影を継ぐ双貌の王子

立板三

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第五話 城下の混乱と、忍び込む決断

 王都へと続く街道は、レオンがこれまでの人生で目にしたどんな光景とも違っていた。

 幅の広い石畳の道を、幌馬車や荷車がひっきりなしに行き交っている。商人たちが声を張り上げて荷の積み下ろしを指示し、旅装の男女が足早に歩き、物売りの少年が焼き栗の包みを掲げて駆け回る。道の両脇には三階建て、四階建ての石造りの建物がずらりと並び、その窓という窓から洗濯物や看板や旗が突き出して、空を狭くしていた。

 レオンは母を乗せた馬車の横を歩きながら、何度も足を止めそうになった。

「すごい……人が、こんなに……」

 思わず声が漏れる。

 目の前を荷馬車が横切り、その隙間から香辛料の匂いが鼻を突いた。振り返れば、路地の奥で鍛冶屋の槌音が響いている。頭上では鳩の群れが旋回し、足元では野良猫が悠然と石畳を横断していく。村の朝市の十倍、いや百倍の情報量が、一度にすべての感覚へ押し寄せてくるようだった。

「一つの村にいる人より、この街道を歩いている人のほうがずっと多いんじゃないか。いったいどこから湧いてくるんだ、こんなに大勢」

 レオンが呆然と呟くと、前を歩いていたカイが手綱を片手に振り返った。

「迷子になるなよ。お前はすぐウロウロするんだからな。さっきも屋台の匂いにつられて、二回も列からはぐれかけてたぞ。三回目は知らんからな、本当に置いていく」
「大丈夫だって。もう子どもじゃないんだから。ちょっと珍しくて、きょろきょろしてただけだよ」
「珍しいで済むか。お前、村でも薬師のゴードン先生の家から戻るときに道を間違えただろ。一本道なのに、逆方向に歩いてたじゃねぇか。あれは衝撃だったぞ、正直」
「あれは……霧が出てたから。視界が悪かったんだ」
「霧なんか出てなかっただろ。あの日は雲ひとつない快晴だったぞ。エマだって覚えてる」
「覚えてるわ。私、遠くからレオンが反対方向に歩いていくのを見て、最初は何か用事があるのかと思ったの。でも途中でくるっと振り返って、すごく慌てた顔で走って戻ってきたから、ああ迷ったんだなって」
「……二人とも、その話はもういい。記憶違いだったんだ、たぶん」

 レオンは頬を膨らませた。確かに方向感覚にはあまり自信がない。村の一本道ですら迷うのだから、この広大な王都に足を踏み入れたら、たちまち右も左も分からなくなるだろう。その自覚はあった。ただ、認めるのが悔しいだけで。

「レオン、あの建物を見て」

 エマが御者席から身を乗り出し、前方を指差した。街道の先、建物の屋根が連なるその向こうに、鮮やかな青色の大屋根がそびえている。陽光を受けて、空の色よりもなお深い藍色に輝いていた。

「あれが王都の大市場よ。屋根が青いのが目印なの。四百年前に建てられた、この国で一番古い公共建築のひとつだって、学院の講義で習ったわ。もし万が一はぐれたら、あの青い屋根を目指しなさい。大市場から城門の大通りまでは一本道だから、迷いようがないはずよ」
「青い屋根……分かった、覚えておく。あれなら遠くからでも見えるな」
「まあ、俺たちが一緒にいるから安心しろよ」

 カイが肩越しに笑った。陽に焼けた顔に、気さくな笑みが浮かんでいる。

「はぐれそうになったら、俺の鎧の音を頼りにしろ。ガシャガシャうるさいからな。この街道で一番騒がしいのは間違いなく俺だ」
「確かに、カイは歩くだけで騒がしいわよね。すれ違う人がみんな振り返ってるもの。隠密行動には絶望的に向かないわ」
「うるせぇ。騎士は堂々と歩くもんだ。こそこそ歩くほうがよっぽど怪しいだろうが」
「堂々とと騒がしいは違うと思うけれど」
「同じだ。気にするな」

 エマは小さく肩をすくめてから、ふと表情を引き締めた。風に揺れる亜麻色の髪を耳にかけ、街道の両脇に目を走らせる。その横顔には、さきほどまでの穏やかさとは異なる鋭さが宿っていた。

「レオン、一つ忠告しておくわね」

 声の調子が変わったことに、レオンはすぐに気づいた。

「王都は情報も噂も渦巻いている場所よ。さっきから街道沿いの人たちの会話を聞いていたけれど、半分以上は根拠のない噂話だわ。出所も確認されていない話が、さも事実のように語られている。言葉に飲まれないようにしてね」
「言葉に飲まれる……? どういうことだ」
「ここでは真実と嘘が絡み合って、ほとんど見分けがつかないの。村では噂話が広まっても、すぐに誰が言い出したか分かるでしょう。顔見知りばかりだから。でも王都は違う。出所の分からない情報が、人の口から口へ伝わるうちに尾ひれがついて、あっという間に街中に広まるの。それが真実かどうか確かめる術もないまま、みんなが信じてしまう。あるいは、意図的に嘘を流す人間もいる。情報を操作して、誰かを陥れたり、民衆の感情を煽ったり。そういう世界なのよ、ここは」

 エマの言葉は静かだったが、その奥に確かな緊張が潜んでいた。魔導学院で過ごした日々の中で、彼女自身がそうした情報の渦に巻き込まれたことがあるのかもしれない。レオンにはそう感じられた。

「怖いな……。じゃあ、誰を信じればいいんだ」
「自分の目と耳を信じなさい。自分が直接見たもの、直接聞いたことだけを判断の材料にするの。それと、カイと私。あなたが信じるべきものは、それだけで十分よ」
「おう、俺を信じろ。少なくとも、嘘はつかねぇからな。ついたこともねぇ」
「カイは嘘をつく知恵がないだけよ」
「それは褒めてるのか貶してるのか、はっきりしてくれ」
「どっちだと思う?」

 エマが片眉を上げて微笑んだ。カイが不満げに鼻を鳴らす。そのやり取りはいつも通りで、レオンの胸にわずかな安堵を運んでくれた。

 けれど、エマの言葉は確かに胸に刺さっていた。

 村では嘘をつく人間などほとんどいなかった。みんなが顔見知りで、秘密など持ちようがない小さな共同体だった。だがこの王都では、無数の見知らぬ人々が、無数の言葉を発している。その一つひとつに真偽の区別をつけることなど、できるのだろうか。

 レオンはそんなことを考えながら歩き続けた。

 街道の人波は、王都の中心に近づくにつれて密度を増していく。すれ違う人々の服装も多彩になり、質素な旅装の者もいれば、刺繍の入った上等な外套を纏った商人もいる。鎧を着た兵士の一団が規則正しい足取りで通りを横切り、その後ろを荷車を引いた農夫がのんびりとついていく。あらゆる階層の人間が同じ道の上に存在しているという事実が、レオンには新鮮だった。

 やがて前方の景色が開け、空の半分を遮るような巨大な影が姿を現した。

 レオンは息を呑んだ。

 城壁だった。

 灰色の石を幾重にも積み上げて造られたその壁は、見上げると首が痛くなるほどの高さで天を衝いている。壁面には苔ひとつなく、三百年の歳月を経てなお堅牢な威容を保っていた。壁の上部には等間隔に見張り台が設けられ、槍を手にした兵士たちの姿が豆粒のように小さく見える。

「あれが王都の城壁……なんて大きさだ」

 レオンは足を止め、口を開けたまま見上げた。村で一番高い建物は薬師ゴードンの二階建ての家だった。その何十倍もの高さが、目の前にそびえている。

「あの壁の高さだけで、うちの村の一番高い樫の木より高いんじゃないか」
「もっと高いぜ。三十メートルはあると言われてる。この国で一番高い建造物だ」

 カイが城壁を見上げながら、どこか誇らしげに語った。

「三百年前、初代国王ヴァルディスが十年の歳月をかけて築いたとされている。当時の魔導技術と石工術の粋を集めた傑作だってな。訓練の座学で何度も叩き込まれたから、この辺りの知識だけは自信がある」
「あの城壁の内側にもう一つ壁があるのよ」

 エマが付け加えた。

「外壁と内壁の二重構造になっていて、内壁の中に王宮が建てられているの。三百年間、一度も外敵の侵入を許していない鉄壁の防御。少なくとも、正面からの攻撃に対しては」
「二重の城壁……。王子様は、あの中にいるのか。あんな高い壁に囲まれて」
「そうだ。俺たちが守るべき人がな」

 カイの声から、軽口の色が消えた。城壁を見つめるその横顔には、騎士見習いとしての覚悟がにじんでいる。

「だが、あの壁があっても影の部隊は侵入してくる。壁の高さだけじゃ守りきれないんだ。だから俺たちみたいな人間が必要になる。壁に頼るんじゃなく、自分の腕と判断で守る。それが近衛騎士の役目だと、バルドス卿はいつも言っていた」

 その言葉の重さに、レオンは何も返せなかった。自分にはまだ、守るための力がない。それを改めて突きつけられたような気がした。

「レオン、お母様の様子はどう?」

 エマが話題を変えるように尋ねた。

「さっき確認した。少し疲れてるみたいだけど、大丈夫だって言ってたよ。窓から外を見て、景色が綺麗ねって笑ってた」
「おばさんは本当に強いな。この長旅で弱音一つ言わないんだもんな。正直、俺のほうが先に音を上げそうだったぜ」
「母さんはいつもそうなんだ。辛くても俺の前では笑ってくれる。熱があるときも、体がだるいときも、心配かけまいとして明るく振る舞うんだ。だから余計に心配なんだけど……」

 レオンは馬車の幌をちらりと見やった。その向こうで、母が静かに横たわっているはずだった。王都の医術院に着けば、何か手がかりが見つかるかもしれない。その一念だけが、レオンの足を前に進めていた。


 城門が近づくにつれ、周囲の空気が一変した。

 街道の賑わいとは明らかに異質な緊張感が漂っている。城門の手前で馬車の列が滞り、人の流れが堰き止められていた。兵士たちが慌ただしく動き回り、通行人の一人ひとりを厳しい目で検分している。荷物を開けさせ、身分証を改め、場合によっては身体にまで手を触れて確認する。その徹底ぶりは尋常ではなかった。

 城門の脇の石壁に、何枚もの張り紙が貼られていた。

 レオンはその一枚に目を留め、足を止めた。

「王子暗殺未遂」

 大きな文字でそう書かれている。その下には、黒装束の人物の似顔絵が描かれていた。顔の大半は布で覆われ、目元だけが露出している。その鋭い眼光が、紙の上からこちらを射すくめるようだった。

 レオンの背筋を、冷たいものが走った。

 あの村で見た刺客を思い出した。闇の中から現れた黒い影。感情のない声。カイの腕を裂いた刃。あれと同じものが、この王都にもいる。それも、王宮の内部にまで。

「王子暗殺未遂……。本当に起きたんだな。旅商人の噂話じゃなかったんだ」
「ああ。俺たちが村にいた間に、事態はかなり動いていたらしい。もっと早く戻るべきだったかもしれねぇ」

 カイが唇を噛んだ。その横顔に、自責の影がよぎる。

「カイ、自分を責めないで。私たちは私たちの判断で動いたの。あの時点で得られた情報の中では、最善の選択をした。それは間違いじゃないわ」
「分かってる。分かってるが……」

 カイの言葉が途切れた。その先を飲み込んだのは、城門の前に立ちはだかった兵士の声だった。

「通行証を見せろ。全員だ」

 鎧の上に紺色の外套を羽織った兵士が、カイの前に立った。年齢は三十半ばほどだろうか。日に焼けた顔に深い皺が刻まれ、その目は疑念で凝り固まっている。長い任務で神経をすり減らした人間特有の、誰も信用しないという空気を全身から発していた。

「騎士見習いのカイだ。近衛騎士団所属、登録番号は第七三四。第三訓練小隊に配属されている。指揮官はバルドス卿」

 カイは腰の革袋から証明書を取り出し、差し出した。羊皮紙に近衛騎士団の紋章が押された、正式な身分証明だった。

 兵士はそれを受け取り、表と裏を交互に確かめた。指先で紋章の刻印をなぞり、記載された文字を一字一字たどるように読む。その視線は何度も証明書とカイの顔を往復した。

「……騎士見習いか。確かに登録はあるようだ」

 兵士が低い声で言った。だが、証明書を返す気配はない。

「だが今日は、城内への立ち入りは制限されている。見習いの独自判断での帰還は認められていない。上官の直接命令による帰還指示書が必要だ」
「近衛騎士団の連絡を受けて戻ってきたんだ。辺境の村で不審者の調査任務に就いていた。その結果報告がある。緊急を要する内容だ。バルドス卿に連絡を取ってもらえれば、すぐに確認が取れるはずだ」
「連絡については受けている。だが、正式な帰還許可がまだ下りていない。上の許可が下りるまで待ってもらう」

 兵士の態度は頑なだった。規則を盾にした、揺るぎのない拒絶だった。

「今は誰であろうと簡単には通せん。暗殺未遂の後で、城内の警備態勢が最高段階に引き上げられている。将軍直々の命令だ。私の一存でどうこうできる話ではない」
「どのくらい待てば許可が下りる。報告は急を要するんだ。辺境の村にまで影の部隊の刺客が来ていたんだぞ。それも一人じゃない、組織的な動きだった」

 カイの声に、焦りが滲んだ。

「影の部隊だと?」

 兵士の目がわずかに見開かれた。無表情の鉄仮面に、初めてひびが入ったようだった。

「……それは本当か」
「ああ、本当だ。実際に戦闘になった」

 カイは袖をまくり上げ、左腕の傷痕を見せた。まだ完全には塞がりきっていない刀傷が、赤黒い線となって肘の上から手首近くまで走っている。

「この傷がその証拠だ。影の刺客の刃でやられた。この情報を一刻も早く上に伝える必要がある。辺境にまで手を伸ばしているということは、奴らの勢力圏が俺たちの想定より遥かに広いということだ」

 兵士は傷痕をじっと見つめ、それからカイの目を見た。そこに嘘がないことは、おそらく読み取ったのだろう。だが、それでも首を横に振った。

「……気持ちは分かる。だが規則は規則だ。許可が下りる時期は、私には分からん。状況次第としか言えん。下手をすれば今日中には無理かもしれん。暗殺未遂の犯人がまだ捕まっていない以上、城門の通常開放は当分ないだろう」
「くそ……。せめて、連絡だけでも中に入れてくれないか。口頭でいい、バルドス卿に伝言を頼みたい。影の部隊が辺境に出現した、それだけでいい」
「それもできん。今は伝令の発着も制限されている。すべての連絡は正規の手続きを経なければならん。悪いが、これ以上は私から言えることはない」

 兵士は証明書をカイに返し、踵を返した。その背中は、これ以上の交渉を一切受け付けないという意志を無言で示していた。

「……もういい。分かった。待つしかねぇか」

 カイが低く舌打ちした。握りしめた拳の関節が白く浮き上がっている。

 三人は城門前の広場の隅に馬車を寄せ、待機することになった。母は馬車の中で横になっている。長旅の疲れが出たのか、顔色が朝よりもさらに悪くなっていた。頬の血色が薄く、唇も乾いている。レオンはそれが気がかりで、何度も幌をめくっては中を覗き込んだ。

「母さん、具合はどう。水、飲める? 毛布、もう一枚かけようか」
「大丈夫よ、レオン。少し休めば元気になるわ。こんなに大きな街に来たのは初めてだから、少し驚いてしまっただけ」

 母は横になったまま、穏やかに微笑んだ。その微笑みの下に疲労が隠れていることを、レオンは見逃さなかった。目の下にうっすらと影が落ちている。呼吸も、いつもより浅い。

「あなたこそ大丈夫? 顔が強張ってるわよ」
「俺は平気だよ。ちょっと城門が混んでて、中に入るのに時間がかかりそうなだけだ。心配するようなことは何もないから、母さんはゆっくり休んでて」
「ありがとう。あなたが傍にいてくれるだけで、安心するわ」
「何かあったらすぐ呼んでね。すぐ近くにいるから」

 幌を戻し、レオンは静かに息を吐いた。母の前では平気な顔をしていたが、胸の内は不安でいっぱいだった。城門は閉ざされ、中に入る目処も立たない。母の体調は少しずつ、けれど確実に下り坂を辿っている。王都の医術院に辿り着けなければ、この旅には何の意味もない。

 城門前の広場は、三人と同じように足止めを食った人々で溢れかえっていた。

 大きな荷を抱えた商人たちが苛立たしげに兵士と交渉し、旅装の家族連れが石畳の上に座り込んで疲れた顔を見合わせている。担架に横たわった負傷兵が数人、城門の脇に並べられており、軍医らしき男が忙しく立ち回っていた。広場全体に、不安と苛立ちと疲弊が重く沈殿している。

 その時だった。

 城門がわずかに開き、担架が一台、城内から運び出されてきた。

 担架の上には、血まみれの騎士が横たわっていた。鎧は胸の部分から腹にかけて大きく裂け、その裂け目から赤黒い血が滲んでいる。顔は蝋のように白く、唇は紫がかっていた。呼吸のたびに胸が浅く上下するが、その動きは痛々しいほど弱々しい。

 運び出された騎士の視線が、ふと広場の方を向いた。

 焦点の定まらない目が、人混みの中を彷徨い、そして一点で止まる。

「カイ……カイじゃないか……おい、カイ……」

 掠れた声が、広場の喧噪を貫いて届いた。

 カイの体がびくりと震えた。

「ダリウス……!」

 叫ぶと同時に、カイは人混みをかき分けて駆け出していた。担架の脇に膝をつき、横たわる騎士の顔を覗き込む。

「おい、ダリウス……お前、何があったんだ。この傷は……誰にやられた」

 カイの声が震えている。レオンは数歩遅れてカイの後を追い、担架の傍に立った。間近で見る負傷者の姿は、遠目に見ていたときよりもはるかに凄惨だった。鎧の裂け目の奥で、肉がえぐれているのが見える。血の匂いが鼻腔を刺し、レオンは思わず息を止めた。

「影の部隊に……やられた……」

 ダリウスが咳き込みながら答えた。唇の端から血の筋が伝い、顎を赤く染めていく。

「夜間巡回の最中だった……。内壁の西側通路で、三人に囲まれた……。気配がなかったんだ……振り返ったときにはもう、三方を塞がれてた……」
「三人だと……。一人でも手に負えねぇのに、三人で来やがったのか」
「ああ……一人はなんとか退けた。剣で肩を斬ったら、影に溶けるように消えた……。だが残りの二人が……。速かったんだ、カイ……。俺が今まで相手にしたどんな剣士よりも速かった……。気づいたときには腹を斬られてて、膝をついたら、もう一人が背中から……」

 ダリウスの声が途切れ途切れになる。呼吸のたびに胸から空気が漏れるような、不吉な音が混じっていた。

「奴ら……本気だ、カイ。もう偵察なんかじゃねぇ……。本格的に城の中に入り込んでる……。壁も結界も関係ねぇ……奴らにとっちゃ、影がある場所すべてが通り道なんだ……。天井裏も、床下も、壁の隙間も……」
「おい、喋るな。傷に障る。医者を呼べ、誰か医者はいないのか」

 カイがダリウスの肩を掴み、周囲に叫んだ。だが広場の混乱の中で、すぐに医者が来る気配はない。

「標的は……王子か、その側近だと思う……。もう城の中も安全じゃねぇ……二重の城壁なんて意味がない……」
「ダリウス、もういい。喋るな。息を整えろ」
「聞いてくれ、カイ……大事なことなんだ……」

 ダリウスの手が、力なくカイの腕を掴んだ。血に濡れた指が、布越しにカイの肌に食い込む。

「王宮の中に……裏切り者がいる……」

 その言葉に、カイの表情が凍りついた。

「裏切り者だと……。それはどういう意味だ」
「俺たちの巡回ルートが……漏れてたんだ……。あの夜のルートは、当日の朝に指揮官から伝達されたものだった……。知っているのは巡回担当の俺たちと、指揮系統の上官だけのはず……。なのに奴らは完全に把握してた……。待ち伏せだったんだ、カイ……偶然じゃねぇ……計画的に、俺たちを狙った……」
「名前は分かるか。誰が漏らしたんだ」
「分からない……。でも内部の人間だ……。それも、巡回計画にアクセスできる立場の人間……。上官か、書記官か、あるいは……」

 ダリウスの声がさらに弱くなる。瞼が重そうに下がり始めた。

「ダリウス、目を開けろ。寝るな。おい」
「すまねぇ、カイ……。もう声が……出ねぇ……」

 それでもダリウスは、最後の力を振り絞るように口を動かした。

「お前なら……大丈夫だ……。お前は同期の中で……一番強かった……。訓練で誰にも負けなかった……。俺がいつも……お前の背中を追いかけてた……。知ってるだろ……」
「馬鹿言うな。お前だって強いだろうが。ここで死ぬな、ダリウス。絶対に死ぬんじゃねぇぞ。治ったらまた一緒に訓練するんだ。お前にはまだ、左の突きの癖を直す約束が残ってるだろうが」
「ああ……そうだったな……。左の突き……。お前に言われて、毎晩……素振りしてたんだぜ……。少しは……マシになったかな……」
「まだまだだ。だからさっさと治せ。俺が見てやるから」
「……頼んだ、カイ」

 ダリウスの手が力を失い、カイの腕からずり落ちた。意識が遠のいたのだ。担架を運んでいた兵士たちが再び持ち上げ、急ぎ足で広場の向こうへと去っていく。

 カイはその場に膝をついたまま、動かなかった。

 レオンは、その光景を数歩離れた場所から呆然と見つめていた。

 血の匂いがまだ鼻に残っている。ダリウスの蒼白な顔が、網膜に焼きついて消えない。あの騎士はカイの同期だった。同じ日に入団し、同じ食堂で飯を食い、同じ訓練場で汗を流した仲間だった。その人間が、あんな姿になって運び出されてきた。

 王子。王宮。暗殺。裏切り。

 それはもう、遠い世界の物語ではなかった。目の前で人が血を流し、目の前で意識を失い、目の前で命の灯が揺らいでいる。その現実の重さが、レオンの胸を内側から押し潰すようだった。

「カイ……大丈夫か」

 レオンが声をかけた。返事はなかった。カイは膝をついたまま、血の跡が残る石畳を見つめている。その拳が白くなるほど握りしめられ、小刻みに震えていた。

「くそっ……」

 絞り出すような声だった。

「このままじゃ、みんな死んじまう。ダリウスは……俺と同じ日に入団したんだ。初日の訓練で組手をやって、二人とも教官にぶっ飛ばされて、痛いなって笑い合って……。夜は同じ部屋で、故郷の話をして……。あいつは南の港町の出で、親父が漁師で……いつも潮の匂いがするって、みんなにからかわれてた……。そいつが、あんな姿に……」

 カイの声が震え、やがて途切れた。悔しさと無力感と、そして恐怖が綯い交ぜになった沈黙だった。

「ダリウスは……助かるのか」

 レオンは訊かずにいられなかった。

「分からねぇ。だがあの傷は……腹を深く斬られてた。内臓まで届いてる可能性がある。王都の医者なら助けられるかもしれねぇが、あれだけ出血してたら……間に合うかどうか……」

 カイは言葉を濁した。だがその表情が、言葉以上の答えを語っていた。

「裏切り者がいるって言ってたわね」

 エマが静かに、しかし明確な声で口を開いた。その目は感情を押し殺すように冷静だったが、手の指先がわずかに震えている。

「王宮内部に、影の部隊と通じている人間がいる可能性がある。巡回計画が漏洩していたというのが事実なら、事態は私たちが想定していたよりずっと深刻よ。外からの侵入だけでなく、中から崩されている」
「ああ……。エマ、お前はどう思う。ダリウスの言葉、信じるか」
「嘘をつく理由がないわ。あの状態のダリウスが、わざわざ偽りを口にする意味がない。彼は命を賭けて情報を伝えようとしたの。巡回ルートの漏洩は、内部に通じた人間がいなければ説明がつかない。彼の証言は信じるに値するわ」

 エマの分析は冷徹だった。だがその声の底に、怒りが静かに燃えている。レオンにはそれが感じ取れた。

「カイ……ダリウスの分も、お前が戦わなきゃいけないんだな」

 レオンの言葉に、カイはゆっくりと立ち上がった。膝についた砂埃を払い、背筋を伸ばす。その目に、さきほどまでの動揺はもうなかった。代わりに、硬質な決意が宿っていた。

「ああ。あいつの仇は絶対に取る。だが今は、あいつが生きていることを祈るしかねぇ。……それと、やるべきことをやる」


 日が西に傾き始めた。

 城壁の影が広場を横切るように伸び、空気の温度が目に見えて下がっていく。だが城門は依然として閉ざされたままだった。待機する人々の数はさらに増え、広場はいよいよ混雑して、苛立ちの声があちこちで上がっている。

 三人は広場の端、人目につきにくい馬車の陰に集まっていた。

「正式な手続きでは間に合わないわ」

 エマが小声で切り出した。周囲に聞き耳を立てている者がいないか確認してから、さらに声を落とす。

「このまま何時間も待っていたら夜になる。夜は影の部隊が最も活動しやすい時間帯よ。闇が濃くなればなるほど、奴らの力は増す。待てば待つほど、状況は悪くなる一方だわ」
「でもどうする。勝手に入るわけにもいかないだろ。城壁には兵士がびっしり配置されてるし、正門以外にまともな入口なんて……」

 カイが眉根を寄せた。

「あるのよ」

 エマが言った。その一言に、カイとレオンの視線が集中する。

「物資搬入口。城壁の東側、外壁と内壁の間を通る補給路に繋がっている裏口よ」

 エマは周囲をもう一度確かめてから、口元を片手で覆いながら続けた。誰にも唇の動きを読まれないように。

「先輩魔導士から聞いたことがあるの。学院にいた頃、城内の構造について教えてくれた人がいた。搬入口は正門とは違って、物資の運び込みに使われている。食料、武器、薬品、日用品……城内で消費されるものがすべてあそこを通るから、一日中荷馬車が出入りしている。物量が膨大で、荷の一つひとつを丁寧に検分する余裕がないの」
「検問が甘いってことか」
「正門ほど厳重ではない、という意味よ。加えて、夕刻には看守の交代がある。第三鐘が鳴ってから第四鐘が鳴るまでのおよそ十五分間、古い看守と新しい看守が引き継ぎを行う。記録簿の受け渡しや、搬入品目の確認作業に集中するから、その間は通行者への監視が手薄になるはずよ」
「裏ルート……だがそれは規則違反だぞ、エマ。見つかったらただじゃ済まない。不法侵入、最悪の場合は反逆罪に問われる」
「分かっているわ」
「騎士見習いの俺が規則を破れば除隊処分もありえる。お前だって、魔導学院を放逐されるかもしれない。二人とも、積み上げてきたものを全部失うことになりかねないんだぞ」
「分かっているわ、カイ。そのリスクは承知の上よ」

 エマの声は静かだったが、揺らぎがなかった。

「でも、正面から入れるようになるまで待っていたら、その間にまた誰かが死ぬかもしれない。ダリウスのように。あるいはもっとひどいことが起きるかもしれない。規則を守って待つことと、命を守るために動くこと。今この瞬間、どちらが正しい選択なのか、私には答えが出ているわ」

 カイが黙った。反論の言葉を探しているのではなく、自分の中の葛藤と向き合っているのだとレオンには分かった。騎士として叩き込まれた規律と、仲間を守りたいという感情。その二つが、カイの中でぶつかり合っている。

「……でも、待ってる間にダリウスの言ってた裏切り者が、今も中で暗躍してるとしたらどうする」

 口を挟んだのは、レオンだった。

 カイとエマが同時に振り返った。

「レオン……」
「お前……」
「カイの仲間が、あんな姿で運び出されてきたんだ。腹を裂かれて、血まみれで、意識も朦朧として。あれを見て、ここで黙って待ってろと言うのか。待ってる余裕なんて、どこにあるんだよ」

 レオンの声は震えていた。だが目は真っ直ぐにカイを見据えている。

「規則を破るのが怖い気持ちは分かる。俺だって怖い。でもな、規則を守って、その間に誰かが死んだら……そっちのほうがずっと後悔するだろ。一生取り返しがつかない後悔だ」

 カイが息を呑んだ。

「お前が言うと……なんか、ずしっと来るな」
「レオンの言う通りだわ。今は規則よりも命よ」

 エマがレオンの肩に手を置いた。その手のぬくもりが、レオンの震えをわずかに鎮める。

「それにね、これは個人の命だけの問題じゃないの」

 エマの声が、さらに低くなった。

「王子が殺されれば、王家の血統が途絶えかねない。王統の断絶は国の根幹を揺るがすわ。後継者争いが起き、国は分裂し、その混乱に乗じて敵国が侵攻してくる可能性がある。そうなれば戦火は辺境にまで及ぶ。レオンの村も、私やカイの故郷も、無事では済まない。だからこれは、遠い世界の話じゃないの。私たち自身の生存に直結している問題なのよ」
「だが……レオン、お前には戦う術がないんだ」

 カイが苦しげに言った。

「城の中で何かあったとき、俺たちがお前を守りきれる保証はどこにもない。ダリウスでさえあの有様だぞ。訓練を積んだ騎士が三人がかりでやられるような相手に、お前は丸腰で向かうことになるんだぞ」
「村だって危険だったろ。刺客が来て、囲まれて、カイは腕を斬られた。あのとき何もしなかったら、もっとひどいことになってたはずだ。今だって同じだよ。何もしなければ、誰かがまた傷つく。それだけは嫌なんだ」
「お前にできることって何だ。剣は使えない、魔法も使えない。城の中に入って、具体的に何をするつもりなんだ」
「分からない」

 レオンは正直に答えた。

「でも、何もしないよりはマシだ。少なくとも荷物を運んだり、見張りをしたり、情報を集めたり……。それに、薬草の知識がある。ダリウスみたいに傷ついた人がいるなら、応急処置ができる。止血も、解毒も、鎮痛も。この手と知識で、誰かの命を繋ぎ止めることができるかもしれない」

 レオンは自分の両手を見つめた。何の力もないと思っていた手だ。魔力もなく、剣も握れない、ただ薬草を摘むことしか能がない手だ。だがその手で今まで何人もの傷を手当てしてきた。母の熱を下げ、村人の虫刺されを治し、カイの腕の傷を洗浄して薬を塗った。

「何か、できるはずなんだ。この手にも」

 沈黙が落ちた。

 カイがレオンの目を見つめている。その視線は厳しく、しかしどこか温かみを帯びていた。

「……こいつ、いつの間にこんなに強くなったんだ」
「最初から強かったのよ。気づくのが遅いのはカイのほうだわ」
「うるせぇ……」

 カイは乱暴に頭を掻いた。だがその口元には、押さえきれない笑みが浮かんでいた。苦笑と、驚きと、そして隠しようのない誇らしさが混じった、複雑な笑みだった。

「認めるよ、レオン。お前は変わった。村で薬草を摘んでた頃のお前とは、もう別人だ」
「変わったんじゃない。やっと動く理由ができただけだ。前から動きたかったんだと思う。でも理由がなくて、怖くて、動けなかった。今は違う。母さんのこと、カイの仲間のこと、この国のこと。全部が繋がって、動かずにはいられなくなったんだ」

 カイは深く息を吐き、レオンの肩を拳で軽く叩いた。

「……分かった。行こう。三人で」


 その時、広場の隅から聞こえてきた声に、レオンの耳が反応した。

 馬車の向こう側で、上等な外套を纏った貴族風の男たちが数人、声をひそめて話し合っている。だが人混みの喧噪の中で、完全に声を殺しきれてはいなかった。

「第一王子は、最近とくに狙われているらしいぞ。この一月で暗殺未遂が五回だとか」
「五回だと。それでまだ生きているのは、相当な護衛がついているということか」
「近衛騎士団の精鋭が常時十人体制で警護しているそうだ。それでも防ぎきれていないらしい。王宮内でも三度の襲撃があったと聞く。寝室にまで侵入されたという噂まである」
「影の部隊は本物の血しか狙わないと言うからな。つまり、これほどまでに執拗に狙われていること自体が、あの王子が正統な血筋である証だ」
「なんとも皮肉な話だ。殺されかけることが、王の資格の証明になるとはな」
「だが、もう一つの噂を聞いたか。王家にはもう一人、表に出ていない血筋がいるとか。影の部隊の本当の狙いは、そちらかもしれんぞ」
「もう一人? 初耳だが……」
「まあ噂の域を出ないがね。だがこれだけ事態が動いているということは、何かしらの根拠があるのだろう」

 レオンは聞くともなく聞いていた。

 狙われていることが、本物の証。

 その言葉が、妙な引っかかりを胸に残す。命を狙われることが正統性の証明になるなんて、あまりにも歪んでいる。そんな理屈がまかり通る世界で、人は何のために生きるのだろう。王子と呼ばれるその人は、毎夜眠りにつくたびに、もう目覚められないかもしれないという恐怖と戦っているのだろうか。

 もう一人の血筋という言葉も気にかかった。観測不能。王家の血。あの刺客が口にした言葉たちが、記憶の底からゆっくりと浮上してくる。

 まさか。

 いや、考えすぎだ。

 レオンは頭を振って、その考えを追い払った。今は目の前のことに集中すべきだ。

「……ねぇ、カイ、エマ」

 レオンは二人のほうに向き直った。その目には、もう迷いがなかった。

「俺、行くよ。城の中に」
「もう決めたのか」

 カイが目を細めた。問いかけというよりは、確認の響きだった。

「ここまで来て、城門の前で突っ立ってるだけなんて、俺にはできない。母さんの治療のこともある。医術院の情報を集めなきゃいけない。それにダリウスの話を聞いて、じっとしてられなくなったんだ。正門が駄目なら裏からでもいい。エマが言ってた搬入口を使おう」
「レオン、危険よ」

 エマが真剣な眼差しで言った。その瞳に不安の色がはっきりと浮かんでいる。

「城の中には影の部隊が紛れ込んでいるかもしれない。ダリウスの話が本当なら、内部に裏切り者までいるの。誰が味方で誰が敵か分からない、そんな場所に飛び込むのよ」
「分かってる。でもあの村だって同じだったろ。刺客に囲まれても、カイが守ってくれた。エマが魔法で援護してくれた。俺だって、ただ怯えてただけじゃなかった。カイの傷を手当てしたし、解毒剤を調合した。何もしなかったわけじゃない」
「それはそうだけれど……」
「安全な場所で動いたって意味がないんだ。ここが一番必要な場所なら、ここで動く。母さんを守りたい。カイの仲間も守りたい。この国の人たちだって。俺に何ができるかはまだ分からないけど、動かなきゃ何も変わらない。エマ、お前が言ってくれたんだろ。動かなきゃ何も見つからないって」
「それは……そう言ったけれど、こんな危険な場所で実践しろなんて一言も言ってないわよ」
「でも、お前の言葉があったから、俺は村を出る決心がついたんだ。あの丘で焚き火を囲んだ夜、二人に約束しただろ。逃げるのはやめるって。あの言葉は本気だった。今も本気だ」

 レオンは拳を握りしめた。指の関節が白く浮き上がる。

「村を出たとき、決めたんだ。もう、ただ怯えて待ってるだけの自分ではいたくないって。誰かに守られるだけの自分じゃなく、自分の足で立って、自分の手で何かをする人間になりたいって」

 カイが長い沈黙のあと、ふっと息を吐いた。

「……チッ。ほんと、お前は臆病なのか勇敢なのか分からねぇやつだな。膝が震えてるくせに、言うことだけは一人前になりやがって」

 だがその顔に浮かんでいるのは、紛れもない笑みだった。呆れと、感嘆と、それからどうしようもなく温かいものが混じった、カイらしい表情だった。

「お前のせいだよ、カイ。お前とエマが俺を変えてくれたんだ。二人がいなかったら、俺はまだ村で薬草を摘みながら、何も知らないふりをして暮らしてた」
「……そう言われると、止められねぇじゃねぇか。ったく」
「決まりね」

 エマが静かに、しかしきっぱりと頷いた。

「なら、最短で行きましょう。悩んでいる時間はもうないわ」


 計画はすぐにまとまった。

「搬入口は城壁の東側よ。夕刻の看守交代、第三鐘が鳴った直後を狙う。交代の引き継ぎにかかる時間はおよそ十五分。その間に三人とも中に入りきらなければならないわ」
「十五分か。一人ずつ間隔を空けて入るとして、一人あたり五分が限界だな」
「一気に三人で動いたら目立つもの。順番を決めましょう。私が最初に行くわ。幻影魔法で気配を薄められるから、見つかるリスクが一番低い。搬入口の内側で安全を確認したら、合図を送る。次にレオン。最後がカイよ」
「なんで俺が最後なんだよ」
「あなたが一番目立つからよ。体格も大きいし、いくら鎧を脱いでも動きが騎士のそれだから。最後に入れば、仮に発覚しても先に入った二人が内側にいる分、対応の選択肢が広がるわ」
「……道理だな。分かった、鎧は脱いでいく。身軽な格好のほうがいいんだろう」
「そうして。剣だけは隠し持っていきなさい。外套の下に吊れるでしょう」

 カイが頷き、レオンがふと思い出したように声を上げた。

「母さんは……。城の中に連れていくわけにはいかない。でもこの広場に置いていくのも危険だ」
「ここの宿に預けるわ。信頼できる人を知っているの」

 エマが答えた。

「先輩魔導士の紹介で知り合った方で、マリアさんという人よ。元は王宮の侍女だったけれど、二十年前に宮仕えを辞めて、今は城門近くで小さな下宿を営んでいるの。穏やかで面倒見のいい方だから、お母様も安心して過ごせると思うわ」
「その人、本当に信用できるのか。さっき裏切り者がいるって話が出たばかりだぞ。母さんを預けるなら、絶対に安全な人じゃないと……」

 レオンの声に、切迫した響きが混じる。母のことになると、冷静でいられなくなる自分を自覚していた。

「マリアさんは王宮を離れてから政治とは一切関わっていないわ。派閥にも属していないし、影の部隊との接点もない。私が学院時代に何度もお世話になった人よ。体調が悪いとき、薬を届けてくれたこともある。あの人が裏切り者なら、この世に信じられる人間は一人もいなくなるわ」
「……分かった。エマがそこまで言うなら信じるよ」

 レオンは馬車に戻り、母のもとへ向かった。

 幌をめくると、母は薄い毛布にくるまって横たわっていた。目を閉じていたが、レオンの気配に気づいて薄く瞼を開ける。

「レオン……」
「母さん、話があるんだ。少し聞いてくれるか」

 レオンは馬車の縁に腰かけ、できるだけ穏やかな声で事情を説明した。城門が閉鎖されていること。別の方法で城内に入ろうとしていること。その間、母には安全な場所で休んでいてほしいこと。

 母は黙って聞いていた。レオンの言葉が終わっても、しばらく何も言わなかった。馬車の外から、広場の喧噪が遠い潮騒のように聞こえてくる。

「……危険なことをするつもりなのね」

 母の声は静かだった。責めるでもなく、嘆くでもなく、ただ事実を確かめるような響きだった。

「危険じゃないとは言えない。でも、じっとしていても状況は変わらないんだ。母さんの病気を治す手がかりも、城内の医術院にあるかもしれない。行かなきゃならないんだよ」
「分かっているわ。あなたがそういう顔をするとき、もう何を言っても聞かないことは、お母さんが一番よく知っているもの」

 母が微笑んだ。その笑みにはわずかな寂しさが混じっていたが、同時に、息子の成長を認める穏やかさもあった。

「気をつけてね、レオン。必ず戻ってきて。約束よ」
「うん、約束する。必ず戻ってくるから。母さんも無理しないでね。エマの知り合いのマリアさんっていう人のところに泊まるんだ。元王宮の侍女さんで、優しい人だって聞いてるから、安心してくれ」
「ええ、あなたが戻ってくるまで、ちゃんと待ってるわ。薬も忘れずに飲むから、心配しないで」
「母さん……行ってくる。王都の医術院のことも、必ず調べてくるから。母さんの病を治す方法が、きっとどこかにあるはずだ。俺がそれを見つけてくる」
「ありがとう、レオン。あなたは本当に、どこまでも優しい子ね」

 母はそう言ってから、少しだけ声を落とした。

「でもね、自分の身も大切にしてね。私のために無理をして、あなたが傷ついたら……私は一生自分を許せないわ。お母さんにとって、この世で一番大事なのは、あなたなのよ。それだけは忘れないでちょうだい」
「大丈夫だよ。カイとエマがいるから。あいつらがどれだけ頼りになるか、母さんも知ってるだろ。村で刺客が来たときも、二人が守ってくれた。俺一人じゃない」
「ええ、知ってるわ。あの子たちは、あなたの大切な友達ね」

 母は馬車の幌越しに、外で待っているカイとエマの気配を感じ取ったようだった。

「お願いね、カイちゃん、エマちゃん。この子を、頼んだわ」

 外から、カイの声が返った。

「任せてください、おばさん。この馬鹿は、俺が命に代えても守りますから」
「命に代えてなんて言わないで、カイちゃん。全員無事で帰ってくるのよ。三人とも揃って、笑って帰ってきなさい。約束してちょうだいね」
「……はい。約束します」

 カイの声が、わずかに詰まった。

「お母様、マリアさんのお宅でゆっくり休んでくださいね。温かいお茶を出してくれる素敵な方ですから。お庭にハーブを育てていらして、レオンのお母様ならきっと話が合うと思いますわ」
「ありがとう、エマちゃん。あなたたちがいてくれて、本当に心強いわ」

 レオンは母の手を取った。その手は細く、以前より少し冷たかった。指先の温度が、母の体の衰えを静かに物語っていた。

「母さん……愛してる」
「私もよ、レオン。誰よりも。どこにいても、どんなに遠くにいても、あなたは私の大切な息子よ。それだけは、何があっても変わらないわ」

 レオンは母の手をそっと握り返してから、指を離した。振り返らずに馬車を降りる。振り返ったら、行けなくなりそうだったから。

 胸の奥に、温かいものが灯っていた。小さいけれど、確かな光だった。


 夕暮れの空が茜色に染まり始めた頃、三人は行動を開始した。

 エマの案内で、まず母をマリアの下宿に送り届けた。城門から少し離れた路地の奥にある、つた の絡んだ石造りの小さな家だった。白髪を丁寧に結い上げた初老の女性が戸口に立ち、エマの顔を見て穏やかに微笑んだ。

「まあ、エマちゃん。久しぶりね。お元気そうで何より」
「マリアさん、お久しぶりです。突然のお願いで申し訳ないのですが……」
「エマちゃんの頼みなら何でも聞くわ。さ、お母様、どうぞ中へ。温かいお茶を淹れましょうね」

 母がマリアに手を引かれて家の中に消えていくのを見届けてから、三人は身支度を整えた。

 カイは鎧を外し、暗い色の上着と外套だけの軽装になった。腰の剣は外套の下に隠し、一見すると旅人にしか見えない。エマは魔導学院の紋章が入った外套を裏返しにして纏い、レオンは薬袋だけを腰に提げて身軽に動けるようにした。

「よし。行くぞ」

 カイが低く言い、三人は城壁の東側へと足を向けた。

 広場の喧噪を離れると、城壁沿いの道は急に人気が減った。夕暮れの薄闇が石壁に長い影を落とし、空気がひんやりと肌に触れる。三人は壁に沿うようにして進み、やがて荷馬車が何台も連なっている一角に辿り着いた。

 搬入口だった。

 城壁の下部にぽっかりと開いた、馬車一台がようやく通れる幅の開口部。そこから内部へ向かう石畳の通路が、薄暗い奥へと続いている。開口部の両脇には松明が据えられ、揺れる炎が壁面を赤く照らしていた。

 荷馬車が三台、搬入口の前に並んでいる。荷降ろしの作業員が行き来し、木箱や麻袋を手際よく運び出している。その傍らで、看守が二人、記録簿を手に荷の内容を確認していた。

「あの角を曲がったところが死角になるわ。あそこに身を潜めて、交代の瞬間を待ちましょう」

 エマの囁き声に従い、三人は荷馬車の陰に身を屈めた。

 心臓の鼓動が、やけに大きく聞こえる。レオンは自分の呼吸を意識的に抑えながら、搬入口の看守の動きを注視した。

 しばらくして、遠くから鐘の音が響いた。

 低く、重く、王都の空気を震わせる第三鐘の音。

「来たわ。交代が始まる」

 エマが息を詰めた。

 搬入口の看守が動いた。持ち場を離れ、通路の奥から歩いてきた別の看守と合流する。二人は記録簿を挟んで向かい合い、引き継ぎの確認作業を始めた。指先で帳簿の項目をなぞり、搬入品目を一つずつ読み合わせている。その意識は完全に手元の書類に集中していた。

「今よ。二人とも記録簿に集中しているわ。行ける」

 エマの手に淡い光が灯った。幻影魔法だ。周囲の空気がわずかに歪み、エマの輪郭がぼやける。まるで薄い霧に包まれたように、その姿が背景に溶け込んでいく。

「先に行くわ。内側で安全を確認したら、壁を二度叩く。その音が聞こえたら、レオン、あなたの番よ」
「分かった。気をつけてくれ」
「エマ……無茶するなよ」
「無茶はしないわ。合理的に動くだけよ」

 エマは荷馬車の陰から滑り出し、積み荷の影を伝うようにして搬入口へと近づいた。看守たちは記録簿から目を上げない。エマの幻影魔法が、周囲の注意を逸らしている。

 数秒後、エマの姿は搬入口の暗がりに消えた。

 レオンは息を殺して待った。十秒、二十秒、三十秒。時間の感覚が引き延ばされ、一秒が永遠のように感じられる。手のひらに汗が滲んでいた。

 壁を叩く音が、二度。

「行け、レオン」

 カイが囁いた。

 レオンは頷き、荷馬車の陰から身を出した。腰を低くして、積み荷の影を辿る。足音を殺し、呼吸を止め、一歩一歩を慎重に運ぶ。看守たちの声が聞こえる。まだ引き継ぎの最中だ。帳簿の数字が合わないと言い合っている。その隙に、レオンは搬入口の開口部に滑り込んだ。

 石造りの通路の冷気が、一瞬で全身を包む。暗がりの中で、エマの手が伸びてきてレオンの腕を掴んだ。

「こっちよ。壁に寄って」

 二人は通路の壁に張りつき、最後の一人を待った。

 外から、足音が近づいてくる。カイだ。大柄な体を驚くほど器用に縮め、荷馬車の陰を渡り歩いてくる。最後の数歩を駆け抜けるようにして、カイが搬入口に飛び込んだ。

「全員入ったわね」

 エマが小声で確認した。

「ああ。思ったよりスムーズだったな」
「油断しないで。ここからが本番よ。搬入口から城内の主要通路までは、まだ距離があるわ。巡回の兵士に見つからないように進む必要がある」

 三人は通路の奥へと足を進めた。

 石造りの廊下は薄暗く、等間隔に据えられた松明の炎が壁に揺れる影を落としている。足元の石畳は長年の使用で磨り減り、ところどころ水たまりが光を反射していた。空気は冷たく、かすかに湿った匂いがする。城壁の内側、人の目が届きにくい裏動線。表の華やかさとは対極にある、城の素顔のような空間だった。

「静かに。左の通路から足音が聞こえるわ」

 エマが立ち止まり、耳を澄ませた。

「何人だ」
「二人。規則的な足取りだから巡回よ。通り過ぎるのを待ちましょう」

 三人は壁の窪みに身を寄せた。足音が近づき、松明の光の中に二人の兵士の影が伸びてくる。革靴が石畳を踏む音と、鎧の金属が触れ合うかすかな音。それが最も近くなった瞬間、レオンは呼吸すら忘れた。

 足音が遠ざかっていく。

「……行ったわ。今のうちに、次の角まで進む」
「レオン、大丈夫か。顔が真っ青だぞ」
「大丈夫……心臓がうるさいだけだ。こんなにドキドキしたの、生まれて初めてだよ」
「安心しろ。俺だって心臓がばくばく言ってる。初めて城に忍び込むんだからな。訓練じゃ、こんな状況は想定されてなかった」
「カイ、静かにして。笑い話は後よ」
「すまん……」

 三人は足音を忍ばせて、通路の奥へと進んでいった。

 角を曲がり、階段を下り、また角を曲がる。エマが先頭に立ち、記憶を頼りに道を選んでいく。時折立ち止まっては壁に手を当て、魔力の流れを探るような仕草を見せた。

 レオンは二人の背中を見つめながら歩いた。暗い通路の中で、カイの広い背中とエマのしなやかな背中が、唯一の道標だった。この二人についていけば大丈夫だ。そう思えることが、今のレオンにとっては何よりの支えだった。

 だが、三人の誰も気づいていなかった。

 その背後に、もう一つの影が音もなく滑り込んでいたことに。

 薄い仮面。黒装束。闇に完全に溶け込んだその人物は、三人との距離を一定に保ちながら、壁の影を伝うように移動していた。足音はない。気配もない。松明の光さえ、その体を照らすことを拒むかのように避けて通る。まるで最初からそこに存在していたかのように、自然に闇の一部になっている。

「城に入ったか。観測不能の少年」

 影の仮面が、ほとんど聞き取れないほどの声で呟いた。

「予想通りだ。あの少年は自らの意志で、光の城に足を踏み入れた。誰に強制されたのでもなく、自分の足で。古文書の記述と寸分違わぬ」

 仮面の奥で、二つの目が暗く光っている。そこに宿っているのは、殺意ではなかった。もっと深い何か。長い歳月をかけて醸成された、抑えきれぬ期待だった。

「ならば、王も予言も……すべてが動き出す。千年の均衡が揺らぎ、新たな秩序が産声を上げる。封じられていた歯車が、今夜、回り始める」

 影が揺れた。その姿は、闇そのものだった。松明の光も、通路に差し込むわずかな外光も、この存在の輪郭を捉えることができない。光を吸い込み、影に変え、自らの一部とする。それが、この者の在り方だった。

「古文書にはこう記されている。光の座に影なき者が立つとき、封印されし均衡は目覚めると。影なき者。観測不能。魔力測定儀に映らぬ存在。その文言が今、現実の輪郭を帯びようとしている」

 仮面の視線が、通路の奥へと消えていくレオンの背中を捉えた。

「さあ、始まるぞ。長き因縁に、決着がつく」

 影の声は、闇に溶けて消えた。

「レオン。お前はまだ知らない。お前がこの城に足を踏み入れた瞬間、何が動き出したのかを。だが、じきに知ることになる。すべてを。……そしてそのとき、お前は選ばなければならない。光の側に立つのか、影の側に堕ちるのか。あるいは、そのどちらでもない、第三の道を切り拓くのか」

 薄い仮面が、暗闇の中でかすかに笑みを浮かべた。

「楽しみにしているぞ、均衡の器よ」

 その声を最後に、影は完全に闇に溶け込み、跡形もなく消えた。

 通路には、松明の炎が揺れる音だけが残されていた。
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