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1 過去は過去のままで
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地球温暖化のせいで、年々酷くなる夏前。
すでに気温は高く、早めに活動を始めて血を吸おうとする蚊にうんざりしながら、スタジオの外にある喫煙所で煙草を吸っていた雨音利央は、ジーンズの後ろポケットで振るえるスマートフォンに気がついて取り出すと、着信相手も見ずに電話に出た。
「もしもし?」
「利央……今、大丈夫か?」
「ええ、ちょうど終わったところ」
煙草を一度吸う程度の間の後で、彼氏である沖野衛の小さくため息を吐く音が聞こえた。
何となく、最近の関係から彼が言おうとして躊躇っている言葉の予想はついている。
交際半年、デートをしたのは五回。
五回会ったが、セックスしたのは一回だけ。
いい年した大人の交際としては、不十分なものだろう。
けれど、人気フォトグラファーの利央は忙しく、休みは不規則で、会社に勤める衛とはなかなか生活のリズムが合わない。
最初のうちは、お互いが思い合っていれば、対したことではないと言っていた彼だが、メールや電話のやり取りが減ったあたりから変わりはじめた。
『仕事と俺との時間……どっちが大事?』
噂や物語の中で何度も聞いてきた台詞に、利央は笑いそうになってしまった。
比べられるはずもない。
そもそも、比べる対象ですらない。
生き物と生活に欠かせないものに、ランクなんてないのだから。
けれど、もしも絶対決めなければいけないと言うのであれば、そんなの──仕事が大事に決まってる。
仕事が無くなったら、どうやって生きるためのお金を稼ぐというのか。
くだらない会話を思い出しながら煙草を吸うと、電話の向こうから力無い声が聞こえてきた。
「別れたい。恋人である意味が、よく分からなくなったんだ」
「恋人である意味?」
「会う時間がない。過ごす時間がない。支え合うことも、不満を言うこともない。そんなんで、恋人だと言えるのか? 利央とは、将来が見えない。お互い、いい歳だし……俺は家庭が欲しいんだよ。だから、終わりにしよう」
「そう、なら仕方がないわね。今までありがとう。じゃあ、さよなら」
あっさりと通話を切ると、利央はそのまま衛の連絡先を消去してスマートフォンをジーンズの後ろポケットに差し込んだ。
また続かなかった。
高校生の時に初めての彼氏と付き合ってから、今の今まで利央は恋人と長く続いたことがない。
そのどれもが、今と同じような理由だ。
「あー、さっさと飲みたい」
漆黒に紛れる黒髪を豚の尻尾程度に結んでいたゴムを外して、灰皿に煙草を押し付けて火を消し、スタジオの中に戻って纏めてあった荷物を手に取ると、砂利を踏み締めて停まったタクシーへと急いだ。
「この場所までお願いします」
住所の書かれた一枚の紙を手渡すと、タクシー運転手は「ああ、ここね」と呟いてタクシーを走らせはじめた。
ほどよく効いたエアコンの涼しさに、ほっとシートにもたれて後ろへと流れていく窓の外の景色に目を向ける。
都会らしい明るさと、夜だというのに騒がしい様子に疲れがどっと押し寄せてきた。
軽快な音にスマートフォンに視線を落とせば、これから一緒に飲む約束をしている相手からのLINEが入っていた。
『もうすぐ着く』
シンプルな文面を送り、利央は目を閉じた。
ラジオから聞こえてくる音楽は耳に心地好く、タクシーのわずかな揺れもあって、睡魔が忍び寄ってくる。
眠るつもりなんてなかった。
目を閉じていたのだって僅かな時間だろうと思っていたのに、タクシー運転手の「お客さん、着きましたよ」という声に驚いて目を開けた。
車は停まっており、窓の外には目的地であるバー【バッコス】の看板が見えた。
「あ、すみません」
慌てて鞄から財布を取り出し支払いを済ませると、荷物を肩にかけてタクシーを降りた。
初めて入るバーに、僅かな緊張を覚えながら店の扉を開くと、予想に反して静かなジャズが流れる落ち着いた店内に迎えられた。
さらっと見回すと、バーカウンターにいる一人の男性と目が合った。
職業柄、ファッション雑誌からの依頼でモデルや芸能人と接する機会のある利央から見ても、背が高く野性的な魅力のある男が、ゆったりとした動作でカウンターの奥から出て来た。
長い黒髪は、一つに結ばれていて、清潔感がある。
「いらっしゃいませ、お一人ですか?」
「あ……いえ、先に友人が来てると思うんですけど」
鞄を肩にかけ直しながら言えば、椅子を押し下げる音が聞こえた。
「あっ! 卓馬さん、こっちです。彼女、あたしの連れです」
「ああ、一之瀬さんが待っていた方か。どうぞ、こちらへ」
にっこりと笑った彼は、手を振る一之瀬有紗と、その隣で静かにグラスを傾ける松永旭の元へと案内してくれた。
「それじゃあ、決まったら声かけてくれ」
別のテーブルを片付けに行く背を見送り、利央は有紗の耳に唇を寄せた。
「ここ、よく来るの?」
「うん、毎週末にね。なんか落ち着くんだよね。卓馬さんもカッコイイし」
ふふふっと笑う茶色い髪をふんわりさせた有紗は、大手企業の受付を担当している。見た目も愛らしく、声は高すぎない柔らかさを持っている。
「お疲れ、利央。ほんと、有紗ってばミーハーよね」
ワインを回しながら利央に目を向けてきた旭は、仕事が終わった時間だというのにかっちりとしたパンツスーツに乱れはなく、アルコールを口にしてるようには全く見えない。
そんな旭の職業は、誰もが知っている大手企業の次期社長と言われ雑誌にも取り上げられたことのある若くイケメンな副社長の第一秘書である。
「旭こそ、お疲れ。久しぶりじゃない?」
「そうね。これまでは無駄に忙しかったからね。いい加減、人のプライベートの時間まで侵略してくる出来の悪い副社長には、最終通告を突きつけてきたわ」
「最終通告?」
「そう……辞表をちらつかせたの」
「辞表……」
それ一つで効率よく動くものなのかと疑問に思いつつ隣のスツールに腰掛け、カメラの入った鞄を隣の空いている席に置くと、有紗が元気よく手を挙げた。
「卓馬さん! 生ビールとカクテルお任せで。あと、こちらのオッサン女子には、タコのから揚げと焼き鳥の盛り合わせね」
「ああ、ちょっと待ってな」
利央の分の注文をした有紗は隣のスツールに腰掛けると、ずいっと顔を寄せて囁いた。
「旭の副社長さんってば、旭にめろめろでぞっこんだから頑張っちゃうんだよ」
「へー」
「もうずっとアプローチされてんのに、いっつも断っちゃうんだから、勿体ないよね? 顔良し、職業良し、性格良しで、お金だって持ってんだから」
有紗が文句を言いはじめると、カウンターの上に置いてあるスマートフォンが震えた。
ワインを飲んでいる旭は、ちらりと画面に目を向けたが無視している。
「そういうあなただって、合コンで若手IT社長と一緒に帰ったとか、うちの受付の子が騒いでたけど?」
「あ~、そんなこともあったっけね。でも、一緒にいてつまんないし」
あっけらかんと言う有紗との会話に割って入るスマートフォンのバイブレーションの音に、会話が止まる。
しかし、旭は相変わらず視線を送るだけで、電話に出ようとはしない。
その間も、バイブレーションの音の合間にカクテルを作る音が響く。
「あのさぁ……出ないの?」
流石にこれだけ何度も掛けてくるとなったら、仕事なんじゃないかと思って声をかければ、旭はうっそりと微笑んだ。その口元は、やけに色気がある。
彼女に対しても、利央は写真を取らせてほしいとお願いしたことがあったが、高校の時にあっさりと断られた。
今の会社に入社して、仕事に慣れた頃に久しぶりに会った旭がより輝いて見え、改めてお願いしたのだが会社の方針で駄目だったと二度目の断りをもらった。
その時には、話を社長に通そう個展の話をしたらしく、社長からの手紙を受け取る羽目になったのだ。
手紙の中身は『旭ほどの女性を誰が目にするか分からない場所で披露するなんて正気とは思えない』、『彼女が変な男に狙われたらどうするんだ』、『優秀な彼女の安全を守るためにも、公私ともに……』という、ちょっと良く分からないものだった。
とりあえず分かったのは、その副社長がいかに旭のことが好きかということだけだったが、利央は写真を諦めた。
全身や顔の特定ができるような写真を撮る気は元々なかったが、誰かが不安や不快さを覚える写真に価値はない。
自己満足だけの写真なんて、利央が求める作品ではないのだ。
「今はマテの最中だから」
そんな不思議なことを言った旭の目には、ほんの少しの愛しさが混じっているような気が利央はした。
もしかしたら、あの副社長が旭の心を手にする日も遠くはないのかもしれない。
「お待たせ、君たちにはカクテルとワイン。君にはビールとおつまみね」
二人の前には、鮮やかな色のカクテルが並べられ、利央の目の前にはビールとタコのから揚げと山盛りの焼き鳥、おしぼりが並べられていく。
「ありがとう」
かなり美味しそうで、ビールで疲れと喉の渇きを癒す前に焼き鳥に手を伸ばす。
熱々で軟らかいつくねには、たっぷりと甘めの垂れがついている。
けれど、店内で焼いている様子はなかったのに、どうしてだろうかと考えていると、卓馬と目が合った。
口に出した訳でもないのに、利央の言わんとしたことが分かったらしい。
「隣の焼鳥屋もオレの店なんだよ」
「へー、便利ですね」
「いつでも歓迎するよ」
デニム地のシャツの袖をまくり上げると、食器を洗いはじめた。
その動作に、利央の目は釘付けだ。
袖がまくり上げられることによって現れる腕の筋肉と、その動きに魅了されていた。
「あなた、すごくいい筋肉してるのね。少し写真を撮ってもいい?」
おしぼりで手を拭いてから、椅子の上の鞄に手を伸ばす。
大切な商売道具であるカメラを取り出し、卓馬に掲げて見せれば、まさかそこまで本格的なカメラが出てくるとは思っていなかったのか、ぽかんとしている。
「ごめんね、卓馬さん。その子、筋肉好きのフォトグラファーだから付き合ってくれる?」
「へー、そうなのか。オレは、別に構わないけど、どうしたらいい?」
卓馬は可笑しそうに笑いながら、皿を洗う作業を再開した。
「いつも通りでお願いします」
スツールから立ち上がり、カウンターに身を乗り出すようにしてカメラのシャッターをきる。
数枚撮ったところで、一度液晶で写真を確認していると、有紗が何かを思い出したように声を上げた。
「あっ! そういえば、あの子は? ちょー将来有望なイケメンくん」
「誰?」
「旭も覚えてない? 利央のお母さんの親友っていう隣人さんとこの息子。あたしたちより五つだか下の」
「ああ、いたわね。たしか……東金颯じゃなかった」
静かで落ちついた旭の声に名前を紡がれて、どきりっと胸の置くで嫌な音が鳴った気がした。
その名前を聞くのは、どれくらいぶりだろうか。
「利~央~、どうなのよ」
「どうって、何が?」
もう一度、レンズを覗いて卓馬の腕の写真を数枚撮る。
満足いくものが撮れて、上機嫌な利央の気分を害したのは有紗だった。
「いい男に育った? ワイルド系ってイメージじゃないし、キレイ系?」
「さぁね、知らない。もう接点もないし、私の両親が長野に移住したの知ってるでしょ?」
「もったいない。あの子、利央にめろめろだったじゃん」
「あのね~、五つ下の親戚みたいな子に、手を出せるわけないでしょ。私が二十歳の時に、あっちは十五歳。どう考えたって、子供にいけないことしてるみたいじゃない」
どうでもいいみたいに言ってはいても、脳裏には中性的な顔立ちの少年が浮かんだ。
親譲りの綺麗な顔に、色素の薄い薄茶色の髪と、薄い灰色にオリーブグリーンの混じった不思議な色彩の瞳。
美少年だった颯は、高校入学を期にどんどん成長していき、一年後には可憐な美少年から、色気のある男へと変わっていた。
そのことに気がついたのは、利央が学校の卒業制作としてモデルを頼んだ時だ。
勝手にシャッターを切るから、自然に動いてほしいという願いに対して、彼はシャツのボタンに手をかけた。
カメラを構えながら、その動きの一つ一つを追っている内に、長い指と整えられた爪がボタンが外し、はらりと自然と開いた先にはまだ完成途中の腹筋。
上へとカメラを向ければ、挑発的に利央を見つめる瞳に捕われる。
これまで感じた事のない異性という雰囲気に、僅かにカメラを下げれば白い歯の隙間から舌を覗かせる颯の唇が映った。
薄すぎず、厚すぎない絶妙な唇は色っぽく、官能的といえる。
そこまで撮って、利央は撮影は終わりだと慌ててカラカラに乾いた喉からどうにか声を絞り出し、後日お礼はするからと家に帰した。帰すしかなかった。
二人きりで、狭いスタジオの中にいるのが、賢明とは思えなくなった。
あの日、利央の目には全く違う──知らない男のように感じて戸惑ったのだ。
それからというもの、二人きりにならないように、本能的な欲求を感じない為に避け続けた。
「子供……ねえ。じゃあ、今の俺ならどうです?」
意識が別に向いていた無防備な背後に、誰かが立ったと認識すると同時に、耳を掠める息にぞくりとしたものが背中を駆け上がる。
「ようやく見つけましたよ、利央さん。お久しぶりですね?」
深みを増した聞き覚えのある声にゆっくりと椅子を回せば、そこに立っていたのは全体としても、パーツ一つ一つにしても完璧としか言いようのない顔の持ち主だ。
利央が逃げ出した七年前よりも色気までプラスされた彼──颯は、腕を伸ばしてカウンターに手をついて彼女を閉じ込めると、体を前に屈めてにっこりと笑った。
「……颯」
「そうだよ、利央さん。憶えていてくれて嬉しいな」
「なんで」
その後の言葉が続かなかった。
自分がどこに引っ越したか、どこで仕事をしているのか友人二人にも、両親にすら教えてはいないため、颯の両親が知っているはずもない。
「よお、颯。珍しいなこの時間に来るの」
そう親しそうに話しかけたのは、バックヤードから戻ってきた卓馬だった。
「あれー、卓馬さん。彼のこと知ってるの?」
「え? こいつの事? もちろん、知ってるよ。常連っていうのもあるけど……君たち女性陣の方が知ってるんじゃないのか? 今話題でCMや雑誌に引っ張りだこの逆輸入モデル、颯の事に関しては。名前以外は非公開で、ミステリアスな魅力とか言われてるのを俺は見たけどな」
卓馬は足元から一冊の雑誌を拾い上げると、ぱらぱらとめくって利央へと差し出した。
受け取った雑誌の見開きには、間違いなく颯の姿があった。
ダークスーツ、カジュアル、スポーティーと数ページに及ぶ。
表紙を確認すると、それが有名な男性ファッション誌であることが分かった。
「ちょっと、利央! あんた知らなかったの!?」
有紗が驚いた声を出すのも無理はない。
利央の仕事は、雑誌のモデルを撮ることも含まれている。もちろん、女性誌の方が多い。
時には、アイドルのCDジャケット撮影もするが、メインは雑誌の撮影だ。
男性誌の情報に疎いのは仕方がないが、それを口に出来る雰囲気ではない。
というよりも、有紗はスツールに座ったまま見上げることしかできなかった。
忘れたことは無かったし、どんな大人に成長しているか考えなかった訳じゃない。
けれど、しょせんは想像でしかないのだ。
目の前にいるような姿は、想像さえ出来なかった。
こんなにも、背が高くて、体格がよくなるとは誰が思うだろうか。
「利央さん?」
「ああ……へえ~、随分と大人びたのね。驚いた、立派になって」
それ以上、言葉が続かなかった。
思いもよらない再会に、カメラを持つ手が震える。
心の奥底にしまい込んで、立派な南京錠で封印した想いが疼いて顔を出しそうだった。
口を開いたら最後、言おうなんて思ってもいない事を口走ってしまいそうで怖い。
そろりと目だけ盗み見れば、一つだけ変わることのなかった不思議で他にはないであろう瞳と目が合った。
その瞬間、周りの音が遠くなっていく。
ここがバーであることを忘れてしまいそうになるほどの静寂に包まれ、二人だけしか存在しないかのような錯覚に陥る。
まるで、森の中で獣に見つかった小動物のような気分だった。
彼の瞳の奥には、もう逃がさないという決意が見えたような気がした。
すでに気温は高く、早めに活動を始めて血を吸おうとする蚊にうんざりしながら、スタジオの外にある喫煙所で煙草を吸っていた雨音利央は、ジーンズの後ろポケットで振るえるスマートフォンに気がついて取り出すと、着信相手も見ずに電話に出た。
「もしもし?」
「利央……今、大丈夫か?」
「ええ、ちょうど終わったところ」
煙草を一度吸う程度の間の後で、彼氏である沖野衛の小さくため息を吐く音が聞こえた。
何となく、最近の関係から彼が言おうとして躊躇っている言葉の予想はついている。
交際半年、デートをしたのは五回。
五回会ったが、セックスしたのは一回だけ。
いい年した大人の交際としては、不十分なものだろう。
けれど、人気フォトグラファーの利央は忙しく、休みは不規則で、会社に勤める衛とはなかなか生活のリズムが合わない。
最初のうちは、お互いが思い合っていれば、対したことではないと言っていた彼だが、メールや電話のやり取りが減ったあたりから変わりはじめた。
『仕事と俺との時間……どっちが大事?』
噂や物語の中で何度も聞いてきた台詞に、利央は笑いそうになってしまった。
比べられるはずもない。
そもそも、比べる対象ですらない。
生き物と生活に欠かせないものに、ランクなんてないのだから。
けれど、もしも絶対決めなければいけないと言うのであれば、そんなの──仕事が大事に決まってる。
仕事が無くなったら、どうやって生きるためのお金を稼ぐというのか。
くだらない会話を思い出しながら煙草を吸うと、電話の向こうから力無い声が聞こえてきた。
「別れたい。恋人である意味が、よく分からなくなったんだ」
「恋人である意味?」
「会う時間がない。過ごす時間がない。支え合うことも、不満を言うこともない。そんなんで、恋人だと言えるのか? 利央とは、将来が見えない。お互い、いい歳だし……俺は家庭が欲しいんだよ。だから、終わりにしよう」
「そう、なら仕方がないわね。今までありがとう。じゃあ、さよなら」
あっさりと通話を切ると、利央はそのまま衛の連絡先を消去してスマートフォンをジーンズの後ろポケットに差し込んだ。
また続かなかった。
高校生の時に初めての彼氏と付き合ってから、今の今まで利央は恋人と長く続いたことがない。
そのどれもが、今と同じような理由だ。
「あー、さっさと飲みたい」
漆黒に紛れる黒髪を豚の尻尾程度に結んでいたゴムを外して、灰皿に煙草を押し付けて火を消し、スタジオの中に戻って纏めてあった荷物を手に取ると、砂利を踏み締めて停まったタクシーへと急いだ。
「この場所までお願いします」
住所の書かれた一枚の紙を手渡すと、タクシー運転手は「ああ、ここね」と呟いてタクシーを走らせはじめた。
ほどよく効いたエアコンの涼しさに、ほっとシートにもたれて後ろへと流れていく窓の外の景色に目を向ける。
都会らしい明るさと、夜だというのに騒がしい様子に疲れがどっと押し寄せてきた。
軽快な音にスマートフォンに視線を落とせば、これから一緒に飲む約束をしている相手からのLINEが入っていた。
『もうすぐ着く』
シンプルな文面を送り、利央は目を閉じた。
ラジオから聞こえてくる音楽は耳に心地好く、タクシーのわずかな揺れもあって、睡魔が忍び寄ってくる。
眠るつもりなんてなかった。
目を閉じていたのだって僅かな時間だろうと思っていたのに、タクシー運転手の「お客さん、着きましたよ」という声に驚いて目を開けた。
車は停まっており、窓の外には目的地であるバー【バッコス】の看板が見えた。
「あ、すみません」
慌てて鞄から財布を取り出し支払いを済ませると、荷物を肩にかけてタクシーを降りた。
初めて入るバーに、僅かな緊張を覚えながら店の扉を開くと、予想に反して静かなジャズが流れる落ち着いた店内に迎えられた。
さらっと見回すと、バーカウンターにいる一人の男性と目が合った。
職業柄、ファッション雑誌からの依頼でモデルや芸能人と接する機会のある利央から見ても、背が高く野性的な魅力のある男が、ゆったりとした動作でカウンターの奥から出て来た。
長い黒髪は、一つに結ばれていて、清潔感がある。
「いらっしゃいませ、お一人ですか?」
「あ……いえ、先に友人が来てると思うんですけど」
鞄を肩にかけ直しながら言えば、椅子を押し下げる音が聞こえた。
「あっ! 卓馬さん、こっちです。彼女、あたしの連れです」
「ああ、一之瀬さんが待っていた方か。どうぞ、こちらへ」
にっこりと笑った彼は、手を振る一之瀬有紗と、その隣で静かにグラスを傾ける松永旭の元へと案内してくれた。
「それじゃあ、決まったら声かけてくれ」
別のテーブルを片付けに行く背を見送り、利央は有紗の耳に唇を寄せた。
「ここ、よく来るの?」
「うん、毎週末にね。なんか落ち着くんだよね。卓馬さんもカッコイイし」
ふふふっと笑う茶色い髪をふんわりさせた有紗は、大手企業の受付を担当している。見た目も愛らしく、声は高すぎない柔らかさを持っている。
「お疲れ、利央。ほんと、有紗ってばミーハーよね」
ワインを回しながら利央に目を向けてきた旭は、仕事が終わった時間だというのにかっちりとしたパンツスーツに乱れはなく、アルコールを口にしてるようには全く見えない。
そんな旭の職業は、誰もが知っている大手企業の次期社長と言われ雑誌にも取り上げられたことのある若くイケメンな副社長の第一秘書である。
「旭こそ、お疲れ。久しぶりじゃない?」
「そうね。これまでは無駄に忙しかったからね。いい加減、人のプライベートの時間まで侵略してくる出来の悪い副社長には、最終通告を突きつけてきたわ」
「最終通告?」
「そう……辞表をちらつかせたの」
「辞表……」
それ一つで効率よく動くものなのかと疑問に思いつつ隣のスツールに腰掛け、カメラの入った鞄を隣の空いている席に置くと、有紗が元気よく手を挙げた。
「卓馬さん! 生ビールとカクテルお任せで。あと、こちらのオッサン女子には、タコのから揚げと焼き鳥の盛り合わせね」
「ああ、ちょっと待ってな」
利央の分の注文をした有紗は隣のスツールに腰掛けると、ずいっと顔を寄せて囁いた。
「旭の副社長さんってば、旭にめろめろでぞっこんだから頑張っちゃうんだよ」
「へー」
「もうずっとアプローチされてんのに、いっつも断っちゃうんだから、勿体ないよね? 顔良し、職業良し、性格良しで、お金だって持ってんだから」
有紗が文句を言いはじめると、カウンターの上に置いてあるスマートフォンが震えた。
ワインを飲んでいる旭は、ちらりと画面に目を向けたが無視している。
「そういうあなただって、合コンで若手IT社長と一緒に帰ったとか、うちの受付の子が騒いでたけど?」
「あ~、そんなこともあったっけね。でも、一緒にいてつまんないし」
あっけらかんと言う有紗との会話に割って入るスマートフォンのバイブレーションの音に、会話が止まる。
しかし、旭は相変わらず視線を送るだけで、電話に出ようとはしない。
その間も、バイブレーションの音の合間にカクテルを作る音が響く。
「あのさぁ……出ないの?」
流石にこれだけ何度も掛けてくるとなったら、仕事なんじゃないかと思って声をかければ、旭はうっそりと微笑んだ。その口元は、やけに色気がある。
彼女に対しても、利央は写真を取らせてほしいとお願いしたことがあったが、高校の時にあっさりと断られた。
今の会社に入社して、仕事に慣れた頃に久しぶりに会った旭がより輝いて見え、改めてお願いしたのだが会社の方針で駄目だったと二度目の断りをもらった。
その時には、話を社長に通そう個展の話をしたらしく、社長からの手紙を受け取る羽目になったのだ。
手紙の中身は『旭ほどの女性を誰が目にするか分からない場所で披露するなんて正気とは思えない』、『彼女が変な男に狙われたらどうするんだ』、『優秀な彼女の安全を守るためにも、公私ともに……』という、ちょっと良く分からないものだった。
とりあえず分かったのは、その副社長がいかに旭のことが好きかということだけだったが、利央は写真を諦めた。
全身や顔の特定ができるような写真を撮る気は元々なかったが、誰かが不安や不快さを覚える写真に価値はない。
自己満足だけの写真なんて、利央が求める作品ではないのだ。
「今はマテの最中だから」
そんな不思議なことを言った旭の目には、ほんの少しの愛しさが混じっているような気が利央はした。
もしかしたら、あの副社長が旭の心を手にする日も遠くはないのかもしれない。
「お待たせ、君たちにはカクテルとワイン。君にはビールとおつまみね」
二人の前には、鮮やかな色のカクテルが並べられ、利央の目の前にはビールとタコのから揚げと山盛りの焼き鳥、おしぼりが並べられていく。
「ありがとう」
かなり美味しそうで、ビールで疲れと喉の渇きを癒す前に焼き鳥に手を伸ばす。
熱々で軟らかいつくねには、たっぷりと甘めの垂れがついている。
けれど、店内で焼いている様子はなかったのに、どうしてだろうかと考えていると、卓馬と目が合った。
口に出した訳でもないのに、利央の言わんとしたことが分かったらしい。
「隣の焼鳥屋もオレの店なんだよ」
「へー、便利ですね」
「いつでも歓迎するよ」
デニム地のシャツの袖をまくり上げると、食器を洗いはじめた。
その動作に、利央の目は釘付けだ。
袖がまくり上げられることによって現れる腕の筋肉と、その動きに魅了されていた。
「あなた、すごくいい筋肉してるのね。少し写真を撮ってもいい?」
おしぼりで手を拭いてから、椅子の上の鞄に手を伸ばす。
大切な商売道具であるカメラを取り出し、卓馬に掲げて見せれば、まさかそこまで本格的なカメラが出てくるとは思っていなかったのか、ぽかんとしている。
「ごめんね、卓馬さん。その子、筋肉好きのフォトグラファーだから付き合ってくれる?」
「へー、そうなのか。オレは、別に構わないけど、どうしたらいい?」
卓馬は可笑しそうに笑いながら、皿を洗う作業を再開した。
「いつも通りでお願いします」
スツールから立ち上がり、カウンターに身を乗り出すようにしてカメラのシャッターをきる。
数枚撮ったところで、一度液晶で写真を確認していると、有紗が何かを思い出したように声を上げた。
「あっ! そういえば、あの子は? ちょー将来有望なイケメンくん」
「誰?」
「旭も覚えてない? 利央のお母さんの親友っていう隣人さんとこの息子。あたしたちより五つだか下の」
「ああ、いたわね。たしか……東金颯じゃなかった」
静かで落ちついた旭の声に名前を紡がれて、どきりっと胸の置くで嫌な音が鳴った気がした。
その名前を聞くのは、どれくらいぶりだろうか。
「利~央~、どうなのよ」
「どうって、何が?」
もう一度、レンズを覗いて卓馬の腕の写真を数枚撮る。
満足いくものが撮れて、上機嫌な利央の気分を害したのは有紗だった。
「いい男に育った? ワイルド系ってイメージじゃないし、キレイ系?」
「さぁね、知らない。もう接点もないし、私の両親が長野に移住したの知ってるでしょ?」
「もったいない。あの子、利央にめろめろだったじゃん」
「あのね~、五つ下の親戚みたいな子に、手を出せるわけないでしょ。私が二十歳の時に、あっちは十五歳。どう考えたって、子供にいけないことしてるみたいじゃない」
どうでもいいみたいに言ってはいても、脳裏には中性的な顔立ちの少年が浮かんだ。
親譲りの綺麗な顔に、色素の薄い薄茶色の髪と、薄い灰色にオリーブグリーンの混じった不思議な色彩の瞳。
美少年だった颯は、高校入学を期にどんどん成長していき、一年後には可憐な美少年から、色気のある男へと変わっていた。
そのことに気がついたのは、利央が学校の卒業制作としてモデルを頼んだ時だ。
勝手にシャッターを切るから、自然に動いてほしいという願いに対して、彼はシャツのボタンに手をかけた。
カメラを構えながら、その動きの一つ一つを追っている内に、長い指と整えられた爪がボタンが外し、はらりと自然と開いた先にはまだ完成途中の腹筋。
上へとカメラを向ければ、挑発的に利央を見つめる瞳に捕われる。
これまで感じた事のない異性という雰囲気に、僅かにカメラを下げれば白い歯の隙間から舌を覗かせる颯の唇が映った。
薄すぎず、厚すぎない絶妙な唇は色っぽく、官能的といえる。
そこまで撮って、利央は撮影は終わりだと慌ててカラカラに乾いた喉からどうにか声を絞り出し、後日お礼はするからと家に帰した。帰すしかなかった。
二人きりで、狭いスタジオの中にいるのが、賢明とは思えなくなった。
あの日、利央の目には全く違う──知らない男のように感じて戸惑ったのだ。
それからというもの、二人きりにならないように、本能的な欲求を感じない為に避け続けた。
「子供……ねえ。じゃあ、今の俺ならどうです?」
意識が別に向いていた無防備な背後に、誰かが立ったと認識すると同時に、耳を掠める息にぞくりとしたものが背中を駆け上がる。
「ようやく見つけましたよ、利央さん。お久しぶりですね?」
深みを増した聞き覚えのある声にゆっくりと椅子を回せば、そこに立っていたのは全体としても、パーツ一つ一つにしても完璧としか言いようのない顔の持ち主だ。
利央が逃げ出した七年前よりも色気までプラスされた彼──颯は、腕を伸ばしてカウンターに手をついて彼女を閉じ込めると、体を前に屈めてにっこりと笑った。
「……颯」
「そうだよ、利央さん。憶えていてくれて嬉しいな」
「なんで」
その後の言葉が続かなかった。
自分がどこに引っ越したか、どこで仕事をしているのか友人二人にも、両親にすら教えてはいないため、颯の両親が知っているはずもない。
「よお、颯。珍しいなこの時間に来るの」
そう親しそうに話しかけたのは、バックヤードから戻ってきた卓馬だった。
「あれー、卓馬さん。彼のこと知ってるの?」
「え? こいつの事? もちろん、知ってるよ。常連っていうのもあるけど……君たち女性陣の方が知ってるんじゃないのか? 今話題でCMや雑誌に引っ張りだこの逆輸入モデル、颯の事に関しては。名前以外は非公開で、ミステリアスな魅力とか言われてるのを俺は見たけどな」
卓馬は足元から一冊の雑誌を拾い上げると、ぱらぱらとめくって利央へと差し出した。
受け取った雑誌の見開きには、間違いなく颯の姿があった。
ダークスーツ、カジュアル、スポーティーと数ページに及ぶ。
表紙を確認すると、それが有名な男性ファッション誌であることが分かった。
「ちょっと、利央! あんた知らなかったの!?」
有紗が驚いた声を出すのも無理はない。
利央の仕事は、雑誌のモデルを撮ることも含まれている。もちろん、女性誌の方が多い。
時には、アイドルのCDジャケット撮影もするが、メインは雑誌の撮影だ。
男性誌の情報に疎いのは仕方がないが、それを口に出来る雰囲気ではない。
というよりも、有紗はスツールに座ったまま見上げることしかできなかった。
忘れたことは無かったし、どんな大人に成長しているか考えなかった訳じゃない。
けれど、しょせんは想像でしかないのだ。
目の前にいるような姿は、想像さえ出来なかった。
こんなにも、背が高くて、体格がよくなるとは誰が思うだろうか。
「利央さん?」
「ああ……へえ~、随分と大人びたのね。驚いた、立派になって」
それ以上、言葉が続かなかった。
思いもよらない再会に、カメラを持つ手が震える。
心の奥底にしまい込んで、立派な南京錠で封印した想いが疼いて顔を出しそうだった。
口を開いたら最後、言おうなんて思ってもいない事を口走ってしまいそうで怖い。
そろりと目だけ盗み見れば、一つだけ変わることのなかった不思議で他にはないであろう瞳と目が合った。
その瞬間、周りの音が遠くなっていく。
ここがバーであることを忘れてしまいそうになるほどの静寂に包まれ、二人だけしか存在しないかのような錯覚に陥る。
まるで、森の中で獣に見つかった小動物のような気分だった。
彼の瞳の奥には、もう逃がさないという決意が見えたような気がした。
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