彼女が愛した彼は

朝飛

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 その夏一番の暑さを更新した日、定刻に仕事を終えたため、どこかの居酒屋で一杯飲もうと考えていた。午後6時ともなれば幾分暑さも和らいだ気がするが、ほんの微細なものだ。
 じわりと滲む汗をそのままにして、どこか物悲しい蝉たちの声を浴びながら、帰路に就こうとする。
 その時、会社を出てすぐのところにある街路樹に目が留まった。正確には、街路樹の下にあるベンチに座った人物だ。
 普段なら全く気にも止めないが、その女のすすり泣く声にやけに惹きつけられた。近付いていくごとに、蝉の鳴き声が意識の外へ追いやられる。
「どうして、どうしてよ、隆平……っ!約束、したのに。どうして……」
 短く切り揃えられた黒髪の下に、形のいい額と唇が覗いていた。面立ちは確かに整っているが、何よりもその声に抗えないものを感じる。
 何も知らない真也でさえ悲しくなるような、魂の叫びとでもいうのだろうか。
「大丈夫ですか」
 全然平気そうではない相手にかける、ありきたりな台詞。それが彼女を前にすると、いつも以上に薄っぺらく感じられた。
 彼女は真也の声に顔を上げたが、真っ黒い真珠のような目を向けただけで、何も見ていない。絶望と悲しみの底にある彼女の瞳がとても美しく思えた。
 何も反応を返さない上に、全く知らない相手だというのに目が離せず、ついじっと見つめていると、彼女の潤んだ瞳からつうっと雫が溢れ落ちる。無意識のうちに手を伸ばし、水滴に触れようとしたところで、一つの風が吹いた。同時に、頭上に止まっていたらしい蝉が飛び立ち、周囲の音が舞い戻る。
「……あ……」
 すると彼女の止まっていた時間も動き出したらしい。声を上げて瞬きをすると、そこで初めて真也の存在に気が付いたようで、驚いた顔をする。
「あなたは……?」
 頬を伝う涙を拭いもせずに、ただ純粋に真也が誰かを問う。そこにはこちらがたじろぐほど、相手を不審に思ったりといった当たり前の感情が感じられなかった。まるで、幼子か、あるいは昨日まで子どもだったのが突然大人になったように。
 そんな馬鹿げた自分の発想に笑い出しかけながら、名乗ることにした。
「俺は高藤真也。ただここに通りかかっただけの通行人の一人だ。君がとても苦しそうに見えたから、ついね」
 ぎこちなく微笑みかけながら答えると、彼女も緩く口元に笑みを浮かべかけたようだが、何とも言えない複雑な表情になった。笑いたくても笑えない。そんな様子に、胸が詰まるような思いがした。
「大丈夫ですか」
 先ほど彼女にかけた言葉が、今度は彼女から真也にかけられる。
「え?」
 意味を問おうと一つ瞬きすると、冷たいものが頬を伝うのを感じた。
「えっ、あれ……」
 手を自らの頬にあてがうと、指先を濡らすものの存在に気が付き、驚き、困惑する。
「俺、なんで」
 呆然と呟きながら顔を上げると、目の前に座る彼女が口元に手を当てて笑っているのが分かった。可笑しくて笑うのではなく、親が子を見守るような慈愛に満ちた笑みだ。
 じっと見つめていると、それを勘違いしたのか、彼女は謝った。
「ごめんなさい。でも、なんだか今の今まで悲しかったのが嘘みたいよ。高藤さんが代わりに泣いてくれたからかもしれない」
「……そう、ならいいんだけど。君の名前、聞いても?」
「私は朱海あけみ。宮代朱海。朱い海、なんて不吉よね」
 そんなことを言いながらも、朱海の表情は幾分明るくなっていた。
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