イカロスの騎士【帝国篇】

草壁文庫

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序章

ロバの騎士様

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 暗闇に、鳥が明るく燃える。

 鳥は白く輝きながら火の粉を散らし、宙を滑るように飛ぶ。鋭く夜を切り裂くのは、剣のようなその翼。鳥が駆け抜けていった後には、闇がざわりざわりと動き出す。

 真昼の空を覆い、夜に変えた正体は、むしと呼ばれるものたちだった。その大きさは小さな鯨ほどあり、薄い羽の生えた背中は鎧のごとく、その胸から腹は隆々と鈍く光る筋肉が覆う。ただの虫なら弱い腕も、この大きさともなれば人のものと変わらない。

 彼らは常に群団となって移動し、巣の周りを一体となって旋回する。その羽音が幾重にも重なると、まるで砂嵐の中にいるかのよう。

 その黒い渦を、鳥は一直線にさながら稲妻のように断ち切った。蟲は音もなくばらばらに、地に落ちていく。逃げまどう蟲たちは、燃えさかる自らの巣を見て、風のように唸る。蟲たちが土や生き物の死体で作り上げた巣。地上に入り口はなく、空からしか侵入できない難攻不落の塔。

 それが今や、あちこちから火の手が上がっている。黒煙が空を覆い、赤い炎がぬらぬらと動く。

 鳥は、その頂上に静かに舞い降りた。
 一度、深呼吸するように翼を伸ばし、――そして自らを包むように、内側へ。

 再び翼が広がった時、現れたのは片膝をついた白い騎士。俯いたまま、ゆっくりと立ち上がる。

 身につける甲冑は、騎士の高潔さを表すような純白。鎧を縁取る飾りは、魔を払う銀。胸の左には、白い星を散らした聖木ルーナを、右にはスズランと鹿の紋様を刻む。腰布は、魚のヒレのように優美にはためいた。

 騎士が、顔を上げる。

 見えているのかと不思議になる、目のあたりに薄い切れ目があるだけの兜。奇妙な兜で、前面は無駄な装飾はないが、後頭部には周囲を威圧する魔物の顔が刻まれる。耳を保護する円盤の装飾、その上からは水牛のような角が生え――その鋭く尖った先は、松明のように静かに炎が燃えて、ただの角となった。

 騎士は、静かに腰の大剣を抜く。その刃は、真白の騎士の持ち物と思えぬほどの漆黒。柄から刃まで、全て同じ素材で鍛えられた鋼の剣。

 人は、この剣を雷蹄ライテイと呼ぶ。

『賭けますか?』

 ふいに、涼やかな声が、響く。

『あなたが、ここから無事に脱出できるかどうか』

 言われて、騎士は眼下を見る。巣から飛び去る蟲たちが雲のようになり、地上はまるで見えない。

『今まで、数千もの蟲の幼生から逃げ延びた者はおりませんよ。ここは結界《ドーム》の外。人が怯えて逃げ出す、足摺の森』

 騎士は、右手を静かに上げる。

「――賭けよう」

『何を望むの?』

「お休み、ください」

 低くよく響く声で、騎士は答える。

『――承認されたわ。プロクス=ハイキング、我が王よ。三十秒以内にここから脱出して』

 それを聞くや否や、白鷺の騎士――プロクス=ハイキングは、そこから飛び降りた。背中で噴煙が上がる。
 内側からの熱に耐えきれず、巣が破壊される。岩や細かい石があたりに飛び散った。

 プロクスは、風を切りながらまっすぐ落ちていく。飛び去る蟲の合間を縫いながら。その内の一つの影に狙いを定めて、剣を振り下ろし――見事、縫い止めた。背中を貫かれた蟲は悲鳴を上げたが、逃げる速度は変わらない。

 そうして、プロクス=ハイキングは、魔窟を脱出したのだった。


✧ ✧ ✧ ✧ ✧


 プロクス=ハイキングが三代前の王から騎士王を拝命し、はや五十年。たくさんの妖魔を屠り、国を守り続けてきた。昔なら部下を率いて戦ってきたものを、今はこうして一人で仕事をこなす。

「良い風だ」

 そう呟くプロクスの足下で、蟲は相変わらず「ギョォォ」と喚いている。
 雲の切れ目から見知った村が見え、頃合いだろうとプロクスは剣を抜いてふわりと飛び降りた。その頭上で、蟲は甲高い悲鳴を上げて、あっけなく砕け散った。他の蟲も同様に、手のひらで握りつぶされたかのように砕けてしまう。

 まるで、見えない壁にぶつかったかのように――ではなく、実際に魔法の壁があった。
 
 女神ハルディアの壁【結界ドーム】である。

 女神はこのサンクトランティッド帝国において厚く信仰される、建国神話に登場する一人。大戦後、国に侵入を続ける妖魔を阻むため、女神ハルディアが精霊と契約し、与えられたのが【戦火センカ】。

 精霊は言った。【戦火】が燃え続ける限り、この国は守られると――。

 【戦火】は各地の神殿に配置され、昼も夜も燃え続け、結界の力の源となった。
 
 その一方で、結界の外である荒れ地は空白地帯と呼ばれ、異形の潜む土地となってしまった。今では滅多なことで帝国から人は立ち入らず、また入るにも通行証が必要となった。

 ――そんな危険な森に、プロクスはまっすぐ落下する。

 空中で体勢を変え、ガツンと剣を突き立てて着地した。地面が波打ち、木々が斜めになって揺らぐ。
プロクスが静かに立ち上がり、一歩踏み出すと、足の先から白い炎が上がった。それは全身をみるみる覆い、唐突に消える。

 すると、現われたのは騎士の時よりも頭三つ分ほど小さくなった人物。

 口と目をのぞき、頭のてっぺんまでくまなく覆う白い頭巾。白い簡素な服、袖は肘までの長さで、そこから見える白い肌には朝顔の蔦が這うような紋様が見える。それは螺鈿のように輝く。細い両手首には銀の輪が填められていた。

 ぷはぁ、と――ふいに、可愛らしい声が響いた。彼女は、顔を覆う布を勢いよく引き上げて、ほんの少し顔をさらす。

 そうして露わになる、天使のように愛らしい顔。

 透き通るような肌、整った鼻梁、やわらかな口元。子どものようなあどけなさの残る、優しい顔立ち。年の頃なら、十八、九ぐらいに見える。弧を描く眉、長い飾りのような睫の下に、夏の夜のような青い瞳。光を透かさずとも、その不思議な眼は星を散りばめたよう。

「良い天気……あ、声が」

 プロクスは咳き込みながら、自らの喉に手をやる。そこには円形の小さな魔方陣がある。
 プロクスがあー、あ、あ、あー、と一人で発声練習をしていく内、高い声から低い男性のものへと変わる。ようやく納得の低さになると、プロクスは布を戻した。

 小柄な彼女はとことこと歩いて、引っかけていた草色の膝丈のフード付きのローブを身に着け、短剣の長さに縮めた雷蹄をベルトに差す。そして、最後の仕上げに麦わら帽子を被る。
 
 森を出て、伸びきった草の間を歩く。先ほどの戦闘が、嘘のような静かな土地。指先で、やわらかな青い葉に触れながら、プロクスはゆっくりと深呼吸する。

 タッタ、と軽快な足音が近づいてきた。

 道の向こうから、ロバがこちらに歩いてくる。あたたかそうな灰の毛並み、黒い鬣。目の前にやって来たロバは、差し出されたプロクスの手に自らの頭をすりつける。

「アシリータさん、今日もお迎えありがとう」

 ロバのアシリータは、プロクスがここの領主である「グラディウス侯」となり、四十年目を記念して領民から贈られたものだ。領民たちは、侯爵を親しみ込めてこう呼ぶ。

 ――ロバの騎士様。

 三代前の王の時代に起きた大規模な妖魔発生を食い止めた英雄。竜に跨がり敵と戦った勇壮なる騎士。

 そう讃えられたプロクスは、王から望みの褒美を与えると言われ、大好きなロバを所望した。
 もちろん、王はそれだけでなく、プロクスが暮らすための土地もくれた。まさしく余生に相応しい、静かな土地。

(この穏やかな生活は、ぜひとも退官まで守らねばならない)

 そのために、プロクスは不老のこの顔を、決して人前でさらしてはならないのだった。領民たちはプロクスがひどい傷を受けて、顔を隠しているのだと思っている。だが、彼らはロバの騎士を敬愛し、笑顔で挨拶をする。

 そんな領民たちの村からも少し離れた場所、丘の上にプロクスの家はあった。
 木造で、緑の屋根のどこにでもあるような小さな家。長身の従者が誤って突撃したばかりに破壊された扉は新しくなっていた。扉のすぐ横には大きめの窓があり、その下には花壇があって白や黄色の小花が揺れている。

 プロクスは家の前を横切り、ロバのアシリータと共に馬小屋へ行った。井戸から水を組んで桶に入れると、アシリータは嬉しそうに目を細めてそれを飲み始めた。
 プロクスは、その優しい顔をうっとりと見つめた。

「かわゆい。おまえはかわゆいな」

 プロクスはそのやわらかい、短い毛並みに頬をすり寄せる。
 アシリータがそのままお気に入りの干し草のベッドの上に座ると、プロクスも一緒に腰掛ける。そして、アシリータのあたたかな背中に身を預け、猫の子のように丸くなる。

(このまま、約束の時が来ればよいのに)

 彼女は目を閉じる。

 夢を見る。

 翼を獲て、虹色の海を渡るのを。

 そこにはプロクスの大切な人がいる。ずっと会いたいと思っている人が。その時はもう近い。口元に笑みを浮かべて深く眠る。


 こうして騎士王・プロクス=ハイキングの休暇は始まった。
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