彼女が愛した彼は

朝飛

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 その日は朝から霧が立ち込めていた。それも、数歩先の景色が見えないほどの濃い霧で、立ち尽くしていると衣類が水気を含んで体に張り付くほどだ。

 じわりと掻いた自分の汗と混じり合い、どちらのものともつかなくなっても、身動き一つ取ることができない。獣のような荒々しい息遣いを耳元で聞き、隣を見やっても誰もいないことを知ると、そこでようやく自分のものだと気が付いた。

 かろうじて動かすことのできた首が、また正面に向き直る。そして自分の意思に反して、再び足元へ沈んだ。

 そこに広がる光景を認識するのを脳が無意識に拒むのか、見えてはいても何があるのか理解するのに時間がかかる。

 頭上で羽ばたく音がして、何かの鳥が甲高い悲鳴じみた鳴き声を発した。その声が記憶の底にある誰かの声と重なり、混ざり、不協和音を発して責め立てる。

「やめろよ」
 そう叫んだつもりが、何年も声を出していないように音にならず、ひゅうひゅうといった息ばかりが漏れ出た。
 いつの間にか固く握り締めていた拳を開くと、手のひらに生々しい感触が蘇りかけ、鼓動が別の生き物のように暴れ狂う。

「ねえ、真也しんや、どうして?」
 ある女の声がねっとりと耳たぶを撫でる。まるで今囁かれたような錯覚に導かれ、唐突に眼前に広がる光景を理解した。
 俯せに倒れて動かない女。短く切り揃えられた黒髪から覗くやけに白い首筋。そしてその首にできた赤い鬱血の跡。それはちょうど指の形をしており、自分の手とぴったり合わさるだろう。

 なぜなら、この手で殺したからだ。

 風が唸り声を上げ、怒りを撒き散らし、責め立てる。じっと立ち尽くすのもままならず、その場に膝から頽(くずお)れてしまいかけた時、さあっと霧が晴れ、辺り一帯の風景が鮮明になった。

 新緑の木々が森のように乱立し、木々の隙間から差した木漏れ日が女の体を浮かび上がらせている。その周囲は薄闇に包まれているだけに、まるで何かの安っぽい芝居のようだと現実逃避しかけた。

 その時、明らかに風の音ではない草地を踏みしめる音がした。はっと振り返り、相手を確かめると、何故か酷く安堵を覚えて息を吐き出す。

 そして、相手と長いこと視線を交わし、絡み付く糸をそのままにしながら、口を薄く開いた。

 
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