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第一部
TRIGGER2
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「マジでクソ暑いな……」
コンビニ弁当を食べながら林はぼやく。マンションの屋内駐車場は日が当たらぬとはいえ、炎天下なだけに暑さはこたえた。
若い連中は昼メシを食べながらスマホをいじっていたが、林は早々にコンビニ弁当を食べ終えると、白いタオルを顔にかけて地面に横たわった。
横になっていると、湿気を帯びた生暖かい風が身体をなでていく。ここは大通りから少し離れているため、割と静かで、昼寝をするにはちょうどよかった。カップ麺をすする音を耳にしながら、林は午後に向けて体力を温存する。
この時間の睡眠は、いつのころからか必須になっていた。とくに今日のような炎天下の日は、昼寝の有無で午後の仕事に大きく影響した。認めたくはなかったが、若さを頼りに無理が利く時代はとうの昔に過ぎ去っていた。
身体が資本の今の仕事を、いったいいつまで続けられるのか? 今はまだ、どうにか身体はもっていたが、仕事で受ける肉体的な疲労は日増しに高まっていた。充分な睡眠をとっても疲労が抜けきることはなく、常に倦怠感に苛まれていた。これが半年後、一年後はどうなっているのだろうか。調子が上向くとは考えにくい。むしろ、ますます悪くなっているに違いなかった。
林は地面に横たわったまま、今後を憂いて心の中でため息を漏らす。
若くて体力が有り余っていたときに限っていえば、今の仕事を辛いと感じたことはほとんどなかった。むしろ、身体を動かすだけの仕事は余計なことを考えずにすみ、ストレスなく働くことができた。二日酔いのときや連休明けはさすがにこたえたが、それはどこの職場でも同じだったろう。ガサツな連中と常に低俗な話題で盛り上がり、気を使わずにいられるくだけた環境はとても居心地が良かった。
入社時は最年少だった自分が、いつしか現場を指揮するようになり、気づけば最年長となっていた。二十五年という月日は、想像していたよりも異様に早く、あっという間に過ぎ去っていった。
若くして結婚して三人の娘たちを育て上げ、長女はすでに結婚して家を出ていたが、次女と三女はまだ学生でいっしょに暮らしている。親として特別尊敬されているわけではなかったが、余計な干渉などせずに育てたおかげか、家族仲はさして悪くなかった。
林は顔にかけていた白いタオルを取ると、建物を覆う灰色のシートを内側からぼんやり見つめた。いつもはすぐに寝入ることができるというのに、今日に限ってはそうはいかず苛立ちを覚えた。後輩の一言が、眠りを妨げていたのだ。
後輩とは、小池という名の親子ほども年が離れた若い男で、半年前からともに働いていた。一六〇センチそこそこと身長は低かったが、小池は女からモテそうな可愛らしい顔立ちをしている。そんな彼から聞かされた話が、頭にずっと引っかかっていたのだ。それは、マスキングテープを切りのいいところまで貼り終えて一息ついていたときのことだ。先日呼んだデリヘル嬢がホームページの写真とまったく違ってたという話や、友人の彼女がクリトリス包茎の手術を受けるだとかいった話を聞かされたあとだ。金髪の髪をひとしきり掻きむしってから、神妙な顔でこう切り出された。
「林さん、おれの話、笑わないで聞いてくれます?」
妙な胸騒ぎを覚えながら耳を傾けると、ここ最近、誰かに見られているような気がしてならないと言うのだ。それを聞いたとたん、林は背筋に冷たいものが走った。実は林自身もここ数日、誰かに見られているような気がしていたからだ。
動揺を押し隠しながら、それはお前の気のせいだよ、と林は笑いながら答え、小池も、やっぱそうっすよね、と返してきてその話は終わったのだが、林の中ではいまだ尾を引いたままだった。
「そんなの、気のせいに決まってんだろ……」
後輩にかけた言葉を自分にも投げかけてみるが、残念ながら不安は消えてくれない。横になっていても、気持ちは少しも休まらなかった。苛立ちながら時間を確認する。休憩時間の終わりが迫っていた。
「あと、十分ちょいか……」
たった数分でも寝ないよりはマシだと思い、林はなおも眠る努力を試みるが、眠ろうとすればするほど眠れないのが世の常であった。自然と大きなため息が漏れる。
「まあ、今日が金曜日だってのが幸いだったな。午後いっぱいはダルいだろうが、それを乗りきれば、あとは一杯やって帰るだけだ」
林は眠ることをあきらめ、近くの自販機に足を向けた。
マンションの敷地を出たところで、道路脇に置かれたトヨタのハイエースに目が留まる。現場への移動に利用している社用車だ。しばらく洗車してないため白い車体は汚れがだいぶ目立っている。ダッシュボードには、空き缶、飲みかけのペットボトル、レシート、菓子パンの袋など、雑多なゴミが山積している。窓を開け放った運転席には、金髪の小池の姿があった。彼はレッドブルを飲みながら週刊少年マガジンに視線を落としている。
ハイエースの横を通り過ぎる際、汚れた窓ガラスに自分の姿が映った。猫背気味で、貧相なネズミ顔。染色したパサパサの髪はホームレスと大差なく、加齢と長年浴び続けてきた紫外線の影響で、日に焼けた顔には深い皺がいくつも刻まれている。自分の顔だというのに嫌悪感が募った。長く見られた顔ではない。林は窓ガラスから視線を外すと自販機へ向かった。
購入した微糖の缶コーヒーを手に再び日陰に戻ると、林は腰を下ろして白い壁に背をつけた。額に浮かんだ汗をタオルで拭き、煙草に火をつける。白い煙を気持ち良く吐き出し、節くれだった指でプルトップを開ける。煙草とコーヒーの混じり合う味を舌の上で楽しみながら、行きつけの居酒屋に想いを馳せる。キンキンに冷えた生ビールと、好物のもつ煮込みが待ち焦がれた。そして、今日の仕事が早く終わらないかと思った矢先だ。
突然、何者かの視線を感じ取り、林は慌てて道路に顔を向けた。未知の敵を探り出すかのように、腰を半ば浮かして周囲に視線を走らせる。しかし、明るい道路を歩く七十代とおぼしき老人以外には、これといった人物は認められなかった。気づけば、レジ袋に入った弁当の空き容器を片手で押し潰していた。額には、いやな汗が浮かんでいるのがわかった。
「気のせいか? いや、気のせいに決まってる……」
あいつが余計なことを言うから気が変に回ってるだけだ。だいたい、ただの塗装屋のおれなんかに、誰が関心を払うっていうんだ? そんなやつ、いるわけないじゃないか!
そうやって気のせいだと納得させようとするが、湧き上がった不安は腹の中に鎮座し、容易に去ることはなかった。
ここでふと、数か月前の電話を思い出す。
「主人が行方不明なんです」
相手は、同級生の妻からだった。
同級生の山本とは、中学と高校がいっしょで、学生時代はよくつるんでいたが、高校を卒業してからはほとんど会っていなかった。彼の妻にもその通りに伝えて電話を切ったのだが、受話器を置いたあとも、しばらく山本のことが頭から離れなかった。他のやつらならともかく、よりによってあの山本だ。特別な理由から、彼の失踪が自分とは無関係だとは言い切れなかった。
「どうせ山本は、他に女でも作ってよろしくやってるのさ……。あいつの失踪に事件性なんてあるわけがないんだ。あるわけが……」
同級生の失踪に事件性がないことを願った。単なる事故か何かであってほしいと。
山本のことを考えていると、連鎖して他の二人の顔が頭に浮かんだ。
「あいつらにも、このことは伝わってるのだろうか……」
仲間四人で犯したあのときのことは、三十年近く経った今でも鮮明に思い出すことができた。いまだにそのときのことを思い出してマスターベーションに耽ることもあるくらいだ。今も不安を感じながらも、自慢の巨根がうずいてるのがわかる。
過去の行為に対して罪悪感を覚えたことは一度もなかった。むしろ、もう一度同じ思いを味わいたいとさえ思っていた。それがどんなに卑劣な行為だったかは、娘ができたことで理解できた。犯罪行為だったことも認識している。だが、そうは言っても赤の他人。正直、身内以外の人間がどうなろうが知ったことではなかった。
しかし、もし同級生の失踪にあの件が絡んでるとすれば、他人事では済まなくなってくる——。
煙草の灰が長くなっていた。それに気づくと地面に灰を落とし、最後の煙を思いっきり吸い込んだ。今の不安な気持ちを、白い煙が包み込んでくれることを願って——。
どうやら、その願いはいくぶん叶ったようで、林は気持ちをさっと切り替えると、仕事の再開を仲間たちに告げた。
* * *
「林さん、着きましたよ」
運転席から声がかかり、煙草臭い車内で目を覚ます。助手席に座る林は目をこすりながらうなずいて見せると、車を降りて向かいの事務所へ歩を進めた。
鍵を開けて中に入ると、照明のスイッチを押して無人の室内に明かりを灯す。明るくなった事務所内に、男たちが流れ込んでいく。
事務所の二階と三階は社長宅になっていた。経理を担当している社長の妻はすでに帰宅していた。社長本人はというと、この時間は飲みにでも行っていることだろう。いい気なもんだと林は舌打ち混じりに思う。従業員には働かせるだけ働かせておいて、本人は年がら年中遊び歩いている。林はそんな社長が憎くてたまらなかった。酒が入ると必ず後輩たちに愚痴をこぼし、みんなして社長をさんざん罵った。
後輩たちが事務所を去ると、室内はとたんに静かになった。林は自分専用のスチールデスクに陣取り、簡単な事務処理に取りかかる。ガソリンスタンドで受け取ったレシートを専用のクリアファイルに挟み込み、勤務を記録するノートに自分を含めた全従業員の実働時間を記入していく。帰りの車中で寝ていたにもかかわらず、身体はだるくて仕方がない。事務仕事が一段落すると、ドラッグストアで買いだめしている栄養ドリンクを冷蔵庫から取り出す。一、二本飲んだところで気休めにしかならないのはわかっていたが毎日の習慣になっていた。今夜はいったん自宅に戻り、近所にある行きつけの居酒屋に足を運ぶつもりでいた。長く続いている毎週末の恒例行事だ。
* * *
事務所の鍵を閉めていたときだ。急に背中がざわつき、林は慌てて振り返った。
目の前の細い路地を、制服姿の学生が自転車に乗って通り過ぎていく。まわりを注意して見渡してみるが、視界に映るのは、戸建て住宅が広がるいつもの見慣れた風景だ。
「これも、年のせいなのか……」
年を取ると、身体だけでなく気持ちまで衰えていくものなのか。今感じた胸騒ぎを年齢のせいにして、林は路地を挟んだ目の前の駐車場へ足を向けた。
砂利敷きの駐車場には会社のハイエースも駐車されていて、マイカーの黒の軽自動車はその隣に並ぶ。妻と娘たちが選んだホンダのN - BOXだ。若いころは女性や年寄りの車とみなして軽自動車を敬遠していたが、車にこだわりを持つ年齢はとうにすぎ去っていた。だが、後部座席のサイドウインドウとリヤウインドウにスモークフィルムを貼るというこだわりだけは見せた。
マイカーの前でリモートキーでロックを解除してドアノブに手をかける。そこで再び胸騒ぎに襲われた。
「まただ……。いったい何が、このおれを不安にさせるんだ……」
ガラス越しに運転席を覗き込み、おれがエンジンをかけたとたん、まさか爆発するなんてことはないよな、と思ったあと、自分の考えに半ばあきれて苦笑した。
「映画じゃあるまいし、何てこと考えるんだ」
それにしても、このおれがこんなにも弱気になるなんてな。きっと疲れのせいだろう。今日は昼寝もできなかったことだし。
気を取り直してドアを開け、車内の熱気に顔をしかめながら運転席に乗り込む。そしてエンジンをかけようとしたそのときだ。
背後に人の気配を感じて思わず振り向くと、不気味な人影が間近にあった。恐怖で心臓が止まる。「逃げろ!」と脳は警報を発するが、凍りついた身体は1ミリも動かせなかった。逃げ出す間もなく、日焼けした首筋に黒い物体を強く押しつけられた。すぐさま空気を震わす電子音が耳元で鳴り響き、車内に青白い閃光が走る。瞬時に、経験したことのない激しい痺れが半身を襲う。目を見開き、上半身をけいれんさせながらドアにもたれかかった。意識はあったが身体は言うことを聞かない。続いて、半ば麻痺した首筋にチクッとした感覚が走る。直後に、液体が体内に流し込まれるのがわかった。すぐに嘔吐感が全身を駆け巡り、視界と思考がとたんに曇りはじめる。狭まった視界のまわりを明滅した光が飛び交い空間が歪み出す。動いていないはずの車体が大きく揺れ動き、まるで巨人が車体をつかんで揺さぶっているかのようだ。
波打つフロントガラスの向こう側には、きれいな満月が浮かんでいた。林はすがるような気持ちで、その美しい月を見つめる。ここ数日感じていた不安が、ただの思い過ごしではなかったことがわかった。だが、身動きのとれない状況では、もうどうすることもできなかった。原因は明白だ。山本の失踪がそれを物語っている。背徳行為で得た快楽の代償は、とてつもなく大きなものになりそうだった。
ひどい酩酊状態が続く中、過去の行いを悔やむ間もなく、月だけでなく目に映るすべてのものが、突然幕が下りるようにして視界から消えていった。
◈
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コンビニ弁当を食べながら林はぼやく。マンションの屋内駐車場は日が当たらぬとはいえ、炎天下なだけに暑さはこたえた。
若い連中は昼メシを食べながらスマホをいじっていたが、林は早々にコンビニ弁当を食べ終えると、白いタオルを顔にかけて地面に横たわった。
横になっていると、湿気を帯びた生暖かい風が身体をなでていく。ここは大通りから少し離れているため、割と静かで、昼寝をするにはちょうどよかった。カップ麺をすする音を耳にしながら、林は午後に向けて体力を温存する。
この時間の睡眠は、いつのころからか必須になっていた。とくに今日のような炎天下の日は、昼寝の有無で午後の仕事に大きく影響した。認めたくはなかったが、若さを頼りに無理が利く時代はとうの昔に過ぎ去っていた。
身体が資本の今の仕事を、いったいいつまで続けられるのか? 今はまだ、どうにか身体はもっていたが、仕事で受ける肉体的な疲労は日増しに高まっていた。充分な睡眠をとっても疲労が抜けきることはなく、常に倦怠感に苛まれていた。これが半年後、一年後はどうなっているのだろうか。調子が上向くとは考えにくい。むしろ、ますます悪くなっているに違いなかった。
林は地面に横たわったまま、今後を憂いて心の中でため息を漏らす。
若くて体力が有り余っていたときに限っていえば、今の仕事を辛いと感じたことはほとんどなかった。むしろ、身体を動かすだけの仕事は余計なことを考えずにすみ、ストレスなく働くことができた。二日酔いのときや連休明けはさすがにこたえたが、それはどこの職場でも同じだったろう。ガサツな連中と常に低俗な話題で盛り上がり、気を使わずにいられるくだけた環境はとても居心地が良かった。
入社時は最年少だった自分が、いつしか現場を指揮するようになり、気づけば最年長となっていた。二十五年という月日は、想像していたよりも異様に早く、あっという間に過ぎ去っていった。
若くして結婚して三人の娘たちを育て上げ、長女はすでに結婚して家を出ていたが、次女と三女はまだ学生でいっしょに暮らしている。親として特別尊敬されているわけではなかったが、余計な干渉などせずに育てたおかげか、家族仲はさして悪くなかった。
林は顔にかけていた白いタオルを取ると、建物を覆う灰色のシートを内側からぼんやり見つめた。いつもはすぐに寝入ることができるというのに、今日に限ってはそうはいかず苛立ちを覚えた。後輩の一言が、眠りを妨げていたのだ。
後輩とは、小池という名の親子ほども年が離れた若い男で、半年前からともに働いていた。一六〇センチそこそこと身長は低かったが、小池は女からモテそうな可愛らしい顔立ちをしている。そんな彼から聞かされた話が、頭にずっと引っかかっていたのだ。それは、マスキングテープを切りのいいところまで貼り終えて一息ついていたときのことだ。先日呼んだデリヘル嬢がホームページの写真とまったく違ってたという話や、友人の彼女がクリトリス包茎の手術を受けるだとかいった話を聞かされたあとだ。金髪の髪をひとしきり掻きむしってから、神妙な顔でこう切り出された。
「林さん、おれの話、笑わないで聞いてくれます?」
妙な胸騒ぎを覚えながら耳を傾けると、ここ最近、誰かに見られているような気がしてならないと言うのだ。それを聞いたとたん、林は背筋に冷たいものが走った。実は林自身もここ数日、誰かに見られているような気がしていたからだ。
動揺を押し隠しながら、それはお前の気のせいだよ、と林は笑いながら答え、小池も、やっぱそうっすよね、と返してきてその話は終わったのだが、林の中ではいまだ尾を引いたままだった。
「そんなの、気のせいに決まってんだろ……」
後輩にかけた言葉を自分にも投げかけてみるが、残念ながら不安は消えてくれない。横になっていても、気持ちは少しも休まらなかった。苛立ちながら時間を確認する。休憩時間の終わりが迫っていた。
「あと、十分ちょいか……」
たった数分でも寝ないよりはマシだと思い、林はなおも眠る努力を試みるが、眠ろうとすればするほど眠れないのが世の常であった。自然と大きなため息が漏れる。
「まあ、今日が金曜日だってのが幸いだったな。午後いっぱいはダルいだろうが、それを乗りきれば、あとは一杯やって帰るだけだ」
林は眠ることをあきらめ、近くの自販機に足を向けた。
マンションの敷地を出たところで、道路脇に置かれたトヨタのハイエースに目が留まる。現場への移動に利用している社用車だ。しばらく洗車してないため白い車体は汚れがだいぶ目立っている。ダッシュボードには、空き缶、飲みかけのペットボトル、レシート、菓子パンの袋など、雑多なゴミが山積している。窓を開け放った運転席には、金髪の小池の姿があった。彼はレッドブルを飲みながら週刊少年マガジンに視線を落としている。
ハイエースの横を通り過ぎる際、汚れた窓ガラスに自分の姿が映った。猫背気味で、貧相なネズミ顔。染色したパサパサの髪はホームレスと大差なく、加齢と長年浴び続けてきた紫外線の影響で、日に焼けた顔には深い皺がいくつも刻まれている。自分の顔だというのに嫌悪感が募った。長く見られた顔ではない。林は窓ガラスから視線を外すと自販機へ向かった。
購入した微糖の缶コーヒーを手に再び日陰に戻ると、林は腰を下ろして白い壁に背をつけた。額に浮かんだ汗をタオルで拭き、煙草に火をつける。白い煙を気持ち良く吐き出し、節くれだった指でプルトップを開ける。煙草とコーヒーの混じり合う味を舌の上で楽しみながら、行きつけの居酒屋に想いを馳せる。キンキンに冷えた生ビールと、好物のもつ煮込みが待ち焦がれた。そして、今日の仕事が早く終わらないかと思った矢先だ。
突然、何者かの視線を感じ取り、林は慌てて道路に顔を向けた。未知の敵を探り出すかのように、腰を半ば浮かして周囲に視線を走らせる。しかし、明るい道路を歩く七十代とおぼしき老人以外には、これといった人物は認められなかった。気づけば、レジ袋に入った弁当の空き容器を片手で押し潰していた。額には、いやな汗が浮かんでいるのがわかった。
「気のせいか? いや、気のせいに決まってる……」
あいつが余計なことを言うから気が変に回ってるだけだ。だいたい、ただの塗装屋のおれなんかに、誰が関心を払うっていうんだ? そんなやつ、いるわけないじゃないか!
そうやって気のせいだと納得させようとするが、湧き上がった不安は腹の中に鎮座し、容易に去ることはなかった。
ここでふと、数か月前の電話を思い出す。
「主人が行方不明なんです」
相手は、同級生の妻からだった。
同級生の山本とは、中学と高校がいっしょで、学生時代はよくつるんでいたが、高校を卒業してからはほとんど会っていなかった。彼の妻にもその通りに伝えて電話を切ったのだが、受話器を置いたあとも、しばらく山本のことが頭から離れなかった。他のやつらならともかく、よりによってあの山本だ。特別な理由から、彼の失踪が自分とは無関係だとは言い切れなかった。
「どうせ山本は、他に女でも作ってよろしくやってるのさ……。あいつの失踪に事件性なんてあるわけがないんだ。あるわけが……」
同級生の失踪に事件性がないことを願った。単なる事故か何かであってほしいと。
山本のことを考えていると、連鎖して他の二人の顔が頭に浮かんだ。
「あいつらにも、このことは伝わってるのだろうか……」
仲間四人で犯したあのときのことは、三十年近く経った今でも鮮明に思い出すことができた。いまだにそのときのことを思い出してマスターベーションに耽ることもあるくらいだ。今も不安を感じながらも、自慢の巨根がうずいてるのがわかる。
過去の行為に対して罪悪感を覚えたことは一度もなかった。むしろ、もう一度同じ思いを味わいたいとさえ思っていた。それがどんなに卑劣な行為だったかは、娘ができたことで理解できた。犯罪行為だったことも認識している。だが、そうは言っても赤の他人。正直、身内以外の人間がどうなろうが知ったことではなかった。
しかし、もし同級生の失踪にあの件が絡んでるとすれば、他人事では済まなくなってくる——。
煙草の灰が長くなっていた。それに気づくと地面に灰を落とし、最後の煙を思いっきり吸い込んだ。今の不安な気持ちを、白い煙が包み込んでくれることを願って——。
どうやら、その願いはいくぶん叶ったようで、林は気持ちをさっと切り替えると、仕事の再開を仲間たちに告げた。
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「林さん、着きましたよ」
運転席から声がかかり、煙草臭い車内で目を覚ます。助手席に座る林は目をこすりながらうなずいて見せると、車を降りて向かいの事務所へ歩を進めた。
鍵を開けて中に入ると、照明のスイッチを押して無人の室内に明かりを灯す。明るくなった事務所内に、男たちが流れ込んでいく。
事務所の二階と三階は社長宅になっていた。経理を担当している社長の妻はすでに帰宅していた。社長本人はというと、この時間は飲みにでも行っていることだろう。いい気なもんだと林は舌打ち混じりに思う。従業員には働かせるだけ働かせておいて、本人は年がら年中遊び歩いている。林はそんな社長が憎くてたまらなかった。酒が入ると必ず後輩たちに愚痴をこぼし、みんなして社長をさんざん罵った。
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