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 俺は無我夢中で街を駆けたが、あっという間に体力が限界を迎えて力なくその場に蹲る。

「はぁ……は……」

 どうやら物乞いをしていた老人の目の前で立ち止まってしまったらしく、老人はこちらを睥睨してわざとらしく舌打ちを繰り返した。俺は一度頭を下げて、重たい足を引き摺って隅の方の壁にもたれ掛かる。さっきのノワの表情が頭から離れない。目を見開いて唇をなぞるノワは、一体何を思っていたのだろう。

 冷静になると、自分の行動の愚かさに頭が痛くなる。
 ……とにかくもう一度寝床へ戻るべきだ。まだ大して時間は経ってないし、ノワ達はまだ同じ場所に居るかもしれない。もう一度しっかり話して、笑顔で見送ってあげたい。そして約束をしたい。俺も必ずここから出てみせるからまた会おうと。

 よろよろと立ち上がって来た道を引き返す。

「あ……」

 寝床には、既に誰も居なかった。先ほどのブドウとパンだけが地面に置かれていて、一連の出来事が白昼夢でないことを証明している。俺はフラフラと歩を進めて、布が敷かれた地面の上に倒れ込む。
 望んでいた筈の結果なのに、あのノワが俺を置いてこの街を出ていってしまったことに対して落胆していた。心のどこかで、あれだけ言ってもノワなら俺を置いていかないと思っていたんだ。自分の傲慢さに嫌気が差す。


 ノワと初めて出会った頃のことは、あまり覚えてない。でも確か……同い年くらいのガキにリンチされていたところを助けたのが始まりだったと思う。

 ノワは肌も髪も目も色素が薄くて顔も奇麗だから、色んな人種のあぶれ者が住まうこの区画でも少し浮いていた。因みに、俺はここじゃありふれた黒髪にくすんださび色の目をしている。
 まぁそれで大人は物珍しさからよくノワに食べ物を与えていたらしいが、年齢が近くなれば嫌悪や嫉妬の対象になる。だからいつもいじめられて、打撲痕や裂傷が絶えないような奴だった。

 今はもうノワをいじめていた奴らは全員居ない。いつの間にか死んだか、失踪している。
 正直、今の俺なら同じ状況を見ても手出しすることはなかっただろう。でも当時の俺は今より少しお人好しで、良い事をすれば必ずそれが自分に返ってくると信じていた。もっと本音を言えば、ノワが持つ食べ物を分けてもらおうと思っていた訳だ。

 そんな流れでつるむようになった俺たちだが、物心ついた時には既にひとりぼっちで名前をつける人なんて当然いなくて、お互いに「お前」だとか「きみ」だとか、適当に呼び合って過ごしていた。

 そんなある日、突然名前を決めようと言い出したのはノワだった。
 当時の俺は運良く手に入れた硬いパンをかじりながら、ノワの提案に頭を悩ませた。

「なにか好きなものはないの?」
「うーん……今はこのパンが好きだ」
「ええ?」

 正直に言えば、目の前の幼い少年がクスクスと笑う。

「特にこの中に入ってる実が美味しいな」
「それ、イチジクの実?」
「イチジクっていうのか」
「多分……。イチジク、イチジクか……。あ。じゃあ、フィグっていうのはどう?」
「俺の名前?」
「そう!」

 ――フィグ。聞きなれない単語を舌の上で転がす。違う国の言葉でイチジクを意味するそうだ。丁度少し前、近所によく座っている老婆に教えて貰ったらしい。だから手に入れた知識を披露出来て嬉しいのだと。俺は初めて与えられた自分の名前というものに舞い上がっていた。

「……悪くないな」
「ほんと? じゃあ、君は今日からフィグだね!」
「ん。それでお前のパンに入っているのは、っと」

 言いながら隣の傷だらけの手に握られているパンを覗き込む。

「僕もパン縛りなの?」
「当然だろ! じゃないと不公平だ!」
「あははっそうだね」
「お前のはクルミ入り? 贅沢だな……。じゃあ、お前の名前はクルミ?」
「うーん……フィグと同じ国の言葉だと、クルミはノワイエって言うらしいんだ。だからお揃いにしない?」
「ノワイエか。かっこいいな」
「えへへ」
「でも言いにくいからノワって呼ぶ」
「えー! なにそれぇ」

 たった今決めた名前を確かめるように呼び合う。
 その日から俺たちは「貧民窟の孤児」ではなく、「フィグ」と「ノワイエ」になったのだ。


「ノワ、ノワイエ……」

 今は一人、大切な唯一の名前を呼ぶ。ポタポタと汚い布に涙が吸い込まれていく。固く握りしめた拳を地面に叩きつけ、俺はひたすら泣いた。

 ノワイエ。嫌な別れ方をしてしまって本当にごめん。お前の幸せを、心の底から喜んでやれなくてごめん。幸せになってくれ。俺も頑張るよ。だからまた会って、パンを食べよう。クルミとイチジクがバカみたいに沢山練りこまれた大きなパンを二人で作って、笑いながら分け合うのが夢なんだ。

 涙と喉が枯れるまで泣いて、俺は生きる為に隣に置かれている食べ物に食らい付いた。

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