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龍が所狭しと枠の中を蠢いていた。雲の合間に揺れながら、鮮やかな緑と黒の鱗をぎらつかせている。立派な角を生やし、手には宝玉を握り締め、隙間から血が滲んで見えた。烈火に包まれて苦しんでいるのか、それともこれから罰を下しに行くのか、魂があるようでないような目からは判別できなかった。だが身をよじる神獣はあまりに美しく、見つめすぎて反感を買ったようだった。
「なんやお前、一丁前にガンたれとんか」
龍を背に負う男の声色に体がびくりとして、見てはいけない物を見ていたのだと反射的に謝罪が口をついた。
「いや、そんなつもりやないんです。すんません、あんまりに綺麗なもんやから見惚れとったんです」
怖いからお世辞を言ってるわけじゃない。本心でそう思うのだから自分でも困りものだった。通常の銭湯には入れ墨お断りの看板や注意書きが書いてあるのだがこの銭湯の近辺には昔からその界隈の人間が住んでおり、コンプライアンスだのなんだとの煩い世の中になった昨今でも常連さんには変わりないと店主が分け隔てなく墨の入った客を受け入れていた。
羽田友彦はたまたま近辺のアパートに越してきた普通の大学生で、おんぼろアパートのシャワーだけでは体が休まらず、昔ながらのこの銭湯に通う事になったのだが、初めて利用した時はそれは吃驚した。
友人や親戚中にはファッションタトゥでさえ入れている人はいないのに、ここ銭湯棚田には腕や足、背中一面にまで刺青が入っている男たちが平然と訪れていた。刺青という文字から連想するような誰かれ構わず喧嘩を吹っ掛けるような素行の悪い人はおらず、威圧感を与えないように配慮しているつもりなのだと何度か利用している間に噂を聞いた。そんなだからこの銭湯に来る人は刺青を入れていても怖がる必要はないのだと、変な安心感を持ちすぎて、ついつい彼らの体に彫られている絵を見て興味を持つようになった。
「なんや。若いのに彫りもん好きなんか」
友彦は男の唐突な質問にこくりと頷いた。いつも盗み見ているのだが、出来るならもっとじっくり見ていたいのが本音だ。平面だと分かっていても触ってみたい衝動さえある。男は腹に力を入れて腰のタオルを外し、竜の尻尾まで友彦に見えるように背中を広げた。
「どないや、恰好ええやろ」
「はい、生きとるみたいです」
この銭湯には、アートと呼ぶに相応しい刺青をした人が何人もいた。架空の動物、仏、しゃれこうべ、色んなものがあるがどれも魂が宿った様に見えて不思議だった。特に惹かれるものがあり、同じ彫師によるものと推測できる作風で友彦はそれらを見つけると嬉しくなった。
「どないしたらこんな凄い絵彫れるんですかね、不思議でしゃあないです」
「そやろな」
男は更に得意げに胸を張った。
「こんなに大きな絵になるとごっつう時間掛かるし……痛ないんですか」
「痛いに決まっとうやろ。生きてる風に見えて当然や。俺の肌に魂込めて描いてもろうてるんやから。よう拝んどけ」
背中をもう一度ピンと張って男が見せる龍を言葉通り遠慮なく拝む。鱗一枚一枚違う大きさなのにそれに合わせて一枚ずつ陰影がついていて、くねる体幹に沿った繊細な色付けがまるで動いているような錯覚を生み出していた。
「……おい、そろそろええか。体が冷えてしまうがな」
「あ、すんません。ありがとうございました」
一向に飽くことなく見つめる様子にしびれを切らし男は腰のタオルを巻きなおして湯舟へと入った。周りの人間も何事だと遠巻きに見ていたので、不躾だったと反省しながら頭を洗う。
あの絵が欲しい。特にあの龍を描いた彫り師は天才だと思った。ミーハーで入れるならタトゥシールで十分だが、シールとアートは全くの別物。人間の皮膚に描かれているからこそ現れる艶と動きが堪らなく魅力的だ。肉体に彫ってあるからこそ美しい。だが自分の体に入れるのは憚られる。見える所に入れてしまえば就職活動にも影響するし、この銭湯には入れても友人たちと海やプールにいけなくなってしまう。それは困る。ただでさえ普通に振舞う事が大変な上に、彫り物を施して生活に支障が出るなんてことは耐え難い。普通の生活を手放す気はない。第一自分の背中ではちゃんと直視できない。それでは意味がない。
頭を洗いながら鏡越しに男の様子を窺うと、湯舟を出てサウナへ向かう所だった。再び盗み見ると背中の龍と目が合った様な気がした。泡を洗い流して湯舟に浸かり、男がサウナから出てくるまでジェットバスや水風呂を転々と移動していた。
きっちり十五分後サウナから出てきた男は水風呂へ浸かると視線に気づいて言った。
「兄ちゃん、風呂あがったら番台いきや」
男はそう言い残して肩で風を切りながら脱衣所へ出た。
龍に引っ張られるように友彦は脱衣所に出た。男は着替えるのが早いようで既にいなかった。服を着て、青い暖簾をくぐり、番台をしている店主にフルーツ牛乳を一本と言って百五十円を渡すと同時に番台へ来るように言われたと話した。すると店主は番台のレジの横の棚から一枚紙を取り出し、それを友彦に渡した。
真っ黒な紙に銀色の文字で「engraver 青」と書いてある名刺だった。名刺と店主を交互に見たが、店主は何も言わない。入って来る客にいらっしゃいませと声を掛け、他に用事がないなら早く行けとジロリと目配せをした。
友彦は名刺の裏を見て外に出た。地図だけが載っている。住所自体は書いていないが 四三号線と青田駅が認識できたので建物の場所は分かる地図だった。
「エングレーバー……彫り師の事かな」
ここへ行ってみろって事だろうか。恐怖に似た興奮が友彦の背中を走った。
「なんやお前、一丁前にガンたれとんか」
龍を背に負う男の声色に体がびくりとして、見てはいけない物を見ていたのだと反射的に謝罪が口をついた。
「いや、そんなつもりやないんです。すんません、あんまりに綺麗なもんやから見惚れとったんです」
怖いからお世辞を言ってるわけじゃない。本心でそう思うのだから自分でも困りものだった。通常の銭湯には入れ墨お断りの看板や注意書きが書いてあるのだがこの銭湯の近辺には昔からその界隈の人間が住んでおり、コンプライアンスだのなんだとの煩い世の中になった昨今でも常連さんには変わりないと店主が分け隔てなく墨の入った客を受け入れていた。
羽田友彦はたまたま近辺のアパートに越してきた普通の大学生で、おんぼろアパートのシャワーだけでは体が休まらず、昔ながらのこの銭湯に通う事になったのだが、初めて利用した時はそれは吃驚した。
友人や親戚中にはファッションタトゥでさえ入れている人はいないのに、ここ銭湯棚田には腕や足、背中一面にまで刺青が入っている男たちが平然と訪れていた。刺青という文字から連想するような誰かれ構わず喧嘩を吹っ掛けるような素行の悪い人はおらず、威圧感を与えないように配慮しているつもりなのだと何度か利用している間に噂を聞いた。そんなだからこの銭湯に来る人は刺青を入れていても怖がる必要はないのだと、変な安心感を持ちすぎて、ついつい彼らの体に彫られている絵を見て興味を持つようになった。
「なんや。若いのに彫りもん好きなんか」
友彦は男の唐突な質問にこくりと頷いた。いつも盗み見ているのだが、出来るならもっとじっくり見ていたいのが本音だ。平面だと分かっていても触ってみたい衝動さえある。男は腹に力を入れて腰のタオルを外し、竜の尻尾まで友彦に見えるように背中を広げた。
「どないや、恰好ええやろ」
「はい、生きとるみたいです」
この銭湯には、アートと呼ぶに相応しい刺青をした人が何人もいた。架空の動物、仏、しゃれこうべ、色んなものがあるがどれも魂が宿った様に見えて不思議だった。特に惹かれるものがあり、同じ彫師によるものと推測できる作風で友彦はそれらを見つけると嬉しくなった。
「どないしたらこんな凄い絵彫れるんですかね、不思議でしゃあないです」
「そやろな」
男は更に得意げに胸を張った。
「こんなに大きな絵になるとごっつう時間掛かるし……痛ないんですか」
「痛いに決まっとうやろ。生きてる風に見えて当然や。俺の肌に魂込めて描いてもろうてるんやから。よう拝んどけ」
背中をもう一度ピンと張って男が見せる龍を言葉通り遠慮なく拝む。鱗一枚一枚違う大きさなのにそれに合わせて一枚ずつ陰影がついていて、くねる体幹に沿った繊細な色付けがまるで動いているような錯覚を生み出していた。
「……おい、そろそろええか。体が冷えてしまうがな」
「あ、すんません。ありがとうございました」
一向に飽くことなく見つめる様子にしびれを切らし男は腰のタオルを巻きなおして湯舟へと入った。周りの人間も何事だと遠巻きに見ていたので、不躾だったと反省しながら頭を洗う。
あの絵が欲しい。特にあの龍を描いた彫り師は天才だと思った。ミーハーで入れるならタトゥシールで十分だが、シールとアートは全くの別物。人間の皮膚に描かれているからこそ現れる艶と動きが堪らなく魅力的だ。肉体に彫ってあるからこそ美しい。だが自分の体に入れるのは憚られる。見える所に入れてしまえば就職活動にも影響するし、この銭湯には入れても友人たちと海やプールにいけなくなってしまう。それは困る。ただでさえ普通に振舞う事が大変な上に、彫り物を施して生活に支障が出るなんてことは耐え難い。普通の生活を手放す気はない。第一自分の背中ではちゃんと直視できない。それでは意味がない。
頭を洗いながら鏡越しに男の様子を窺うと、湯舟を出てサウナへ向かう所だった。再び盗み見ると背中の龍と目が合った様な気がした。泡を洗い流して湯舟に浸かり、男がサウナから出てくるまでジェットバスや水風呂を転々と移動していた。
きっちり十五分後サウナから出てきた男は水風呂へ浸かると視線に気づいて言った。
「兄ちゃん、風呂あがったら番台いきや」
男はそう言い残して肩で風を切りながら脱衣所へ出た。
龍に引っ張られるように友彦は脱衣所に出た。男は着替えるのが早いようで既にいなかった。服を着て、青い暖簾をくぐり、番台をしている店主にフルーツ牛乳を一本と言って百五十円を渡すと同時に番台へ来るように言われたと話した。すると店主は番台のレジの横の棚から一枚紙を取り出し、それを友彦に渡した。
真っ黒な紙に銀色の文字で「engraver 青」と書いてある名刺だった。名刺と店主を交互に見たが、店主は何も言わない。入って来る客にいらっしゃいませと声を掛け、他に用事がないなら早く行けとジロリと目配せをした。
友彦は名刺の裏を見て外に出た。地図だけが載っている。住所自体は書いていないが 四三号線と青田駅が認識できたので建物の場所は分かる地図だった。
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