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第4章 変えられない選択

[6] 見えない未来

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 冬呀が扉のノブに手をかけた瞬間ーー。
 痛みと床を染める血が見えた。
 体を襲う衝撃に、エマは膝をついて自分の能力にあらがった。
 予知?
 彼女は頭を振る。
 忍び寄る感覚は、明らかに未来予知ではなく、過去視のものだった。
 体は動かなくて、自分から流れる血だけが視界を占める。
 遠退く意識の中で、唯一感じ取れたのは懐かしい群れの香り。
 胸に広がる安心感に、弱々しい吐息を漏らす。
 そう感じとった途端、それがゼロの思考だということに気がついた。
 徐々に記憶は遡っていく。
 何度も刃物で肌を傷つかれる痛み、冷たい鎖に繋がれる屈辱。
 
『お前が協力すれば、これ以上あの子たちは痛め付けない。大事な研究対象だからな』

 我慢すれば自分だけで済む。
 その思考に、エマの頬を涙が伝った。
 ゼロは行方不明のシフターの中で、一番年上だ。
 年上としての責任が、彼の唯一の心の拠り所だったのだろう。
 俯いた時、ゼロの目を通して見えたのは、いくつもの注射の跡が残るチューブに繋がれた腕と、無機質な銀色の扉。白と銀色だけが占める冷たい部屋。
 場面の移り変わりは早く、目の前がチカチカするほどだ。
 次に広がるのは、真っ白な廊下と両側を動く二組の足。
 ゼロは誰かに運ばれている。
 見たことのある廊下と、入っていく室内。力無く上げた目が捉らえたのは、いま冬呀が開けようとしている扉でーー。

「まって! 開けちゃダメっ!!」

 喉に痛みを感じるほど大きな声で止めたが、すでに遅かった。
 エマの声以上に大きな咆哮が空気を震わせ、肌が粟立つ。
 それでも、冬呀の側に。伴侶の側に寄り添わなければという思いで立ち上がり、混乱と痛む頭を押さえながら部屋へと近づく。
 開け放たれた入口までくると、エマがシフターの嗅覚を持っていなくてもむせ返る血の香りに気がついた。
 中に目を向けると、数秒前に見たのと同じ白い壁と銀色の手術台。
 視線を下げさえしなければ、ただの手術室にしか見えない。
 エマは一度目を閉じてから、心を決めてから目を開けた。
 思わず出そうになる悲鳴を飲み込んで、血の海とかした床に膝を着き、ゼロの体を抱える冬呀の向かい側に膝を着く。
 痛々しい刃物による傷と打撲痕、注射の跡がない部分に慎重に触れると、シフターとは思えないほど体温が下がっていた。 
 呼吸も弱々しく、生命の煌めきは弱い。
 両手首は頑丈な鎖で繋がれている。

「とう……が?」

「ああ、そうだよ。よく頑張ったな」

「ほか……の……こ、たち」

「大丈夫だ。気にしなくていい。ゆっくり休め」

 直後、イヤホンから響夜の声が聞こえてきた。

『冬呀、聞こえるか? 子供たちは見つけた。ただ、吸血鬼と人狼はいない』

 やり取りが聞こえたのか、安心した表情を浮かべたゼロは目を閉じて体の力を抜いた。
 
「分かった。子供たちはライオネルに任せて、こっちに来て手を貸してくれ。ゼロを見つけた」

『了解。ミスター吸血鬼は、お仲間を探すとさ』

「分かった」

 ほんの少しの安心を感じながらゼロの肌を撫でながら、冬呀に向けるが、その瞳は見たこともない冷たい怒りでぎらついていた。
 姿を変えていないだけで、ぎりぎりのところに半身である狼がうろついているのが分かる。
 
「冬呀さん?」

 エマの問い掛けに答えることなく立ち上がると、研究者の男へと足を向けた。
 すれ違うように響夜と大賀が駆け込んで来たが、冬呀の歩みは止まらない。

「ゼロを今すぐ病院へ。俺はこいつを始末する」

 二人は異議を唱えることなく、ゼロの側にしゃがみ込むと持ってきた小さな鞄の中から救急箱を取り出し、手際よく止血をして運び出していく。
 彼の発言を当たり前のように受け止めたことに驚き言葉が出てこなかった。
 エマはシフターのことを分かっていなかったのかもしれない。

「冬呀さん? データを消して、その人の記憶を消せばいいんですよね? 私には、それができます」

 魔女はこれまでも、いろいろな存在を隠すために、大きな対価と引き換えに誰かの記憶を消し、人間社会に漏れ出さないようにする手助けをしてきた。
 決して魔力や魔法ではない。
 強い忘却の効果のある薬を作れるというだけだ。
 その仕事は、古くからーーとくに魔女狩りの後から白魔女の役目となり、全ては紙には書き記さず、後継者から後継者へと口頭で伝えられてきた秘薬。
 人の体に害はなく、何かのショックで記憶が戻ることもない。
 記憶と証拠を消すだけだと思っていたエマは、常に持っている薬を持ってきていたのにーー。
 冬呀の考えは違うようだ。

「そんな甘い処分では、誰も納得できない。命には、命でしか償えない」

 その声はくぐもっていて、唸り声に近い。 
 強い言葉にエマは、自分の中にある白魔女が目覚めるのを感じた。
 白魔女は癒しと許しを与えるもの。
 全ての命には、等しくやり直すチャンスがあるという考えを持っている。
 エマもそう育てられた。
 けれど、いつもその不平等な考えに反発を覚えていたのだ。
 ささやかな出来事ならそうかもしれないが、人を肉体的に、精神的に傷つけた人間にセカンドチャンスの価値はないと。
 今も、魂がぶつかり合っている。
 一人の自分は、ただ記憶を消して記録を消すだけでいいと言っているが、もう一人の自分はあの男の命と記録の抹消によってようやく釣り合いが取れると囁く。 

「お、お前たちには分かるまい。この研究結果がどれほど価値があるかなんて」

「わかりたくもないが、ここにある資料を見る限り、俺達を武器として利用しようとしていたんだろ」

「武器?」

「ああ。お前たち吸血鬼の不死と人狼の力があれば、他国に攻めこみ侵略することが出来る。俺達シフターの動物に変わる能力は、監視装置と国境をくぐり抜け、ターゲットを暗殺することが出来るだろう」

「だけど、僕たちは簡単に誰かの言いなりにも、従いもしないぞ?」

「俺達だってそうだ。だが、これを見ると何かチップを脳に埋め込んで、外部から操ろうとしているみたいだ。けど、これまでうまくいっていない。それで、どこまで痛め付ければ言うことを聞くのかを調べたんだろう」

 書類をぺらぺらとめくり、パソコンの画面を確認していた冬呀はキーボードを操作して、エマには分からない何かをしている。
 人間が考える残酷で、理解しがたい強欲さに何も言えないでいると、冷たい声が聞こえてきた。
 
『ブラッドリーだが、仲間を見つけた。それと、DNAサンプルと他の研究員も見つけた。ここをどうする?』

「……こっちは研究者を確保した。誰かにDNAを知られる訳にはいかない。全てのデータと痕跡はこの建物ごと無くす」

『分かった。それなら、こちらは合図を待つとしよう』

 誰かを殺すのを黙って見ている訳にはいかないと、エマは冬呀の腕を掴んだ。
 その接触でようやく、目が合い彼の意識がエマを認識した気がした。

「怯えの匂いがする。こんな俺を理解できない……受け入れられないというのなら、仕方がないさ」

 美しく澄み渡った琥珀色の瞳が陰った。
 慰めたい。
 理解していると、嘘でも言いたかったが、今の彼が欲しているのは本当の事だ。
 そして、何より嘘をつけばシフターには嗅ぎ取れるだろう。
 だから、エマは口を噤んだ。
 冬呀がその行動をどう受け取ったのかは分からないが、よそよそしい表情に胸騒ぎがする。

「俺を止めようだなんて思わないでくれ。これはアルファとしての当然の勤めであり、俺はこれからすることで心を痛めたりしない。だが、君に恐怖や軽蔑のこもった目で見られるのには堪えられないよ」

 悲しげな色を滲ませた瞳で見られ、エマの心を締め付けた。

「横溝……悪いがエマを連れて行ってくれ。自分の本当の姿を見られたくない」

「待って、冬呀っ!」

 瞬きの間に研究者の男を冬呀の方へと突き飛ばしたレンが、エマの背中とお尻の下辺りに腕を巻付けて抱えた。
 暴れても、どうしようもない力に成す統べはない。
 
「お願い、離して!」

「ダメだよ。僕にも彼の気持ちが分かるからね」

 標準的な体重があるにも関わらず、まるでちょっとした物を運んでいるかのように、レンは走り出した。
 有無も言わせぬ行動に、必死に振りほどこうとしても、その間に部屋が遠退いていく。
 建物から出た瞬間、聞こえたのは恐ろしい唸り声と男の悲鳴だった。
 直後、建物の裏手から派手な音と別の悲鳴が響き渡った。
 耳に残りそうな断末魔に近い響きに、エマは堪えられない思いだった。

『あたしが、代わってあげる』

 突然の声に驚く間もなく、視界が暗転した。
 倒れた時に生じる痛みはない。
 むしろ、体の感覚すら少なく、不思議な感覚がエマを困惑させる。
 ゆっくりと目を開くと、目の前に自分が立っていた。
 驚きに瞬くが、もう一人の自分は微動だにしない。
 
『どうかしたの、エマ』

 薄暗い影の中から出て来て小首を傾げる自分の姿をよく見てみると、髪の色は僅かに違い、瞳の色は全く違った。
 けど、やはり顔は同じである。

『あたしのことが分からない? 怖いの?』

 知らないと言いたかった。
 けれど、記憶のどこかーー脳のどこかは彼女を認識していた。

『ずいぶん白状ね。あなたが堪えられないことや、見たくないことがあるときには、あたしが……リマが代わってあげていたのに』

 どくりっ、と心臓が嫌な音を立てた。
 その名前には覚えがあった。
 幼い頃、誰に話しても信じてもらえなかった空想の友達と同じ名前だ。
 
『そんなに驚くこと? あたしはあなたの中に存在しているのよ』

 エマと同じ声でありながら、その声には感情が欠けている。
 どこか空虚に聞こえ、口から発しているというよりは頭の中に響くような感覚だった。 

『あたしたちは双子じゃないの』

「そんなはず……」

『ああー、あなたは知らないか。グランマは何も話してないんだもんね。なら、教えてあげる。あたしたちは双子で産まれたけど、生まれて意識を持てたのはエマだけ。あたしはちょっとしたアクシデントで意識だけあなたに吸収されちゃったわけ』

 そんな話は聞いたことがなかった。
 
「信じられないって感じだけど、事実よ。まあ、心配しないで? あたしの体は、厳重に管理されて成長しているから。ただ思考があなたから離れようとしないだけなのよ。だって、あなたを一人にしておくと心配でしょうがないんだもの」

 そう笑った顔は、鏡の中にいる自分と同じようで違う気がした。

『さあ、目を閉じて。後はあたしが上手くやるから』

 亡霊のように、スッとリマが近づいてくると目の前の景色が暗転した。
 リマの誘惑は強すぎて、心のどこかで現実から目を背けたがっている自分にあらがう術は残されていなかった。
 エマの心には不安が渦巻いていた。
 さっきの冬呀の表情を思い出すと、もう二度と会えない気がして来る。
 リマの真実を得た代わりに、とてつもなく大切で代わりのきかないものを失ったのかもしれない。
 エマは薄れゆく意識の中、見えない涙を流した。



 その日ーー
 日本の一部地域で、天気予報士が予測も予想も出来ない天気になった。
 晴れた空、大粒の雨が降り注ぎ、空を閃光が走り抜けたのだ。
 恐れるべき天変地異だったにも関わらず、その数分の出来事になぜか空を見た人々の心には恐怖ではなく悲しみが溢れたという。











 
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