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あめふらし

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プロローグ

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雷鳴が響きわたっていた。

スフェルツィア平原は、春の嵐にはげしく吹き荒らされて、時化た海面のような騒乱におおわれていた。

雨粒を切り裂き、草むらを突き破り、重い蹄の音を立てながら、一頭の馬の走り抜けてゆく姿があった。その激しく揺れる裸馬の背から振り落とされぬよう、必死にしがみついている者がいた。雨で重くなったローブが息苦しそうにはためいた。

後方20メートルほどに、また別の蹄の音が、塊となって迫っていた。甲冑に身を包んだ騎兵たちが、各々の武器を手に怒号を上げる。「右手にまわれ!崖の方に追い立てろ!」

嵐の吹きすさぶ中を逃げる者と、追う者たち。ススキやスゲが次々となぎ倒されてゆき、この人知れぬ逃走劇の軌跡を嵐の草原に描いていった。

じりじりと距離を詰められていく逃走者に向かって、次々と矢が放たれた。矢じりの先端が空気を切り裂く音が、その小柄な身体の周囲で飛び交う。

目深にかぶったフードの隙間から後方をうかがったとき、空気をはらんだフードが勢いよくめくれて、その顔を露わにした。短く切りそろえた銀髪が躍った。

とがった細長い耳と浅黒い肌。深い森の中に住まうとされる種族、「森人」の少女であった。その透き通るような紺碧の瞳には、あきらかな焦燥の色が浮かんでいた。

――瞬間、左のふくらはぎに切り裂かれるような痛みが走った。

金切り声を上げて身をよじらせた拍子に、少女は馬の背から投げ出された。華奢な身体が跳ね飛ばされるように宙を舞って、強い勢いで草むらの中に落下した。草が緩衝となって地面に激突することは免れた。

ふくらはぎに矢が貫通していた。少女は苦痛に顔を歪めて脚を必死に押さえつけるが、赤黒い血液は傷口からじわじわと漏れ出て、折れた草の束を染める。

苛立った声が雨と風の中に飛び交った。

「おい、気をつけろ。危うく落っことすところだ」

「まったく、手こずらせやがって、たかが亜人のガキ風情が……」

落ちた場所は崖際だった。嵐で増水した川の激しい水音が聞こえていた。

少女は歯を食いしばりながら周囲を見回す。

いつの間にか彼女は囲まれていて、自分の脚を無慈悲に貫いたのと同じ、鉄の矢じりがいくつも自分に向けられていることに気付いた。

雨と涙で視界がかすみ、激痛に意識が朦朧としながらも、少女は追手の隊長と思しき男の顔をにらみつけ、荒い吐息まじりの唸り声を漏らす。

マントに身を包んだ馬上の男は、きわめて冷徹なまなざしで少女を見下ろしながら、そばにいた兵士に一言、「やれ」とだけ命じた。じつに端的な言葉だった。

そのとき、少女は荒々しく轟く嵐すら一瞬怯ませるかのごとき、けたたましい叫び声をあげた。


それは悲鳴というよりは、咆哮だった。


少女は叫びながら、激痛に震える身体を奮い立たせるように力を込め、自分の脚に刺さった矢を両手で握りしめ、無理矢理に引き抜く。矢じりの「返し」が傷に引っかかって、さらに鋭い痛みが彼女の脚を埋め尽くす。膝から先がばらばらに千切れるかのような錯覚に耐えて、彼女は血まみれの矢を崖下に放り捨て、腰に備えていたひと振りの武器を抜いた。

それは大きな鉈のような形をした形をした剣だった。
硬い宝石を割ってこしらえた小さな刃が、湾曲した刀身の内側にびっしりと嵌めこまれている、きわめて原始的な、しかし美しい得物だった。

少女は武器を杖にして膝を震わせながら立ち上がろうとするが、痛みで力が入らずうまくいかない。何度目かの失敗のあと、少女はようやく、無事なほうの脚に体重を預けて、自分に迫る者どもに向かって武器を構え、憎々しげに睨みつけた。

「処分」を命じた男はすこし驚いた様子で、「なるほど。ガキにしてはなかなかの根性だ」とつぶやいて、いまにも
矢を放とうとする兵士たちを手で制して、馬を降りた。

男は長剣を抜きながら、口上を述べるように言う。

「どうやらお前もいっぱしの『戦士』らしい。……無謀ではあるが、その気高い蛮勇に一応の敬意くらいは、払ってやらねばなるまいな」

それは、ひとめ見て業物とわかる、鍛え上げられ、手入れの行き届いた鋼鉄の長剣だった。

少女は、その時初めて男の顔をはっきりと認識した。

アッシュブロンドの髪の、眼光鋭い男だ。一見して20代後半といったところだが、造作の整った顔はもう少し若いようにも見えた。しかし、その堂々とした佇まいにはともすれば非常な高齢に達するのではないかとさえ思えるような言いしれない風格が備わっていて、そのつかみどころのなさと相対した少女は背筋が凍りつくような異様さを覚えた。彼女は、自分が対峙している男が、きっととてつもなく強いと悟らされた。足元の悪い、泥濘と草むらの地面の上でも体幹のブレがない、一切の無駄を感じさせない足の運びから、その肉体が樫の巨木のように頑丈で、また葦のようにしなやかであることが鎧の上からでも嗅ぎ取れた。

――この男は、自分よりはるかに小柄な、しかも手負いの森人の少女相手ですら、一切の油断をしていない。なおかつ、どのように足を運び、得物を振るえば効率的かつ速やかに相手の生命を絶つことができるかを手にとるように理解していて、しかもそれを寸分の狂いなく、機能的に遂行することができる。

少女は身のすくむ思いだった。その思いすら見透かしているのだろうと、少女にはわかってしまった。心臓の鼓動が早くなって、脚の傷が鋭く痛む間隔が狭くなっていくのを感じた。

少女はほとんど片足立ちでわずかに身をかがめ、石剣を逆手に持ち替えた。得物の長さを相手から隠すための構えだった。

肩で息をしながら、少女はこの得体のしれない男と対峙していた。変わらず冷徹に、処分対象としてしか自分を見ていないであろう人間の男の目を、少女は最大限の蛮勇と、無謀とで見返した。自分がきっとこれから死ぬのだと理解しながら、それでもなお、まだ生きることを諦めてやるものか、という意志を込めて。

その瞳は、孤高の獣のようであった。

兵士の一人が慌てて声をかけた。「イヴァン殿、貴殿が手を下すまでもありません。それに、捕まって死ぬくらいならいっそ、と、崖下に飛び降りでもされる前に…」

男は兵士のほうを一瞥もせず、不敵に笑った。

「何を言ってる。見てわからんか? 確かにいま、下の濁流に飲まれればほぼ確実に死ぬだろうが、このガキは、ここで死ぬつもりなどさらさらないという顔ではないか。むしろこいつは、俺もお前らも、全員ここで返り討ちにする気でさえいるぞ、こんな状況だというのにな。なかなか怖いガキだ。たとえそれが覆らん定めだとしても、抗おうとする意志を、いまだに捨てていな――」

――イヴァンが演説じみた言いまわしで言葉を終えるかどうか、その一瞬が、少女にとってのすべてだった。

まだ生きている片脚に込められるだけの膂力を込めて、全身のばねをすべて使って地面を蹴り、鎧の隙間を狙った逆袈裟斬りを繰り出した。

向こうからの攻撃を待つことは死を意味すると、少女はわかっていた。

仮に男の初檄を、幸運にも躱すかいなすかできたとして、続く二の太刀は、かならず左足が死んでいてはできない動きを要求するように飛んでくるだろう。そもそもとして、この男が構えを取り、臨戦態勢になった時はもう「負け」なのだ。それくらいの実力の差があった。機があるとすればその前、両者が間合いに入る直前の瞬間だけだ。兵士と何かやり取りでもして意識が分散したならば、なおのことよい。片脚とて、森人という生き物が一回に跳躍できる速さと距離ははるかにヒトに優るということをこの男が知らない、あるいは知識としてのみ知っていて実際にどの程度かは見たことがない、そういう場合にだけ成立する、きわめて薄い可能性にすべてを賭けた、たった一太刀の、一回きりの奇襲だった。残っているのが利き脚のほうだったということだけが、少女にとっての幸運だった。


しかし、やはり、運命は少女に過酷だった。


イヴァンは少女の攻撃を躱さなかった。

それどころか、彼女に合わせて瞬間的に間合いの内側に潜り込み、彼女の渾身の斬撃を無に帰し、右手に持った剣を……、振りさえしなかった。

それは一目、当て身の類に見えた。そばで見ていた兵士たちでさえ、何が起こったのかをすぐには理解しなかった。

少女の手から石剣が滑り落ちる。一瞬の間ののち、ごほっ、という音とともに鮮やかな紅い液体が彼女の口から迸って、イヴァンが羽織っているマントに飛び散った。彼は自分の胸のあたりにも届かない少女の頭頂部を黙って見据えていたが、そこからさらに力を込めると、鶏肉を捌くのとそっくりの音がして、少女の背中から、血のりで汚れた刃が突き抜けた。

イヴァンは、マントの中に短剣を隠していた。少女が不意打ち気味に仕掛けてくるであろうことを、彼は予想していたのだ。外套に忍ばせた刃を、体重を乗せて突っ込んでくる少女の勢いをそのまま利用して、彼女の胸に突き刺した。それは完全に虚を突き返したというだけでなく、恐ろしいほど正確に無慈悲に肋骨の隙間をぬって左肺を穿つ、致命の一撃だった。

少女は、自分が完全に見誤ったことを理解した。はなからこの男は、まっとうに打ち合うつもりなどさらさらなかったのだと。

イヴァンは短剣を抜きとると、斜に構え直して半歩下がり、使うことのなかった長剣を素早く仕舞った。

少女は胸を押さえ、二、三歩よろめいて、再び大量の血液を吐き出してその場に倒れた。一瞬にして終わった命のやり取りを目の当たりにして、兵士たちは息をのんだ。

少女は芋虫のように体をよじらせる。残った片肺が死の運命に必死に抗うように息を吸おうとするたび、空咳のような音がひゅうひゅうと喉を鳴らした。

イヴァンは短剣をマントで拭いながら、言った。

「こいつを使わされたのはずいぶんと久しぶりだ。……光栄に思え、森人の娘」

少女は激しく咳き込んでのたうち回り、苦悶の表情を浮かべながらも、自分に致命傷を与えた長身の男を見上げた。

一瞬で敗北してもなお、獣のような怒りの感情だけは、まだ目の奥にたたえたままだった。

イヴァンは詮方なしという顔で、虚しそうに少し笑う。「そう睨むな。これも仕事でな、運がなかったと諦めてくれ」

そして近くにいた兵士に向かって、少女のほうを顎で示した。「ブツを確認しろ」

「はッ」

兵士の一人が少女の胸ぐらをつかんだかと思うと、ほとんど薄い布一枚だけの簡素な服の胸元を荒々しく引きちぎった。少女はわずかに残った力を絞って抵抗し、悲鳴を上げようとしたが、血だまりになった喉は発声器官としての用をなさず、ただ泡交じりの血を吐き出すのみだった。

その胸元には、宝石のようなものが埋め込まれていた。

血のりがべったりと付着して元が何色か判別がつきづらいものの、それは密林の苔のように深い緑色であろうことがわずかに伺えた。

「ありました!やはり『宝珠』はこの娘に!」

イヴァンはそれを一瞥して「そうか」とだけ答えた。存外にあっさりした反応に兵士は戸惑ったようだった。


――とつぜん、兵士は「痛えっ」と声をあげた。


少女が兵士の腕に噛みついたのだ。それはまさに、ほぼ息も途絶えつつあるなかでの、最期の抵抗だった。血の多くを失いながらも、片肺でつないだ息で、少女はそれでも生きようとしていた。皮肉にも、先ほど悲鳴にならなかった息の力で、気管の詰まりが一時的に取れたのだ。

「くそ、放せ、この!」兵士は腕を振り回すが、少女はその華奢な肉体に残る哀れったらしいともいえるような生命力の残滓のすべてを注ぎ込んで、がっちりと兵士の腕に歯を食いこませ、顎の力だけで兵士の腕に文字通り「食い下がった」。

兵士は苛立ちに任せて怒鳴りながら、少女の顔を何度も殴りつけた。何発目かの殴打で、折れた歯のかけらが飛び散った。鼠が絞め殺されるような声をあげて、少女はついに膝から地面に崩れ落ち、そのまま泥の上に仰向けに倒れ込んだ。泥の撥ねる音はきっと、彼女が終わりの時に立てた物音のなかで、いちばん大きい音となるだろう。

兵士は、もはや虫の息となった少女の頭を軽く蹴っ飛ばし、「クソが…大人しく死んでろっ」と毒づいた。ついに少女は抵抗しなかった。

イヴァンは苛立ちを募らせ、舌打ちをした。「おい、てめぇ」

かれは兵士をするどく睨みつけて、言った。「何やってる。さっさと首でもはねて、もう終わらせてやれ。たかが森人のガキだが、見てて気持ちのいい光景じゃあねえだろうが」

「も、申し訳ありません」

兵士は、猛獣に睨まれた小動物のように縮こまったかと思うと、同僚たちのほうに向きなおり、「おい!斧持ってこい!はやく!」と叫んだ。

斧の到着を待つ間の、たかだか三十秒程度の時間が、少女には気の遠くなるほどの長さに思えた。

大の字に倒れたまま切れ切れの呼吸を繰り返し、時折わずかに痙攣した。横倒しになったワイン瓶のように、身体を貫通した傷口から大量の血液が溢れ、草むらの一角に血だまりを作っていく。腫れあがった顔面を雨粒が叩く。少女にはもう、眼球に水滴が当たっても瞬きをする気力さえなかった。このままでも、あと5分とない命であることは確実だが、それが彼女にとってはあまりに恐ろしい永遠そのものであった。

それは、単にまだギリギリ死んでいないというだけの、生きているとはいいがたい状態だった。

やがて斧を持った兵士がやってきて、少女の前髪をつかんで雑に起こし、細く、簡単に折れてしまいそうなうなじを露わにさせた。

「化けて出てくれるなよ……」

片手持ちの戦斧を上段に構えて、兵士は少女を見下ろした。

イヴァンはその光景に背を向けたままで、別の兵士に命令する。「早馬を出せ。『宝珠』を確保したと、本部連中に伝えろ」

「は、はっ」


――そのときだった。


イヴァンは感じたことのない気配を察して、いまにも首をはねられんとする森人の少女の方を急いで振り返った。
斧の兵士もまた、得体のしれないものを感じて、その場に固まっていた。

「な、なんだ……?」

雨はいつの間にか小降りになっていた。

少女の胸元に埋め込まれた石が、妖しく光を発した。

途端、血に染まった草や蔓が、ぷちぷちと音を立ててにわかに伸長を始める。


同時に、少女の膝元の血だまりが沸騰した湯のように泡立ったかと思うと、それ単体が別の生き物のようにうねり、立ち上がって、少女の胸に穿たれた穴を目指して這うように逆流し始める。


唯一イヴァンだけが、起こりつつあることを察して、鋭く怒号を発した。「何してる、首を落とせ、早く!!」


それとほぼ同時だった。

地面から急速に伸びた蔓は爆発的に絡まりあって融合し、ひとつになった。それは瞬く間に大人の胴体ほども太さがある巨大な草体の塊と化し、恐ろしい勢いで、少女を取り囲んでいた兵士たち数人を絡めとってしまった。

イヴァンは舌打ちを漏らした。「くそ、愚図どもが」

「ぐぁあああああっ!!」

悍ましい音を立てて、兵士たちの甲冑が歪んでゆく。獲物を絞め殺す蛇そっくりの動きだった。兵士たちの叫び声は一瞬のうちに、甲冑が潰され、骨が砕かれ、肉が引きちぎられる音に取り込まれて、彼らは肉と骨と毛と金属の塊になり果てた。

残りの兵士たちは恐怖に顔を歪めて絶叫した。逃げ出すもの、腰が抜けてしまったもの、半狂乱になりながら必死に矢を蔦に射かけるもの。


――それは、蔦の怪物、としか表現しようのない何かだった。


地上高くまで持ちあがった極太の蔦の先端に、少女の姿があった。兵士たちだった血や肉の一部はいまや少女の所有物となって、全身の傷口を溶かした蝋で固めるように彼女の肉体を再構成する。腫れあがった顔面の腫れがみるみる引いていく。『宝珠』は禍々しいかがやきを放ち、その周囲を取り囲む肉には血管のような盛り上がりが脈動していた。

ひとり、また一人と兵士たちが肉塊に変えられてゆく。眼下に広がる凄惨な光景を、虚ろに見下ろしている少女の目の奥には、明らかに、先ほどまでとは違う、異質なものの存在があった。

『それ』は、ぐるりとふたつの眼球を動かしてイヴァンのほうを見据えた。すると元の姿からは想像もつかないようなしわがれた声で、



あAa――――arrr――――――おォォ―――――ゥううゥ―――――…



のようなことを言ったかと思うと、木の幹ほどの太さに成長した蔓の一つを、恐ろしい速度でイヴァンのすぐ隣にいた兵士の頭部にはげしく打ち付けた。

彼は最期の瞬間、かぴっ、と聞こえるような声だか音だかを発して、肩から上を血と脳漿の混濁物にしながら粉々にはじけた。

赤かったり白かったりするものを半身に浴びたイヴァンはそちらを一瞥すると、不機嫌そうに地面に唾を吐き、頭上に掲げられた少女の姿を見上げた。

「ったく、あのクソジジイめ。話が違うじゃねぇか」

ミミズか、あるいは腸の蠕動運動のようにうねる蔦にゆるく絡まり、高く掲げられながらイヴァンを見下ろす少女の姿は、禍々しくも神々しい、人智を越えたなにかのようであった。

「まったく、面倒くせえ――」イヴァンはあきれた顔でため息を漏らし、じつに落ち着き払った様子で汚れた手をぬぐうと、少女を「殺し損ねた」長剣をふたたび抜いて構え、にやりと笑う。



「でもまあ、こいつは確かに、人の身に余るってもんか――」
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