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エピソード13:再構築の真理 -ルーシェ-
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耳を澄ますまでもなく、その音は聞こえていた。
——ぴちゃ。ぴちゃ。
ゆっくりと、ぬるく湿った音が足元から伝わってくる。何度瞬きをしても暗闇は晴れない。闇は空間そのものであり、床も、天井も、境界もなかった。ただ、かすかに揺れる水の波紋だけが「下」が存在することを証明していた。
ルーシェは立っていた。どうしてここにいるのか、自分が誰なのか、何をしていたのか……全ての情報が脳の奥底で霞んでいた。ただ“ここではないどこかにいた”ことだけが、微かな焦燥として残っていた。
「……ここ、どこ……?」
自分の声が、世界に届かない。霧のように空気へ溶け、何の反響も返ってこなかった。
とにかく、進まなければ。そう思ったのは直感だった。後ろに戻っても意味はない、そんな確信があった。
ちゃぷ……ちゃぷ……。
一歩ずつ、濡れた音を立てて進む。何もないはずの前方に、突如として「建物」が現れた。
それは“家”のようなものだった。
けれど、現実のものとはどこか違う。屋根がねじれ、窓が上下逆さに埋め込まれ、壁は歪んで息づいているようにすら見える。記憶をベースにしながら、どこか“間違った再構成”をされたような印象——まるで夢の中の建築物だった。
その“家”にはドアがあった。位置はおかしく、なぜか壁の右上部に傾いて貼りついていた。けれどルーシェは、ごく自然な動作でそこへ手を伸ばした。
ギイィ……
鉄が擦れるような乾いた音を立てて、ドアが開く。
次の瞬間、目の前の光景ががらりと変わった。
そこは公園だった。
しかし、息を呑むような懐かしさはなかった。遊具の鉄骨は茶色く腐食し、地面はひび割れて黒く染まり、空は無色透明で何も映していない。ブランコは片方がちぎれ、シーソーは一方だけ地中に沈んでいた。
「……知ってる、気がする……」
言葉が漏れる。かつて遊んだことがあるような、ないような、記憶の端をくすぐる既視感。ぼやけたノイズの中に、懐かしさが薄く流れていた。
彼女は、滑り台の前に立つ。
階段を昇り、頂上でしばらく迷った。けれど、気づけば足が前へ出ていた。
滑り降りる瞬間——視界が白く、ぐにゃりと歪んだ。
気がつくと、教室にいた。
ルード高校。自分が通っていたはずの学校。
しかし、その教室は“異常”だった。
机と椅子は整っている。チョークの粉が残る黒板もある。けれどそこにいた生徒たち——皆、首から上がなかった。
無言の死体が、まるで演劇のワンシーンのように、ただ座っていた。教卓の前に立つ教師らしき影も、血の通わぬように動かない。
恐怖よりも、圧倒的な不条理がルーシェの呼吸を奪っていた。
……だが、ひとりだけ違う者がいた。
教室の一番後ろ、窓際の最後列。
その人物だけは“頭”があった。
金髪。制服を乱し、どこか不良のような雰囲気の少女。
ただし、その顔は——黒に染まっていた。
それは目も鼻も口もなく、ただ黒い存在となっていた。
ルーシェが息を呑む間に、少女はゆっくりと立ち上がった。
両腕を広げて、こちらへと歩いてくる。
「っ……!」
咄嗟に後ずさり、ルーシェは尻もちをついた。
……次の瞬間、風景が変わる。
目を開けた時、ルーシェは“家の中”にいた。
いや、違う。これはただの家ではない。
どこかで見たことがある。あたたかく、やさしい記憶の片隅で、何度も思い出していた場所——
「……アップルパイの……匂い……?」
そうだ。台所からは、かすかに甘い香りが漂っている。
思い出した。焼きたてのパイ。四角いテーブル。薄いベージュのカーテンがかすかに揺れる、あの午後。
そして、キッチンに立つ、エプロン姿の年上の女性。
「おはよう、■■■■■■■。また寝坊したの? あれだけ徹夜はやめろって言ったのに」
名前を呼ばれた——はずだった。
でも、その声の“呼びかけ”の部分だけが、ぐしゃぐしゃに潰れたノイズでかき消された。雑音のような、もしくは機械の故障のような異音。
「…………誰……?」
呟くと、女性がゆっくりとこちらを振り向く。
その顔を見ようとした——次の瞬間、頭部が床に落ちた。
“ずるっ”という生々しい音と共に、首の切断面から血が噴き出す。
「■■■■■■■。■■■■■■■。■■■■■■ナ……」
落ちた頭が口を動かしながら、歪んだノイズ混じりにルーシェの名前を呼び続ける。
声は繰り返されるたびにノイズが強くなり、意味を持たないただの“叫び”へと変わっていった。
そしてその瞬間——
背後から、重たい気配が現れた。
気づいた時には遅かった。
ルーシェの身体を、あの肉切り包丁の大男が真っ二つに斬り裂いていた。
——ザクリ。
視界がぶれ、真っ赤な液体が飛び散る。
自分の身体が二つに裂かれ、内臓が床に叩きつけられたはずなのに——
「…………う……そ……」
ルーシェはまだ生きていた。否、生かされていた。
動かぬ下半身。血にまみれた腕。そして視界の先に、転がった女性の頭。
……が、突如、“黒ローブの女”がその頭を踏み潰した。
べちゃっという音と共に、脳漿が飛び散り、血と記憶が混ざった悪夢のような景色となる。
黒ローブの女はゆっくりとしゃがみ込み、ルーシェの顔の前に。
その声は静かだった。けれど確実に心に突き刺さる。
『真実は、心の中にある』
その言葉が、脳の奥深くを殴打するように響いた。
「いや……ちがう……!」
ルーシェは叫ぶ。
「私は——私は……っ!!!」
その絶叫と共に、意識が吹き飛んだ。
――――――――――――――――――
——息が、苦しい。
「ハッ……!」
突然、肺が空気を求めて悲鳴を上げるように、ルーシェは荒く呼吸した。
全身が冷たく濡れている。いや、違う。汗だ。冷や汗が、額から首筋、脇腹にかけて滝のように流れていた。
「……っ、夢……?」
瞼を上げると、視界に飛び込んできたのは見慣れない天井。コンクリート打ちっぱなしのような、無機質な灰色の空間だった。
——まるで、人の気配を拒絶するような静けさ。
身体を起こそうとした時、彼女はふと違和感に気づく。
「……あれ……服が……?」
制服のブレザーが脱がされていた。首元に巻いていたはずのリボンも無い。白いシャツは乱れており、第二ボタンから下が開いたままだった。
「……誰かに……触られた……?」
ぞくりと背筋が冷える。
“検査されたような”感覚が残っていた。服を脱がされた形跡。胸元の違和感。腹部の重苦しさ。
けれど痛みは無く、外傷も見当たらない。まるで「何かを調べられたあと」のような、そんな妙な生々しさだけが身体にこびりついていた。
「ここ……どこ……?」
ようやく上体を起こし、部屋の様子を見渡す。
壁も、床も、天井も、徹底的に無機質だ。まるで倉庫か、古い研究施設の一室のよう。
それでも——どこか見覚えがあった。
家具は極端に少ない。ベッド。机。小さな棚。
「……ここ……」
彼女の記憶に刻まれている。
——あの時、目覚めた古びた民家の部屋と、まったく同じレイアウトだった。
ただし決定的に違うのは、空気感だ。あの時はもっと埃っぽく、どこか生活の匂いが残っていた。今はまるで“整えられた監禁部屋”のように、無菌的に整然としている。
机の上には、小さな黒い物体が二つ。
一つは、スマートフォン。もう一つは——黒いハンドガン。
「……ヘルベルトさんが……くれた、やつ……?」
手に取ってみる。見覚えのある重量、形状。間違いない、あのとき彼に渡された護身用の拳銃だ。
次にスマホを確認する。バッテリーはまだ残っていた。
彼の番号を呼び出し、震える指で通話ボタンを押す。
——圏外。
「……っ、なんで……!?」
画面に表示される無慈悲な表示。
まるでここが“電波そのものを遮断する場所”であるかのように、どの通信手段も遮られている。
仕方なくスマホをポケットにしまい、ハンドガンをホルスター代わりに制服のスカートの内側へ差し込む。
その時、ふと部屋のドアに目が行く。
——開いていた。
「……っ」
驚愕に心臓が跳ねた。
監禁されていたのなら、おかしい。
なぜ、鍵はかかっていない?
なぜ、見張りすらいない?
まるで、「出ていいよ」と言わんばかりの自然さで、ドアは少しだけ開いていた。
ゆっくりと立ち上がり、足を床につける。
重い。全身が鉛のようだ。
けれど、動ける。
意を決し、ルーシェはドアの前に立つ。
手をかけ、静かに開いた——その先には、真っ暗な無人の廊下が伸びていた。
――――――――――――――――――
静寂が支配する廊下を、ルーシェは一歩ずつ進んでいた。
靴音が乾いた床にコツリ、コツリと響く。
その音がやけに大きく感じられるのは、周囲にあまりにも“何もなさすぎる”せいだった。
無機質な壁、等間隔の扉、無言で点灯し続ける天井の照明。
すべてが整いすぎていて、まるで“人の手によって造られた箱庭”のようだった。
そんな中——
『ぐあああああああああああああああっ!!!』
鼓膜を揺らす絶叫が、廊下の奥から叩きつけられた。
反射的に肩が跳ね、心臓が凍りつく。
(……今の……悲鳴……!?)
躊躇う間もなく、ルーシェはハンドガンを引き抜き、息を殺して駆け出した。
何かが起きている。それは明白だった。
人の声がしたということは、まだ生きている人間がいるということ。
そして、それが「何かに襲われている」ということ。
廊下の角を曲がると、目の前の扉が開いていた。
音を立てないよう慎重に歩み寄り、ルーシェは中を覗き込む。
そして——息を飲んだ。
室内の中央。
ひとりの黒ローブの人物が壁に貼りつけられていた。
背中を何本もの鋭い“突起”に貫かれ、腕は吊るされるように持ち上がっている。
だが——それだけではない。
その黒ローブの正面に立つ“何か”の存在が、ルーシェの理性を凍らせた。
それは——異形の生物。
全身は濡れたように光る硬い甲殻に覆われ、両腕は鎌のように曲がった刃となっていた。
顔と思しき部分には、無機質な複眼と顎のような突起。
全体のシルエットはまさに“巨大なカマキリ”を想起させる。
(な、に……あれ……)
恐怖で膝が笑いそうになる。
だが、ハンドガンを持つ手は下ろさなかった。
何より奇妙だったのは——その異形の怪物が、黒ローブの死体を無造作に掴み、部屋の隅にポイッと放り投げたことだった。
まるで“用済みのゴミ”のように、躊躇いすらなかった。
その動作に、明確な意図があるように見えた。
単なる暴走や本能によるものではない。まるで、自分の役割をきちんと理解しているかのような……そんな振る舞い。
(……何で殺してるの……? こいつら……味方じゃないの……?)
頭の中で疑問が渦を巻く。
黒ローブの者たちは、教団の構成員。つまり——この異形の化け物と同じ側にいる存在のはずだ。
なのに、どうして?
ルーシェが思考の沼に足を取られているあいだにも、
カマキリの化け物は一切こちらを気にする素振りも見せず、静かに部屋の奥へと入り込んでいった。
扉が開き放たれたその先には、薄暗い室内と、幾つかの大型機材。
どこか研究施設めいた雰囲気すら漂っている。
(……行くしかない)
ルーシェは小さく息を吐き、ハンドガンを構え直すと、慎重に足を踏み入れた。
床に広がる乾いた血痕を踏み越えながら、
異形の背中へと、じりじりと距離を詰めていく。
だが——
カマキリはルーシェの気配に気づいていた。
ほんのわずか、鋭く動いた複眼が、ルーシェの方を見やった。
そして、ぴたりと動きを止めた。
まるでその場に立ち尽くすように。
敵意もなく、威嚇もせず、ただ“こちらを見つめている”。
不気味な静けさの中、二人の——いや、“一人と一匹”の目線が交錯する。
何かを伝えたそうで、でも何も言わないような、そんな感情のない視線。
(なんで……襲ってこないの……?)
ルーシェの胸に、不穏な疑念が湧き上がる。
相手は確かに恐ろしい化け物だ。それなのに、ただ静かにこちらを見つめるその様子は、どこか“躊躇”や“判断”すら感じさせた。
だが、そんな張り詰めた空気は——次の瞬間、あっさりと破られる。
怪物は一歩前に踏み出すと、刃のような腕を振り上げ——
襲いかかってきた。
カマキリのような異形の右腕が、風を切って真横へ振り抜かれる。
その鋭い刃先はまさに鎌。鉄すら容易く切断しそうな曲線の武器だ。
ルーシェは反射的に身を翻した。
襲撃に気づいたのが一瞬でも遅れていれば、肩から胴にかけて斬り裂かれていた。
「ッ……!」
鋭い音とともに、コンクリートの床がえぐられ、粉塵が舞う。
ルーシェは横転しながら姿勢を立て直し、すぐさまハンドガンを両手で構えた。
(……違う。コイツ、急所を狙ってこない)
その一撃は、確かに強烈だった。
だが明らかに殺しに来ている感覚ではない。
避ければ致命傷にはならない部位ばかりを狙ってきている。
「……手加減、してる……?」
カマキリの異形は、再び姿勢を低くし、ギシリと関節を鳴らすように体を揺らした。
次の一手に備えている。殺意は希薄なのに、本能的な危険を感じる。
ルーシェの喉がかすかに鳴った。
(……来る)
次の瞬間、化け物は跳躍した。
「っ!」
鋭く突き出された刃が、まっすぐルーシェの太腿を狙う。
紙一重でかわしたが、スカートの布地が裂け、かすかに皮膚が削れた。
痛みよりも、冷気が神経を刺す。
(ここで、やられるわけには……!)
転がるように距離を取ったルーシェは、両腕の震えを無理やり抑え込みながら、
カマキリの胴体めがけて引き金を引いた。
パンッ。
乾いた音が、廊下に響く。
命中——しない。異形は想像以上の跳躍力で弾道を回避し、
空中で旋回すると、再び真上から降りかかってくる。
ルーシェは床を蹴って滑るように後退。
バチィッ!
刃が照明にぶつかり、天井の蛍光灯が砕け散る。
光が落ち、部屋は一気に薄暗くなる。
ルーシェは乱れた呼吸を整えながら、視界の端にカマキリの影を探す。
暗い。だが——そこにいた。
ほんの一瞬、相手の動きが止まった。
奇妙な間合い。まるでこちらの覚悟を測っているかのようだった。
「……なんで、そんな目で見るのよ……!」
ルーシェは叫びながら、トリガーを絞る。
パン、パン、パン。
三発目——カマキリの頭部に命中。
異形がよろめいた。
(今……!)
すかさずルーシェは距離を詰め、至近距離からもう一度——
狙い澄ました一撃を、頭へ。
ドン。
破裂するような音と共に、頭部が砕け、異形の身体が後ろに大きく倒れる。
ズシャアッ……と擦れる音を立てながら倒れたその姿は、最期まで手足を使わなかった。
まるで——ルーシェに“殺されること”を選んだようにさえ、見えた。
「………………」
静寂。
ルーシェは呼吸を整え、震える指で再度銃口を確認し、
空になったマガジンを見て、ようやく安堵の息を吐いた。
「なんなのよ……一体……何なのよ……」
血と鉄の匂いの中、ルーシェは立ち尽くす。
銃を持つ手が、今さら震え始める。
膝ががくりと折れそうになるのを、ルーシェは寸前でこらえた。
殺した。
けれど、殺された側に「殺されにきた」ような意志があったことに、
何より、ルーシェ自身が感じ取ってしまったことが、心を重くしていた。
――――――――――――――――――
戦いは終わった。
カマキリの化け物が崩れ落ちる音すら、今のルーシェには遠く感じた。
しばらくその場に立ち尽くしていたが、やがてハンドガンを静かに下ろす。
震える指先を握りしめ、鼓動の高鳴りが少しずつ静まっていくのを感じながら、ルーシェは深く息を吐いた。
(……ここに、長くいちゃいけない)
重い足取りで、部屋の出口に向かう。
床に広がった液体を踏まないように気をつけながら、一歩ずつ。
部屋を出ると、無機質な廊下が再び現れる。
打ち捨てられたような静けさは変わらず、まるで時間すら止まっているかのようだった。
歩を進めるたび、胸の中に重たく圧し掛かる何かがある。
ただの恐怖ではない——さっきの敵に“人間らしい感情”を見たことが、妙に引っかかっていた。
(……なんで、私を……)
その答えが見つからないまま、さらに進む。
廊下の角を曲がった瞬間、強烈な異臭が鼻を突いた。
「っ……!」
思わず顔をしかめる。
そこに広がっていたのは、黒ローブの死体だった。
一体ではない。二体、三体……それ以上。
それらは無惨に倒れ、まるで“何か”に貫かれたかのように胸元や喉が裂けている。
鮮やかすぎるその殺され方は、戦闘ではなく処刑を思わせた。
(何が……あったの?)
そして視線の先——厳重そうな扉が、半開きになっていた。
ルーシェは一度だけ息を吸うと、ハンドガンを構え直して、静かに扉へと歩を進める。
軋む音を立てながら扉を押し開けると、その奥には二つの人影があった。
一人は、年老いた男。
もう一人は——椅子に座った、黒ローブの女。
(……え……!?)
ルーシェの瞳が見開かれる。
その顔には、見覚えがあった。
そう、以前……体育館で自分を襲ったあの黒ローブの女。
——自分とうり二つの、あの存在。
(なんで……あいつがここに……?)
だが、その姿はまるで捕虜のようでもだった。
(……罠……? それとも……)
混乱が胸に渦を巻く。
それでもルーシェは、ハンドガンをしっかりと構えたまま、じりじりと室内へと踏み込む。
不思議なことに、女はルーシェの存在に気づいていない。
視線は俯き加減で、虚ろなまま。
意識があるのかすら、判断できない。
その隣に立つ年老いた男は、女とは対照的にしっかりと目を開き、女のほうをじっと見つめていた。
深く皺の刻まれた顔に、どこか達観したような表情が浮かんでいる。
ルーシェは、軽く喉を鳴らした。
「……何が……起きてるの……?」
ルーシェは反射的に身を引き、すぐ傍の影に身を潜めた。
心臓の音が、耳の奥でどくどくと響く。
不用意に姿を見せれば、どうなるか分からない。
ここは——様子を見るべきだ。
部屋の中、重苦しい沈黙が数秒だけ流れた。
その空気を破るように、年老いた男が口を開く。
「……随分と手こずらせてくれたな。ノーリ?」
その言葉に、ルーシェの息が止まりそうになる。
(ノーリ……?)
拘束された黒ローブの女は、わずかに顔を上げた。
その表情は読めない。苦しげでもあり、空虚でもある。
だがその名を呼ばれても否定せず、ただじっと、男を見返していた。
「君が“自我”というものを持ち始めてから、実に厄介になった。
本来、君は命令に従ってさえいればよかったはずだ。違うか?」
男の声は、まるで管理者のようだった。
かつて自分が造ったものに、苛立ちを込めて説教するような、そんな響き。
男の声は、徐々に怒気を含んでいく。
「まるで——“人間”になったつもりか?」
拘束されたノーリは、うっすらと笑ったように見えた。
——それは、挑発か、諦めか、それとも……
(この人……ノーリに“命令”してたの? 作った……の?)
影の中で、ルーシェの全身に粟立つような寒気が走る。
自分と瓜二つのこの存在は、まさか——人間では、ない……?
『……ゲラルド。ライフベージ教団の長とあろう者が、わざわざここに来たものだな』
ノーリが静かに口を開いた。
冷ややかで、どこか見下すような声音だった。
ルーシェは耳を澄ませた。
“ライフベージ教団の長”——それが、この男の正体……?
ゲラルドと呼ばれた男は、鼻で笑い、低く返す。
「それはこっちのセリフだ。不純物め……。
本来、お前など、処分されていて然るべき存在だ」
声には明確な侮蔑がこもっていた。
「計画の遂行を妨害し、造反し、あまつさえ“処理者”と接触するとは……
もはや破棄された機体以下だな、ノーリ」
『破棄されたのはお前たちの倫理のほうだ。
私は、“正しさ”の意味を模索した。それのどこがいけない?』
まるで、機械のような冷静さの中に、微かに熱が宿っていた。
『お前たちの言う“浄化”とは何だ。
世界を焼き払い、“選ばれた人間”だけで作り直すことか?
——それを真理とは呼ばない。破壊衝動だ、ゲラルド』
「……なにも理解していないな、ノーリ」
ゲラルドは一拍置いてから、まるで説法でもするような声色で語り始めた。
「いいだろう、冥途の土産として、貴様に教えてやろう。我々の真理をな」
ルーシェは影に身を潜めたまま、息を殺す。
ノーリも動かず、ただじっと、男の言葉を待っていた。
「世界は穢れきっている。人間は過ちを繰り返し、戦争を起こし、争いを続け、環境を壊し、自らの存在すら否定する……。
それでも“正常”だと信じて生きる。どんな醜さを抱えていてもな」
『……』
「そんな世界を、誰が“正す”のだ?」
ゲラルドは歩みを進める。ノーリに近づく一歩一歩が、まるで宣告のようだった。
「我々ライフベージ教団は、それに終止符を打つ存在だ。
人間を再構築し、穢れなき理想の種族へと進化させる。
不要な感情も、欲望も、過去もいらん。遺伝子すら選び抜かれた、完全なる生命体……
それこそが“真理”だ」
ルーシェの背筋に、氷のような戦慄が走る。
(……まさか、クローン……!?)
「……だがそれを実現するには莫大な資金がどうしても必要でね。ある企業と取引をしたのだよ」
ゲラルドは笑う。
それは信仰でも理想でもない、利を得た者の顔だった。
「君も耳にしたことがあるだろう、世界を牽引するIT企業の一つだ」
ノーリの視線がわずかに鋭くなる。
『……システマティックコンピュータ株式会社? そいつらに協力を仰いだというのか』
「ああ。あのSC社の会長は我々の思想に、深く共鳴してくれた。
『この世界はすでに限界だ』と、彼は言っていたよ。
“次の人類”に興味を持ったのだ。哀れなことだが、狂った世界に絶望していたのさ」
ゲラルドは懐からタリスマンを取り出し、それをゆっくりと宙にかざす。
「我々は彼から資金を得た。
その対価として、教団は彼に“再構築された世界”での地位を約束した。
すなわち、神の座を——だ」
ルーシェの胸に、強烈な不快感が広がっていく。
——大手IT企業倒産事件。
SC社の突如としての崩壊。
ニュースでは「巧妙なハッキング」だと報じられていたが、その真実は会長自身が莫大な資金を引き渡し、自作自演で企業を潰したのだ。
会長は「次の人類」に興味を持ち、ライフベージ教団に共鳴した。
自らの思想の実現のために、あっさりと金と信用を手放した。
それは、狂気と呼ぶにはあまりに冷徹で、計算された取引。
ルーシェの背筋に、今まで感じたことのないほどの戦慄が走った。
これは偶然じゃない。
自分は、あの崩壊の渦の中にいた——少なくとも、ほんのわずかでも関わっていた。
そう思えてならなかった。
ノーリがゆっくりと顔を上げ、ゲラルドに視線を向ける。
『……お前は、世界を壊すために金を使い、命を玩んだ』
「命を玩んだ、か……確かに最初の一手はそうだったかもな」
ゲラルドは少しだけ目を細め、懐かしむように言葉を続ける。
「だが……次の一手は“警告”だった。
現代を生きる全ての人類に向けてのな」
彼の声には、説得や懺悔の響きはなかった。
ただ、決定された事実を読み上げるように、静かに淡々と。
「我々は“変革の必要性”を示すために、都市の一部を狙った。
ごく一部に、だ。
失われた命の数は……想定内、だったはずだった」
ルーシェは口元を強く噛み、膝がわずかに震えた。
——市街地爆発事件。
この話はダイレンジャビス本部にて、ヘルベルトから聞いた話だ。
「一体誰が、何のためにやったのか」
「無差別なのか、それとも特定の標的があったのか」
「テロか、事故か」
——結局、真相は“犯人死亡”として葬られた。
だが今、この男が口にしたのだ。
その事件の“大元の主犯”は、まさにここにいる。
「……だが、火薬を多く積みすぎた。
我々の協力者——ある大学の学生がな。
“念には念を”という性分でね。
おかげで被害は予定を大きく上回った。施設も、人間も……すべてが吹き飛んだ」
ゲラルドは肩をすくめ、まるで他人事のように語る。
「皮肉なことだ。被害が大きすぎたおかげで、逆に教団の影はかえって霞んだ。
“犯人はテロリストの一味”で話はまとまり、我々は再び地下に潜ることになった。
……まあ、結果としては良かったのかもしれんがな」
ルーシェの拳が震える。
失われた命の数は、百を超えた。
理由も告げられず、ただ巻き込まれた者たち。
生き残った者にも、癒えることのない傷が刻まれた。
それを——この男は、「想定外だった」と笑って済ませたのだ。
そして、ゲラルドがタリスマンを掲げる。
「我々は“壊す”のではない。
“始める”のだよ。選ばれた者による、真に正しい世界を——」
——ぴちゃ。ぴちゃ。
ゆっくりと、ぬるく湿った音が足元から伝わってくる。何度瞬きをしても暗闇は晴れない。闇は空間そのものであり、床も、天井も、境界もなかった。ただ、かすかに揺れる水の波紋だけが「下」が存在することを証明していた。
ルーシェは立っていた。どうしてここにいるのか、自分が誰なのか、何をしていたのか……全ての情報が脳の奥底で霞んでいた。ただ“ここではないどこかにいた”ことだけが、微かな焦燥として残っていた。
「……ここ、どこ……?」
自分の声が、世界に届かない。霧のように空気へ溶け、何の反響も返ってこなかった。
とにかく、進まなければ。そう思ったのは直感だった。後ろに戻っても意味はない、そんな確信があった。
ちゃぷ……ちゃぷ……。
一歩ずつ、濡れた音を立てて進む。何もないはずの前方に、突如として「建物」が現れた。
それは“家”のようなものだった。
けれど、現実のものとはどこか違う。屋根がねじれ、窓が上下逆さに埋め込まれ、壁は歪んで息づいているようにすら見える。記憶をベースにしながら、どこか“間違った再構成”をされたような印象——まるで夢の中の建築物だった。
その“家”にはドアがあった。位置はおかしく、なぜか壁の右上部に傾いて貼りついていた。けれどルーシェは、ごく自然な動作でそこへ手を伸ばした。
ギイィ……
鉄が擦れるような乾いた音を立てて、ドアが開く。
次の瞬間、目の前の光景ががらりと変わった。
そこは公園だった。
しかし、息を呑むような懐かしさはなかった。遊具の鉄骨は茶色く腐食し、地面はひび割れて黒く染まり、空は無色透明で何も映していない。ブランコは片方がちぎれ、シーソーは一方だけ地中に沈んでいた。
「……知ってる、気がする……」
言葉が漏れる。かつて遊んだことがあるような、ないような、記憶の端をくすぐる既視感。ぼやけたノイズの中に、懐かしさが薄く流れていた。
彼女は、滑り台の前に立つ。
階段を昇り、頂上でしばらく迷った。けれど、気づけば足が前へ出ていた。
滑り降りる瞬間——視界が白く、ぐにゃりと歪んだ。
気がつくと、教室にいた。
ルード高校。自分が通っていたはずの学校。
しかし、その教室は“異常”だった。
机と椅子は整っている。チョークの粉が残る黒板もある。けれどそこにいた生徒たち——皆、首から上がなかった。
無言の死体が、まるで演劇のワンシーンのように、ただ座っていた。教卓の前に立つ教師らしき影も、血の通わぬように動かない。
恐怖よりも、圧倒的な不条理がルーシェの呼吸を奪っていた。
……だが、ひとりだけ違う者がいた。
教室の一番後ろ、窓際の最後列。
その人物だけは“頭”があった。
金髪。制服を乱し、どこか不良のような雰囲気の少女。
ただし、その顔は——黒に染まっていた。
それは目も鼻も口もなく、ただ黒い存在となっていた。
ルーシェが息を呑む間に、少女はゆっくりと立ち上がった。
両腕を広げて、こちらへと歩いてくる。
「っ……!」
咄嗟に後ずさり、ルーシェは尻もちをついた。
……次の瞬間、風景が変わる。
目を開けた時、ルーシェは“家の中”にいた。
いや、違う。これはただの家ではない。
どこかで見たことがある。あたたかく、やさしい記憶の片隅で、何度も思い出していた場所——
「……アップルパイの……匂い……?」
そうだ。台所からは、かすかに甘い香りが漂っている。
思い出した。焼きたてのパイ。四角いテーブル。薄いベージュのカーテンがかすかに揺れる、あの午後。
そして、キッチンに立つ、エプロン姿の年上の女性。
「おはよう、■■■■■■■。また寝坊したの? あれだけ徹夜はやめろって言ったのに」
名前を呼ばれた——はずだった。
でも、その声の“呼びかけ”の部分だけが、ぐしゃぐしゃに潰れたノイズでかき消された。雑音のような、もしくは機械の故障のような異音。
「…………誰……?」
呟くと、女性がゆっくりとこちらを振り向く。
その顔を見ようとした——次の瞬間、頭部が床に落ちた。
“ずるっ”という生々しい音と共に、首の切断面から血が噴き出す。
「■■■■■■■。■■■■■■■。■■■■■■ナ……」
落ちた頭が口を動かしながら、歪んだノイズ混じりにルーシェの名前を呼び続ける。
声は繰り返されるたびにノイズが強くなり、意味を持たないただの“叫び”へと変わっていった。
そしてその瞬間——
背後から、重たい気配が現れた。
気づいた時には遅かった。
ルーシェの身体を、あの肉切り包丁の大男が真っ二つに斬り裂いていた。
——ザクリ。
視界がぶれ、真っ赤な液体が飛び散る。
自分の身体が二つに裂かれ、内臓が床に叩きつけられたはずなのに——
「…………う……そ……」
ルーシェはまだ生きていた。否、生かされていた。
動かぬ下半身。血にまみれた腕。そして視界の先に、転がった女性の頭。
……が、突如、“黒ローブの女”がその頭を踏み潰した。
べちゃっという音と共に、脳漿が飛び散り、血と記憶が混ざった悪夢のような景色となる。
黒ローブの女はゆっくりとしゃがみ込み、ルーシェの顔の前に。
その声は静かだった。けれど確実に心に突き刺さる。
『真実は、心の中にある』
その言葉が、脳の奥深くを殴打するように響いた。
「いや……ちがう……!」
ルーシェは叫ぶ。
「私は——私は……っ!!!」
その絶叫と共に、意識が吹き飛んだ。
――――――――――――――――――
——息が、苦しい。
「ハッ……!」
突然、肺が空気を求めて悲鳴を上げるように、ルーシェは荒く呼吸した。
全身が冷たく濡れている。いや、違う。汗だ。冷や汗が、額から首筋、脇腹にかけて滝のように流れていた。
「……っ、夢……?」
瞼を上げると、視界に飛び込んできたのは見慣れない天井。コンクリート打ちっぱなしのような、無機質な灰色の空間だった。
——まるで、人の気配を拒絶するような静けさ。
身体を起こそうとした時、彼女はふと違和感に気づく。
「……あれ……服が……?」
制服のブレザーが脱がされていた。首元に巻いていたはずのリボンも無い。白いシャツは乱れており、第二ボタンから下が開いたままだった。
「……誰かに……触られた……?」
ぞくりと背筋が冷える。
“検査されたような”感覚が残っていた。服を脱がされた形跡。胸元の違和感。腹部の重苦しさ。
けれど痛みは無く、外傷も見当たらない。まるで「何かを調べられたあと」のような、そんな妙な生々しさだけが身体にこびりついていた。
「ここ……どこ……?」
ようやく上体を起こし、部屋の様子を見渡す。
壁も、床も、天井も、徹底的に無機質だ。まるで倉庫か、古い研究施設の一室のよう。
それでも——どこか見覚えがあった。
家具は極端に少ない。ベッド。机。小さな棚。
「……ここ……」
彼女の記憶に刻まれている。
——あの時、目覚めた古びた民家の部屋と、まったく同じレイアウトだった。
ただし決定的に違うのは、空気感だ。あの時はもっと埃っぽく、どこか生活の匂いが残っていた。今はまるで“整えられた監禁部屋”のように、無菌的に整然としている。
机の上には、小さな黒い物体が二つ。
一つは、スマートフォン。もう一つは——黒いハンドガン。
「……ヘルベルトさんが……くれた、やつ……?」
手に取ってみる。見覚えのある重量、形状。間違いない、あのとき彼に渡された護身用の拳銃だ。
次にスマホを確認する。バッテリーはまだ残っていた。
彼の番号を呼び出し、震える指で通話ボタンを押す。
——圏外。
「……っ、なんで……!?」
画面に表示される無慈悲な表示。
まるでここが“電波そのものを遮断する場所”であるかのように、どの通信手段も遮られている。
仕方なくスマホをポケットにしまい、ハンドガンをホルスター代わりに制服のスカートの内側へ差し込む。
その時、ふと部屋のドアに目が行く。
——開いていた。
「……っ」
驚愕に心臓が跳ねた。
監禁されていたのなら、おかしい。
なぜ、鍵はかかっていない?
なぜ、見張りすらいない?
まるで、「出ていいよ」と言わんばかりの自然さで、ドアは少しだけ開いていた。
ゆっくりと立ち上がり、足を床につける。
重い。全身が鉛のようだ。
けれど、動ける。
意を決し、ルーシェはドアの前に立つ。
手をかけ、静かに開いた——その先には、真っ暗な無人の廊下が伸びていた。
――――――――――――――――――
静寂が支配する廊下を、ルーシェは一歩ずつ進んでいた。
靴音が乾いた床にコツリ、コツリと響く。
その音がやけに大きく感じられるのは、周囲にあまりにも“何もなさすぎる”せいだった。
無機質な壁、等間隔の扉、無言で点灯し続ける天井の照明。
すべてが整いすぎていて、まるで“人の手によって造られた箱庭”のようだった。
そんな中——
『ぐあああああああああああああああっ!!!』
鼓膜を揺らす絶叫が、廊下の奥から叩きつけられた。
反射的に肩が跳ね、心臓が凍りつく。
(……今の……悲鳴……!?)
躊躇う間もなく、ルーシェはハンドガンを引き抜き、息を殺して駆け出した。
何かが起きている。それは明白だった。
人の声がしたということは、まだ生きている人間がいるということ。
そして、それが「何かに襲われている」ということ。
廊下の角を曲がると、目の前の扉が開いていた。
音を立てないよう慎重に歩み寄り、ルーシェは中を覗き込む。
そして——息を飲んだ。
室内の中央。
ひとりの黒ローブの人物が壁に貼りつけられていた。
背中を何本もの鋭い“突起”に貫かれ、腕は吊るされるように持ち上がっている。
だが——それだけではない。
その黒ローブの正面に立つ“何か”の存在が、ルーシェの理性を凍らせた。
それは——異形の生物。
全身は濡れたように光る硬い甲殻に覆われ、両腕は鎌のように曲がった刃となっていた。
顔と思しき部分には、無機質な複眼と顎のような突起。
全体のシルエットはまさに“巨大なカマキリ”を想起させる。
(な、に……あれ……)
恐怖で膝が笑いそうになる。
だが、ハンドガンを持つ手は下ろさなかった。
何より奇妙だったのは——その異形の怪物が、黒ローブの死体を無造作に掴み、部屋の隅にポイッと放り投げたことだった。
まるで“用済みのゴミ”のように、躊躇いすらなかった。
その動作に、明確な意図があるように見えた。
単なる暴走や本能によるものではない。まるで、自分の役割をきちんと理解しているかのような……そんな振る舞い。
(……何で殺してるの……? こいつら……味方じゃないの……?)
頭の中で疑問が渦を巻く。
黒ローブの者たちは、教団の構成員。つまり——この異形の化け物と同じ側にいる存在のはずだ。
なのに、どうして?
ルーシェが思考の沼に足を取られているあいだにも、
カマキリの化け物は一切こちらを気にする素振りも見せず、静かに部屋の奥へと入り込んでいった。
扉が開き放たれたその先には、薄暗い室内と、幾つかの大型機材。
どこか研究施設めいた雰囲気すら漂っている。
(……行くしかない)
ルーシェは小さく息を吐き、ハンドガンを構え直すと、慎重に足を踏み入れた。
床に広がる乾いた血痕を踏み越えながら、
異形の背中へと、じりじりと距離を詰めていく。
だが——
カマキリはルーシェの気配に気づいていた。
ほんのわずか、鋭く動いた複眼が、ルーシェの方を見やった。
そして、ぴたりと動きを止めた。
まるでその場に立ち尽くすように。
敵意もなく、威嚇もせず、ただ“こちらを見つめている”。
不気味な静けさの中、二人の——いや、“一人と一匹”の目線が交錯する。
何かを伝えたそうで、でも何も言わないような、そんな感情のない視線。
(なんで……襲ってこないの……?)
ルーシェの胸に、不穏な疑念が湧き上がる。
相手は確かに恐ろしい化け物だ。それなのに、ただ静かにこちらを見つめるその様子は、どこか“躊躇”や“判断”すら感じさせた。
だが、そんな張り詰めた空気は——次の瞬間、あっさりと破られる。
怪物は一歩前に踏み出すと、刃のような腕を振り上げ——
襲いかかってきた。
カマキリのような異形の右腕が、風を切って真横へ振り抜かれる。
その鋭い刃先はまさに鎌。鉄すら容易く切断しそうな曲線の武器だ。
ルーシェは反射的に身を翻した。
襲撃に気づいたのが一瞬でも遅れていれば、肩から胴にかけて斬り裂かれていた。
「ッ……!」
鋭い音とともに、コンクリートの床がえぐられ、粉塵が舞う。
ルーシェは横転しながら姿勢を立て直し、すぐさまハンドガンを両手で構えた。
(……違う。コイツ、急所を狙ってこない)
その一撃は、確かに強烈だった。
だが明らかに殺しに来ている感覚ではない。
避ければ致命傷にはならない部位ばかりを狙ってきている。
「……手加減、してる……?」
カマキリの異形は、再び姿勢を低くし、ギシリと関節を鳴らすように体を揺らした。
次の一手に備えている。殺意は希薄なのに、本能的な危険を感じる。
ルーシェの喉がかすかに鳴った。
(……来る)
次の瞬間、化け物は跳躍した。
「っ!」
鋭く突き出された刃が、まっすぐルーシェの太腿を狙う。
紙一重でかわしたが、スカートの布地が裂け、かすかに皮膚が削れた。
痛みよりも、冷気が神経を刺す。
(ここで、やられるわけには……!)
転がるように距離を取ったルーシェは、両腕の震えを無理やり抑え込みながら、
カマキリの胴体めがけて引き金を引いた。
パンッ。
乾いた音が、廊下に響く。
命中——しない。異形は想像以上の跳躍力で弾道を回避し、
空中で旋回すると、再び真上から降りかかってくる。
ルーシェは床を蹴って滑るように後退。
バチィッ!
刃が照明にぶつかり、天井の蛍光灯が砕け散る。
光が落ち、部屋は一気に薄暗くなる。
ルーシェは乱れた呼吸を整えながら、視界の端にカマキリの影を探す。
暗い。だが——そこにいた。
ほんの一瞬、相手の動きが止まった。
奇妙な間合い。まるでこちらの覚悟を測っているかのようだった。
「……なんで、そんな目で見るのよ……!」
ルーシェは叫びながら、トリガーを絞る。
パン、パン、パン。
三発目——カマキリの頭部に命中。
異形がよろめいた。
(今……!)
すかさずルーシェは距離を詰め、至近距離からもう一度——
狙い澄ました一撃を、頭へ。
ドン。
破裂するような音と共に、頭部が砕け、異形の身体が後ろに大きく倒れる。
ズシャアッ……と擦れる音を立てながら倒れたその姿は、最期まで手足を使わなかった。
まるで——ルーシェに“殺されること”を選んだようにさえ、見えた。
「………………」
静寂。
ルーシェは呼吸を整え、震える指で再度銃口を確認し、
空になったマガジンを見て、ようやく安堵の息を吐いた。
「なんなのよ……一体……何なのよ……」
血と鉄の匂いの中、ルーシェは立ち尽くす。
銃を持つ手が、今さら震え始める。
膝ががくりと折れそうになるのを、ルーシェは寸前でこらえた。
殺した。
けれど、殺された側に「殺されにきた」ような意志があったことに、
何より、ルーシェ自身が感じ取ってしまったことが、心を重くしていた。
――――――――――――――――――
戦いは終わった。
カマキリの化け物が崩れ落ちる音すら、今のルーシェには遠く感じた。
しばらくその場に立ち尽くしていたが、やがてハンドガンを静かに下ろす。
震える指先を握りしめ、鼓動の高鳴りが少しずつ静まっていくのを感じながら、ルーシェは深く息を吐いた。
(……ここに、長くいちゃいけない)
重い足取りで、部屋の出口に向かう。
床に広がった液体を踏まないように気をつけながら、一歩ずつ。
部屋を出ると、無機質な廊下が再び現れる。
打ち捨てられたような静けさは変わらず、まるで時間すら止まっているかのようだった。
歩を進めるたび、胸の中に重たく圧し掛かる何かがある。
ただの恐怖ではない——さっきの敵に“人間らしい感情”を見たことが、妙に引っかかっていた。
(……なんで、私を……)
その答えが見つからないまま、さらに進む。
廊下の角を曲がった瞬間、強烈な異臭が鼻を突いた。
「っ……!」
思わず顔をしかめる。
そこに広がっていたのは、黒ローブの死体だった。
一体ではない。二体、三体……それ以上。
それらは無惨に倒れ、まるで“何か”に貫かれたかのように胸元や喉が裂けている。
鮮やかすぎるその殺され方は、戦闘ではなく処刑を思わせた。
(何が……あったの?)
そして視線の先——厳重そうな扉が、半開きになっていた。
ルーシェは一度だけ息を吸うと、ハンドガンを構え直して、静かに扉へと歩を進める。
軋む音を立てながら扉を押し開けると、その奥には二つの人影があった。
一人は、年老いた男。
もう一人は——椅子に座った、黒ローブの女。
(……え……!?)
ルーシェの瞳が見開かれる。
その顔には、見覚えがあった。
そう、以前……体育館で自分を襲ったあの黒ローブの女。
——自分とうり二つの、あの存在。
(なんで……あいつがここに……?)
だが、その姿はまるで捕虜のようでもだった。
(……罠……? それとも……)
混乱が胸に渦を巻く。
それでもルーシェは、ハンドガンをしっかりと構えたまま、じりじりと室内へと踏み込む。
不思議なことに、女はルーシェの存在に気づいていない。
視線は俯き加減で、虚ろなまま。
意識があるのかすら、判断できない。
その隣に立つ年老いた男は、女とは対照的にしっかりと目を開き、女のほうをじっと見つめていた。
深く皺の刻まれた顔に、どこか達観したような表情が浮かんでいる。
ルーシェは、軽く喉を鳴らした。
「……何が……起きてるの……?」
ルーシェは反射的に身を引き、すぐ傍の影に身を潜めた。
心臓の音が、耳の奥でどくどくと響く。
不用意に姿を見せれば、どうなるか分からない。
ここは——様子を見るべきだ。
部屋の中、重苦しい沈黙が数秒だけ流れた。
その空気を破るように、年老いた男が口を開く。
「……随分と手こずらせてくれたな。ノーリ?」
その言葉に、ルーシェの息が止まりそうになる。
(ノーリ……?)
拘束された黒ローブの女は、わずかに顔を上げた。
その表情は読めない。苦しげでもあり、空虚でもある。
だがその名を呼ばれても否定せず、ただじっと、男を見返していた。
「君が“自我”というものを持ち始めてから、実に厄介になった。
本来、君は命令に従ってさえいればよかったはずだ。違うか?」
男の声は、まるで管理者のようだった。
かつて自分が造ったものに、苛立ちを込めて説教するような、そんな響き。
男の声は、徐々に怒気を含んでいく。
「まるで——“人間”になったつもりか?」
拘束されたノーリは、うっすらと笑ったように見えた。
——それは、挑発か、諦めか、それとも……
(この人……ノーリに“命令”してたの? 作った……の?)
影の中で、ルーシェの全身に粟立つような寒気が走る。
自分と瓜二つのこの存在は、まさか——人間では、ない……?
『……ゲラルド。ライフベージ教団の長とあろう者が、わざわざここに来たものだな』
ノーリが静かに口を開いた。
冷ややかで、どこか見下すような声音だった。
ルーシェは耳を澄ませた。
“ライフベージ教団の長”——それが、この男の正体……?
ゲラルドと呼ばれた男は、鼻で笑い、低く返す。
「それはこっちのセリフだ。不純物め……。
本来、お前など、処分されていて然るべき存在だ」
声には明確な侮蔑がこもっていた。
「計画の遂行を妨害し、造反し、あまつさえ“処理者”と接触するとは……
もはや破棄された機体以下だな、ノーリ」
『破棄されたのはお前たちの倫理のほうだ。
私は、“正しさ”の意味を模索した。それのどこがいけない?』
まるで、機械のような冷静さの中に、微かに熱が宿っていた。
『お前たちの言う“浄化”とは何だ。
世界を焼き払い、“選ばれた人間”だけで作り直すことか?
——それを真理とは呼ばない。破壊衝動だ、ゲラルド』
「……なにも理解していないな、ノーリ」
ゲラルドは一拍置いてから、まるで説法でもするような声色で語り始めた。
「いいだろう、冥途の土産として、貴様に教えてやろう。我々の真理をな」
ルーシェは影に身を潜めたまま、息を殺す。
ノーリも動かず、ただじっと、男の言葉を待っていた。
「世界は穢れきっている。人間は過ちを繰り返し、戦争を起こし、争いを続け、環境を壊し、自らの存在すら否定する……。
それでも“正常”だと信じて生きる。どんな醜さを抱えていてもな」
『……』
「そんな世界を、誰が“正す”のだ?」
ゲラルドは歩みを進める。ノーリに近づく一歩一歩が、まるで宣告のようだった。
「我々ライフベージ教団は、それに終止符を打つ存在だ。
人間を再構築し、穢れなき理想の種族へと進化させる。
不要な感情も、欲望も、過去もいらん。遺伝子すら選び抜かれた、完全なる生命体……
それこそが“真理”だ」
ルーシェの背筋に、氷のような戦慄が走る。
(……まさか、クローン……!?)
「……だがそれを実現するには莫大な資金がどうしても必要でね。ある企業と取引をしたのだよ」
ゲラルドは笑う。
それは信仰でも理想でもない、利を得た者の顔だった。
「君も耳にしたことがあるだろう、世界を牽引するIT企業の一つだ」
ノーリの視線がわずかに鋭くなる。
『……システマティックコンピュータ株式会社? そいつらに協力を仰いだというのか』
「ああ。あのSC社の会長は我々の思想に、深く共鳴してくれた。
『この世界はすでに限界だ』と、彼は言っていたよ。
“次の人類”に興味を持ったのだ。哀れなことだが、狂った世界に絶望していたのさ」
ゲラルドは懐からタリスマンを取り出し、それをゆっくりと宙にかざす。
「我々は彼から資金を得た。
その対価として、教団は彼に“再構築された世界”での地位を約束した。
すなわち、神の座を——だ」
ルーシェの胸に、強烈な不快感が広がっていく。
——大手IT企業倒産事件。
SC社の突如としての崩壊。
ニュースでは「巧妙なハッキング」だと報じられていたが、その真実は会長自身が莫大な資金を引き渡し、自作自演で企業を潰したのだ。
会長は「次の人類」に興味を持ち、ライフベージ教団に共鳴した。
自らの思想の実現のために、あっさりと金と信用を手放した。
それは、狂気と呼ぶにはあまりに冷徹で、計算された取引。
ルーシェの背筋に、今まで感じたことのないほどの戦慄が走った。
これは偶然じゃない。
自分は、あの崩壊の渦の中にいた——少なくとも、ほんのわずかでも関わっていた。
そう思えてならなかった。
ノーリがゆっくりと顔を上げ、ゲラルドに視線を向ける。
『……お前は、世界を壊すために金を使い、命を玩んだ』
「命を玩んだ、か……確かに最初の一手はそうだったかもな」
ゲラルドは少しだけ目を細め、懐かしむように言葉を続ける。
「だが……次の一手は“警告”だった。
現代を生きる全ての人類に向けてのな」
彼の声には、説得や懺悔の響きはなかった。
ただ、決定された事実を読み上げるように、静かに淡々と。
「我々は“変革の必要性”を示すために、都市の一部を狙った。
ごく一部に、だ。
失われた命の数は……想定内、だったはずだった」
ルーシェは口元を強く噛み、膝がわずかに震えた。
——市街地爆発事件。
この話はダイレンジャビス本部にて、ヘルベルトから聞いた話だ。
「一体誰が、何のためにやったのか」
「無差別なのか、それとも特定の標的があったのか」
「テロか、事故か」
——結局、真相は“犯人死亡”として葬られた。
だが今、この男が口にしたのだ。
その事件の“大元の主犯”は、まさにここにいる。
「……だが、火薬を多く積みすぎた。
我々の協力者——ある大学の学生がな。
“念には念を”という性分でね。
おかげで被害は予定を大きく上回った。施設も、人間も……すべてが吹き飛んだ」
ゲラルドは肩をすくめ、まるで他人事のように語る。
「皮肉なことだ。被害が大きすぎたおかげで、逆に教団の影はかえって霞んだ。
“犯人はテロリストの一味”で話はまとまり、我々は再び地下に潜ることになった。
……まあ、結果としては良かったのかもしれんがな」
ルーシェの拳が震える。
失われた命の数は、百を超えた。
理由も告げられず、ただ巻き込まれた者たち。
生き残った者にも、癒えることのない傷が刻まれた。
それを——この男は、「想定外だった」と笑って済ませたのだ。
そして、ゲラルドがタリスマンを掲げる。
「我々は“壊す”のではない。
“始める”のだよ。選ばれた者による、真に正しい世界を——」
0
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