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エピソード01:記憶喪失の女子高生 -不明-
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冷たい風が、頬を撫でていた。
遠くで何かが揺れている音がする。
木の葉がこすれる音か、雪の降る音か、誰かが歩いている音か…それすら判別がつかない。
ゆっくりとまぶたが開く。
そこには、曇った天井――ひび割れた木材に、整った古びた棚とぽつんと置かれている学習机。
まるで時間が止まったような、古びた空間だった。
「……ん……」
少女――いや、“彼女”は、ゆっくりと体を起こそうとした。
だが頭が重い。
吐き気と眩暈、そして、何よりも――自分が誰かすら思い出せない。
「……どこ……ここ……?」
「それに…私は………誰なの?」
声もかすれていた。
喉は渇き、手足の感覚は鈍く、しかし服装だけは妙に整っていた。
制服――だと気づくのに数秒かかった。
けれど、それがどこの学校のものかも、まったく分からない。
「……っ……!」
頭に手をやると痛みが走り、反射的に目を閉じる。
その瞬間、断片的な“光景”が頭をよぎった。
――白い部屋。
――無数のモニター。
――無機質な声。
「…今のは一体?」
その言葉が虚しく部屋に溶けていく。
それでも、自分に何が起きたのか、決定的な確証はつかめなかった。
目を開き、改めて周囲を見渡す。
そして、ふと視線を落とした時――
床に、やや真新しい血痕がこびりついているのが目に入った。
乾いていない。
少しだけねっとりとした赤。
だが、自分の体にはこれほどの出血は見当たらない。
「……違う。これは……私のじゃない?」
直感が、そう告げていた。
誰かがここで血を流した。
そして今、自分はそこにいる。
それはつまり――
(誰かが、ここまで私を運んだ?)
身体を見直す。
制服の汚れ具合を見てもきれいなもので、しかも微かに香りが漂う。
誰かが“面倒”を見た形跡がある。
だが、その“誰か”は今、どこにもいない。
「どうして、私を助けたの……?」
問いは宙に浮いたまま。
けれど、血痕の存在がそれを否応なしに現実に引き戻す。
助けてくれた“誰か”が――この部屋で血を流した可能性。
それが事実なら、その人物は今……
彼女はふるふると首を振った。
考えたくない。けれど、動かなければ。
彼女はゆっくりと立ち上がり、ふらつく足でドアの方へ歩み寄る。
そしてもう一度、耳を当てた。
……静寂。
だが先ほど聞こえた、あの引きずるような音が今も脳裏にこびりついている。
意を決し、彼女はドアノブに手をかけた。
ひんやりと冷たい金属の感触が、嫌でも現実を教えてくる。
「……誰か、いますか?」
返事は、ない。
彼女は、そっと――扉を開けた。
――――――――――――――――――
扉を開けたその先に広がっていたのは、
何かを引きずった血の跡が、びっしりとついた廊下だった。
「……っ」
思わず息をのむ。
その跡は、ただの点々とした血痕ではない。
赤黒く染まった帯が、床の木目を隠すようにべったりと伸びていた。
しかもそれは、まっすぐに――地下に続いている階段の方へと続いている。
“誰か”が這って逃げたのか。
それとも、“何か”に引きずられていったのか。
想像するだけで、背筋に冷たいものが走る。
彼女は震える指先で廊下の壁をなぞった。
壁にも微かに、手形のような跡が残っている。
それは人間のものに見える――が、どう考えても人間にしては大きすぎる手形だ。
「……違う、これ……」
言葉を途中で止めた。
思考を止めないと、正気を保てない気がした。
けれど、“見なければならない”とも思っていた。
助けてくれた誰か。血を流した誰か。
その“答え”が、この先にある気がしてならなかった。
彼女は、足を一歩――
そしてもう一歩と、血の跡を踏まないように進んでいく。
重たい沈黙の中、床板の軋む音だけが響いた。
(大丈夫……ゆっくり進めば……)
と、自分に言い聞かせたその時。
――ギイ……ギシ……ギシ……
フー…フゥー…グウウ……
階段の先、暗がりの奥から、木が軋むような音と、人とは思えない声が聞こえた。
まるで誰かが――今まさに、ゆっくりと階段を登ってきているかのような音。
彼女は、動けなかった。
目の前の暗闇から、確実に“それ”が迫っているのに――
足が、一歩も動かない。
次の瞬間、階段の影から、
何かの“大きな指”だけが、ゆっくりと壁を掴むように現れた。
――――――――――――――――――
その“指”の正体が、ゆっくりと姿を現した。
廊下の奥、地下へと続く階段の影から這い上がってきたのは――
大きな肉切り包丁を握った、大男だった。
包丁は真っ赤に染まっていた。
まだ乾ききっていない血が、ぽたぽたと床に滴り落ちる。
その足元には、すでに複数の血痕が重なり合っていたにも関わらず、
この男の存在だけで、部屋の空気がさらに“濁って”いくのが分かる。
彼が着用しているのは、裂け目だらけの汚れたシャツに――
なぜか料理人のような、エプロン。
だがそのエプロンにも、顔にも、
明確に“誰か”の血しぶきが飛び散っていた。
額から頬にかけての肉が裂けかけており、
その隙間からは、筋繊維と金属片のようなものが覗いている。
“ヒト”と呼ぶにはあまりにも異様で、
“モノ”と呼ぶにはあまりにも生々しい。
それでも、男はゆっくりと顔を上げ――
真正面から、彼女を見た。
その目には、光も理性もなかった。
「…………ッ」
何か言おうとしたが、声が出ない。
ただ、自分の心臓の鼓動だけがうるさく響いている。
男の肩がわずかに震える。
それは、笑っているようにも、怒っているようにも見えた。
次の瞬間。
ダッ――!!
その巨体が、信じられない速さで突進してきた。
「っっっっ!!!!」
反射的に身をひねる。
背中が壁にこすれる感覚と、風圧のような圧力が通り過ぎた。
ガアアアアアン!!
後方の壁に、大男が突っ込んだ。
乾いた木材の破砕音と、舞い上がる埃。
その衝撃で天井の古い電灯が落下し、床に叩きつけられて砕けた。
間一髪――本当に、紙一重だった。
「はぁっ……はぁっ……っ!」
息がうまくできない。
頭が真っ白になる。
けれど、止まれば――次はない。
視界の隅で、大男が壁を押し退けながら、こちらへと身体を向けるのが見えた。
一歩踏み出すそのたびに、床がきしむ。
鋼のような肉体。
血に濡れた刃が、再び持ち上げられる。
(ダメだ――逃げないと……!)
彼女は背を向けて、廊下を駆け出した。
足がもつれそうになるのを必死でこらえつつ、視界の端に見えた――使い古された棚の陰へと身体を滑り込ませた。
(……お願い、気づかないで……!)
棚の裏には、かろうじて一人分のスペースがあった。
古びた本や道具が詰め込まれていたが、それらを押しのけ、身を潜める。
彼女は息を止める。
心臓が喉まで競り上がってくるのがわかる。
鼓動がうるさい。自分の音だけで居場所がバレる気がした。
ドン……ドン……ドン……
あの足音が、廊下を踏みしめる音が聞こえる。
巨体の重量が床に伝わり、まるで地響きのように棚の中まで震える。
音は――近づいてくる。
ドン……ドン……ドン……
(……来る……やっぱりダメだった!?)
ほんの一瞬、頭の中が真っ白になる。
身体がこわばる。動けない。逃げることも、祈ることすらできない。
そして――音が、止まった。
棚の向こう側で、気配が静止する。
「……ッ……」
恐る恐る、息を浅くする。
呼吸音さえ消した。
その時――
スン……ススン……グルル……
聞こえたのは、首を激しく動かす風のような音。
(もしかして……音で探ってる!?)
ただの暴力装置じゃない。
この“それ”は、聴覚で生き物を探している。
彼女は反射的に自分の手を、自分の口元に押し当てた。
恐怖で出そうになる息を、かろうじて押し殺す。
すると――
……スタ……スタ……
音が、遠ざかりはじめた。
彼女は、何も言わず、動かず、ひたすらそれを聞いていた。
そして、再び訪れる沈黙。
(………行ったの?)
恐る恐る、肩に力を入れていた両手を少しだけ緩める。
肺の中に溜まっていた息が、ようやく抜けていった。
手をゆっくりと降ろし、陰から体をずらすようにして棚の外へ。
一歩ずつ、音を立てないように動く。
顔を出すようにして、周囲を見渡す。
……それは、もう彼女の視界にはいなかった。
「……いない……」
ぽつりと呟いた声が、やけに大きく感じられた。
まるで、言葉にすることで安心を引き寄せようとしているようだった。
けれど、完全に消えたわけではない。
床に付いた巨大な血の足跡が、廊下の奥へと続いている。
(……私は……)
どこにいるのか。
なぜここにいるのか。
自分が誰なのか――
考えれば考えるほど、答えのない問いが心を支配していく。
けれど、“誰かが自分を助けてくれた”という痕跡が、確かにあった。
だからこそ、その人物が血を流していたとしても――
今、あれが徘徊しているこの状況で、血を追うのはあまりに無謀だった。
彼女は、判断した。
今はまず、この家から出ることが優先だ。
そうしなければ、いずれ自分も――“あれ”と同じように、血の跡になる。
ふらつく足で、壁に手をつきながら、彼女は玄関口へ向かった。
息を整え、最後の数歩を踏み出す。
そして――手を伸ばす。
ガチャ……ガチャガチャ……ッ
「……開かない……」
ドアノブを何度回しても、びくともしなかった。
錠前に何かがかかっているわけでもない。
だが、それでも、明らかに“外側から押さえられている”ような圧力が伝わってくる。
「鍵……鍵はどこ……?」
ドアの周囲を探す。
玄関マットの下、靴箱の中、傘立ての裏。
けれど、それらしいものは見つからない。
(閉じ込められてる……? いや……これって……)
まるで“誰かが意図して出られないようにしている”ようだった。
単に施錠されたというより、“封印”に近い感覚。
彼女がドアから一歩、距離を取ろうとしたその時――
グオアアアアアアアアアアアアアア!!!!!!!!!!
突如、家全体が震えるような叫び声が響いた。
「っ――!?」
その咆哮には、もはや“意思”すら感じられない。
怒りでも、悲しみでもない。
ただ、破壊のためだけに存在する獣の声。
彼女は咄嗟に背を向け、音のする方向を探った。
それは、目の前だ。
しかも、まるで最初から彼女の行動を見ていたかのように――
絶妙なタイミングで、音もなく姿を現した。
(……そんな、なんで……!)
体が凍りつく。
肺がうまく動かない。
喉が、乾いたまま声を出せない。
視界の端、廊下の奥。
暗闇の中から、大男のシルエットがふたたび現れる。
血濡れのエプロン。
赤黒い包丁。
そして、ゆっくりと、こちらへと顔を向けたその瞬間――
目が合った。
「――ッ!!」
逃げるしかない。
だが、玄関はもう、使えない。
(嫌だ!!! 死にたくない……!!!)
肉切り包丁が振り上げられる。
次の瞬間には、視界が血に染まっているはずだった。
――ドンッ!!
爆音のような銃声が、屋内に響いた。
刹那、振り下ろされかけた包丁が弾かれ、床に**ガンッ!**と落ちた。
「くたばれ、この化け物野郎…!」
低く荒々しい、男の声。
彼女は思わずそちらを振り返る。
廊下の奥――彼女を襲ったそれの後ろから、黒いスーツとも言える男の姿が見えていた。
手には、猟銃で使うものと思しきショットガンが握られていた。
銃口からはまだ、微かに煙が立ち上っている。
グ……ア……
低く、かすれた呻き声。
その大男は――
一瞬にして、背中から血を噴き出しながらその場に崩れ落ちた。
ドサッ
床板が軋み、廊下がわずかに揺れる。
「……倒れた……?」
彼女は信じられない思いで、その巨体を見つめた。
本当に……? あれが?
だが、動かない。
その異形の身体からは、音も息遣いも消えていた。
まるで、ようやく“電源が落ちた機械”のように。
撃った男は、銃口をゆっくりと下げると、深く息をついた。
「無事か?」
鋭い目で大男の死体を確認しつつ、彼は少しだけこちらに顔を向けた。
唐突すぎる質問に、彼女はしばらく何も答えられなかった。
ただ、頷く。
それだけで精一杯だった。
緊張の糸が、急激にほどける。
足がふらついた。
彼女がその場に膝をつくと、男はすぐに近づき、片膝をついて支えた。
「危ないところだったな……すぐここを離れよう」
彼の手は力強く、それでいて乱暴ではなかった。
彼女は少しだけ安心しながらも、震える声で訊ねた。
「でも……どこから……?」
男はちらりと後方を振り返り、倒れた大男を警戒しながら答えた。
「小部屋の窓から侵入した。玄関口が――鍵でも掛かってるのか、えらく固かったものでな。
あそこなら……出入りくらいならできる」
彼女はその言葉に目を見開いた。
玄関では絶望しかなかったこの家に、出られる手段があった――その事実が、胸の奥に微かな希望を灯した。
男はゆっくりと立ち上がり、彼女に手を差し出す。
「立てるか?」
「……うん」
掴んだ手は、少し冷たくて、少しだけ心強かった。
男はすぐに行動に移った。
小走りで廊下を戻りながら、後方を一度も見せない。
「ここで足止め喰らうのは得策じゃない。アレの仲間がいる可能性もある。
一匹いたなら、他にもいると考えるべきだ」
「仲間……?」
「詳細は後だ。まずはここを出る。立ち話には向かない場所だからな」
そう言うと男は、床に散らばった残骸を踏み越え、
一室の扉を開けて中へ入った。
そこは、彼女が見たことのない部屋だった。
古い机と崩れた棚、そして壁の向こうに――
半分割れている、細長い窓。
男はその前に立ち、手で窓枠の外を確認する。
「よし、外は雪だけだ。
あそこに車を停めてある。ついてこい」
彼女は頷き、後を追った。
そのとき、ふと振り返ってしまった。
あの廊下の奥、
倒れた大男の死体――その手が、一瞬のうちに消えていた。
目の錯覚か?
疲れと恐怖が見せた幻か?
……わからない。
だが、確かに“あった”はずのものが、そこにないという事実だけは、変わらなかった。
今はもう確かめる余裕もない。
だが、それでも、彼女の中で確認したいことがあった。
背中越しに、そっと声をかける。
「……あの、名前は……?」
男はわずかに歩を止め、振り返ることなく答えた。
「俺はヘルベルト。
民間自治組織《ダイレンジャビス》の、まぁいわゆるヘッドをやっている」
低く、だがはっきりとした声だった。
“責任を持つ者”の声。
命令ではなく、指針として語る声音だった。
彼女はその言葉を、静かに胸に刻んだ。
「君は……いや、まずは車に乗ってからだな」
そう言って、彼は再び窓の外へ身を乗り出す。
外は、まだ雪が降っていた。
地面には既に深い雪が積もり、月明かりに反射してぼんやりと白く光っている。
彼女は、その背中を追った。
崩れかけた窓枠を越えて外に出ると、すぐそばに一台の黒い四駆が止まっていた。
車体は雪と泥にまみれていたが、エンジンは既に温まっている。
「後部座席に乗れ。ドアは開けてある。寒さが本格化する前に出るぞ」
彼女は頷き、ドアを開けた。
車内はほんのり暖かく、
外とはまるで別世界のように静かだった。
遠くで何かが揺れている音がする。
木の葉がこすれる音か、雪の降る音か、誰かが歩いている音か…それすら判別がつかない。
ゆっくりとまぶたが開く。
そこには、曇った天井――ひび割れた木材に、整った古びた棚とぽつんと置かれている学習机。
まるで時間が止まったような、古びた空間だった。
「……ん……」
少女――いや、“彼女”は、ゆっくりと体を起こそうとした。
だが頭が重い。
吐き気と眩暈、そして、何よりも――自分が誰かすら思い出せない。
「……どこ……ここ……?」
「それに…私は………誰なの?」
声もかすれていた。
喉は渇き、手足の感覚は鈍く、しかし服装だけは妙に整っていた。
制服――だと気づくのに数秒かかった。
けれど、それがどこの学校のものかも、まったく分からない。
「……っ……!」
頭に手をやると痛みが走り、反射的に目を閉じる。
その瞬間、断片的な“光景”が頭をよぎった。
――白い部屋。
――無数のモニター。
――無機質な声。
「…今のは一体?」
その言葉が虚しく部屋に溶けていく。
それでも、自分に何が起きたのか、決定的な確証はつかめなかった。
目を開き、改めて周囲を見渡す。
そして、ふと視線を落とした時――
床に、やや真新しい血痕がこびりついているのが目に入った。
乾いていない。
少しだけねっとりとした赤。
だが、自分の体にはこれほどの出血は見当たらない。
「……違う。これは……私のじゃない?」
直感が、そう告げていた。
誰かがここで血を流した。
そして今、自分はそこにいる。
それはつまり――
(誰かが、ここまで私を運んだ?)
身体を見直す。
制服の汚れ具合を見てもきれいなもので、しかも微かに香りが漂う。
誰かが“面倒”を見た形跡がある。
だが、その“誰か”は今、どこにもいない。
「どうして、私を助けたの……?」
問いは宙に浮いたまま。
けれど、血痕の存在がそれを否応なしに現実に引き戻す。
助けてくれた“誰か”が――この部屋で血を流した可能性。
それが事実なら、その人物は今……
彼女はふるふると首を振った。
考えたくない。けれど、動かなければ。
彼女はゆっくりと立ち上がり、ふらつく足でドアの方へ歩み寄る。
そしてもう一度、耳を当てた。
……静寂。
だが先ほど聞こえた、あの引きずるような音が今も脳裏にこびりついている。
意を決し、彼女はドアノブに手をかけた。
ひんやりと冷たい金属の感触が、嫌でも現実を教えてくる。
「……誰か、いますか?」
返事は、ない。
彼女は、そっと――扉を開けた。
――――――――――――――――――
扉を開けたその先に広がっていたのは、
何かを引きずった血の跡が、びっしりとついた廊下だった。
「……っ」
思わず息をのむ。
その跡は、ただの点々とした血痕ではない。
赤黒く染まった帯が、床の木目を隠すようにべったりと伸びていた。
しかもそれは、まっすぐに――地下に続いている階段の方へと続いている。
“誰か”が這って逃げたのか。
それとも、“何か”に引きずられていったのか。
想像するだけで、背筋に冷たいものが走る。
彼女は震える指先で廊下の壁をなぞった。
壁にも微かに、手形のような跡が残っている。
それは人間のものに見える――が、どう考えても人間にしては大きすぎる手形だ。
「……違う、これ……」
言葉を途中で止めた。
思考を止めないと、正気を保てない気がした。
けれど、“見なければならない”とも思っていた。
助けてくれた誰か。血を流した誰か。
その“答え”が、この先にある気がしてならなかった。
彼女は、足を一歩――
そしてもう一歩と、血の跡を踏まないように進んでいく。
重たい沈黙の中、床板の軋む音だけが響いた。
(大丈夫……ゆっくり進めば……)
と、自分に言い聞かせたその時。
――ギイ……ギシ……ギシ……
フー…フゥー…グウウ……
階段の先、暗がりの奥から、木が軋むような音と、人とは思えない声が聞こえた。
まるで誰かが――今まさに、ゆっくりと階段を登ってきているかのような音。
彼女は、動けなかった。
目の前の暗闇から、確実に“それ”が迫っているのに――
足が、一歩も動かない。
次の瞬間、階段の影から、
何かの“大きな指”だけが、ゆっくりと壁を掴むように現れた。
――――――――――――――――――
その“指”の正体が、ゆっくりと姿を現した。
廊下の奥、地下へと続く階段の影から這い上がってきたのは――
大きな肉切り包丁を握った、大男だった。
包丁は真っ赤に染まっていた。
まだ乾ききっていない血が、ぽたぽたと床に滴り落ちる。
その足元には、すでに複数の血痕が重なり合っていたにも関わらず、
この男の存在だけで、部屋の空気がさらに“濁って”いくのが分かる。
彼が着用しているのは、裂け目だらけの汚れたシャツに――
なぜか料理人のような、エプロン。
だがそのエプロンにも、顔にも、
明確に“誰か”の血しぶきが飛び散っていた。
額から頬にかけての肉が裂けかけており、
その隙間からは、筋繊維と金属片のようなものが覗いている。
“ヒト”と呼ぶにはあまりにも異様で、
“モノ”と呼ぶにはあまりにも生々しい。
それでも、男はゆっくりと顔を上げ――
真正面から、彼女を見た。
その目には、光も理性もなかった。
「…………ッ」
何か言おうとしたが、声が出ない。
ただ、自分の心臓の鼓動だけがうるさく響いている。
男の肩がわずかに震える。
それは、笑っているようにも、怒っているようにも見えた。
次の瞬間。
ダッ――!!
その巨体が、信じられない速さで突進してきた。
「っっっっ!!!!」
反射的に身をひねる。
背中が壁にこすれる感覚と、風圧のような圧力が通り過ぎた。
ガアアアアアン!!
後方の壁に、大男が突っ込んだ。
乾いた木材の破砕音と、舞い上がる埃。
その衝撃で天井の古い電灯が落下し、床に叩きつけられて砕けた。
間一髪――本当に、紙一重だった。
「はぁっ……はぁっ……っ!」
息がうまくできない。
頭が真っ白になる。
けれど、止まれば――次はない。
視界の隅で、大男が壁を押し退けながら、こちらへと身体を向けるのが見えた。
一歩踏み出すそのたびに、床がきしむ。
鋼のような肉体。
血に濡れた刃が、再び持ち上げられる。
(ダメだ――逃げないと……!)
彼女は背を向けて、廊下を駆け出した。
足がもつれそうになるのを必死でこらえつつ、視界の端に見えた――使い古された棚の陰へと身体を滑り込ませた。
(……お願い、気づかないで……!)
棚の裏には、かろうじて一人分のスペースがあった。
古びた本や道具が詰め込まれていたが、それらを押しのけ、身を潜める。
彼女は息を止める。
心臓が喉まで競り上がってくるのがわかる。
鼓動がうるさい。自分の音だけで居場所がバレる気がした。
ドン……ドン……ドン……
あの足音が、廊下を踏みしめる音が聞こえる。
巨体の重量が床に伝わり、まるで地響きのように棚の中まで震える。
音は――近づいてくる。
ドン……ドン……ドン……
(……来る……やっぱりダメだった!?)
ほんの一瞬、頭の中が真っ白になる。
身体がこわばる。動けない。逃げることも、祈ることすらできない。
そして――音が、止まった。
棚の向こう側で、気配が静止する。
「……ッ……」
恐る恐る、息を浅くする。
呼吸音さえ消した。
その時――
スン……ススン……グルル……
聞こえたのは、首を激しく動かす風のような音。
(もしかして……音で探ってる!?)
ただの暴力装置じゃない。
この“それ”は、聴覚で生き物を探している。
彼女は反射的に自分の手を、自分の口元に押し当てた。
恐怖で出そうになる息を、かろうじて押し殺す。
すると――
……スタ……スタ……
音が、遠ざかりはじめた。
彼女は、何も言わず、動かず、ひたすらそれを聞いていた。
そして、再び訪れる沈黙。
(………行ったの?)
恐る恐る、肩に力を入れていた両手を少しだけ緩める。
肺の中に溜まっていた息が、ようやく抜けていった。
手をゆっくりと降ろし、陰から体をずらすようにして棚の外へ。
一歩ずつ、音を立てないように動く。
顔を出すようにして、周囲を見渡す。
……それは、もう彼女の視界にはいなかった。
「……いない……」
ぽつりと呟いた声が、やけに大きく感じられた。
まるで、言葉にすることで安心を引き寄せようとしているようだった。
けれど、完全に消えたわけではない。
床に付いた巨大な血の足跡が、廊下の奥へと続いている。
(……私は……)
どこにいるのか。
なぜここにいるのか。
自分が誰なのか――
考えれば考えるほど、答えのない問いが心を支配していく。
けれど、“誰かが自分を助けてくれた”という痕跡が、確かにあった。
だからこそ、その人物が血を流していたとしても――
今、あれが徘徊しているこの状況で、血を追うのはあまりに無謀だった。
彼女は、判断した。
今はまず、この家から出ることが優先だ。
そうしなければ、いずれ自分も――“あれ”と同じように、血の跡になる。
ふらつく足で、壁に手をつきながら、彼女は玄関口へ向かった。
息を整え、最後の数歩を踏み出す。
そして――手を伸ばす。
ガチャ……ガチャガチャ……ッ
「……開かない……」
ドアノブを何度回しても、びくともしなかった。
錠前に何かがかかっているわけでもない。
だが、それでも、明らかに“外側から押さえられている”ような圧力が伝わってくる。
「鍵……鍵はどこ……?」
ドアの周囲を探す。
玄関マットの下、靴箱の中、傘立ての裏。
けれど、それらしいものは見つからない。
(閉じ込められてる……? いや……これって……)
まるで“誰かが意図して出られないようにしている”ようだった。
単に施錠されたというより、“封印”に近い感覚。
彼女がドアから一歩、距離を取ろうとしたその時――
グオアアアアアアアアアアアアアア!!!!!!!!!!
突如、家全体が震えるような叫び声が響いた。
「っ――!?」
その咆哮には、もはや“意思”すら感じられない。
怒りでも、悲しみでもない。
ただ、破壊のためだけに存在する獣の声。
彼女は咄嗟に背を向け、音のする方向を探った。
それは、目の前だ。
しかも、まるで最初から彼女の行動を見ていたかのように――
絶妙なタイミングで、音もなく姿を現した。
(……そんな、なんで……!)
体が凍りつく。
肺がうまく動かない。
喉が、乾いたまま声を出せない。
視界の端、廊下の奥。
暗闇の中から、大男のシルエットがふたたび現れる。
血濡れのエプロン。
赤黒い包丁。
そして、ゆっくりと、こちらへと顔を向けたその瞬間――
目が合った。
「――ッ!!」
逃げるしかない。
だが、玄関はもう、使えない。
(嫌だ!!! 死にたくない……!!!)
肉切り包丁が振り上げられる。
次の瞬間には、視界が血に染まっているはずだった。
――ドンッ!!
爆音のような銃声が、屋内に響いた。
刹那、振り下ろされかけた包丁が弾かれ、床に**ガンッ!**と落ちた。
「くたばれ、この化け物野郎…!」
低く荒々しい、男の声。
彼女は思わずそちらを振り返る。
廊下の奥――彼女を襲ったそれの後ろから、黒いスーツとも言える男の姿が見えていた。
手には、猟銃で使うものと思しきショットガンが握られていた。
銃口からはまだ、微かに煙が立ち上っている。
グ……ア……
低く、かすれた呻き声。
その大男は――
一瞬にして、背中から血を噴き出しながらその場に崩れ落ちた。
ドサッ
床板が軋み、廊下がわずかに揺れる。
「……倒れた……?」
彼女は信じられない思いで、その巨体を見つめた。
本当に……? あれが?
だが、動かない。
その異形の身体からは、音も息遣いも消えていた。
まるで、ようやく“電源が落ちた機械”のように。
撃った男は、銃口をゆっくりと下げると、深く息をついた。
「無事か?」
鋭い目で大男の死体を確認しつつ、彼は少しだけこちらに顔を向けた。
唐突すぎる質問に、彼女はしばらく何も答えられなかった。
ただ、頷く。
それだけで精一杯だった。
緊張の糸が、急激にほどける。
足がふらついた。
彼女がその場に膝をつくと、男はすぐに近づき、片膝をついて支えた。
「危ないところだったな……すぐここを離れよう」
彼の手は力強く、それでいて乱暴ではなかった。
彼女は少しだけ安心しながらも、震える声で訊ねた。
「でも……どこから……?」
男はちらりと後方を振り返り、倒れた大男を警戒しながら答えた。
「小部屋の窓から侵入した。玄関口が――鍵でも掛かってるのか、えらく固かったものでな。
あそこなら……出入りくらいならできる」
彼女はその言葉に目を見開いた。
玄関では絶望しかなかったこの家に、出られる手段があった――その事実が、胸の奥に微かな希望を灯した。
男はゆっくりと立ち上がり、彼女に手を差し出す。
「立てるか?」
「……うん」
掴んだ手は、少し冷たくて、少しだけ心強かった。
男はすぐに行動に移った。
小走りで廊下を戻りながら、後方を一度も見せない。
「ここで足止め喰らうのは得策じゃない。アレの仲間がいる可能性もある。
一匹いたなら、他にもいると考えるべきだ」
「仲間……?」
「詳細は後だ。まずはここを出る。立ち話には向かない場所だからな」
そう言うと男は、床に散らばった残骸を踏み越え、
一室の扉を開けて中へ入った。
そこは、彼女が見たことのない部屋だった。
古い机と崩れた棚、そして壁の向こうに――
半分割れている、細長い窓。
男はその前に立ち、手で窓枠の外を確認する。
「よし、外は雪だけだ。
あそこに車を停めてある。ついてこい」
彼女は頷き、後を追った。
そのとき、ふと振り返ってしまった。
あの廊下の奥、
倒れた大男の死体――その手が、一瞬のうちに消えていた。
目の錯覚か?
疲れと恐怖が見せた幻か?
……わからない。
だが、確かに“あった”はずのものが、そこにないという事実だけは、変わらなかった。
今はもう確かめる余裕もない。
だが、それでも、彼女の中で確認したいことがあった。
背中越しに、そっと声をかける。
「……あの、名前は……?」
男はわずかに歩を止め、振り返ることなく答えた。
「俺はヘルベルト。
民間自治組織《ダイレンジャビス》の、まぁいわゆるヘッドをやっている」
低く、だがはっきりとした声だった。
“責任を持つ者”の声。
命令ではなく、指針として語る声音だった。
彼女はその言葉を、静かに胸に刻んだ。
「君は……いや、まずは車に乗ってからだな」
そう言って、彼は再び窓の外へ身を乗り出す。
外は、まだ雪が降っていた。
地面には既に深い雪が積もり、月明かりに反射してぼんやりと白く光っている。
彼女は、その背中を追った。
崩れかけた窓枠を越えて外に出ると、すぐそばに一台の黒い四駆が止まっていた。
車体は雪と泥にまみれていたが、エンジンは既に温まっている。
「後部座席に乗れ。ドアは開けてある。寒さが本格化する前に出るぞ」
彼女は頷き、ドアを開けた。
車内はほんのり暖かく、
外とはまるで別世界のように静かだった。
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