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第25話 愛敬童子④ ー柚果

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 愛敬童子は命を受ける以前、鶴と言う名で呼ばれ寺に住んでいた。寺に預けられたのはいつか、何故預けられたのかは覚えていない。寺は縦に細長い敷地を持ち、門をくぐると枯山水が左右に控えた石畳が通路として敷かれており、通路はそのまま正面の本堂まで続いていた。本堂の裏に僧侶や小僧達が暮らす離れがあり、さらにその奥に寺の造りとは異なる雅な白色の社が場違いな雰囲気を漂わせながら建っていてそこの一角に鶴の部屋はあった。鶴は一人ではなく、鶴より三つ年上の柚果ゆづかという男児も相部屋で兄弟の様に過ごしていた。部屋は広く、元々二つの部屋を開け放した状態で使われており、襖を閉めれば個室になる作りだった。寺に住んでいるからといって苦行は強いられず、坊主頭にされることも無く二人共長い髪を下ろして後ろで一つに結えていた。僧達は毎朝早くから起床して鐘を突き、寺中の拭き掃除と朝餉の準備をし、お経を唱えて修行をする。だが二人は恭しく扱われて僧とは違う規律で暮らし、華道、歌、舞、作法を習わされた。小僧達も同じように親から離れて暮らすのに、なぜ自分達だけが違う生活をするのか鶴には分からなかった。夕餉を終えて膳が引かれ、褥の上で寝転ぶ柚果に鶴が聞く。

「ねぇ柚果、僕はどうして修行しないの?」
「何だ、お前何も知らないのか」
「だって誰も教えてくれないもん」
「……その内嫌でも分かる。知らぬが仏だぞ」
「柚果は最近修行を始めたから色々新しい事教えて貰ってるんでしょう?僕も早く修行したいな。柚果が居なけりゃ誰も話し相手になってくれないし夜も一人で詰まんないよ。柚果の修行は僧侶になる為のものなんでしょう?」
「違う」
「じゃあ何の修行?柚果は何になるの?」
「何にもなれないさ」
「何にもならない?どう言う事?僕達の親は迎えに来るの?」
「来る訳無いだろう。お前を捨てたんだ」
「柚果も捨てられたの?」
「ああ、口減らしに捨てられたんだ、迎えに来る訳無い。それにここまで育ててあいつらが手放す訳無いだろう」
「あいつらって、和尚様たちのこと?でも和尚様が僕達の親代わりなんでしょ」
「ふん、めでたい奴だな」
「どうして近頃ずっと怒ってるのさ、教えてよ」

 数えの十を迎えてから、柚果はいつも機嫌が悪かった。夜に和尚が修練をするぞと柚果を起こして連れて行くようになったからだ。寝不足になるのか寝付けないのか目の下に隈を作っていることが多くなった。部屋は寝る前に襖で仕切られるようになり、鶴の寝ている間に呼び出されていて、小さな物音で起きない鶴には柚果がいつ部屋に戻っているのか分からない。褥を並べて仲睦まじく寝ていたのに寂しさが募ったが修行のためだと鶴は仕方なく我慢していた。

 毎日単調な暮らしを続ける柚果にとって、修行は厳しいかもしれないけれど新しいことを始める楽しさが伴うのだと鶴は思っていたのだが、柚果の修練が始まってから三ヶ月ほど経つ間に柚果はげっそりと痩せてしまった。食欲もなく食べない日もある。彼が布団の中で泣いているのも聞いた。後三年もすれば自分も柚果の様に泣くほど厳しい修行を受けなければならないのだろうかと不安になって一度聞いたことがあったが、柚果は何も答えなかった。寺の者に聞いても皆口を噤む。このままでは柚果は死んでしまうのではないかと鶴はある日和尚に聞いた。訪ねた部屋で和尚は床の間に飾ってある美しい弓と矢を愛でながら僧坊酒を飲んでいた。何でも偉い将軍に貰った弓矢だそうで射れば誰でも鬼の首を刎ねる程の腕を持てるという代物らしかった。いつもその弓の話を聞かされて耳に蛸が出来そうだと柚果も鶴も辟易していたのだが、今宵も変わらずその弓束ゆづか(握り)を手入れしていた。剃らずともよいつる禿頭で白い顎鬚を胸まで伸ばし、見るからに立派な僧侶の風貌をしているが、下卑た目をした親代わりの筈のこの男が鶴は苦手だった。

「最近柚果がご飯を食べないんです。このままじゃ死んじゃうかもしれない」
「ははは、鶴殿は大袈裟な事を仰る。あの程度で死ぬわけがありません。ワシら僧侶の修行はもっと苦しいのですぞ。修練など大したことはありませぬ」
「本当?」
「ええ、慣れるまでは辛いでしょうが、慣れてしまえば楽なもんです」

 その言葉が真っ赤な嘘だったと知ったのは鶴が十になった時だった。やさぐれた横柄な態度で小僧達を顎で使うようになった十三歳の柚果は相部屋から出て、違う部屋に移っていた。鶴は柚果と話したかったが、周りはそれを良しとせず、柚果自身も嫌がっているようだった。何故部屋を別ける程嫌われたのか分からず、自分が何か悪いことをしたのかと思い悩んだ鶴だったが、鶴が修練を始めて全てが明らかになった。

 十の祝いの贈り物だといわれて渡された包みの中身は着物だった。寺に住む者が着るには到底似つかわしくない菊の花が描いてある豪華な女物の着物。白地に黄色い格子模様がついた煌びやかな帯に、赤と白の襦袢も付いていた。きっと店で包みを間違えたのだろうと鶴は持ってきた男に返そうとした。

「この包みに入っているものは女物の着物です。お間違えになっているのでは」

そう言って渡したが取り合ってくれない。両手をついてお辞儀をする男は鶴の目を見る事なく「御稚児様、これは貢物です。確かにお渡し致しましたので」と告げて去った。

 鶴や柚果は無知なまま習い事をこなしていた。花や茶を習うのに、肝心の字や学問は教えて貰えず、字は読めない。日常で耳慣れない言葉の意味を聞いても必要ない事だと教えて貰えない。柚果に聞けば彼が知っている事は大概教えて貰えたが、柚果も同様、文字の読み書きは出来なかった。読み書きが出来なければ数を数えるのも難しい。自分の指で足りない計算は難しい。だが何の不便もない。なぜなら寺のものが鶴達の衣食住全てを賄ってくれるからだ。寺の外に出た事はあるが村人と会った事もない。周りは山と田畑のみ。寺に住む者と訪問する者以外は人に会わないのだから世界はまるで井戸の中の様に狭かった。寺の敷地が世界の全てだった。

 世間がどのような物なのかも知らない二人は言葉の如く世間知らずの籠の鳥だった。鶴たちの生活は幽閉であったが、幽閉だと知らなければ逃げる必要もない。疑問を持たず暮らす彼らには考える翼さえも切られて、ただひたすら奪われることだけを強いられた。

 稚児は灌頂の儀を経た後、神の化身として崇められる。崇め奉られる為と修練を始められるのは数えの十。柚果が痩せ細った理由が分かったのに、鶴も柚果と同じく何も抵抗できず毎日泣いて過ごすようになった。御稚児様と昼間穏やかに話す僧侶も夜になれば獣と化し二人の魂を削っていく。鶴は思った。こいつらは皆人の皮を被った鬼なのだと。でなければこのような事が出来る訳が無い。だがどんなに絶望しようとも懇願しようとも逃げることは出来ず、逃げ果せたとしてその先字も読めぬ世間知らずの自分がどうやって生きていけばよいのかそれさえ分からなかった。

 ある日、鶴は茶の稽古を終えた後散歩をしていた。寺の裏庭にある馬小屋では馬が藁を食べている。「お前と僕と何が違うのだろうな」丁重に扱う振りをされるだけで自分が家畜である事に変わりは無いのだろうと鶴は俯く。

 鶴の棲む社の裏には山に繋がった雑木林があるのだが、奥の方でがさごそと音が立ち人の声が聞こえた気がして鶴は足を進めた。枝を踏むたびに音が響き、湿気のある枯葉が草履の裏に引っ付いて滑りそうになる。
 小さい頃は物の怪でも出てきそうで怖くて近寄れなかった山も今となっては人の方が恐ろしい。

「誰か居るの……」

 静かに歩を進めると、びゅんと何かが頭上に飛び立った。鳥かと思ったが鳥にしてはやたらと大きい。その影は鶴の頭上の木の枝に足を乗せたかと思うと別の木の枝に飛び移りそのまま枝から枝へと飛びながら山奥へと姿を消した。

「物の怪……」
 
 そう呟いたが思い直し、猿かムササビだろうとどきどきする胸を押さえて戻ろうと踵を返したところで後ろから声を掛けられた。

「見た?」

 着物の裾を直しながら柚果が木陰から顔を出す。

「柚果!こんな所で何してるの」
「何って、別に、俺は散歩。お前こそ何しに来たの」
「音がしたから……」
「どんな音?」
「よくは聞こえなかったけど、柚果だったんだね」 
「そう」
「僕の足音にびっくりして鴉が飛んでいったのかな」
「そう、鴉だよ」

 うん、といいながらあんな大きな鴉居るのかなと不思議は消えない。どこを散歩してそんなに乱れるのか知らないが、髪の解れをゆったりと直す柚果の仕草に鶴は見惚れた。もともと線の細い柚果に余計な贅肉は付いておらず、成長期を迎えて上背も随分伸び、大人っぽくなった柚果には以前に感じ得なかった色香を感じた。それは鶴が知らなくてもいい事を沢山知ったから感じ取れるものかもしれなかったが、そんな視線を知ってか知らずか柚果は言った。

「最近鴉と遊んでるんだよ」
「そうなの。鴉と遊ぶのって楽しいの」
「鶴にはまだ早い」
「鴉と遊ぶのが?」
「ふふ」

 不敵に笑ったように見えたが「このことは黙っていろよ」と言い残して柚果はさっさと社へと帰っていった。




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