上 下
89 / 93
救世主

レオ

しおりを挟む
「ば、馬鹿な・・・こんな事が、こんな事があってたまるか・・・」

 その巨体をよろよろとよろめかせながら、メルヴィンは一歩二歩と後ずさっている。
 彼は目の前の光景を否定するように、必死に首を横へと振っていた。
 しかしその目の前に繰り広げられている光景が、変わる事はない。

「我が精鋭が、こんな小娘一人に敗れるなど・・・あってたまるかぁぁぁ!!!」

 彼の視線の先には、倒れ伏した兵士の中心に佇むアナの姿があった。
 その身は返り血で真っ赤に染まり、その日差しを浴びて眩しく輝いていた白い毛並みは見る影もない。
 そして彼女のその姿を指し示すように、倒れ伏した兵士達はその身を切り裂かれ、身体の一部が欠損しているものも珍しくなかった。

「ふしゅー、ふしゅー、ふしゅー・・・」
「ひっ!?」

 戦いの興奮を冷ますように、その荒い呼吸を整えていたアナは、その最後に口元を拭うとメルヴィンへと目を向ける。
 彼女に睨まれたメルヴィンは怯えた声を漏らすと、腰を抜かしてしまっていた。

「や、止めろ・・・来るな、来るんじゃない!!止めてくれぇぇx!!!」

 腰を抜かしてしまったメルヴィンは、その手を前へと伸ばしながらずるずると後ろに下がるばかり。
 その遅々とした速度にも、メルヴィンがまだ追いつかれていないのは、アナがゆっくりと彼に近づいているからだ。
 それが戦いの疲れからか、それとも最後のデザートをゆっくりと味わうためなのか、それは分からない。
 しかしどちらにしても、それももう終わる。
 メルヴィンの目の前にまで迫ったアナは、その凶悪な口元を露わにしては彼の首元へと牙を剥く。

「止めるんだ、アナ!!」

 そんな彼女の肩へと、後ろから手が掛かる。
 それはまだ、自らが流れ落とした血も拭っていないクルスの手であった。

「君はそんな事、しては―――」
「がぅ!!」
「ぐっ!!?」

 アナが蹂躙した兵士達も、クルスがその力を振るえば今ならまだ助けられるかもしれない。
 クルスはとにかく、彼女に人の命を奪って欲しくなかった。
 しかしメルヴィンに対しては、彼女ははっきりと敵意を向け、その命を狙って牙を剥く。
 それを止めようとしたクルスはしかし、その彼女によって弾き飛ばされてしまっていた。

「がっ、はぁ・・・」
「だ、大丈夫ですか、クルス様!?」

 野生を解き放ったアナの力は強く、彼は再び先ほどまで磔にされていた神殿の扉へと叩きつけられる。
 そこへと叩きつけられ、力なく蹲るクルスの下に、その手をべったりと血で汚したボニーが駆け寄ってきていた。

「だ、駄目だ、ボニー・・・君は、逃げるんだ・・・」
「そんなこと出来る訳ないじゃないで・・・す・・・か」

 クルスの顔を覗き込むように姿勢を低くしているボニーに、その背後の光景は見ることが出来ない。
 クルスはそれへと目をやりながら、彼女に逃げるように話していた。
 それに対して咄嗟に否定の言葉を返していた彼女もやがて気づくだろう、その背後に迫っている足音の存在を。

「ア、アナちゃん・・・」

 近づいてくる足音に振り返ったボニーが見たのは、全身を血塗れにしたまま牙を剥き、その目をぎらつかせてこちらへと迫るアナの姿であった。

「だ、駄目!!駄目だよ、アナちゃん!正気に戻って!!クルス様なんだよ!?あんなに大好きだった―――」
「がぅ!!」
「あぅ!?」

 こちらへと真っ直ぐに迫るアナの目には、クルスの姿しか映っていない。
 その視線を遮るようにボニーはそこへと割って入り、彼女の前へと両手を広げて立ち塞がる。
 そうしてボニーはアナを何とか説得しようと必死に声を掛けるが、まるで相手にされることなく薙ぎ払われてしまう。

「ぐるぅぅぅ、がぅ!!!」

 もはや何の障害もなくなったアナは、短く咆哮を上げると真っ直ぐにクルスへと飛び掛かってくる。
 その手は、クルスの首へと掛かっていた。

「あぁ、そうか・・・これは、罰なんだ」

 全力で飛び込んできたアナの勢いは強く、何度も槍を突き刺され痛んでいた木製の扉をクルスごと突き破ってしまう。
 その粉々に舞い散る木片を眺めながら、クルスは悟っていた。
 これは、罰なのだと。
 彼女を殺してしまった、そしてその命を歪めてしまったことへの。

「ふしゅー、ふしゅー、ふしゅー・・・」

 クルスを押し倒し、その上に馬乗りになったアナの鼻息は荒い。
 建物の中に入り、降り注ぐ日差しが限られたため、その顔は斜めになった影に隠されて見ることが出来ない。
 それでも彼女が、とても興奮していることははっきりと伝わっていた。

「いいんだ、アナ。もう、このまま君の手で・・・」

 それは獲物を目の前にした、狩猟動物の興奮か。
 クルスはそんな彼女に優しく微笑むと、その頬にそっと手を添える。
 そして彼女を導くように顔を上げ、自ら急所である喉元を曝していた。

「がぅ!!」
「ぐっ!?」

 曝け出された生き物の急所に、狩猟動物の本能が涎を垂らす。
 その水気は、クルスの目蓋へと落ち、やがて頬へと伝わった。
 喉元へと食いついた牙に、クルスはくぐもった悲鳴を漏らす。
 それすらもやがて、漏れ出てくることすらなくなってしまっていた。
しおりを挟む

処理中です...