DYING MEMORY 2

DYING MEMORY

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SCENE 01:ひび割れる日常

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窓の外は、灰色の膜を張ったような空だった。
雲は重たく、輪郭を溶かし合いながらゆっくりと流れていく。
風の音はない。けれど、どこか遠くで雨粒が溜まりきる音がした。
――今日も、降るのだろう。

ルナは、アラームの音より数分早く目を覚ました。
寝起きの視界に映るのは、天井の薄いシミと、部屋の隅に置かれた観葉植物。

湿気を帯びた空気が、肌の上に粘る。
時計の針が七時を指す前に、彼女はベッドから体を起こした。

裸足のままキッチンに立つ。
いつものように、炊飯器の蓋を開け、湯気に顔を近づける。



湯気が頬を撫で、まつ毛の先で水滴に変わる。
その曇りが、どこか現実と夢の境目をぼかしていた。

冷蔵庫から卵を取り出す。二つ。
ひとつは割って溶き卵に、もうひとつは味噌汁用に流し込む。

フライパンの上で油が小さく弾け、金属の音が部屋に跳ねた。
卵が広がり、黄色い布のように固まっていく。

(……今日は少し塩を多めにしてみようか)

そう思って、塩をひとつまみ指先に乗せた。
湿度のせいか、塩が指に貼り付いて離れない。

指先を弾くと、白い粒が油に落ち、ジュッと音を立てた。
その小さな音が、妙に耳に残る。

鍋では、なめこがゆっくりと踊っている。
出汁の香りが湯気と混ざり、曇天の空気に淡い温度を加えた。

ルナは菜箸でかき混ぜ、火を弱めた。
食卓に白米を盛り、納豆をかき混ぜる。糸が光を掴み、細く伸びる。

椅子に座り、手を合わせる。
「いただきます」――声は、息のように小さい。

箸を持ち上げ、納豆の粒を口に運ぶ。

淡い塩気。粘り。

噛むたびに、納豆の糸が切れては繋がる。
味噌汁を口に含むと、なめこの滑りが喉を撫でた。

(……いつも通りの味だ。でも塩気は……ちょうどいい)

そう思う。
けれど、味はどこか遠い。
静けさの中に、見えない何かが沈んでいるような気がした。

ルナは茶碗を持つ手を止めた。
耳を澄ませる。

――ポツリ。

窓ガラスに、水滴が一つ落ちた。

その音が、なぜか心の奥にまで届いた気がして。
ルナは箸を置き、しばらくその一滴の流れを見つめていた。

湯気が消えかけた味噌汁の椀の向こうで、



――プルルルルル。

部屋の空気が一瞬、止まった。
ルナは箸を置き、顔を上げた。

スマートフォンがテーブルの端で震えている。
振動のたびに、箸置きがかすかに鳴り、陶器の高い音を出した。

画面には、知らない番号。
だが――よく見ると、その番号の先頭には、見覚えのある数字が並んでいた。

「……09」

ポート市の市外局番。
自分の住んでいる街だ。
けれど登録履歴もない。履歴を遡っても、同じ番号は存在しない。

ほんの一秒だけ、指が躊躇う。

(勧誘? 間違い? ……それとも)

――プルルルル。
再び鳴る。

湿った空気の中で、電子音が刺すように響く。
ルナは息を吸い、受話ボタンを押した。

「……もしもし」

「――あ、もしもし? こちら、ルナ・オオクラ様のお電話でお間違いないでしょうか?」

受話口から流れる声は、女性のものだった。
抑揚を抑えた、事務的で、それでいてどこか探りを入れるような柔らかさ。

「……はい。私です」

「ありがとうございます。私、ポート警察署のイリスと申します。
突然のご連絡、失礼いたします。
昨日、ポート市内で発生した騒動について――少しだけお伺いしたいことがありまして」

(……昨日の騒動?)

ルナは眉を寄せ、わずかに目線を落とした。
机の上の湯気が、音もなく細く揺れる。

(……ああ。あの酔っ払い二人のことか)

息をひとつ吐く。
それは驚きでも動揺でもなく、ただ“面倒な現実”を受け入れるための呼吸だった。

「……要件はなんでしょうか?」

「はい。あの路地裏に設置された防犯カメラの映像を確認いたしました。
昨夜、泥酔状態の男性二名に対し、攻撃行為を行っていたように見受けられます。
――お間違いありませんか?」

「……ええ。間違いありません」

応じる声は、濁りのない低さだった。
否定の余地も、後悔の色もない。

受話口の向こうで、わずかな沈黙。
資料をめくる音。呼吸の位置が一段だけ近づく。

「なるほど……ありがとうございます。
では、念のためその行為に至った理由をお聞かせいただけますか?」

ルナは一拍、息を整える。
窓の外では、風がひとつ吹き抜けた。
曇天の匂いが、わずかに部屋へ流れ込む。

(理由? ――あんなもの、説明するまでもない)

「……襲われたので、抵抗しました」

「……なるほど。正当防衛であると、そういう認識で間違いありませんね?」

受話口の向こうの声は、淡々としていた。
だがその抑揚の奥に、確認以上の“判断”を含んでいる気配があった。

「……はい」

ルナの声は低く、短い。
机の上の味噌汁はすでに冷め、表面に薄い膜を張っている。

「ありがとうございます。
こちらでも現場の映像を拝見しましたが――攻撃を仕掛けたのは明らかに相手側でした。
おそらく正当防衛が成立すると見て差し支えないでしょう」

少しの間を置いて、イリスが付け足す。

「ただ、少し気になる点がありましてね」

(……気になる点?)






「二人の男性、今朝方、で発見されました。」





受話口の向こうで、紙をめくる音。
イリスの声が、わずかに低くなる。



「搬送時には、すでに死亡が確認されています」

ルナは口を閉ざしたまま、呼吸をひとつ止めた。
冷めた味噌汁の膜が、静かにひび割れる音がした。

(……どういうこと?)

(あの時――私は確かに、あいつらを殴った。膝を砕いて、顎を打った。
でも……致命傷までは、与えてない。あれで死ぬほど脆いはずがない)

指先が震えた。
机の上に置かれた箸が、かすかに転がる。
その乾いた音が、電話越しの沈黙に吸い込まれていく。

「……おかしいですね」

イリスの声が再び、受話口から落ちてきた。

「死因はまだ特定できていません。ですが――現場には、奇妙な痕跡がいくつか残されていまして」

(奇妙な、痕跡……?)

「ええ。被害者の体表には、獣の咬傷のような跡が複数。
しかし歯形の間隔が、人間のそれよりも……異様に広いんです」

ルナの胸が、わずかに冷えた。
外では、いつの間にか雨が降り始めていた。
窓ガラスを叩く最初の一滴が、まるで誰かの指先でノックされたように響いた。

「恐らくですが……現在、市内各地で続発している連続殺人事件の一環と考えられます」

受話口から聞こえるイリスの声は、抑揚がほとんどなかった。
事務的で、冷静で――だからこそ、不気味なほど現実味を帯びていた。

ルナは唇をわずかに開いた。
しかし声が出ない。喉の奥で、空気だけが擦れる。

「………そう、ですか……」

わずかに遅れて落ちたその言葉は、自分のものとは思えないほど遠かった。
部屋の空気が、ひときわ重く沈む。

外の雨が、本格的に降り出した。
ガラスを打つ音が、まるで何かを覆い隠すように一定のリズムで続いている。

イリスが少しだけ声を低くした。

「現時点では、あなたへの容疑はありません。
ただ……一応、念のため。
今後、不審な人物や不審な連絡がありましたら、必ずこちらにお知らせください」

ルナは短く頷いた。

「……わかりました」

「ご協力、感謝いたします」

通信が切れると、部屋には雨と呼吸の音だけが残った。

――――――――――――――――――

(……連続殺人事件、か……)

(そういえば、レジーナも昨日言ってたな。
“また誰か死んだらしいですよ”――って、なんとなく、声が震えていたような……)

ルナはスマートフォンを手に取り、指先でGoogleの検索窓を開いた。

「連続殺人事件 ポート市」

――検索。

瞬時に、無数の記事が並ぶ。
見出しはどれも似たような文言ばかりだった。

【速報】ポート市で二名死亡 連続殺人の可能性も

【閲覧注意】被害者の損傷激しく、現場は阿鼻叫喚
“正義の鉄槌”か、それとも“無差別殺人”か

【ニュース】ディトレック株式会社 課長死亡
同社課長補佐も同時刻に遺体で発見

スクロールする指先が止まらない。
ニュースの間に挟まる広告とSNSの投稿。
そこには、他人の死を娯楽のように消費する言葉が溢れていた。

“ざまあみろ”
“また罪人が減った”
“神の裁きだ”
“くたばって清々した”
“それよりメガスターミーの見た目ヤバくね?www”

ルナは無表情のまま、画面をもう一度スワイプした。
記事の本文には見過ごせない一文があった。

『この殺害された両名はどちらも既婚だが、家庭では長年不和が続き、
社内では部下に対する暴言・過剰なスケジュール強要など、
パワーハラスメントの常習者として知られていた』

ルナは眉ひとつ動かさず、画面を閉じた。
親指の爪の先に、薄く汗が滲んでいた。

(……罪を犯した人間、もしくは裁かれていないけど罪相応の行為を行った人間だけが殺されていく……)

外では、雨が本格的に降り出していた。
屋根を叩く音が静かに重なり、
まるで世界全体が一枚の薄い膜の下に閉じ込められていくようだった。

ルナはスマートフォンを伏せた。
画面の光が途絶えると、部屋の中の明るさが一段落ちる。
静寂。雨の音だけが残る。

(……気晴らしでも、しておこう)

立ち上がり、クローゼットを開ける。
中からトレーニングウェアを取り出し、畳まれたタオルとシューズをバッグに詰め込む。
動作は機械的で、表情には何の起伏もなかった。

ジムに行く理由は、いつだって同じだった。
“体を動かせば、余計なことを考えずに済む”。
それだけ。

EAAのボトルを一本冷蔵庫から取り出し、鞄に入れる。
髪を後ろで束ね、鏡を一瞥する。
濡れたような曇天の光が頬に落ちていた。

(……雨、もう少し強くなりそう)

傘を持つか一瞬迷い、結局そのまま玄関を出た。
ドアを閉めると、外気が肌にまとわりつく。
雨と湿気の匂いが混ざり、街全体が呼吸しているようだった。

階段を降りる足音が、しだいに一定のリズムを刻む。
それはまるで、心拍の代わりに“生きているふり”をしている音だった。

――――――――――――――――――

ジムの自動ドアが開くと、湿った外気と入れ替わるように、人工的な冷気が肌を撫でた。
金属と汗の混ざった独特の匂い。
スピーカーからは無機質なビートが一定のテンポで流れ、床のゴムマットが靴底にわずかに沈む。

ルナは受付で会員カードをかざし、黙ったまま更衣室へ向かった。
白い照明がまぶしく、鏡に映る自分の顔が少し疲れて見えた。

髪を結い直し、ウェアの袖を整える。
その一連の動作に、何の感情もない。

「ふんっ!! ふんっっ!!」

「ほら、ベンチ120kg行くんだろ!? テメエの限界超えてみようぜ!!」

「力こそパワー!! 筋肉は正義だ!!!」

「大地の怒りに――砕け散れぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!!」

「おい、なんでフーゴ・クプカがここにいんだよw」

「……で、これ何kgでTバーロウやるの?」

「ぜってーデカくなる!!!!」

「おう、ぜってーデカくなる!!!!!」

「……だめだこの人達、会話が通じねぇw」

――熱気と狂気が混ざった、奇妙な戦場。
鉄が軋み、汗が光り、掛け声が跳ね返る。
ジムというより、ただの脳筋のたまり場のようだった。

ルナはストレッチを済ませ、サンドバッグの前に立つ。
手首にテーピングを巻き、グローブを締める。
呼吸を整え――一発、打ち込む。



ドンッ。

乾いた音が、鉄と空気を震わせた。
腕を引き戻すと、手首に鈍い痛み。

それでも構わず、二撃目、三撃目と重ねる。
打つたびに胸の奥が静まっていく。

(これでいい。何も感じなくていい)

やがてリズムが生まれる。
打撃、呼吸、反動、重心の移動。
雨の音も、連続殺人のニュースも、どこか遠くへ流れていく。

数分後、息が荒くなり、肩から汗が滴った。
その汗は、冷たい照明の下で金属のように光った。
ルナは拳を下ろし、額の汗をタオルで拭う。

(……もう少し、動こう)

そう思った瞬間――
ジムの奥の方で、誰かがマシンを落としたような鈍い音が響いた。
周囲の視線がわずかにそちらを向く。
だが、ルナだけはその音に、なぜか“外の雨音とは違う匂い”を感じた。

胸の奥がざらりと冷える。

(……気のせい、か)

そう呟き、再び拳を構えた。

――――――――――――――――――

「お疲れさん!! 今日もいいジャブ、いいキックだったねぇ!!」

汗を拭いながら近づいてくるのは、陽気なトレーナーだった。
黒いTシャツに金色のロゴ、肩幅が異様に広い。
笑うたびに首筋の筋肉まで動いて見える。

「……どうも」

ルナは軽く頭を下げる。

「いいよ~、とてもいい!! お姉さん、ひっじょ~に健康志向で大変すんばらしい!!
世の中はさ、運動する時間がねぇだの、忙しいだの、くだらねえ言い訳ば~~っかりだ。
スマホいじってる時間、ゲームしてる時間、なんの役にも立たねぇプラモ作る時間――
あれ全部、運動に変えりゃあいいんだよ!!」

ルナはタオルで首筋を拭いながら、小さく息を吐いた。

「……それほど、世の中が生きにくいんだと思います。
太ってる人ほど、社会に圧迫されてるというか……私は、そう感じます」

トレーナーは目を瞬かせたあと、豪快に笑った。

「まぁ言わんとしてることは分からんでもないけどな。
でも、だからこそ運動は大事だろう? 心も体も動かしてりゃ、少なくとも“死んだようには”生きなくて済む」

「……ですね」

短く答える。
トレーナーはサムズアップし、歯を光らせて去っていった。

その背中を見送りながら、ルナは無意識に拳を握りしめた。

(……“死んだようには生きなくて済む”、か)

「じゃあねお姉さん! しっかりプロテイン飲むんだよ!!」

背中越しに響く声は、明るくて、どこまでも無邪気だった。
ルナは軽く会釈し、タオルを肩に掛けたまま出口へ向かう。

「……失礼します」

自動ドアが開く。
外の空気は冷たく、湿っていた。
雨脚は弱まったものの、アスファルトにはまだ水の膜が残っている。
街灯の光がその表面に滲み、歩道をゆらゆらと照らしていた。

ジムの中から漏れる音楽と笑い声が、背後で遠ざかる。
その代わりに聞こえてきたのは、夜風に混じる低い唸り――
まるで街全体が、何かを飲み込む前に息を整えているような音だった。

靴底が水たまりを踏むたび、細い波紋が広がった。

(……帰ろう)

静かにそう呟いて、暗い裏道へと歩き出した。

裏道に入ると、空気が一段階冷たくなった。
昼間は学生や会社員が通るはずの道。
だが今夜は、風の音すら聞こえない。

電灯の数が少なく、照らされる範囲と闇の境界がはっきりしている。
アスファルトにはまだ雨水が残り、光を歪ませながら薄く揺れていた。
歩くたびに靴底がぬかるみを踏み、ぺたり、と湿った音を立てる。

(……静かすぎる)

ルナは周囲を見渡した。
商店のシャッターはすべて閉まり、ネオンの看板は半分以上が消えている。
風が抜けた瞬間、どこかで旗の端が小さく鳴った。
だがそれ以外に、人の気配がない。

犬の鳴き声も、車のエンジン音も、遠くの話し声すらしない。
街全体が一時停止したような沈黙だった。



(……こんなに人がいなかったっけ?)

いつもなら、酔っぱらいが一人は歩いている時間帯だ。
コンビニの袋を提げた誰か、電話で喋る誰か。
今夜は、それがまるごと消えている。

ルナは空を仰ぐ。
雲はまだ厚く、街灯の光を反射してぼんやりと赤く染まっている。
その赤さが、血の色に見えた。

(……早く帰ろう)

バッグの紐を握り直す。
その指先に、冷えた空気が絡みついた。

――カンッ。

どこかで、金属の落ちる音がした。

(……今の、なに?)

湿った空気の中で、さっきよりも風が少し強くなった。
その風が運んできたのは――
わずかに、鉄のような匂い。

ルナは足を止めた。
音は、ほんの数メートル先の角の向こうからだ。
金属が転がるような乾いた響き。――だが、風の流れと違う。

(……誰か、いる?)

周囲を見渡す。
看板の灯りがひとつ、ちらちらと瞬いていた。
遠くのビルの明かりが雨水の膜に反射して、薄く揺れている。

ルナはゆっくりと歩き出した。
足音を最小限に抑え、呼吸も浅くする。
背後には自分の靴音以外、何の気配もない。

だが――確かに感じる。
この先に“何かがいる”。

曲がり角の手前で立ち止まる。
街灯は一本、途中で切れていて、そこだけ闇が濃い。
鼻をかすめる、鉄錆のような匂い。





――血。






静かに角を覗く。
そこには、何かが倒れていた。

人の形。
だが、輪郭が歪んでいる。

暗がりの中で、ぬめるように光るものが動いた。
それは――地面に膝をつき、何かを喰らっているように見えた。

“ず、ず……じゅる……”

湿った音が響く。
人間の咀嚼とは明らかに違う、
何かが肉を引き裂き、吸い上げる音。

ルナの背筋が、凍りついた。

闇の中で、喰らう音が止んだ。
まるで、何かが“気づいた”ように。

ぴたりと静寂。
雨の雫が、どこか遠くでひとつ弾ける。

その“それ”は、ゆっくりと首を上げた。
骨の軋むような、乾いた音が聞こえる。



闇に紛れた顔の奥で――二つの光。
白く、丸く、濁った瞳がこちらを見た。

(……人、じゃない……!!)

皮膚は、ところどころ剥がれ落ちている。
筋肉の間から黒い液体が滴り、地面に落ちるたびにじゅっと煙が立つ。
口は人間よりも横に裂け、歯がむき出しに生えていた。
その奥で、まだ“誰かの肉片”がぶら下がっている。

それは――笑った。

「……ぁ」

喉の奥から、声にならない音が漏れる。

次の瞬間、そいつは四つ足で地面を蹴った。
湿ったアスファルトを爪が引っ掻き、火花のような音が散る。
距離が一気に詰まる。

ルナの足が反射的に動いた。
思考より先に、筋肉が走り出していた。

――逃げろ。

風が頬を切る。
背後で何かが金属のフェンスにぶつかり、鉄が悲鳴を上げた。
靴底が濡れた路面を滑り、視界が揺れる。

息が浅くなる。
雨が顔に当たる。
それでも走る。

(まずい、追ってきてる――!)

振り返ることはできなかった。
ただ、背後の暗闇から聞こえるあの足音が、
確かに――生き物のそれではないことだけは分かった。

背後の気配が近づく。
呼吸の間隔が狭まり、喉が焼けるように痛い。

――足音。
カン、カン、カン。
不規則なリズム。まるで人間の骨がアスファルトを叩いているようだった。

ルナは角を曲がる。
視界の端に、放置された木材が見えた。
工事現場の残骸。鉄パイプ、段ボール、そして――一本の角材。



(……これなら!!)

立ち止まる暇もなく、手を伸ばした。
指先が木の感触を掴んだ瞬間、背後の闇が爆ぜる。

“それ”が飛びかかってきた。
咆哮とも悲鳴ともつかぬ声。
人間の声帯が引き裂かれて再構成されたような、不協和音。

「……っあああっ!!」

ルナは体を捻り、振り返りざまに角材を横薙ぎに振るった。

――ガッ。

手応え。
骨が砕ける感触が掌に走る。

それでも“それ”は止まらない。
崩れかけた身体を立て直し、再び地面を蹴る。

「ッ……!」

二撃目。
今度は顎を狙う。
角材の端が、血と肉を巻き上げて砕けた。
黒い液体が雨と混じり、地面に散る。

それでも動く。
笑っている。
歯の間から、肉を引き裂いたような音を立てながら、笑っている。

「……なんなの、あんた!?」

ルナは静かに叫び、体重を乗せた一撃を叩き込んだ。
角材が頭部を直撃し、“それ”の動きが止まる。
次の瞬間、膝から崩れ落ちた。

雨音だけが残った。

ルナは角材を握ったまま、息を荒げた。
手のひらが震えている。
恐怖ではない。
――生き延びたという確信。

目の前の“それ”は、ゆっくりと蒸発していった。
黒い液体が煙を上げ、やがて跡形もなく消える。

(……消えた………?)

あの現実離れした光景が、まるで夢の残滓のように薄れていく。
雨だけが現実を引き戻していた。

ルナは角材を手放した。
木の塊が地面を打ち、乾いた音を響かせる。

(……な、なんだったの、今の……?)

答えはない。
ただ、胸の奥で鼓動だけが――
確かに、生きていた。
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