放課後、旧校舎にて

雲野いと

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2-1 僕だけが知っている

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「あー、もう!」


 旧校舎の東にある長い廊下を突き当たったところ。そこが旧校舎の図書室だった。特に入り組んでいるような場所でも、途中に迷うような道があるわけでもない。

 ではなぜ、肝試しに来た人たちは図書室を見つけられないのか?その答えを僕は知っている。

 実は、旧校舎の図書室には確かに、噂通り、幽霊が存在した。そしてその幽霊は、旧校舎に入ってくる人間を快く思っていなかった。そのため、自分がいる図書室を隠してしまったのだ。肝試しなんかを楽しむ人間に自分の住処が見つからないように。

 そう、つまり、噂のとおりなんと幽霊の仕業なのである。

 だがここだけの話。ここにいるは、幽霊と噂されているが幽霊ではない。かといって、人間であるわけでもない。
 が、それを訂正しなければいけない相手を彼女は片っ端から追い払っているのだから、彼女は≪幽霊≫という肩書のままだ。

 
 図書室に入ってすぐ目に入るカウンターのイスに座り、苦々し気に顔を歪ませている女性・古市翠子さん。幽霊(仮)だ。ちなみに、さっき盛大に「あー、もう!」とため息をついたのも彼女である。

 真っ黒な髪を腰まで伸ばし、前髪は斜めに分けている。白い肌、赤い唇、少しつり目気味の黄色の瞳。長い睫が、まばたきをするたびに彼女の頬に影を落とす。

 身に着けているのは白い蝶が数匹行き交う真っ赤な着物で、緑の帯を胸より少し低い位置で巻いている。大和撫子・眉目秀麗。そんな言葉が似合う女性だ。
 
 だがしかし、図書室という背景とのミスマッチさは否定できない。

 旧校舎の図書室は、新校舎に比べだいぶ貧相だ。置いてあった本のほとんどは、新校舎の図書室に移動されてしまったから。

 けれど誰も読まない哲学の分厚い本や、古すぎて変色している本、抜けているページがある本などは置いたままになっていて、まだなんとか図書室の形を保っている。その中に、赤い着物の美女。うん、おかしい。

 イライラしている翠子さんに、僕は話しかける。


「せっかくの美人が台無しですよ、翠子さん。顔しかいいところないんだから、気をつけてください。ほら、笑顔笑顔!」


 自分の頬に人差し指をあて、笑顔をつくる。すると翠子さんの眉間のしわが深くなり…、それを確認した瞬間、もの凄い速さで分厚い本が飛んできた。慌てて右に避けると、本はそのまま入り口の扉にあたり、床へ力無く落ちた。それを見て、さらに彼女の眉間のしわが深くなる。


「あーイライラする。なんで旧校舎にこんなに人が来るのよ!おかしいでしょ!今まで放っていたくせに、なんなのよー!しかも今日は如月まで来るし。ああ…、この世にいいことなんて何ひとつないのね…」


 翠子さんは、はああ、と大きなため息をひとつ吐いた。旧校舎に人が来るのが嫌なのはわかるけど、僕が来るのも嫌なのか、と少し落ち込む。

 でもまあ、別にいいけど。

 さっき投げつけられた本をかがんで拾いあげた。気分屋の彼女の一挙一動に、いちいち落ち込んだり喜んだりするのは馬鹿臭い。

 イライラした表情のまま、翠子さんが言う。  


「ねえ、如月。頼みたいことがあるんだけど」
「嫌です」


 拾い上げた本を近くの本棚に戻し、右手に下げていたブリーフケースから一冊の本を取り出す。

 頼まれていた本を渡すためだけににわざわざ来たのに、さらに面倒事を頼まれるなんて御免だ。それに翠子さんの頼み事は、大抵が突飛なことばかりなんだ。そこまで長い付き合いではないけれど、それはよくわかっていた。

 本を手渡そうと翠子さんに近づく。彼女の表情は強張っていて、こめかみに青筋が浮いているように見えた。


「まだ何も言ってないじゃない?」
「嫌です。」


 翠子さんのこめかみと右手がピクリと動いた。それを見て、さっきの剛速球で投げられた本のことが脳裏を掠める。飛んでくるであろう本に身を構えるが、飛んできたのは本ではなくキレのある右ストレートだった。鳩尾にはまる。僕は腹を抱えて倒れた。


「やるわよね?」


 先ほどと同じ台詞。ここで断ったらどうなるのだろう、と想像したら怖くなったので、仕方なしに「はい」と返事。よろよろと立ち上がれば、満足気に笑う翠子さんがそこにいた。 

 そして、僕の腹を殴りつけた右手を差し出していた。最初、意味がわからず差し出されたその手をただ見つめ返したが、少しして、その右手が「じゃ、頼んでおいた本を私に渡しなさい」という意味なのだと理解した。

 腹立つので何か仕返しをしてやりたかったが、さらに倍返しされるだけだと分かっているので素直に渡す。


「この旧校舎に人が来ないようにして頂戴」


 お礼も何もなく、彼女はそれだけ言うといま手渡した本を開き、黙々と読み始めた。これ以上喋ることなどない、とでも言うように。
 
 はあ、とため息をつく。

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