金を払っていたのかなんて、聞くことはできない。
わたしもアヤと、秘密を持ってしまったのだから。アヤに秘密を握られたも、同然なのだから──。

どうしよう。
葛志の顔が、脳裏に浮かぶ。
どうしよう──葛志以外の……夫以外の人と、キスなんてしてしまった。
それはアヤが男でも女でも、わたしの中では赦されないことなのだ。

「どうするー? 皐月もなにか飲む? あ、ケーキでも食べようか」

夏美は呑気に、メニュー表を見ている。
アヤとあんなことをしたあとだというのに、夏美の態度にはなんの変化も見られない。
夏美にとってアヤとキスをすることは、なんでもないことなのだろうか。
夏美にだって、旦那さんがちゃんといるというのに。
確かにあんなキスを一度覚えたら、クセになってしまうのはわかるけれど──。

アヤとのキスを思い出して、わたしはしばらくのあいだ、ぼうっとしていた。
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