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SCENE 04:血の夢
アパートのドアを閉めた瞬間、世界の音が一段階落ちた気がした。
さっきまで耳の奥で反響していた蛍光灯の唸りも、警察署の足音も、取調室の金属臭も――
全部、ドア一枚隔てた向こう側に押し込められる。
「やっと……帰ってきた……」
声に出してみても、現実感は薄かった。
ただ喉の奥がひりついて、やっと「今日は色々とありすぎた」と遅れて自覚する。
靴を脱ぐ手が重い。
しゃがむだけで、膝がぎしっと音を立てた気がした。
(……疲れた……)
疲れた、なんて言葉じゃ追いつかない。
身体だけが鉛みたいに沈んでいる。
証明写真みたいに狭い玄関を抜けると、いつものワンルームが広がった。
カーテンは閉めっぱなし。
安い天井灯の白い光が、薄いカーペットと安物のテーブルを平たく照らしている。
どこにでもある学生の部屋。
さっきまで自分がいた場所が、あまりにも「どこにもない世界」だったせいで、逆にこの狭さが現実離れして見える。
(……シャワー、浴びる気力……ない)
靴下だけ脱ぎ捨てて、そのままベッドに身体を投げ出す。
マットレスのバネがギシッと悲鳴を上げた。
天井が近い。
白い板目の模様を目でなぞるうちに、さっきの蛍光灯の光と重なって見えはじめる。
――冷たい取調室。
――黒い液体の消えた鉄パイプ。
――スマホの画面にハッキリと映った、あの“何か”。
瞼を閉じても、すぐにあの白い目が裏側から浮かび上がってくる。
まぶたの内側を、ぎゅうっと内側から押してくるみたいに。
(やめて……)
額に腕を乗せ、光を遮る。
視界は暗くなるのに、脳だけがどんどん冴えていく。
イリスの低い声が、耳の奥で再生される。
――“これは……何だと思ってるの?”
(……そんなもの、知らないよ……)
知らない、で済ませたかった。
でも「人間じゃない」と口にしたのは、他でもない自分だ。
息を吐くたびに、胸の奥の空気がざらざらと擦れる。
ベッドのスプリングが、心臓の鼓動に合わせて小さく揺れた。
時計を見ると、思ったより時間は進んでいなかった。
日付が変わるまでには、まだいくらか余裕がある。
一つ一つを思い返そうとすると、どこかで記憶がざくっと途切れる。
“現実”と“夢”の境目が、もううまく線を引けない。
(…………寝よう。何が何でも……)
誰に言うでもなく呟き、布団を引き寄せる。
くしゃっとした薄い掛け布団が、顔の半分を覆った。
目を閉じても、すぐに動画のフレームが頭の中で勝手に再生される。
音も、匂いも、一緒に引き連れて。
――ず……じゅる……
――ぐぅ……ッ……
――ズズッ……
(嫌だ……)
耳を塞ぐみたいに、枕に頭を押し付ける。
そうしても、今度は心臓の音がうるさくなった。
(落ち着け……息、ゆっくり……)
鼻から吸って、口から吐く。
吸って、
吐いて。
吸って、
吐いて――。
回数を数えるうちに、数字だけがどこかへ流れていく。
さっきまでぎちぎちだった頭の歯車が、少しずつ速度を落としていく感覚。
(……眠れ……ない……眠らなきゃ……いけないのに……)
焦りだけが最後まで残る。
それもやがて、輪郭を失っていく。
――――――――――――――――――
布団の重さが、身体に沈み込む。
床とマットレスとの境界が曖昧になり、重力の向きが分からなくなる。
耳鳴りが遠くなる。
代わりに、どこか別の“音”が近づいてくる。
水の跳ねる音にも似ていて、血が垂れる音にも似ている、
ぬるくて重い、得体の知れない音。
(……また、アイツ……?)
薄れゆく意識のどこかが、かすかに拒否を示す。
けれど、眠りの波はもう止まらなかった。
ふっと、落ちる。
床が抜けたみたいに、世界が一段落ちる。
内臓がふわりと浮き、次の瞬間には逆に、何かにぐしゃっと押しつぶされるような感覚。
冷たい。
真っ先にそう思った。
足裏が、ひやりとした。
靴底越しなのに、温度が伝わってくる。
重いまぶたをゆっくり持ち上げる。
視界が、じわじわと焦点を結んでいく。
――赤い。
最初、そう見えた。
けれど“赤”というには暗すぎる。
黒に近い、濁った色。
それが、床一面を覆っていた。
自分の足元から、視線を少しだけ下げる。
白いスニーカー。
その周りに、べったりと何かが広がっている。
赤黒い液体が、靴の縁をなぞるように染み込んでいた。
さっき足裏に感じた冷たさは、その“ぬめり”だったのだと気づく。
(……血……?)
思考が追いつかないまま、ルナはただ立っていた。
血塗れの床の上に、
両足で、しっかりと。
一歩、足を出すたびに、ぐしゃ、と濁った音がした。
靴底と床のあいだで、何かが押し潰されている感触。
それが何なのか、頭では分かっているのに――
(……進まなきゃ)
恐怖より先に、その思考だけが立ち上がる。
視線を上げる。
どこまでも続く血の海。
天井は低く、壁はどこかの廊下にも、どこかの路地にも似ているのに、具体的な形を結ばない。
足を運ぶたび、白いスニーカーに赤黒い染みが広がっていく。
でも、ルナは立ち止まらなかった。
足首に、膝に、じわじわと冷たさが這い上がってきても、振り返るという発想がなかった。
前に、何かがいる。
それを追わなきゃいけない。
――そんな“決まり”だけが、この空間のルールみたいに、胸の奥に刻み込まれている。
やがて、視界の奥が揺れた。
血だまりの向こう、闇の中から、何かが這い上がってくる。
ひび割れた床の隙間から、黒い粘土のような塊がずるりと溢れ出す。
骨と金属がこすれるような音。
湿った肉の音。
あの動画で聞いたのと同じ、耳が拒否する種類のノイズ。
白い目が、闇の中に二つ、灯った。
(……また、あれ……!)
喉が勝手に乾くのに、恐怖はなぜか遠かった。
心臓は早鐘を打っているのに、頭の中は妙に静かだ。
視線を少し落とす。
自分の足元から少し離れた場所に、鉄パイプが一本、転がっていた。
あの時に使った、錆びた鉄パイプと一緒だった。
でも今は、血に濡れて鈍く光っている。
躊躇いは、ほとんどなかった。
ルナは膝を折り、血を跳ね上げながらパイプを掴む。
冷たさが掌を刺す。
重さが骨に食い込む。
化け物が、こちらへ顔を向けた。
裂けた口が、音の出ない悲鳴みたいに開く。
「――っ!」
身体が勝手に動いた。
足を踏み込む。
血を蹴り上げる。
肩をひねる。
全身の力を、両手に集める。
振り抜いた。
鉄と肉と何か分からないものがぶつかる、鈍くて濁った衝撃。
反動が腕を逆流し、肩まで痺れが走る。
同時に――世界が、ぐにゃりと折れ曲がった。
床が沈む。
天井が遠ざかる。
赤い海が、紙を破るみたいにぱっくり割れ、その裂け目の向こうから、別の色が滲み出してくる。
視界の端で、血の床が黒板に変わる。
壁に掛かる時間割表。
整然と並ぶ机と椅子。
安っぽい蛍光灯。
窓の外には、校庭らしき影。
気づけば、自分の足は、血塗れの床ではなく――
どこかの学校の廊下のような場所に、しっかりと立っていた。
(……学校……?)
自分の声が、喉の奥でだけ響く。
足元には、磨かれたリノリウムの床。
さっきまで靴底にこびりついていたはずの血は、跡形もない。
廊下の突き当たりに、大きな窓があった。
ルナは、吸い寄せられるみたいに歩き出す。
窓の外は、灰色の空だった。
校庭らしき四角いスペース。
フェンス。
その向こうに、道路と、低いビルの影。
何かがおかしい。
そう思った瞬間――
視界の上のほうで、影がひとつ、揺れた。
「え――」
言葉になる前に、それは落ちてきた。
制服姿の人影。
くるりと半回転して、背中から地面に叩きつけられる。
びしゃり。
血の音はしなかった。
なのに、骨と肉が砕ける硬い音だけが、やけに鮮明に響いた。
ルナの指先が、窓ガラスを掴んだまま固まる。
爪がきゅっと鳴る。
校庭の真ん中で、女学生が仰向けになって動かない。
紺色のスカートにブレザー。
その下から、あり得ない角度に伸びた片腕が、だらりと揺れていた。
(……落ちた……今……目の前で……)
喉が、きゅっと締まる。
叫ぼうとしても、声が出ない。
その時、背後で椅子の軋む音がした。
ルナは弾かれたように振り返る。
廊下の突き当たり、窓のすぐ横には教室の出入口があった。
ガラス窓のついた引き戸の向こう、教室の中がぼんやりと見える。
その中で――
一人の男が、机を蹴り飛ばしていた。
ガンッ。
乱暴な音とともに、木製の机が前へ滑る。
上に置かれていたペンケースやノートが宙を舞い、床に散らばる。
ルナには、なぜか分かる。
その机が、さっき落ちていった女学生の席だと。
「やめてよ!!」
「お願い!やめて!!!」
さっき校庭に叩きつけられて、もう動かなくなっているはずの女学生。
同じ制服。
同じ髪型。
顔だけは、なぜかぼやけて見えない。
男は女学生の胸倉を掴み、壁へ叩きつける。
肩が、頭が、何度もぶつかる。
「お前、いっつも泣いてて気持ち悪ぃんだよ」
「泣けば誰か助けてくれるとでも思ってんのか?
んなことしたってスマホで撮られてデジタルタトゥーになるだけだよバーカ!!」
「……いっつもいい子ぶってんじゃねえぞ、このアバズレ!! 死ねよブスが!!!」
低く、刺すような声。
教室の中の空気が、重く沈んでいく。
女学生は声にならない声を上げている。
口は何かを叫んでいるのに、ルナには音が届かない。
まるでテレビの音だけ消されたニュース映像みたいに、映像だけが生々しい。
黒板の前にいる数人の生徒は、ただ見ているだけだ。
立ち尽くして、顔を伏せて、目を逸らして。
誰も止めない。
誰も動かない。
(……イジメ……?)
語彙がそこで止まる。
それ以上の言葉が出てこない。
机を蹴り飛ばした男が、ゆっくりと振り返った。
その瞬間――教室の空気が、かすかに歪んだ。
男の顔が、ルナの視界の中で、にじむ。
輪郭が波打つ。
皮膚の色が、ひとところから黒く染み出してくる。
目の白い部分が、どろりと膨れ上がる。
口角が、皮膚を引き裂きながら耳のあたりまで裂けていく。
指の関節が増えたみたいに、腕が不自然に曲がる。
さっき血の海の中で見た“あいつ”の、あのシルエット。
普通の制服の上半身から、あり得ない形の何かが生えている。
男が、完全に振り返る。
そこにいたのはもう、人間ではなかった。
ルナの手には、いつのまにかまた鉄パイプが握られていた。
見下ろすまでもなく分かる。
掌に食い込む冷たさと重さ。
汗と、鉄臭い感触。
教室の中で、化け物になった“男”がこちらを見た。
白く膨れた目が、窓越しのルナをまっすぐ射抜く。
(――来る!)
考えるより先に、身体が反応していた。
引き戸を乱暴に開け放つ。
教室の空気がぶわっと流れ出る。
黒板のチョークの粉と、床のワックスの匂い、そのど真ん中に混じる生臭さ。
化け物が、女学生の肩を離してこちらへ向き直る。
裂けた口が、笑っているのか怒っているのか分からない形で開く。
「……っ!」
足が勝手に前へ出る。
血の海じゃないのに、靴底がまたぐしゃりと鳴った気がした。
パイプを振り上げる。
肩に、背中に、さっき受けた反動の記憶がよみがえる。
迷いはなかった。
恐怖も、後悔も、その瞬間だけは全部どこかへ消えている。
――振り抜く。
鈍い手応え。
硬いものと柔らかいものが一度に潰れる感触が、腕の骨を通って直接頭蓋まで響く。
次の瞬間、視界が赤くはじけた。
ぴしゃ、と何かが顔に当たる。
目の周り、頬、口元。
温かいのに、どこか冷たい。
(……血……)
自分のものか、相手のものか分からない。
ただ顔の大半が、ねっとりとした液体で覆われている感触だけが、妙に鮮明だった。
世界が、また少し傾ぐ。
教室のざわめきが遠のく。
床の感触が薄れる。
代わりに、どこか遠くから、声が届いた。
――「私はあなたの――」
誰かの声。
女とも男ともつかない。
耳元でもなく、頭のどこか深い場所で直接鳴っているみたいな声。
優しいのか、恐ろしいのか、それすら判断できない。
ただ、その一言が、ルナの胸の奥の何かを強く掴んだ。
次の瞬間。
「――っ!」
ルナは自分の声で目を覚ました。
上体を勢いよく起こした拍子に、視界がぐらりと揺れる。
薄暗い天井。
狭いワンルームの天井灯。
カーテンの隙間から漏れる、街灯のオレンジ色。
息が荒い。
喉が焼けるように痛い。
額から、こめかみから、首筋から、冷たい汗が滝みたいに流れていた。
パジャマのTシャツが背中に張り付いて、肌がぞくぞくする。
「……はぁ……っ……はぁ……っ……」
心臓が、まだ夢の中にいるみたいな速度で暴れている。
両手を見下ろす。
さっきまで鉄パイプを握っていたはずの指は、何も掴んでいないのに真っ白になるほど力が入っていた。
顔に手を当てる。
血なんてどこにもない。
あるのは、冷や汗のぬるい感触だけ。
それでも、頬のあたりに残る“何かに覆われていた”感触が、しつこく皮膚にこびりついて離れなかった。
――――――――――――――――――
心臓の鼓動が、ようやく人間の範囲まで落ち着いてきた頃――
代わりに全身のだるさが、どっと押し寄せる。
「……最悪……」
呟いてみても、声が自分のものじゃないみたいだった。
喉は枯れているし、胸の奥はひゅうひゅう鳴っている。
汗で冷えた身体に、夜の空気が容赦なくまとわりつく。
横目で時計を見る。
針の位置的に、眠れたのはほんの数時間。
睡眠というより、意識が落ちていただけに近い。
布団から足を出すだけで、太腿に鉛でも巻かれているみたいに重い。
首を回すと、筋がぴりっと抗議する。
(……寝たはずなのに……全然、休めてない……)
夢の中で走って、殴って、血まみれになって。
目が覚めても、筋肉だけがその記憶を引きずっている。
それでも、時間は待ってくれない。
「……起きなきゃ……」
自分を叱るように呟いて、ベッドから這い出る。
床の冷たさが、足裏をじわりと刺した。
洗面所で顔を洗い、冷たい水をごしごしと頬に叩きつける。
鏡に映った自分は、目の下にくっきりとクマを刻んだ、見慣れない顔をしていた。
(……昨日から“クマが酷い”って思ってたけど……これ、余計悪化してない……?)
タオルで水気を拭き取りながら、ふと玄関のほうで何かが気になった。
ポスト。
ルナはスリッパを突っかけて、ドアのそばまで行く。
室内側の小さな投函口に手を伸ばすと、指先に紙とプラスチックの感触が触れた。
引き抜くと、薄いクッション封筒が一通。
送り主の欄には、“PORT POLICE STATION”の文字が印刷されている。
「……早っ……」
昨夜から、まだそんなに時間は経っていない。
それなのに、もう届いている。
封筒を破って中身を出すと、見慣れたスマホが滑り出てきた。
ケースの角に入った小さな傷。
間違いなく、自分のだ。
その瞬間、さっきまで夢の中で聞いた声が、遅れて脳裏に蘇る。
――「私はあなたの――」
反射的に、スマホの画面を点けていた。
ロック画面を指紋で解除すると、ホーム画面に通知はない。
時間だけが、無遠慮に現実を告げている。
(…………LINE)
アプリを開く。
トーク一覧の、一番上。
“送信元不明”
アイコンも名前も空白のまま、ただ一件だけメッセージが残っている。
【迎えに来て】
昨日と、何も変わっていない。
削除もできず、ブロックもできず、通知もオフにできない、あの奇妙な一行が、そのままそこに在った。
(……さっきの声……“私はあなたの――”って……)
無意識に、スマホを持つ手に力が入る。
もしあの声と、このメッセージの送り主が同じだとしたら――
そう思った途端、胃のあたりがきゅっと縮んだ。
「……考えない、考えない……ように……」
自分に言い聞かせるように呟き、スマホをテーブルの上に置く。
今度は、部屋の隅に投げ捨てたリュックに手を伸ばした。
ファスナーを下ろして中を覗く。
教科書、ノート、ペンケース。
ノートパソコン。
財布。
そして、その一番底。
黒い手紙。
「……やっぱ、ある……」
薄くて、手触りだけやけにざらつく奇妙な紙。
封は閉じられたまま。
宛名も差出人も書かれていない、真っ黒な手紙。
昨日――
警察署で、鞄の中身は一度全部チェックされた。
金属探知、持ち物の確認、危険物の有無。
なのに、そのとき誰もこの封筒に触れなかった。
何も言わなかった。
まるで、そこには“何もない”かのように。
(見えてなかった……?
それとも、わざと無視した……?)
そう考えた瞬間、背筋に嫌な汗がまた滲む。
イリスの顔を思い出す。
あの人がもしこれを知っていて、あえて黙っていたのだとしたら――
それはそれで怖い。
でも、本当に見えていなかったのだとしたら。
それはもっと、違う種類の怖さだ。
封筒に触れていた指先を、そっと離す。
黒い紙は、何事もなかったみたいに、鞄の底に沈んだまま動かない。
「……今は、触らないようにしよう」
そう決めて、ファスナーを閉じる。
視界から消えるだけで、胸のざわつきが少しだけ和らいだ。
最低限のメイクでクマだけ誤魔化す。
髪をまとめて、リュックにスマホを放り込む。
肩にかけた瞬間、全身のだるさが一気にぶり返してくる。
それでも止まれない。
(……大学、行かないと……)
アパートのドアノブに手をかける。
一拍、深く息を吸ってから、鍵を回した。
冷たい外気が、隙間から流れ込んでくる。
夜と朝の境目みたいな薄い光が、廊下の灰色を照らしていた。
ルナは一歩、外へ踏み出した。
身体は重い。
頭もまだ夢の続きを引きずっている。
それでも足だけは、いつも通り“大学へ向かう”ためのルートを、忠実に辿りはじめた。
さっきまで耳の奥で反響していた蛍光灯の唸りも、警察署の足音も、取調室の金属臭も――
全部、ドア一枚隔てた向こう側に押し込められる。
「やっと……帰ってきた……」
声に出してみても、現実感は薄かった。
ただ喉の奥がひりついて、やっと「今日は色々とありすぎた」と遅れて自覚する。
靴を脱ぐ手が重い。
しゃがむだけで、膝がぎしっと音を立てた気がした。
(……疲れた……)
疲れた、なんて言葉じゃ追いつかない。
身体だけが鉛みたいに沈んでいる。
証明写真みたいに狭い玄関を抜けると、いつものワンルームが広がった。
カーテンは閉めっぱなし。
安い天井灯の白い光が、薄いカーペットと安物のテーブルを平たく照らしている。
どこにでもある学生の部屋。
さっきまで自分がいた場所が、あまりにも「どこにもない世界」だったせいで、逆にこの狭さが現実離れして見える。
(……シャワー、浴びる気力……ない)
靴下だけ脱ぎ捨てて、そのままベッドに身体を投げ出す。
マットレスのバネがギシッと悲鳴を上げた。
天井が近い。
白い板目の模様を目でなぞるうちに、さっきの蛍光灯の光と重なって見えはじめる。
――冷たい取調室。
――黒い液体の消えた鉄パイプ。
――スマホの画面にハッキリと映った、あの“何か”。
瞼を閉じても、すぐにあの白い目が裏側から浮かび上がってくる。
まぶたの内側を、ぎゅうっと内側から押してくるみたいに。
(やめて……)
額に腕を乗せ、光を遮る。
視界は暗くなるのに、脳だけがどんどん冴えていく。
イリスの低い声が、耳の奥で再生される。
――“これは……何だと思ってるの?”
(……そんなもの、知らないよ……)
知らない、で済ませたかった。
でも「人間じゃない」と口にしたのは、他でもない自分だ。
息を吐くたびに、胸の奥の空気がざらざらと擦れる。
ベッドのスプリングが、心臓の鼓動に合わせて小さく揺れた。
時計を見ると、思ったより時間は進んでいなかった。
日付が変わるまでには、まだいくらか余裕がある。
一つ一つを思い返そうとすると、どこかで記憶がざくっと途切れる。
“現実”と“夢”の境目が、もううまく線を引けない。
(…………寝よう。何が何でも……)
誰に言うでもなく呟き、布団を引き寄せる。
くしゃっとした薄い掛け布団が、顔の半分を覆った。
目を閉じても、すぐに動画のフレームが頭の中で勝手に再生される。
音も、匂いも、一緒に引き連れて。
――ず……じゅる……
――ぐぅ……ッ……
――ズズッ……
(嫌だ……)
耳を塞ぐみたいに、枕に頭を押し付ける。
そうしても、今度は心臓の音がうるさくなった。
(落ち着け……息、ゆっくり……)
鼻から吸って、口から吐く。
吸って、
吐いて。
吸って、
吐いて――。
回数を数えるうちに、数字だけがどこかへ流れていく。
さっきまでぎちぎちだった頭の歯車が、少しずつ速度を落としていく感覚。
(……眠れ……ない……眠らなきゃ……いけないのに……)
焦りだけが最後まで残る。
それもやがて、輪郭を失っていく。
――――――――――――――――――
布団の重さが、身体に沈み込む。
床とマットレスとの境界が曖昧になり、重力の向きが分からなくなる。
耳鳴りが遠くなる。
代わりに、どこか別の“音”が近づいてくる。
水の跳ねる音にも似ていて、血が垂れる音にも似ている、
ぬるくて重い、得体の知れない音。
(……また、アイツ……?)
薄れゆく意識のどこかが、かすかに拒否を示す。
けれど、眠りの波はもう止まらなかった。
ふっと、落ちる。
床が抜けたみたいに、世界が一段落ちる。
内臓がふわりと浮き、次の瞬間には逆に、何かにぐしゃっと押しつぶされるような感覚。
冷たい。
真っ先にそう思った。
足裏が、ひやりとした。
靴底越しなのに、温度が伝わってくる。
重いまぶたをゆっくり持ち上げる。
視界が、じわじわと焦点を結んでいく。
――赤い。
最初、そう見えた。
けれど“赤”というには暗すぎる。
黒に近い、濁った色。
それが、床一面を覆っていた。
自分の足元から、視線を少しだけ下げる。
白いスニーカー。
その周りに、べったりと何かが広がっている。
赤黒い液体が、靴の縁をなぞるように染み込んでいた。
さっき足裏に感じた冷たさは、その“ぬめり”だったのだと気づく。
(……血……?)
思考が追いつかないまま、ルナはただ立っていた。
血塗れの床の上に、
両足で、しっかりと。
一歩、足を出すたびに、ぐしゃ、と濁った音がした。
靴底と床のあいだで、何かが押し潰されている感触。
それが何なのか、頭では分かっているのに――
(……進まなきゃ)
恐怖より先に、その思考だけが立ち上がる。
視線を上げる。
どこまでも続く血の海。
天井は低く、壁はどこかの廊下にも、どこかの路地にも似ているのに、具体的な形を結ばない。
足を運ぶたび、白いスニーカーに赤黒い染みが広がっていく。
でも、ルナは立ち止まらなかった。
足首に、膝に、じわじわと冷たさが這い上がってきても、振り返るという発想がなかった。
前に、何かがいる。
それを追わなきゃいけない。
――そんな“決まり”だけが、この空間のルールみたいに、胸の奥に刻み込まれている。
やがて、視界の奥が揺れた。
血だまりの向こう、闇の中から、何かが這い上がってくる。
ひび割れた床の隙間から、黒い粘土のような塊がずるりと溢れ出す。
骨と金属がこすれるような音。
湿った肉の音。
あの動画で聞いたのと同じ、耳が拒否する種類のノイズ。
白い目が、闇の中に二つ、灯った。
(……また、あれ……!)
喉が勝手に乾くのに、恐怖はなぜか遠かった。
心臓は早鐘を打っているのに、頭の中は妙に静かだ。
視線を少し落とす。
自分の足元から少し離れた場所に、鉄パイプが一本、転がっていた。
あの時に使った、錆びた鉄パイプと一緒だった。
でも今は、血に濡れて鈍く光っている。
躊躇いは、ほとんどなかった。
ルナは膝を折り、血を跳ね上げながらパイプを掴む。
冷たさが掌を刺す。
重さが骨に食い込む。
化け物が、こちらへ顔を向けた。
裂けた口が、音の出ない悲鳴みたいに開く。
「――っ!」
身体が勝手に動いた。
足を踏み込む。
血を蹴り上げる。
肩をひねる。
全身の力を、両手に集める。
振り抜いた。
鉄と肉と何か分からないものがぶつかる、鈍くて濁った衝撃。
反動が腕を逆流し、肩まで痺れが走る。
同時に――世界が、ぐにゃりと折れ曲がった。
床が沈む。
天井が遠ざかる。
赤い海が、紙を破るみたいにぱっくり割れ、その裂け目の向こうから、別の色が滲み出してくる。
視界の端で、血の床が黒板に変わる。
壁に掛かる時間割表。
整然と並ぶ机と椅子。
安っぽい蛍光灯。
窓の外には、校庭らしき影。
気づけば、自分の足は、血塗れの床ではなく――
どこかの学校の廊下のような場所に、しっかりと立っていた。
(……学校……?)
自分の声が、喉の奥でだけ響く。
足元には、磨かれたリノリウムの床。
さっきまで靴底にこびりついていたはずの血は、跡形もない。
廊下の突き当たりに、大きな窓があった。
ルナは、吸い寄せられるみたいに歩き出す。
窓の外は、灰色の空だった。
校庭らしき四角いスペース。
フェンス。
その向こうに、道路と、低いビルの影。
何かがおかしい。
そう思った瞬間――
視界の上のほうで、影がひとつ、揺れた。
「え――」
言葉になる前に、それは落ちてきた。
制服姿の人影。
くるりと半回転して、背中から地面に叩きつけられる。
びしゃり。
血の音はしなかった。
なのに、骨と肉が砕ける硬い音だけが、やけに鮮明に響いた。
ルナの指先が、窓ガラスを掴んだまま固まる。
爪がきゅっと鳴る。
校庭の真ん中で、女学生が仰向けになって動かない。
紺色のスカートにブレザー。
その下から、あり得ない角度に伸びた片腕が、だらりと揺れていた。
(……落ちた……今……目の前で……)
喉が、きゅっと締まる。
叫ぼうとしても、声が出ない。
その時、背後で椅子の軋む音がした。
ルナは弾かれたように振り返る。
廊下の突き当たり、窓のすぐ横には教室の出入口があった。
ガラス窓のついた引き戸の向こう、教室の中がぼんやりと見える。
その中で――
一人の男が、机を蹴り飛ばしていた。
ガンッ。
乱暴な音とともに、木製の机が前へ滑る。
上に置かれていたペンケースやノートが宙を舞い、床に散らばる。
ルナには、なぜか分かる。
その机が、さっき落ちていった女学生の席だと。
「やめてよ!!」
「お願い!やめて!!!」
さっき校庭に叩きつけられて、もう動かなくなっているはずの女学生。
同じ制服。
同じ髪型。
顔だけは、なぜかぼやけて見えない。
男は女学生の胸倉を掴み、壁へ叩きつける。
肩が、頭が、何度もぶつかる。
「お前、いっつも泣いてて気持ち悪ぃんだよ」
「泣けば誰か助けてくれるとでも思ってんのか?
んなことしたってスマホで撮られてデジタルタトゥーになるだけだよバーカ!!」
「……いっつもいい子ぶってんじゃねえぞ、このアバズレ!! 死ねよブスが!!!」
低く、刺すような声。
教室の中の空気が、重く沈んでいく。
女学生は声にならない声を上げている。
口は何かを叫んでいるのに、ルナには音が届かない。
まるでテレビの音だけ消されたニュース映像みたいに、映像だけが生々しい。
黒板の前にいる数人の生徒は、ただ見ているだけだ。
立ち尽くして、顔を伏せて、目を逸らして。
誰も止めない。
誰も動かない。
(……イジメ……?)
語彙がそこで止まる。
それ以上の言葉が出てこない。
机を蹴り飛ばした男が、ゆっくりと振り返った。
その瞬間――教室の空気が、かすかに歪んだ。
男の顔が、ルナの視界の中で、にじむ。
輪郭が波打つ。
皮膚の色が、ひとところから黒く染み出してくる。
目の白い部分が、どろりと膨れ上がる。
口角が、皮膚を引き裂きながら耳のあたりまで裂けていく。
指の関節が増えたみたいに、腕が不自然に曲がる。
さっき血の海の中で見た“あいつ”の、あのシルエット。
普通の制服の上半身から、あり得ない形の何かが生えている。
男が、完全に振り返る。
そこにいたのはもう、人間ではなかった。
ルナの手には、いつのまにかまた鉄パイプが握られていた。
見下ろすまでもなく分かる。
掌に食い込む冷たさと重さ。
汗と、鉄臭い感触。
教室の中で、化け物になった“男”がこちらを見た。
白く膨れた目が、窓越しのルナをまっすぐ射抜く。
(――来る!)
考えるより先に、身体が反応していた。
引き戸を乱暴に開け放つ。
教室の空気がぶわっと流れ出る。
黒板のチョークの粉と、床のワックスの匂い、そのど真ん中に混じる生臭さ。
化け物が、女学生の肩を離してこちらへ向き直る。
裂けた口が、笑っているのか怒っているのか分からない形で開く。
「……っ!」
足が勝手に前へ出る。
血の海じゃないのに、靴底がまたぐしゃりと鳴った気がした。
パイプを振り上げる。
肩に、背中に、さっき受けた反動の記憶がよみがえる。
迷いはなかった。
恐怖も、後悔も、その瞬間だけは全部どこかへ消えている。
――振り抜く。
鈍い手応え。
硬いものと柔らかいものが一度に潰れる感触が、腕の骨を通って直接頭蓋まで響く。
次の瞬間、視界が赤くはじけた。
ぴしゃ、と何かが顔に当たる。
目の周り、頬、口元。
温かいのに、どこか冷たい。
(……血……)
自分のものか、相手のものか分からない。
ただ顔の大半が、ねっとりとした液体で覆われている感触だけが、妙に鮮明だった。
世界が、また少し傾ぐ。
教室のざわめきが遠のく。
床の感触が薄れる。
代わりに、どこか遠くから、声が届いた。
――「私はあなたの――」
誰かの声。
女とも男ともつかない。
耳元でもなく、頭のどこか深い場所で直接鳴っているみたいな声。
優しいのか、恐ろしいのか、それすら判断できない。
ただ、その一言が、ルナの胸の奥の何かを強く掴んだ。
次の瞬間。
「――っ!」
ルナは自分の声で目を覚ました。
上体を勢いよく起こした拍子に、視界がぐらりと揺れる。
薄暗い天井。
狭いワンルームの天井灯。
カーテンの隙間から漏れる、街灯のオレンジ色。
息が荒い。
喉が焼けるように痛い。
額から、こめかみから、首筋から、冷たい汗が滝みたいに流れていた。
パジャマのTシャツが背中に張り付いて、肌がぞくぞくする。
「……はぁ……っ……はぁ……っ……」
心臓が、まだ夢の中にいるみたいな速度で暴れている。
両手を見下ろす。
さっきまで鉄パイプを握っていたはずの指は、何も掴んでいないのに真っ白になるほど力が入っていた。
顔に手を当てる。
血なんてどこにもない。
あるのは、冷や汗のぬるい感触だけ。
それでも、頬のあたりに残る“何かに覆われていた”感触が、しつこく皮膚にこびりついて離れなかった。
――――――――――――――――――
心臓の鼓動が、ようやく人間の範囲まで落ち着いてきた頃――
代わりに全身のだるさが、どっと押し寄せる。
「……最悪……」
呟いてみても、声が自分のものじゃないみたいだった。
喉は枯れているし、胸の奥はひゅうひゅう鳴っている。
汗で冷えた身体に、夜の空気が容赦なくまとわりつく。
横目で時計を見る。
針の位置的に、眠れたのはほんの数時間。
睡眠というより、意識が落ちていただけに近い。
布団から足を出すだけで、太腿に鉛でも巻かれているみたいに重い。
首を回すと、筋がぴりっと抗議する。
(……寝たはずなのに……全然、休めてない……)
夢の中で走って、殴って、血まみれになって。
目が覚めても、筋肉だけがその記憶を引きずっている。
それでも、時間は待ってくれない。
「……起きなきゃ……」
自分を叱るように呟いて、ベッドから這い出る。
床の冷たさが、足裏をじわりと刺した。
洗面所で顔を洗い、冷たい水をごしごしと頬に叩きつける。
鏡に映った自分は、目の下にくっきりとクマを刻んだ、見慣れない顔をしていた。
(……昨日から“クマが酷い”って思ってたけど……これ、余計悪化してない……?)
タオルで水気を拭き取りながら、ふと玄関のほうで何かが気になった。
ポスト。
ルナはスリッパを突っかけて、ドアのそばまで行く。
室内側の小さな投函口に手を伸ばすと、指先に紙とプラスチックの感触が触れた。
引き抜くと、薄いクッション封筒が一通。
送り主の欄には、“PORT POLICE STATION”の文字が印刷されている。
「……早っ……」
昨夜から、まだそんなに時間は経っていない。
それなのに、もう届いている。
封筒を破って中身を出すと、見慣れたスマホが滑り出てきた。
ケースの角に入った小さな傷。
間違いなく、自分のだ。
その瞬間、さっきまで夢の中で聞いた声が、遅れて脳裏に蘇る。
――「私はあなたの――」
反射的に、スマホの画面を点けていた。
ロック画面を指紋で解除すると、ホーム画面に通知はない。
時間だけが、無遠慮に現実を告げている。
(…………LINE)
アプリを開く。
トーク一覧の、一番上。
“送信元不明”
アイコンも名前も空白のまま、ただ一件だけメッセージが残っている。
【迎えに来て】
昨日と、何も変わっていない。
削除もできず、ブロックもできず、通知もオフにできない、あの奇妙な一行が、そのままそこに在った。
(……さっきの声……“私はあなたの――”って……)
無意識に、スマホを持つ手に力が入る。
もしあの声と、このメッセージの送り主が同じだとしたら――
そう思った途端、胃のあたりがきゅっと縮んだ。
「……考えない、考えない……ように……」
自分に言い聞かせるように呟き、スマホをテーブルの上に置く。
今度は、部屋の隅に投げ捨てたリュックに手を伸ばした。
ファスナーを下ろして中を覗く。
教科書、ノート、ペンケース。
ノートパソコン。
財布。
そして、その一番底。
黒い手紙。
「……やっぱ、ある……」
薄くて、手触りだけやけにざらつく奇妙な紙。
封は閉じられたまま。
宛名も差出人も書かれていない、真っ黒な手紙。
昨日――
警察署で、鞄の中身は一度全部チェックされた。
金属探知、持ち物の確認、危険物の有無。
なのに、そのとき誰もこの封筒に触れなかった。
何も言わなかった。
まるで、そこには“何もない”かのように。
(見えてなかった……?
それとも、わざと無視した……?)
そう考えた瞬間、背筋に嫌な汗がまた滲む。
イリスの顔を思い出す。
あの人がもしこれを知っていて、あえて黙っていたのだとしたら――
それはそれで怖い。
でも、本当に見えていなかったのだとしたら。
それはもっと、違う種類の怖さだ。
封筒に触れていた指先を、そっと離す。
黒い紙は、何事もなかったみたいに、鞄の底に沈んだまま動かない。
「……今は、触らないようにしよう」
そう決めて、ファスナーを閉じる。
視界から消えるだけで、胸のざわつきが少しだけ和らいだ。
最低限のメイクでクマだけ誤魔化す。
髪をまとめて、リュックにスマホを放り込む。
肩にかけた瞬間、全身のだるさが一気にぶり返してくる。
それでも止まれない。
(……大学、行かないと……)
アパートのドアノブに手をかける。
一拍、深く息を吸ってから、鍵を回した。
冷たい外気が、隙間から流れ込んでくる。
夜と朝の境目みたいな薄い光が、廊下の灰色を照らしていた。
ルナは一歩、外へ踏み出した。
身体は重い。
頭もまだ夢の続きを引きずっている。
それでも足だけは、いつも通り“大学へ向かう”ためのルートを、忠実に辿りはじめた。
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