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エピソード09:今できること -カルロッタ-
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避難所に逃げ込んで、一夜。
結局、あの黒ローブたちが追ってくることはなかった。
ガタついた鉄の扉も、補強された窓も、ついぞ破られることはなかった。
……いや、来なかったのではなく、入れなかったのだ。
ヴァルターの言っていた通り、この場所のバリケードはそれなりに徹底されていた。
それが功を奏したのだろう。
けれど、それでも油断はできなかった。
夜が明けて、空が白み始めても、胸の奥に張りついた不安は消えなかった。
それでも朝は来る。
たとえ、どんな夜を越えても。
カルロッタは、避難所の隅に積まれた食料備蓄の箱を前にしゃがみ込み、
手際よくカップ麺や缶詰、水のペットボトルを一つずつ仕分けていた。
「……ツナ缶2つ、クラッカー1袋、水1本。これで1人分かな……」
物音に気づいた避難民たちが、ぽつぽつと目を覚まし始める。
「おはようございます。……これ、朝ごはんです。少ないけど、分けてあります」
静かな声で、順番にパックを配っていく。
最初は誰もが遠慮がちだった。
けれど、昨日あの場所にいた人間――銃弾を掻い潜り、恐怖の中を逃げ延びた少女が自ら手を動かしていると知ると、
やがて一人、また一人と、素直にそれを受け取っていくようになった。
「……ありがとうな。助かるよ」
「うん。……大丈夫、きっと今日も無事でいられます」
そう言って微笑む自分の顔が、ちゃんと笑えていることにカルロッタは少し驚いた。
不安はある。
両親の消息もわからない。
何がどうして、街がこうなったのかも、まだ整理しきれていない。
カルロッタはひと通り配り終えると、ふぅ、と小さく息を吐いた。
昨日は逃げて、怯えて、泣きそうになって……
でも今はこうして、ほんの少しだけど「誰かの役に立てている」――
それが、胸の奥の“空っぽ”を少しだけ埋めてくれるような気がしていた。
「おい、カルロッタ。あんたの分、まだ残ってるぞ」
ヴァルターが声をかけてくる。
彼は缶詰をスプーンでぐるぐると混ぜながら、自分の分の水も差し出してくれた。
「……ありがとうございます。でも、先に他の人にあげてください」
「遠慮すんな。俺は昨日の夜、チョコバー2本も食ったからな。たぶん今、俺の血は半分カカオだ」
「いやそれ動脈硬化なんじゃねーの!?」
くすっと笑って、ペットボトルの水を受け取った。
ヴァルターは鉄パイプを背もたれにした即席の椅子に腰掛け、遠くの壁を見つめる。
「……思ったより、落ち着いてるな。あんた」
「そう、ですかね……多分、まだ怖がってる余裕もないだけです」
「それなら……今のうちにやれること、やっとくといい」
「やれること……」
カルロッタは手元の空き箱を見下ろした。
中には、すでに配り終えたパックの残骸や、食べ終わった人が返してきたゴミが詰まっている。
「……片付けでも、しましょうか。ちょっとは役に立てるかも」
「立派なもんだ。普通の子なら、まだ布団で震えてる」
「……たぶん、私もちょっと前までそうでしたよ。でも……」
彼女は言葉を切って、少しだけ目を伏せた。
「“音”を取り戻したいなって……ちょっとだけ、思ったんです」
「音?」
「……私、クラリネットやってて。昨日、リード買いに行った帰りだったんです。
家にはお父さんもお母さんもいなかった。
そして……あの黒いローブの人たちに、襲われて」
言葉にするたび、胸の奥がざわついた。
昨日の夜のことを、まだ“夢”として処理できていない自分がいる。
でも、それでも、伝えたかった。
“自分が何を失いかけたか”を、誰かに。
「……怖かった、です。本当に、死ぬって思いました。
だけど――
クラリネット、まだカバンにあって……それだけは、ずっと持ってて」
カルロッタは、自分の指先を見下ろす。
昨日、あの暗い夜道でリュックの中を握りしめながら走った。
割れたガラス、飛び交う銃弾、足元の痛み。
でも、楽器だけは絶対に落とさなかった。
「なんか……変ですよね。
人が死ぬかもしれないって時に、楽器のことなんて……」
「変じゃねえよ」
ヴァルターの声は短く、でもやけに優しかった。
「大事なもんってのは、そういう時ほど忘れねぇもんだ。
心が真っ白になっても、最後に手ぇ伸ばすのは、いつも“自分が守りたかったもん”なんだよ」
「……」
「お前にとっては、それが“音”だったんだろ?」
カルロッタは、胸の奥でふっと何かがほぐれるのを感じた。
涙は出なかった。泣くにはもう、少しだけ強くなってしまった。
「……たぶん、そうです。
“音”が、私にとっての“普通”だったんだと思います。
だから……もう一回、ちゃんと吹けるようになりたい。いつかまた、仲間たちと演奏できるように」
「……いい目してるな」
「え?」
「そういう目は、簡単に死なねぇよ」
不器用な褒め方だ。でも、カルロッタはそれが妙に嬉しかった。
カルロッタはゆっくりとリュックの中に手を伸ばした。
クラリネットのケースに、静かに手を添える。
確かにそこに“音の気配”がある。
この音が、また自分を取り戻すきっかけになるかもしれない。
誰かと繋がる希望になるかもしれない。
まだ“終わってない”と思えたことが、なによりも救いだった。
――――――――――――――――――
カルロッタは、クラリネットのケースを膝の上でゆっくりと開けた。
懐かしい木の匂いと、整然と並ぶ黒いパーツたち。
「おねーちゃん、それ、楽器?」
声がして、ふと顔を上げると、小さな女の子と、その後ろに弟らしき男の子が立っていた。
2人ともパーカーにくたびれたジーンズ姿。緊張した面持ちで、でも興味は隠しきれていない。
「うん、クラリネットっていう楽器だよ」
「ふーん……ふくの? いま?」
「うーん……吹きたいんだけど、いいのかなあ…」
そっと視線をヴァルターに送ると、彼は無言で、しかし少しニヤッとしていた。
(……ほんとに不器用な人。 でも、吹いていいんだ…!)
「……じゃあ、ちょっとだけ、ね」
カルロッタは小さく笑って、リードを慎重に取り出した。
それをマウスピースにそっと取りつけ、ねじを締める手にほんの少し力が入る。
避難所の空気が、静かになった。
子どもたちは固唾をのんで見守っている。
ヴァルターは腕を組んで壁にもたれたまま、なにも言わずに目を細めていた。
(音を出すって、つまり“自分がここにいる”って言うことなんだ)
それは、まだ世界が穏やかだった頃には、何も考えずにしていたことだった。
でも今――この音が誰かを癒すかもしれないし、誰かを呼んでしまうかもしれない。
それでも。
(……私は、吹きたい)
カルロッタは深く息を吸い、クラリネットを構えた。
音は、恐る恐るではなく、むしろしっかりと、柔らかく響いた。
最初の一音だけで、避難所の空気がわずかに揺れた気がした。
子どもたちは目を輝かせ、他の避難者もちらちらとこちらを見る。
けれど、誰も咎めなかった。
カルロッタは目を閉じ、小さくメロディを紡ぐ。
それは、春の日のようにやさしく、けれどどこか、遠くを見つめるような音。
ほんの30秒ほどの演奏だった。
それでも、終わったとき――避難所の誰もが、その余韻に包まれていた。
「……すごい……」
子どもたちがぽつりと呟いた。
カルロッタは照れくさそうに笑って、クラリネットを抱えたまま深く息を吐いた。
「ねえねえ! 他の曲は!? ぼく『人生のメリーゴーランド』聞きたい!!」
「あたし『君をのせて』!!」
「ふふ、分かった分かった」
「それでねー、ゴーストオブツシマの『鑓川の冥人』もいいー??」
カルロッタはクラリネットを持ったまま、盛大にずっこけるように肩を落とした。
「君何歳だっけ???
ゴーストオブツシマってCERO Zだから小さい子はダメなんだけどなぁ、お姉ちゃん感心しないぞ!
確かにアレのおかげで日本の対馬が賑わったけどさぁ…」
「えーでもパパがやってたもん!」
「それを君に見せるパパの罪は重いぞ。
あと『冥人』って読むの何年生で習うの? 読めるのすごいけどちょっと心配だよ!」
「あと、うち、エルデンリングもやってる!」
「完全にゲーマー一家じゃん!! じゃあそのうちマレニアも倒しそうな勢いじゃん!!」
「マレニアは、お兄ちゃんが一回だけ勝ったって!」
「え!? それもう尊敬するやつ!! 逆に私より精神強いかもしれないよ!?」
子どもたちはケラケラと笑って、クラリネットを囲んでぴょこぴょこ跳ねていた。
その様子に、周囲の大人たちもつられて柔らかく笑みを浮かべ始める。
「……いいな。音楽ってのは、やっぱりこうじゃなきゃね」
そんな声が、小さく避難所の一角から聞こえた。
カルロッタは、クラリネットを抱え直してにっこり笑った。
「じゃあ、リクエスト全部はムリだけど……何曲かだけやってみよっか!」
「やったー!!」
「マレニアのBGMも!」
「それは無理!!!! てか管楽器向きじゃない!!!!」
「ええー、そこをなんとか……」
「しらんがな!!!!」
――――――――――――――――――
演奏を一通り終えると、子どもたちは「また聞かせてね!」「今度はマレニアやってね!」と口々に言いながら、満足そうにその場を後にした。
彼らの足音が遠ざかっていくと、避難所の一角に静けさが戻る。
クラリネットをそっと膝に置き、カルロッタは深く息を吐いた。
(……やっぱり、音楽っていいな)
目を閉じると、いまの音の余韻がまだ耳の奥に残っていた。
そしてそれだけじゃない。
子どもたちの笑顔、大人たちの緊張のほぐれた表情、
それらが静かに胸の奥に積もっていく。
クラリネットのベルに触れながら、カルロッタは自分の手が少し震えていることに気づいた。
(ああ、わたし、緊張してたんだ)
人の前で吹くのは、慣れているはずだった。
でも、“生きるか死ぬか”の場所で音を出すことは――
これまでのどんな本番よりも、覚悟が必要だった。
それでも。
「……吹いてよかった」
ポツリとこぼれた言葉は、誰に向けたわけでもなかったけれど、
たまたま近くにいたヴァルターが、それに応えるように呟いた。
「あんたの音、子供たちだけじゃねえ。……大人にも、効いたぜ」
「え?」
「ずっと張り詰めてた空気が、ちょっとだけ緩んだ。……ありがとな」
不器用な男の、不器用な感謝。
でもその言葉に、カルロッタは自然と笑みを浮かべていた。
「……じゃあ、また何か吹いてもいいですか?」
「もちろんだ。ただし“ゴーストオブツシマのBGM”は許可制な」
「それヴァルターさんが言うんですか!?」
「心の平穏を守る立場としてな。
境井仁が蒙古の首を跳ね飛ばして武士から冥人に変わる、あんな修羅なBGMが日常になったら胃に穴が開くわ」
二人の笑い声が、静かな避難所に優しく響いた。
(……ここが、居場所になればいい)
そう思ったとき、カルロッタの中で、ほんの少しだけ“失ったもの”への渇きが和らいだ気がした。
彼女はクラリネットを丁寧に分解し、クロスでひとつひとつのパーツを拭きながら、
次はどんな曲を吹こうか、静かに考えていた。
(あ、でもみんなにご飯配らなくちゃ……)
思い出したように顔を上げ、クラリネットの片付けを急ぐ。
その時だった。
――ガタン。
鈍い、重たい音が、避難所の奥の方から響いた。
「ん…? なんだ?」
ヴァルターが音に気づき、眉をひそめる。
壁際に立てかけていた工具を手に取り、慎重に物音の方向を見やる。
「どうかしたんですか?」
「いや……音が鳴った。奥の搬入口のあたりだ」
「え? それってまさか……!」
「……奴らかもしれない」
カルロッタの背筋に、冷たいものが走る。
さっきまで心にあった“音楽の余韻”が、霧のようにかき消えていく。
「そこの人と見てくる。あんたはここにいてくれ」
ヴァルターは周囲にいた屈強そうな男性に軽く顎をしゃくると、自ら音の鳴る方向へと歩き出した。
「大丈夫なんですか?」
「ここを取り仕切ってるのは俺だ。心配しなくていいさ」
その背中は、たしかに頼もしく見えた。
けれど、どこか心の奥には、不安が引っかかっていた。
(……大丈夫だといいけど)
カルロッタは、ひとまず荷物のそばに戻り、椅子に腰掛けて小さく息をついた。
その時だった。
背後から――ふわりと、妙な気配が近づいた。
え?
振り返る間もなく、冷たい布の感触が口元を塞いだ。
(んぐっ!? な、なにこれ!?)
息を吸おうとした瞬間、鼻腔を刺激するツンとした匂いが喉を焼いた。
(……薬品!? やばい、これ――!)
暴れようとするが、力が入らない。
腕を掴まれ、体が引きずられる。
椅子がガタンと倒れ、リュックが床に転がる音が聞こえた。
(だ、誰……!? なんで、こんな……!?)
視界が揺れる。
身体がじわじわと沈んでいく。
耳鳴りがして、周囲の音が遠くなる。
誰かの足音も、声も、全部水の中みたいにくぐもっていく――
「よぉーしいい子だ……そのまま寝てくれよなぁ。
お前の『おともだち』の指示だからなぁ……」
(なに……言って……? たすけて……ヴァルターさん……
お父さん……お母さん……!)
最後に思い浮かんだのは、クラリネットの音だった。
さっきまで、あんなに穏やかだったのに。
カルロッタの意識は、ゆっくりと闇に沈んでいった。
その数分後。
「カルロッタ、今戻――」
ヴァルターが避難所に戻ってきて、違和感に眉をひそめた。
「……あれ?」
床に転がる、倒れた椅子。
その下に落ちたままのリュック。
誰の姿も、ない。
「お、おい!! あんた、カルロッタを見なかったか!?」
「え? あのクラリネットを吹いてた嬢ちゃんか? ……見てないぞ」
「じゃ、あんたは!?」
「んん? 確かにさっきまでそこにいたんだけど……どこいったんだ?」
「クラリネットのおねーちゃん? 分かんない。どこいっちゃったんだろー?」
「……っ、クソッ!」
ヴァルターは舌打ちし、周囲を見渡した。
避難所にいる人間は十数人。
誰もがカルロッタが消えたことに気づいていなかった。
騒ぎも音もなかったのに、突然“いなくなった”――それが逆に異常だった。
彼女のリュックは手つかずのまま落ちている。
クラリネットも、まだ片付けられたまま。
(本人がどこかへ行ったわけじゃない。強制的に――連れ去られた)
冷たい汗が首筋を伝った。
「おい! 全員聞け!! 誰でもいい、さっきこの場を離れてたやつはいないか!?
飲み水取りに行ってた、トイレに行ってた、なんでもいい!! 何か見てないか!!」
その声に、避難者たちがざわざわと顔を見合わせる。
「……俺、トイレに行ってたけど……何も見てねえな」
「私、調理場のほうにいたけど、特に変わったことは……」
「そもそも、外に出た奴なんていなかったぞ?」
「じゃあ誰が――」
その時、ヴァルターの脳裏に浮かんだのは、“音がした”というあの搬入口の一件。
(まさか……アレは囮か!?)
カルロッタに“ここで待ってろ”と言って、自分が目を離した、その隙に――
(裏からまわって、内部に潜伏していた“誰か”が……!?)
ヴァルターの表情が凍りつく。
(彼女がいなくなった形跡がなにも分からん……)
リュックは残っている。
騒ぎも悲鳴もなかった。
倒れた椅子と、床に散ったクロスがなければ――まるで、最初から存在しなかったみたいだ。
(相当な手慣れだ。隙を狙って、無音で、痕跡をほとんど残さず……)
ヴァルターは奥歯を噛みしめた。
自分が目を離した、そのタイミングを“正確に”狙ってきた――それが何より腹立たしかった。
(だが……ここにいる人たちがやったとは思えん)
避難者の顔をぐるりと見渡す。
驚き、混乱、あるいは純粋な無知。
どの顔にも“演技の影”は見えなかった。
内通者の線は薄い……少なくとも、今の段階では。
(やはり、外部の人間が攫いやがったのか……?)
だが、そう考えた瞬間――さらに大きな疑問が胸を刺した。
(なら、なんでカルロッタなんだ?
こんな状況で、避難所から人間を一人だけピンポイントで連れ去る理由が……なんだ?)
彼女はクラリネットを吹いてただけだ。
子どもたちに音を届けていた、ただの学生。
なのに――
その倒れた椅子と置き去りにされたリュックは、何も答えない。
結局、あの黒ローブたちが追ってくることはなかった。
ガタついた鉄の扉も、補強された窓も、ついぞ破られることはなかった。
……いや、来なかったのではなく、入れなかったのだ。
ヴァルターの言っていた通り、この場所のバリケードはそれなりに徹底されていた。
それが功を奏したのだろう。
けれど、それでも油断はできなかった。
夜が明けて、空が白み始めても、胸の奥に張りついた不安は消えなかった。
それでも朝は来る。
たとえ、どんな夜を越えても。
カルロッタは、避難所の隅に積まれた食料備蓄の箱を前にしゃがみ込み、
手際よくカップ麺や缶詰、水のペットボトルを一つずつ仕分けていた。
「……ツナ缶2つ、クラッカー1袋、水1本。これで1人分かな……」
物音に気づいた避難民たちが、ぽつぽつと目を覚まし始める。
「おはようございます。……これ、朝ごはんです。少ないけど、分けてあります」
静かな声で、順番にパックを配っていく。
最初は誰もが遠慮がちだった。
けれど、昨日あの場所にいた人間――銃弾を掻い潜り、恐怖の中を逃げ延びた少女が自ら手を動かしていると知ると、
やがて一人、また一人と、素直にそれを受け取っていくようになった。
「……ありがとうな。助かるよ」
「うん。……大丈夫、きっと今日も無事でいられます」
そう言って微笑む自分の顔が、ちゃんと笑えていることにカルロッタは少し驚いた。
不安はある。
両親の消息もわからない。
何がどうして、街がこうなったのかも、まだ整理しきれていない。
カルロッタはひと通り配り終えると、ふぅ、と小さく息を吐いた。
昨日は逃げて、怯えて、泣きそうになって……
でも今はこうして、ほんの少しだけど「誰かの役に立てている」――
それが、胸の奥の“空っぽ”を少しだけ埋めてくれるような気がしていた。
「おい、カルロッタ。あんたの分、まだ残ってるぞ」
ヴァルターが声をかけてくる。
彼は缶詰をスプーンでぐるぐると混ぜながら、自分の分の水も差し出してくれた。
「……ありがとうございます。でも、先に他の人にあげてください」
「遠慮すんな。俺は昨日の夜、チョコバー2本も食ったからな。たぶん今、俺の血は半分カカオだ」
「いやそれ動脈硬化なんじゃねーの!?」
くすっと笑って、ペットボトルの水を受け取った。
ヴァルターは鉄パイプを背もたれにした即席の椅子に腰掛け、遠くの壁を見つめる。
「……思ったより、落ち着いてるな。あんた」
「そう、ですかね……多分、まだ怖がってる余裕もないだけです」
「それなら……今のうちにやれること、やっとくといい」
「やれること……」
カルロッタは手元の空き箱を見下ろした。
中には、すでに配り終えたパックの残骸や、食べ終わった人が返してきたゴミが詰まっている。
「……片付けでも、しましょうか。ちょっとは役に立てるかも」
「立派なもんだ。普通の子なら、まだ布団で震えてる」
「……たぶん、私もちょっと前までそうでしたよ。でも……」
彼女は言葉を切って、少しだけ目を伏せた。
「“音”を取り戻したいなって……ちょっとだけ、思ったんです」
「音?」
「……私、クラリネットやってて。昨日、リード買いに行った帰りだったんです。
家にはお父さんもお母さんもいなかった。
そして……あの黒いローブの人たちに、襲われて」
言葉にするたび、胸の奥がざわついた。
昨日の夜のことを、まだ“夢”として処理できていない自分がいる。
でも、それでも、伝えたかった。
“自分が何を失いかけたか”を、誰かに。
「……怖かった、です。本当に、死ぬって思いました。
だけど――
クラリネット、まだカバンにあって……それだけは、ずっと持ってて」
カルロッタは、自分の指先を見下ろす。
昨日、あの暗い夜道でリュックの中を握りしめながら走った。
割れたガラス、飛び交う銃弾、足元の痛み。
でも、楽器だけは絶対に落とさなかった。
「なんか……変ですよね。
人が死ぬかもしれないって時に、楽器のことなんて……」
「変じゃねえよ」
ヴァルターの声は短く、でもやけに優しかった。
「大事なもんってのは、そういう時ほど忘れねぇもんだ。
心が真っ白になっても、最後に手ぇ伸ばすのは、いつも“自分が守りたかったもん”なんだよ」
「……」
「お前にとっては、それが“音”だったんだろ?」
カルロッタは、胸の奥でふっと何かがほぐれるのを感じた。
涙は出なかった。泣くにはもう、少しだけ強くなってしまった。
「……たぶん、そうです。
“音”が、私にとっての“普通”だったんだと思います。
だから……もう一回、ちゃんと吹けるようになりたい。いつかまた、仲間たちと演奏できるように」
「……いい目してるな」
「え?」
「そういう目は、簡単に死なねぇよ」
不器用な褒め方だ。でも、カルロッタはそれが妙に嬉しかった。
カルロッタはゆっくりとリュックの中に手を伸ばした。
クラリネットのケースに、静かに手を添える。
確かにそこに“音の気配”がある。
この音が、また自分を取り戻すきっかけになるかもしれない。
誰かと繋がる希望になるかもしれない。
まだ“終わってない”と思えたことが、なによりも救いだった。
――――――――――――――――――
カルロッタは、クラリネットのケースを膝の上でゆっくりと開けた。
懐かしい木の匂いと、整然と並ぶ黒いパーツたち。
「おねーちゃん、それ、楽器?」
声がして、ふと顔を上げると、小さな女の子と、その後ろに弟らしき男の子が立っていた。
2人ともパーカーにくたびれたジーンズ姿。緊張した面持ちで、でも興味は隠しきれていない。
「うん、クラリネットっていう楽器だよ」
「ふーん……ふくの? いま?」
「うーん……吹きたいんだけど、いいのかなあ…」
そっと視線をヴァルターに送ると、彼は無言で、しかし少しニヤッとしていた。
(……ほんとに不器用な人。 でも、吹いていいんだ…!)
「……じゃあ、ちょっとだけ、ね」
カルロッタは小さく笑って、リードを慎重に取り出した。
それをマウスピースにそっと取りつけ、ねじを締める手にほんの少し力が入る。
避難所の空気が、静かになった。
子どもたちは固唾をのんで見守っている。
ヴァルターは腕を組んで壁にもたれたまま、なにも言わずに目を細めていた。
(音を出すって、つまり“自分がここにいる”って言うことなんだ)
それは、まだ世界が穏やかだった頃には、何も考えずにしていたことだった。
でも今――この音が誰かを癒すかもしれないし、誰かを呼んでしまうかもしれない。
それでも。
(……私は、吹きたい)
カルロッタは深く息を吸い、クラリネットを構えた。
音は、恐る恐るではなく、むしろしっかりと、柔らかく響いた。
最初の一音だけで、避難所の空気がわずかに揺れた気がした。
子どもたちは目を輝かせ、他の避難者もちらちらとこちらを見る。
けれど、誰も咎めなかった。
カルロッタは目を閉じ、小さくメロディを紡ぐ。
それは、春の日のようにやさしく、けれどどこか、遠くを見つめるような音。
ほんの30秒ほどの演奏だった。
それでも、終わったとき――避難所の誰もが、その余韻に包まれていた。
「……すごい……」
子どもたちがぽつりと呟いた。
カルロッタは照れくさそうに笑って、クラリネットを抱えたまま深く息を吐いた。
「ねえねえ! 他の曲は!? ぼく『人生のメリーゴーランド』聞きたい!!」
「あたし『君をのせて』!!」
「ふふ、分かった分かった」
「それでねー、ゴーストオブツシマの『鑓川の冥人』もいいー??」
カルロッタはクラリネットを持ったまま、盛大にずっこけるように肩を落とした。
「君何歳だっけ???
ゴーストオブツシマってCERO Zだから小さい子はダメなんだけどなぁ、お姉ちゃん感心しないぞ!
確かにアレのおかげで日本の対馬が賑わったけどさぁ…」
「えーでもパパがやってたもん!」
「それを君に見せるパパの罪は重いぞ。
あと『冥人』って読むの何年生で習うの? 読めるのすごいけどちょっと心配だよ!」
「あと、うち、エルデンリングもやってる!」
「完全にゲーマー一家じゃん!! じゃあそのうちマレニアも倒しそうな勢いじゃん!!」
「マレニアは、お兄ちゃんが一回だけ勝ったって!」
「え!? それもう尊敬するやつ!! 逆に私より精神強いかもしれないよ!?」
子どもたちはケラケラと笑って、クラリネットを囲んでぴょこぴょこ跳ねていた。
その様子に、周囲の大人たちもつられて柔らかく笑みを浮かべ始める。
「……いいな。音楽ってのは、やっぱりこうじゃなきゃね」
そんな声が、小さく避難所の一角から聞こえた。
カルロッタは、クラリネットを抱え直してにっこり笑った。
「じゃあ、リクエスト全部はムリだけど……何曲かだけやってみよっか!」
「やったー!!」
「マレニアのBGMも!」
「それは無理!!!! てか管楽器向きじゃない!!!!」
「ええー、そこをなんとか……」
「しらんがな!!!!」
――――――――――――――――――
演奏を一通り終えると、子どもたちは「また聞かせてね!」「今度はマレニアやってね!」と口々に言いながら、満足そうにその場を後にした。
彼らの足音が遠ざかっていくと、避難所の一角に静けさが戻る。
クラリネットをそっと膝に置き、カルロッタは深く息を吐いた。
(……やっぱり、音楽っていいな)
目を閉じると、いまの音の余韻がまだ耳の奥に残っていた。
そしてそれだけじゃない。
子どもたちの笑顔、大人たちの緊張のほぐれた表情、
それらが静かに胸の奥に積もっていく。
クラリネットのベルに触れながら、カルロッタは自分の手が少し震えていることに気づいた。
(ああ、わたし、緊張してたんだ)
人の前で吹くのは、慣れているはずだった。
でも、“生きるか死ぬか”の場所で音を出すことは――
これまでのどんな本番よりも、覚悟が必要だった。
それでも。
「……吹いてよかった」
ポツリとこぼれた言葉は、誰に向けたわけでもなかったけれど、
たまたま近くにいたヴァルターが、それに応えるように呟いた。
「あんたの音、子供たちだけじゃねえ。……大人にも、効いたぜ」
「え?」
「ずっと張り詰めてた空気が、ちょっとだけ緩んだ。……ありがとな」
不器用な男の、不器用な感謝。
でもその言葉に、カルロッタは自然と笑みを浮かべていた。
「……じゃあ、また何か吹いてもいいですか?」
「もちろんだ。ただし“ゴーストオブツシマのBGM”は許可制な」
「それヴァルターさんが言うんですか!?」
「心の平穏を守る立場としてな。
境井仁が蒙古の首を跳ね飛ばして武士から冥人に変わる、あんな修羅なBGMが日常になったら胃に穴が開くわ」
二人の笑い声が、静かな避難所に優しく響いた。
(……ここが、居場所になればいい)
そう思ったとき、カルロッタの中で、ほんの少しだけ“失ったもの”への渇きが和らいだ気がした。
彼女はクラリネットを丁寧に分解し、クロスでひとつひとつのパーツを拭きながら、
次はどんな曲を吹こうか、静かに考えていた。
(あ、でもみんなにご飯配らなくちゃ……)
思い出したように顔を上げ、クラリネットの片付けを急ぐ。
その時だった。
――ガタン。
鈍い、重たい音が、避難所の奥の方から響いた。
「ん…? なんだ?」
ヴァルターが音に気づき、眉をひそめる。
壁際に立てかけていた工具を手に取り、慎重に物音の方向を見やる。
「どうかしたんですか?」
「いや……音が鳴った。奥の搬入口のあたりだ」
「え? それってまさか……!」
「……奴らかもしれない」
カルロッタの背筋に、冷たいものが走る。
さっきまで心にあった“音楽の余韻”が、霧のようにかき消えていく。
「そこの人と見てくる。あんたはここにいてくれ」
ヴァルターは周囲にいた屈強そうな男性に軽く顎をしゃくると、自ら音の鳴る方向へと歩き出した。
「大丈夫なんですか?」
「ここを取り仕切ってるのは俺だ。心配しなくていいさ」
その背中は、たしかに頼もしく見えた。
けれど、どこか心の奥には、不安が引っかかっていた。
(……大丈夫だといいけど)
カルロッタは、ひとまず荷物のそばに戻り、椅子に腰掛けて小さく息をついた。
その時だった。
背後から――ふわりと、妙な気配が近づいた。
え?
振り返る間もなく、冷たい布の感触が口元を塞いだ。
(んぐっ!? な、なにこれ!?)
息を吸おうとした瞬間、鼻腔を刺激するツンとした匂いが喉を焼いた。
(……薬品!? やばい、これ――!)
暴れようとするが、力が入らない。
腕を掴まれ、体が引きずられる。
椅子がガタンと倒れ、リュックが床に転がる音が聞こえた。
(だ、誰……!? なんで、こんな……!?)
視界が揺れる。
身体がじわじわと沈んでいく。
耳鳴りがして、周囲の音が遠くなる。
誰かの足音も、声も、全部水の中みたいにくぐもっていく――
「よぉーしいい子だ……そのまま寝てくれよなぁ。
お前の『おともだち』の指示だからなぁ……」
(なに……言って……? たすけて……ヴァルターさん……
お父さん……お母さん……!)
最後に思い浮かんだのは、クラリネットの音だった。
さっきまで、あんなに穏やかだったのに。
カルロッタの意識は、ゆっくりと闇に沈んでいった。
その数分後。
「カルロッタ、今戻――」
ヴァルターが避難所に戻ってきて、違和感に眉をひそめた。
「……あれ?」
床に転がる、倒れた椅子。
その下に落ちたままのリュック。
誰の姿も、ない。
「お、おい!! あんた、カルロッタを見なかったか!?」
「え? あのクラリネットを吹いてた嬢ちゃんか? ……見てないぞ」
「じゃ、あんたは!?」
「んん? 確かにさっきまでそこにいたんだけど……どこいったんだ?」
「クラリネットのおねーちゃん? 分かんない。どこいっちゃったんだろー?」
「……っ、クソッ!」
ヴァルターは舌打ちし、周囲を見渡した。
避難所にいる人間は十数人。
誰もがカルロッタが消えたことに気づいていなかった。
騒ぎも音もなかったのに、突然“いなくなった”――それが逆に異常だった。
彼女のリュックは手つかずのまま落ちている。
クラリネットも、まだ片付けられたまま。
(本人がどこかへ行ったわけじゃない。強制的に――連れ去られた)
冷たい汗が首筋を伝った。
「おい! 全員聞け!! 誰でもいい、さっきこの場を離れてたやつはいないか!?
飲み水取りに行ってた、トイレに行ってた、なんでもいい!! 何か見てないか!!」
その声に、避難者たちがざわざわと顔を見合わせる。
「……俺、トイレに行ってたけど……何も見てねえな」
「私、調理場のほうにいたけど、特に変わったことは……」
「そもそも、外に出た奴なんていなかったぞ?」
「じゃあ誰が――」
その時、ヴァルターの脳裏に浮かんだのは、“音がした”というあの搬入口の一件。
(まさか……アレは囮か!?)
カルロッタに“ここで待ってろ”と言って、自分が目を離した、その隙に――
(裏からまわって、内部に潜伏していた“誰か”が……!?)
ヴァルターの表情が凍りつく。
(彼女がいなくなった形跡がなにも分からん……)
リュックは残っている。
騒ぎも悲鳴もなかった。
倒れた椅子と、床に散ったクロスがなければ――まるで、最初から存在しなかったみたいだ。
(相当な手慣れだ。隙を狙って、無音で、痕跡をほとんど残さず……)
ヴァルターは奥歯を噛みしめた。
自分が目を離した、そのタイミングを“正確に”狙ってきた――それが何より腹立たしかった。
(だが……ここにいる人たちがやったとは思えん)
避難者の顔をぐるりと見渡す。
驚き、混乱、あるいは純粋な無知。
どの顔にも“演技の影”は見えなかった。
内通者の線は薄い……少なくとも、今の段階では。
(やはり、外部の人間が攫いやがったのか……?)
だが、そう考えた瞬間――さらに大きな疑問が胸を刺した。
(なら、なんでカルロッタなんだ?
こんな状況で、避難所から人間を一人だけピンポイントで連れ去る理由が……なんだ?)
彼女はクラリネットを吹いてただけだ。
子どもたちに音を届けていた、ただの学生。
なのに――
その倒れた椅子と置き去りにされたリュックは、何も答えない。
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