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チョコレートマカロン 2
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◇
葛志がカフェ「ショコラ」に入り浸っているらしい、という情報をもらったのは、年が明けてだいぶ経ってからのことだった。
夏美が情報源だったから、確かな情報であることは間違いない。
夏美は高校の時から、間違った情報はほとんど流したことがなかったから。
「もう、最初はびっくりしたわよ。なんで葛志くんがここにいるの?って感じだったから。ほらわたし、最近あのカフェに行ってなかったから。でもわたしがきてなかったあいだから、葛志くん、会社帰りに『ショコラ』に寄ってたらしいのよね」
わたしが淹れたブラックコーヒーを飲みながら、夏美は興奮したようにまくしたてる。
「まあ、ただ『ショコラ』でコーヒーを飲む程度らしいけど、皐月、気をつけたほうがいいわよ。あそこにはアヤもいるし、塚原ってウェイトレスもいるし」
アヤ目当てで「ショコラ」に通うというのならわかるけれど、塚原さんの名前を出されて、わたしはきょとんとしてしまった。
「どうしてそこで、塚原さんの名前が出てくるの?」
すると夏美は、驚いたように目を見開いた。
「知らないの? 塚原って、アヤのおこぼれをもらってるみたいよ」
「おこぼれって?」
「いまってアヤ、キスのお客取ってないでしょ? アヤに相手にされなくなって不満を持ってる“お客”に色目使ってるみたいなのよ。アヤがしてるようにはいってないと思うけど」
「ちょ……っと待って」
こんなときに喜ぶなんて、わたしもどうかしている。
どうかしているのはわかっているのに、聞かずにはいられない。
「アヤ、キスでお金を取る商売、やめたの?」
「そんなことも知らなかったの? 皐月って、アヤとつきあってるんじゃないの?」
ますます目をむく夏美に、わたしのほうが驚いてしまう。
「つきあってるだなんて、そんな。つきあおうだなんて言われたこともないよ」
「でも、アヤとキスしたりとか、そういうことはしてるのよね? じゃなくちゃ、アヤのことが好きなあんたが『ショコラ』に行き続けてるはずないものね」
「それは……そう、だけど」
夏美には、嘘がつけない。
悪いことをしているのを見抜かれたバツの悪さにうつむくと、夏美ははあ、とため息をついた。
「いいのよ、それは。わたしがあんたとアヤとの仲を取り持ったようなものだし、誰にも言わないわよ。だけどてっきりあんたはアヤから聞いてると思ったわ、キスをしてお客を取るのをやめたり、葛志くんのことだったり。まあアヤのことだから、葛志くんのことに関しては、あんたを気遣って言わなかっただけかもしれないけどね」
わたしも、そう思う。
アヤはわたしを極力傷つけないために、葛志のことをしゃべらないでいてくれたのだろう。
アヤと会う時間帯だって、アヤはいつも葛志とわたしが鉢合わせしないようにしていてくれたのだと思う。
聞けば夏美はアヤから、「もうキスの商売はやめる」とはっきり言われたらしい。
いつからかと尋ねると、夏美もはっきりとは覚えていないらしいけれど、大体クリスマスの前あたりだったと言っていた。
アヤがわたしの唇だけでなく、身体にもキスをし始めたあたりから、だろうか。なんとなく、そんなふうに見当をつける。
「皐月とつきあうことに決めたから、キスの商売やめることにしたんだと思ってたんだけど……違うの?」
夏美はそう聞いてくるけれど、そんなことわたしのほうが聞きたい。
アヤは本当に、わたしのために他の人とキスをすることをやめたのだろうか?
それとも、他に理由があって?
夏美が帰っていったあと、夕食の支度をするあいだもずっと、そんなことを考え続けていた。
そういえば葛志は最近、残業があるとばかり言って家に帰ってくるのもいつもより遅くなった。
相変わらず夜にセックスはするけれど、前よりも情熱的になった気がする。
それはいったい、誰のせいだろう。
アヤでなければいい、と瞬時に思ってしまうあたり、もうわたしと葛志のあいだを繋ぐものなどなにもない気がする。
これで本当に子供ができてしまったら、わたしたちはどんな父親と母親になるのだろう。
きっと、いい父親と母親にはなれない。それは確信できる。
だとしたらそれは、子供にとってもよくないのじゃないだろうか。
子作りなんて、やめたほうがいいのじゃないだろうか。
作ったカレーが冷え切ってしまったころに、その日葛志は帰ってきた。
夏美に言われて気がついたけれど、葛志は近頃上機嫌なことが多い。
まるでアヤと会ったあとのわたしのようだ。
そう感じると、葛志が浮気をしているという考えは、もう疑いようもない気がした。
「なんだ、まだ食べてなかったのか? 先に食べててもよかったのに」
温め直したカレーを葛志と、そして自分のぶんもよそうと、葛志は椅子に座りながら嫌味なくらい上機嫌に言った。
そして、相変わらずいただきますもせずにカレーを食べ始める。
考えより早く、先に口が動いていた。
「『ショコラ』に通ってるんだってね」
言ったとたん、葛志は盛大にむせた。
目を白黒させる葛志に、お水を渡してあげる。
水を飲むと葛志は、ごまかすようにひきつった笑みを見せた。
「たまにな。あそこのコーヒーって美味しいからさ」
「会社でも宅配頼んでるのに、会社帰りにもわざわざ寄るくらい?」
「まあ、そんなとこ。なんだよ、いいだろ別に。会社帰りに癒しを求めるぐらい」
葛志が、嘘を吐くのがこんなに下手だとは思っていなかった。
自分でもそう感じたのか、葛志は開き直ったように頬を膨らませる。
「おまえだって毎日アヤさんと会ってるんだろ? おあいこじゃねぇか」
「葛志もアヤと……友達に、なったの?」
さすがに言葉を濁すと、葛志はきまりが悪そうに「いや、そういうわけじゃねぇけど」とぼそぼそ言う。
どうやらアヤが相手ではないらしい。
もしかしたら葛志のほうが一方的にアヤに熱を上げているのかもしれないけれど、アヤのほうが相手にしていなければわたしにはなんの問題もない。
アヤのことを考えながら、葛志がわたしを抱いているのだと思うと、それはそれで複雑で仕方がないけれど。
黙々とカレーを食べ続ける葛志に、ぽろりと言ってしまった。
「……離婚、しようか」
今度こそ、葛志のカレーを食べる手が止まる。
驚いたように、わたしを凝視していた。
「なんだよ、なに言ってんだよいきなり」
「だってもうわたしたち、冷め切ってるじゃない」
とっくに終わっている、そのことは葛志だってわかっているはずだ。
「駄目だ、離婚だけは絶対に」
なのに葛志は、困ったような渋い表情でそんなことを言う。
わたしは、膝の上で拳をぎゅっと握った。
「どうして? 離婚すれば葛志だって、なんだって自由にできるでしょ? 他にもっといい女の人だって見つけられるかもしれないじゃない」
「たとえそうだとしても! 駄目なんだよ、離婚は! 絶対駄目だ!」
まだ半分くらい残っているカレーを放り出して、葛志はガタンと椅子を蹴って立ち上がる。
そしてそのまま、寝室にこもってしまった。
たとえそうだとしてもって、葛志だって思ってるんじゃない。
なのにどうして、離婚だけは駄目だなんて言うのだろう。
お義父さんのことがあるから? まだわたし、子作りに励まなければいけないの? それとも、世間体?
葛志は、そのすべてを考えているのかもしれない。
ジーンズのポケットに入れてあるケータイを、取り出してみる。
明日にでも、葛志のことをアヤに聞いてみよう。
そう思うわたしの視線の先で、チョコレートマカロンのストラップがゆらゆらと揺れていた。
葛志がカフェ「ショコラ」に入り浸っているらしい、という情報をもらったのは、年が明けてだいぶ経ってからのことだった。
夏美が情報源だったから、確かな情報であることは間違いない。
夏美は高校の時から、間違った情報はほとんど流したことがなかったから。
「もう、最初はびっくりしたわよ。なんで葛志くんがここにいるの?って感じだったから。ほらわたし、最近あのカフェに行ってなかったから。でもわたしがきてなかったあいだから、葛志くん、会社帰りに『ショコラ』に寄ってたらしいのよね」
わたしが淹れたブラックコーヒーを飲みながら、夏美は興奮したようにまくしたてる。
「まあ、ただ『ショコラ』でコーヒーを飲む程度らしいけど、皐月、気をつけたほうがいいわよ。あそこにはアヤもいるし、塚原ってウェイトレスもいるし」
アヤ目当てで「ショコラ」に通うというのならわかるけれど、塚原さんの名前を出されて、わたしはきょとんとしてしまった。
「どうしてそこで、塚原さんの名前が出てくるの?」
すると夏美は、驚いたように目を見開いた。
「知らないの? 塚原って、アヤのおこぼれをもらってるみたいよ」
「おこぼれって?」
「いまってアヤ、キスのお客取ってないでしょ? アヤに相手にされなくなって不満を持ってる“お客”に色目使ってるみたいなのよ。アヤがしてるようにはいってないと思うけど」
「ちょ……っと待って」
こんなときに喜ぶなんて、わたしもどうかしている。
どうかしているのはわかっているのに、聞かずにはいられない。
「アヤ、キスでお金を取る商売、やめたの?」
「そんなことも知らなかったの? 皐月って、アヤとつきあってるんじゃないの?」
ますます目をむく夏美に、わたしのほうが驚いてしまう。
「つきあってるだなんて、そんな。つきあおうだなんて言われたこともないよ」
「でも、アヤとキスしたりとか、そういうことはしてるのよね? じゃなくちゃ、アヤのことが好きなあんたが『ショコラ』に行き続けてるはずないものね」
「それは……そう、だけど」
夏美には、嘘がつけない。
悪いことをしているのを見抜かれたバツの悪さにうつむくと、夏美ははあ、とため息をついた。
「いいのよ、それは。わたしがあんたとアヤとの仲を取り持ったようなものだし、誰にも言わないわよ。だけどてっきりあんたはアヤから聞いてると思ったわ、キスをしてお客を取るのをやめたり、葛志くんのことだったり。まあアヤのことだから、葛志くんのことに関しては、あんたを気遣って言わなかっただけかもしれないけどね」
わたしも、そう思う。
アヤはわたしを極力傷つけないために、葛志のことをしゃべらないでいてくれたのだろう。
アヤと会う時間帯だって、アヤはいつも葛志とわたしが鉢合わせしないようにしていてくれたのだと思う。
聞けば夏美はアヤから、「もうキスの商売はやめる」とはっきり言われたらしい。
いつからかと尋ねると、夏美もはっきりとは覚えていないらしいけれど、大体クリスマスの前あたりだったと言っていた。
アヤがわたしの唇だけでなく、身体にもキスをし始めたあたりから、だろうか。なんとなく、そんなふうに見当をつける。
「皐月とつきあうことに決めたから、キスの商売やめることにしたんだと思ってたんだけど……違うの?」
夏美はそう聞いてくるけれど、そんなことわたしのほうが聞きたい。
アヤは本当に、わたしのために他の人とキスをすることをやめたのだろうか?
それとも、他に理由があって?
夏美が帰っていったあと、夕食の支度をするあいだもずっと、そんなことを考え続けていた。
そういえば葛志は最近、残業があるとばかり言って家に帰ってくるのもいつもより遅くなった。
相変わらず夜にセックスはするけれど、前よりも情熱的になった気がする。
それはいったい、誰のせいだろう。
アヤでなければいい、と瞬時に思ってしまうあたり、もうわたしと葛志のあいだを繋ぐものなどなにもない気がする。
これで本当に子供ができてしまったら、わたしたちはどんな父親と母親になるのだろう。
きっと、いい父親と母親にはなれない。それは確信できる。
だとしたらそれは、子供にとってもよくないのじゃないだろうか。
子作りなんて、やめたほうがいいのじゃないだろうか。
作ったカレーが冷え切ってしまったころに、その日葛志は帰ってきた。
夏美に言われて気がついたけれど、葛志は近頃上機嫌なことが多い。
まるでアヤと会ったあとのわたしのようだ。
そう感じると、葛志が浮気をしているという考えは、もう疑いようもない気がした。
「なんだ、まだ食べてなかったのか? 先に食べててもよかったのに」
温め直したカレーを葛志と、そして自分のぶんもよそうと、葛志は椅子に座りながら嫌味なくらい上機嫌に言った。
そして、相変わらずいただきますもせずにカレーを食べ始める。
考えより早く、先に口が動いていた。
「『ショコラ』に通ってるんだってね」
言ったとたん、葛志は盛大にむせた。
目を白黒させる葛志に、お水を渡してあげる。
水を飲むと葛志は、ごまかすようにひきつった笑みを見せた。
「たまにな。あそこのコーヒーって美味しいからさ」
「会社でも宅配頼んでるのに、会社帰りにもわざわざ寄るくらい?」
「まあ、そんなとこ。なんだよ、いいだろ別に。会社帰りに癒しを求めるぐらい」
葛志が、嘘を吐くのがこんなに下手だとは思っていなかった。
自分でもそう感じたのか、葛志は開き直ったように頬を膨らませる。
「おまえだって毎日アヤさんと会ってるんだろ? おあいこじゃねぇか」
「葛志もアヤと……友達に、なったの?」
さすがに言葉を濁すと、葛志はきまりが悪そうに「いや、そういうわけじゃねぇけど」とぼそぼそ言う。
どうやらアヤが相手ではないらしい。
もしかしたら葛志のほうが一方的にアヤに熱を上げているのかもしれないけれど、アヤのほうが相手にしていなければわたしにはなんの問題もない。
アヤのことを考えながら、葛志がわたしを抱いているのだと思うと、それはそれで複雑で仕方がないけれど。
黙々とカレーを食べ続ける葛志に、ぽろりと言ってしまった。
「……離婚、しようか」
今度こそ、葛志のカレーを食べる手が止まる。
驚いたように、わたしを凝視していた。
「なんだよ、なに言ってんだよいきなり」
「だってもうわたしたち、冷め切ってるじゃない」
とっくに終わっている、そのことは葛志だってわかっているはずだ。
「駄目だ、離婚だけは絶対に」
なのに葛志は、困ったような渋い表情でそんなことを言う。
わたしは、膝の上で拳をぎゅっと握った。
「どうして? 離婚すれば葛志だって、なんだって自由にできるでしょ? 他にもっといい女の人だって見つけられるかもしれないじゃない」
「たとえそうだとしても! 駄目なんだよ、離婚は! 絶対駄目だ!」
まだ半分くらい残っているカレーを放り出して、葛志はガタンと椅子を蹴って立ち上がる。
そしてそのまま、寝室にこもってしまった。
たとえそうだとしてもって、葛志だって思ってるんじゃない。
なのにどうして、離婚だけは駄目だなんて言うのだろう。
お義父さんのことがあるから? まだわたし、子作りに励まなければいけないの? それとも、世間体?
葛志は、そのすべてを考えているのかもしれない。
ジーンズのポケットに入れてあるケータイを、取り出してみる。
明日にでも、葛志のことをアヤに聞いてみよう。
そう思うわたしの視線の先で、チョコレートマカロンのストラップがゆらゆらと揺れていた。
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