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序章
とある教会の話④
しおりを挟む恐る恐る、薄眼を開くと、
「……っ、だ、誰……」
そこには、怯えた養い子を庇うように立つ、真っ黒な制服を着た少年が立っていた。
髪も瞳も黒く、そのせいか肌の白さが目立つ少年は、冷静な眼差しでこちらを見た。
「……少しだけ、間に合わなかったかな」
「な、何が……」
いつの間にか、黒い獣はアミナの後方にまで移動していた。唸り声を発しながら距離を取って、新たに現れた少年を警戒しているようだ。
足元に渦巻いている黒い霧も、酷く騒めいているのを感じる。
この少年は、何者だろうか。
いや、制服だけを見るならば、魔法学校の生徒に違いない。この真っ黒な服は、紛れもなく魔法士の為の黒だ。
黒い髪と黒い瞳の組み合わせは非常に珍しいが、それ以外に特筆すべき特徴はない。
なのに、やけに落ち着いた表情と、その泰然とした立ち居姿が、この状況では逆に異様だった。
「ノクスロスの宿主になっていたね」
「え……?」
「このままだと気付かないうちに衰弱して、最後は自分が喰われていたよ」
最近体調が変だったでしょ、と、何てこともないように話す少年に、束の間、思考が停止した。
——私が、ノクスロスの宿主……?
確かに、先程シャオリンにも痩せた事を指摘されたが、別に不調では……いや、体調が良すぎたのか?
恐ろしい指摘に、背筋が凍る。
「累様。こちらの少女は残念ですが、もう……」
新たに裏口から現れたスーツ姿の男が、血溜まりの中で倒れているシャオリンを確認し、小さく首を振った。
僅かな希望も打ち砕かれ、胸を掻き毟りたくなる衝動に、心の中で叫ぶ。
私の、せいなの?
私がノクスロスを呼んだの?
シャオリンの命を奪ったのは、私なの?
取り返しのつかない現実を認めたくなくて、わななく唇を噛み締めると、足元の黒い霧が小さく揺れた。
アミナの動揺を喜んでいるかのような気配を察し、それを感じる自分に恐怖する。
どうしてノクスロスの思考が分かるのか……。
少年の発言を認めてしまうのが怖かった。
背後の黒い獣が、荒い吐息で歩き回りはじめる気配を感じ、恐怖が増していく。
「——そんなに噛んだら、血が出るよ」
無意識に、口元に力を入れすぎていたらしい。
困ったような笑みを浮かべた少年が、一呼吸置いてから歩み寄ってきた。
気負いのない落ち着いた足取りで、アミナの周りに漂うノクスロスを、気にする事なく向かってくる。
丁寧に磨かれた少年の革靴が、黒い霧に触れる……と思ったところで、何故か、黒い霧が少し引いた。
さらに一歩、近づく少年。
そしてまた霧が逃げる。
……まるで少年が近づいてくるのを厭っているようだ。
背後の黒い獣も、唸り声を激しくしながらも、決して襲いかかろうとしない。
一体、何故……と思っていると、少年の輪郭が、淡く発光するように白く霞みがかって見えてきた。
それは徐々に濃く、少年の周りを取り巻く。
「……これは……」
淡い燐光は、魔法の力。
それはこの世界の常識だ。
誰もが敬い、その力に助けてもらって生きている。
だから馴染みのある光だし、安心感すら覚えるものだ。
しかし、この少年を取り巻いているのは、一般の魔法士が扱うような燐光とは濃度が違った。
まるで巨大な白い蛇のように、禍々しいほどの存在感を放つ粒子の群れ。
白いノクスロスと言われても納得しそうなぐらい、次元を超えた畏敬の輝きを、ただ自然に身に纏っている。
——ただの魔法学校の生徒なんかじゃない……!
師団への所属を意味する団章は付けていないが、確実に上級の魔法士だ。滅多なことでは現場に来ることなんて無いだろう、士官クラスに違いない。
「大丈夫。次、目が覚めたら、何も怖いことはないよ」
いつの間にか、目の前に少年が立っていた。
どこか老獪さすら感じる笑みに、感情が、本能が、この場から逃げ出したいと訴える。
しかし、射竦められたように足が動かない。
身体を仰け反らせるのが精一杯だ。
見えない圧力が押し寄せてくるかのように、肌が、その畏れを感じ取って粟立つ。
ゆっくりと、少年の手が伸びてきた。
燐光を帯びたその指先が、徐々に近づいて来るのを見つめる事しか出来ない。
「累様っ!」
「大丈夫」
突然、黒い獣が飛び出し、少年に向かって鋭い爪を向けた。
——が。
それは少年の白い頬に、一筋の赤い線を残しただけだった。
じんわりと滲んだ血液が、珠になりゆっくりと顎先へ伝う。
軽く首を傾げるだけで黒い獣を躱した少年は、構うことなく、更にアミナへと手を伸ばす。
「……ぁ……」
ひんやりとした親指が、下唇に触れた。
その瞬間。
ぞくりと痺れるような感覚に、頭が真っ白になる。
恐怖も慄きも何もかもが消え去り、身体中の力が抜けていくのがわかった。
ふわりとした白い霧に包まれ、何もかもが昇華されるような気持ち良さに、無意識に吐息を零す。
私に何をしたの……と思うも、その心地良さに身動きも出来ず、ただ目の前の正体不明な少年を見つめる事しか出来ない。
黒過ぎる双眸に覗き込まれ、その慈悲すら感じられる眼差しに支配されていく。
少年の親指が、優しく、労わるように唇をなぞる度に、恍惚の沼に沈んでいく。
揺蕩うように。
柔く優しく。
だけれども、心臓を鷲掴みにされているかのような、全てを握られた恐怖との紙一重。
少年へ向かった獣は、着地した体勢のまま牙を剥き出しにして、少年の背中へ向けて威嚇している。
何かを耐えるようにグルグルと喉を鳴らしながら、地面を這うように頭を下げる獣。
すぐにでも再び、少年に襲い掛かりそうだと思ったのだが、しかし、よく見ると獣の身体は、風に飛ばされるように黒い粒子が流れ始めていた。
まるで砂山が崩れていくように、瓦解していく、獣。
と同時に、少年の頬につけられた赤い傷跡が、みるみるうちに跡形もなく消えていく。
傷なんて無かったかのように、綺麗に再生される皮膚。
滴った血液だけが、その傷が確かなものだったと教えてくれる。
やがて。
獣は完全に霧散し、黒い霧だけが彷徨うように揺らめいた。
人外の異形の源である、黒い霧を背景に、少年の表情だけはピクリとも変わらない。
ただ無言で、アミナの唇に触れているだけ。
その指が、唐突に離れた。
……もっと触れていてほしいのに。
何故かそう思った。
もう、離れてしまうのか、と。
いつの間にか、足元にまとわり付いていた黒い霧も、アミナから離れていた。
アミナと少年たちだけをぽっかりと除き、周囲を漂うノクスロス。
よく見れば、それはゆっくりと、少年の身体の中へと吸い込まれている。
「……そんな……」
消滅させるわけではなく、まるでノクスロスを取り込むかのような少年に、畏怖の正体を悟る。
単なる魔法士などではないのだ。
全人類の天敵であるノクスロスを、こんな風に扱えてしまうなんて。
……それこそ本当に、世界に数人しかいないという、近衛師団でも——。
黒い霧を身の内に取り込み続ける少年が、炯々とした双眸をアミナに向けた。
その瞬間。
突如全身が弛緩し、糸が切れたように少年の足元に倒れこんだ。
と同時に、意識が遠ざかってくる。
スーツ姿の男に支えられ、不安そうに立ち尽くしていた養い子が、慌てて手を口元に当てるのが見えた。
心配しないで、と伝えたいのに、徐々に意識が薄れてきて、唇も動かせない。
「お休みなさい、シスター」
心地良い声に促され、ゆっくりと瞼が落ちてくる。
最後。
薄らいでいく視界に、悼むようにこちらを見る少年が映った。
まるで黒い翼が生えているかのように、ノクスロスを取り込んでいく、
禍々しい姿が——……。
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