DYING MEMORY

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エピソード09:今できること -カルロッタ-

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避難所に逃げ込んで、一夜。

結局、あの黒ローブたちが追ってくることはなかった。
ガタついた鉄の扉も、補強された窓も、ついぞ破られることはなかった。

……いや、来なかったのではなく、入れなかったのだ。
ヴァルターの言っていた通り、この場所のバリケードはそれなりに徹底されていた。
それが功を奏したのだろう。

けれど、それでも油断はできなかった。
夜が明けて、空が白み始めても、胸の奥に張りついた不安は消えなかった。

それでも朝は来る。
たとえ、どんな夜を越えても。

カルロッタは、避難所の隅に積まれた食料備蓄の箱を前にしゃがみ込み、
手際よくカップ麺や缶詰、水のペットボトルを一つずつ仕分けていた。

「……ツナ缶2つ、クラッカー1袋、水1本。これで1人分かな……」



物音に気づいた避難民たちが、ぽつぽつと目を覚まし始める。

「おはようございます。……これ、朝ごはんです。少ないけど、分けてあります」

静かな声で、順番にパックを配っていく。

最初は誰もが遠慮がちだった。
けれど、昨日あの場所にいた人間――銃弾を掻い潜り、恐怖の中を逃げ延びた少女が自ら手を動かしていると知ると、
やがて一人、また一人と、素直にそれを受け取っていくようになった。

「……ありがとうな。助かるよ」

「うん。……大丈夫、きっと今日も無事でいられます」

そう言って微笑む自分の顔が、ちゃんと笑えていることにカルロッタは少し驚いた。

不安はある。
両親の消息もわからない。
何がどうして、街がこうなったのかも、まだ整理しきれていない。

カルロッタはひと通り配り終えると、ふぅ、と小さく息を吐いた。

昨日は逃げて、怯えて、泣きそうになって……
でも今はこうして、ほんの少しだけど「誰かの役に立てている」――
それが、胸の奥の“空っぽ”を少しだけ埋めてくれるような気がしていた。

「おい、カルロッタ。あんたの分、まだ残ってるぞ」

ヴァルターが声をかけてくる。
彼は缶詰をスプーンでぐるぐると混ぜながら、自分の分の水も差し出してくれた。

「……ありがとうございます。でも、先に他の人にあげてください」

「遠慮すんな。俺は昨日の夜、チョコバー2本も食ったからな。たぶん今、俺の血は半分カカオだ」

「いやそれ動脈硬化なんじゃねーの!?」

くすっと笑って、ペットボトルの水を受け取った。

ヴァルターは鉄パイプを背もたれにした即席の椅子に腰掛け、遠くの壁を見つめる。

「……思ったより、落ち着いてるな。あんた」

「そう、ですかね……多分、まだ怖がってる余裕もないだけです」

「それなら……今のうちにやれること、やっとくといい」

「やれること……」

カルロッタは手元の空き箱を見下ろした。
中には、すでに配り終えたパックの残骸や、食べ終わった人が返してきたゴミが詰まっている。

「……片付けでも、しましょうか。ちょっとは役に立てるかも」

「立派なもんだ。普通の子なら、まだ布団で震えてる」

「……たぶん、私もちょっと前までそうでしたよ。でも……」

彼女は言葉を切って、少しだけ目を伏せた。

「“音”を取り戻したいなって……ちょっとだけ、思ったんです」

「音?」

「……私、クラリネットやってて。昨日、リード買いに行った帰りだったんです。
 家にはお父さんもお母さんもいなかった。
 そして……あの黒いローブの人たちに、襲われて」

言葉にするたび、胸の奥がざわついた。
昨日の夜のことを、まだ“夢”として処理できていない自分がいる。
でも、それでも、伝えたかった。
“自分が何を失いかけたか”を、誰かに。

「……怖かった、です。本当に、死ぬって思いました。
 だけど――
 クラリネット、まだカバンにあって……それだけは、ずっと持ってて」

カルロッタは、自分の指先を見下ろす。
昨日、あの暗い夜道でリュックの中を握りしめながら走った。
割れたガラス、飛び交う銃弾、足元の痛み。
でも、楽器だけは絶対に落とさなかった。

「なんか……変ですよね。
 人が死ぬかもしれないって時に、楽器のことなんて……」

「変じゃねえよ」

ヴァルターの声は短く、でもやけに優しかった。

「大事なもんってのは、そういう時ほど忘れねぇもんだ。
 心が真っ白になっても、最後に手ぇ伸ばすのは、いつも“自分が守りたかったもん”なんだよ」

「……」

「お前にとっては、それが“音”だったんだろ?」

カルロッタは、胸の奥でふっと何かがほぐれるのを感じた。
涙は出なかった。泣くにはもう、少しだけ強くなってしまった。

「……たぶん、そうです。
 “音”が、私にとっての“普通”だったんだと思います。
 だから……もう一回、ちゃんと吹けるようになりたい。いつかまた、仲間たちと演奏できるように」

「……いい目してるな」

「え?」

「そういう目は、簡単に死なねぇよ」

不器用な褒め方だ。でも、カルロッタはそれが妙に嬉しかった。

カルロッタはゆっくりとリュックの中に手を伸ばした。
クラリネットのケースに、静かに手を添える。
確かにそこに“音の気配”がある。

この音が、また自分を取り戻すきっかけになるかもしれない。
誰かと繋がる希望になるかもしれない。

まだ“終わってない”と思えたことが、なによりも救いだった。

――――――――――――――――――

カルロッタは、クラリネットのケースを膝の上でゆっくりと開けた。
懐かしい木の匂いと、整然と並ぶ黒いパーツたち。

「おねーちゃん、それ、楽器?」

声がして、ふと顔を上げると、小さな女の子と、その後ろに弟らしき男の子が立っていた。
2人ともパーカーにくたびれたジーンズ姿。緊張した面持ちで、でも興味は隠しきれていない。

「うん、クラリネットっていう楽器だよ」

「ふーん……ふくの? いま?」

「うーん……吹きたいんだけど、いいのかなあ…」

そっと視線をヴァルターに送ると、彼は無言で、しかし少しニヤッとしていた。

(……ほんとに不器用な人。 でも、吹いていいんだ…!)

「……じゃあ、ちょっとだけ、ね」

カルロッタは小さく笑って、リードを慎重に取り出した。
それをマウスピースにそっと取りつけ、ねじを締める手にほんの少し力が入る。

避難所の空気が、静かになった。

子どもたちは固唾をのんで見守っている。
ヴァルターは腕を組んで壁にもたれたまま、なにも言わずに目を細めていた。

(音を出すって、つまり“自分がここにいる”って言うことなんだ)

それは、まだ世界が穏やかだった頃には、何も考えずにしていたことだった。
でも今――この音が誰かを癒すかもしれないし、誰かを呼んでしまうかもしれない。

それでも。

(……私は、吹きたい)

カルロッタは深く息を吸い、クラリネットを構えた。

音は、恐る恐るではなく、むしろしっかりと、柔らかく響いた。
最初の一音だけで、避難所の空気がわずかに揺れた気がした。

子どもたちは目を輝かせ、他の避難者もちらちらとこちらを見る。
けれど、誰も咎めなかった。

カルロッタは目を閉じ、小さくメロディを紡ぐ。
それは、春の日のようにやさしく、けれどどこか、遠くを見つめるような音。



ほんの30秒ほどの演奏だった。

それでも、終わったとき――避難所の誰もが、その余韻に包まれていた。

「……すごい……」

子どもたちがぽつりと呟いた。

カルロッタは照れくさそうに笑って、クラリネットを抱えたまま深く息を吐いた。

「ねえねえ! 他の曲は!? ぼく『人生のメリーゴーランド』聞きたい!!」

「あたし『君をのせて』!!」

「ふふ、分かった分かった」

「それでねー、ゴーストオブツシマの『鑓川やりかわ冥人くろうど』もいいー??」

カルロッタはクラリネットを持ったまま、盛大にずっこけるように肩を落とした。

「君何歳だっけ???
 ゴーストオブツシマってCERO Zだから小さい子はダメなんだけどなぁ、お姉ちゃん感心しないぞ!
 確かにアレのおかげで日本の対馬が賑わったけどさぁ…」

「えーでもパパがやってたもん!」

「それを君に見せるパパの罪は重いぞ。
 あと『冥人』って読むの何年生で習うの? 読めるのすごいけどちょっと心配だよ!」

「あと、うち、エルデンリングもやってる!」

「完全にゲーマー一家じゃん!! じゃあそのうちマレニアも倒しそうな勢いじゃん!!」

「マレニアは、お兄ちゃんが一回だけ勝ったって!」

「え!? それもう尊敬するやつ!! 逆に私より精神強いかもしれないよ!?」

子どもたちはケラケラと笑って、クラリネットを囲んでぴょこぴょこ跳ねていた。
その様子に、周囲の大人たちもつられて柔らかく笑みを浮かべ始める。

「……いいな。音楽ってのは、やっぱりこうじゃなきゃね」

そんな声が、小さく避難所の一角から聞こえた。

カルロッタは、クラリネットを抱え直してにっこり笑った。

「じゃあ、リクエスト全部はムリだけど……何曲かだけやってみよっか!」

「やったー!!」

「マレニアのBGMも!」

「それは無理!!!! てか管楽器向きじゃない!!!!」

「ええー、そこをなんとか……」

「しらんがな!!!!」

――――――――――――――――――

演奏を一通り終えると、子どもたちは「また聞かせてね!」「今度はマレニアやってね!」と口々に言いながら、満足そうにその場を後にした。
彼らの足音が遠ざかっていくと、避難所の一角に静けさが戻る。

クラリネットをそっと膝に置き、カルロッタは深く息を吐いた。

(……やっぱり、音楽っていいな)

目を閉じると、いまの音の余韻がまだ耳の奥に残っていた。
そしてそれだけじゃない。
子どもたちの笑顔、大人たちの緊張のほぐれた表情、
それらが静かに胸の奥に積もっていく。

クラリネットのベルに触れながら、カルロッタは自分の手が少し震えていることに気づいた。

(ああ、わたし、緊張してたんだ)

人の前で吹くのは、慣れているはずだった。
でも、“生きるか死ぬか”の場所で音を出すことは――
これまでのどんな本番よりも、覚悟が必要だった。

それでも。

「……吹いてよかった」

ポツリとこぼれた言葉は、誰に向けたわけでもなかったけれど、
たまたま近くにいたヴァルターが、それに応えるように呟いた。

「あんたの音、子供たちだけじゃねえ。……大人にも、効いたぜ」

「え?」

「ずっと張り詰めてた空気が、ちょっとだけ緩んだ。……ありがとな」

不器用な男の、不器用な感謝。

でもその言葉に、カルロッタは自然と笑みを浮かべていた。

「……じゃあ、また何か吹いてもいいですか?」

「もちろんだ。ただし“ゴーストオブツシマのBGM”は許可制な」

「それヴァルターさんが言うんですか!?」

「心の平穏を守る立場としてな。
 境井仁が蒙古の首を跳ね飛ばして武士から冥人に変わる、あんな修羅なBGMが日常になったら胃に穴が開くわ」

二人の笑い声が、静かな避難所に優しく響いた。

(……ここが、居場所になればいい)

そう思ったとき、カルロッタの中で、ほんの少しだけ“失ったもの”への渇きが和らいだ気がした。

彼女はクラリネットを丁寧に分解し、クロスでひとつひとつのパーツを拭きながら、
次はどんな曲を吹こうか、静かに考えていた。

(あ、でもみんなにご飯配らなくちゃ……)

思い出したように顔を上げ、クラリネットの片付けを急ぐ。

その時だった。

――ガタン。

鈍い、重たい音が、避難所の奥の方から響いた。

「ん…? なんだ?」

ヴァルターが音に気づき、眉をひそめる。
壁際に立てかけていた工具を手に取り、慎重に物音の方向を見やる。

「どうかしたんですか?」

「いや……音が鳴った。奥の搬入口のあたりだ」

「え? それってまさか……!」

「……奴らかもしれない」

カルロッタの背筋に、冷たいものが走る。
さっきまで心にあった“音楽の余韻”が、霧のようにかき消えていく。

「そこの人と見てくる。あんたはここにいてくれ」

ヴァルターは周囲にいた屈強そうな男性に軽く顎をしゃくると、自ら音の鳴る方向へと歩き出した。

「大丈夫なんですか?」

「ここを取り仕切ってるのは俺だ。心配しなくていいさ」

その背中は、たしかに頼もしく見えた。
けれど、どこか心の奥には、不安が引っかかっていた。

(……大丈夫だといいけど)

カルロッタは、ひとまず荷物のそばに戻り、椅子に腰掛けて小さく息をついた。

その時だった。

背後から――ふわりと、妙な気配が近づいた。

え?



振り返る間もなく、冷たい布の感触が口元を塞いだ。

(んぐっ!? な、なにこれ!?)

息を吸おうとした瞬間、鼻腔を刺激するツンとした匂いが喉を焼いた。

(……薬品!? やばい、これ――!)

暴れようとするが、力が入らない。
腕を掴まれ、体が引きずられる。
椅子がガタンと倒れ、リュックが床に転がる音が聞こえた。

(だ、誰……!? なんで、こんな……!?)

視界が揺れる。
身体がじわじわと沈んでいく。

耳鳴りがして、周囲の音が遠くなる。
誰かの足音も、声も、全部水の中みたいにくぐもっていく――

「よぉーしいい子だ……そのまま寝てくれよなぁ。
 お前の『おともだち』の指示だからなぁ……」

(なに……言って……? たすけて……ヴァルターさん……
 お父さん……お母さん……!)

最後に思い浮かんだのは、クラリネットの音だった。
さっきまで、あんなに穏やかだったのに。

カルロッタの意識は、ゆっくりと闇に沈んでいった。

 

 

その数分後。

「カルロッタ、今戻――」

ヴァルターが避難所に戻ってきて、違和感に眉をひそめた。

「……あれ?」

床に転がる、倒れた椅子。
その下に落ちたままのリュック。
誰の姿も、ない。

「お、おい!! あんた、カルロッタを見なかったか!?」

「え? あのクラリネットを吹いてた嬢ちゃんか? ……見てないぞ」

「じゃ、あんたは!?」

「んん? 確かにさっきまでそこにいたんだけど……どこいったんだ?」

「クラリネットのおねーちゃん? 分かんない。どこいっちゃったんだろー?」

「……っ、クソッ!」

ヴァルターは舌打ちし、周囲を見渡した。
避難所にいる人間は十数人。
誰もがカルロッタが消えたことに気づいていなかった。
騒ぎも音もなかったのに、突然“いなくなった”――それが逆に異常だった。

彼女のリュックは手つかずのまま落ちている。
クラリネットも、まだ片付けられたまま。

(本人がどこかへ行ったわけじゃない。強制的に――連れ去られた)

冷たい汗が首筋を伝った。

「おい! 全員聞け!! 誰でもいい、さっきこの場を離れてたやつはいないか!?
 飲み水取りに行ってた、トイレに行ってた、なんでもいい!! 何か見てないか!!」

その声に、避難者たちがざわざわと顔を見合わせる。

「……俺、トイレに行ってたけど……何も見てねえな」

「私、調理場のほうにいたけど、特に変わったことは……」

「そもそも、外に出た奴なんていなかったぞ?」

「じゃあ誰が――」

その時、ヴァルターの脳裏に浮かんだのは、“音がした”というあの搬入口の一件。

(まさか……アレは囮か!?)

カルロッタに“ここで待ってろ”と言って、自分が目を離した、その隙に――
(裏からまわって、内部に潜伏していた“誰か”が……!?)

ヴァルターの表情が凍りつく。

(彼女がいなくなった形跡がなにも分からん……)

リュックは残っている。
騒ぎも悲鳴もなかった。
倒れた椅子と、床に散ったクロスがなければ――まるで、最初から存在しなかったみたいだ。

(相当な手慣れだ。隙を狙って、無音で、痕跡をほとんど残さず……)

ヴァルターは奥歯を噛みしめた。
自分が目を離した、そのタイミングを“正確に”狙ってきた――それが何より腹立たしかった。

(だが……ここにいる人たちがやったとは思えん)

避難者の顔をぐるりと見渡す。
驚き、混乱、あるいは純粋な無知。
どの顔にも“演技の影”は見えなかった。
内通者の線は薄い……少なくとも、今の段階では。

(やはり、外部の人間が攫いやがったのか……?)

だが、そう考えた瞬間――さらに大きな疑問が胸を刺した。

(なら、なんでカルロッタなんだ?
 こんな状況で、避難所から人間を一人だけピンポイントで連れ去る理由が……なんだ?)

彼女はクラリネットを吹いてただけだ。
子どもたちに音を届けていた、ただの学生。
なのに――

その倒れた椅子と置き去りにされたリュックは、何も答えない。
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