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第四週「味噌汁」
(20)従兵さんには顔が良い人が多い
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これは不味い、と睦郎は慌てた。というのも、彼は知っていたからだ。赤岡が軍医になった本当の理由を。
そしてそれが──恐らく睦郎本人が起因して選んでしまったものだと悟っていたから。
「…………」
「うん? 赤岡さん?」
「あ、あーっ!!」
睦郎は叫んだ。とにかく、二人の意識を反らさねばと必死になって。
人間、慌てると何をするか判らない。睦郎は考えなしに叫んで後悔した。このままではいきなり叫んだ変な人である。かといって、自身の心当たりをそのまま口にするのがもっとマズイ。
それが心の底に固く縛って封印したものなら尚更。
「ど、どうした睦さん」
一方で年長の二人は、突如大きな声を出した睦郎に驚き、ビクッと体を跳ねさせながら咄嗟にそちらの方を向いた。
(あっ、マズイ。やってもた)
時間よ、止まれ。それに続く言葉は「汝はあまりに美しい」だろう。しかしこの時の睦郎にとっては続きは「おれに言い訳を考える時間をください」だった。
無論、そんなことができるのなら誰も苦労などしない。つまらぬ現実逃避で著書を引用に使われた独逸の詩人にも謝って頂きたいところだ。
だがやってしまったことは仕方がない。覆水盆に帰らず、It's no use crying over spilt milk。考えるべきは急に叫んだ理由だ。
当然だが本当の理由など言えない。かと言って、空気も読まずに急に叫ぶような理由など早々無い。
さらに苦しいことに、睦郎はこういう事態に陥った際に使える言い訳なんて用意してさえいなかった。地味に絶体絶命の危機である。
「急に叫んで何事ですか。騒々しい」
「え、えーっとな。その……ハハ、なんや、えーと……」
さらにトドメとばかりに赤岡からの追撃が来た。なぜ急に会話に割り込んできた、と言わんばかりに眼光が鋭い。下手な言い訳などしようものなら、きっと恐ろしいことになるのは目に見えていた。
(ひん……誰か助けてぇ)
半べそをかきそうになりながらも、そこはやはり海軍士官。しかも主計科の親分。間違えてでも顔に出すわけにはいかなかった。
ならば睦郎が取るべき行動などただひとつ。この場をどう乗り切るかを残りあと三秒で考え──その時、不意に三人の耳に鋼鉄を叩くような音が飛び込んで来た。
いや、この感じはノックと言った方が良いか。誰かが士官室にやってきて、入室許可を求めてきたのだ。
(しめた!)
誰かは知らないが、睦郎にとっては天から垂らされた蜘蛛の糸。すかさずそれを掴みとらんと、睦郎は士官室への入室許可を認めてやった。
「よっしゃ、入れ!」
「あっ、睦さん!?」
本来ならば機関科将校であり、なおかつ最先任である鶴田がすべきことなのだろう。睦郎が先に答えたせいで、鶴田がぎょっと目を剥く。
「───失礼いたします!」
しかし、一応は士官からの許可を貰ったのだ。相手もさっと入り込んでくる。
入室許可を求めたのは従兵だった。
「軍医ちょ……! 機関長!!」
よほど切羽詰まっていたのだろうか。どうやら中にいた鶴田に気が付かなかったらしい。従兵はその姿を見てようやく鶴田の存在に気付いたらしく、慌てて彼に向かって敬礼する。
「構わん、続けろ」
「は……」
従兵、というのは士官の世話をする専属の兵のことだ。
明治建軍の際に日本海軍が参考とした英国海軍では、士官は貴族であったため自分達の身の回りの世話をさせる従卒を艦に乗り込ませていた。帝国海軍でもその名残を残す形で、従兵という制度が存在していたのだ。彼らは士官の世話を焼き、そして一般の兵よりも士官との距離が近いためか、彼らと固い縁や絆で結ばれる者が大半だった。
もちろんそのぶんだけ士官の世話は大変だったわけだが、従兵自身も士官が食べている白米のお零れを貰えたりしたので色々と旨味のある役職でもあったわけだ。
従兵になるものは大体が優秀で、そのため昇進が早いとも言われている。なので、頭の回転が早く非常に優れた観察眼を持つ者ばかり。
この従兵もその例に漏れず、機関長の許可を受け取ったのでそれ以上は何も詮索せずに黙った。
なぜ、こんな時間にこんな所に機関長がいて、しかも軍医長と主計長と共に何やら気まずい空気を出していたなどと。良く訓練された従兵は何も言わずにスルーしてくれる。
別に「関わったら面倒なことになりそう」とかそういう理由では無いので、その辺りは留意されたい。
「軍医長宛に伝令であります」
「おや、私でしたか」
従兵の目的は軍医長だった。指名を受けた赤岡が、何かに思い当たったような表情をしつつ椅子から立ち上がる。
「砲術長が相談したいことがあるとの事で、至急艦橋までお越し願いたいと……」
「珍しいですね。砲術長が私に直接用があるなど……」
何かトラウマでもあるのか。医者嫌いでなるべく医務室には近寄らない砲術長が、その医務室の主である赤岡に直接用事があるなど珍しいこともあるものだ。
「でもまあ……呼ばれたのでしたら仕方がありません。主計長、献立の件は夕食後でよろしいでしょうか」
「ええですよ。軍医長の予定にあわせますから」
「……」
ニコッと笑って送り出す睦郎に、少しだけ眉を寄せた赤岡。だが、別に彼とは個人的な話をしていたわけではない。あくまで仕事上、必要な話をしていただけだ。
軍医長である赤岡に、より優先度の高い仕事が回ってきたのならそちらの方に行くべきだろう。特に不自然な動きなど無い、いたって普通の反応だ。
「なら、夕食後に時間を取りますのでそちらに向かいます」
「はぁい。事務室を開けときますんでよろしゅうお願いします」
短く、だが一分の隙無くピシャッと閉め出した。
それを感じて少々複雑な気持ちになりつつ、赤岡は後ろ髪引かれる思いに駆られならがも従兵と共に士官室を辞した。
「…………」
後に残ったのは、赤岡の背中に向かってヒラヒラと手を振る睦郎と、それに納得いかないとばかりに憮然とした表情をする鶴田だけ。
「……」
「ん? 鶴さん、どないしました?」
「……睦さん、あんたな…………」
言いたいことは色々あった。どうしても言いたいことがたくさんあって、そしてそれらは歳上としてのお節介から来るものであって……悩んだ結果、鶴田はそっと頭を振る。
「いや、なんでもない。忘れてくれ」
「?」
今は、それらを言うべき時ではない。
睦郎は、ああ見えて他人に心を開くことが稀だ。特に、今のように親しい相手となにかいざこざがあった直後は。
何があったかなど決して口を割ってくれないだろうし、何か忠言をしても彼の心には届かない。届いてくれない。
基本的にお節介である鶴田にとって、もどかしいことこの上無かったのだが。
「うん……まあ、なんだ。あんたもな、悩んだら相談してくれたら良いんだぜ」
ポリポリと後頭部を掻いて、鶴田はさてとばかりに自分も立ち上がる。
「時間を取らせてすまなかったな、睦さん」
「いいえ、いいえ。一緒にいてくれて助かりましたよ」
鶴田もそろそろ根城に帰ってやらねばならないだろう。
だが、その前にどうしても聞いておきたいことがあった。
「ところでよ、睦さんや」
「はいはい、なんですやろ」
「赤岡さんの実家云々の話で思い出したんだがな。あんた、大阪の商家の長男なんだろ。なのになんでまた、海軍で主計科の士官なんざやってんだ?」
「──」
睦郎が、息を呑んだ。
狭い海軍社会。噂はいくらでも回ってくる。みんな、自分の艦にいる奴の事情ぐらいいくらでも知っているのだ。そう、例えば……主計長の実家が大阪で代々商いを営んできた大きな家で、しかも彼がそこの長男、つまり後継ぎだったことくらい。今やこの艦の誰でも知っている。
だからこそ、不思議だったのだ。
そのまま家を継いでいたらかなり裕福な生活を送れていただろうに、なぜわざわざ薄給で過酷な任務に従事させられる海軍に入ったのだと。
「……」
睦郎はだんまりだ。俯いているため表情は見えないが、おそらく言う気は無いのだろう。
鶴田が諦めて行こうとした、その時だった。
「……継ぎたくても継げへんかってんや」
「え?」
ボソッと、早口で言われた台詞。聞き取れなかったが、今確かに何か言わなかっただろうか。不安を感じた鶴田が睦郎の名を呼んだ、その時。
「……いやぁ、なんてことあらへんで。おれは確かに後継ぎやったけどなぁ。海軍になるゆうて聞かんかったから、勘当されただけやで」
たぶん、嘘だ。
なぜだか知らないがそう感じた。睦郎は、嘘を吐いていると。
「でもな、おれな……ほら、背ぇ低いからそれで兵学校に落ちてもうてな。そんで、その時の担当教官から海軍を諦めないつもりなら海経行ったらどうやゆわれて、そんで受けただけや。それだけやで」
「お、おう」
「それより機関長、時間はええんどすか?」
聞き返そうにも、有無を言わせぬような口調だったためにそれ以上は何も聞き返せなかった。
おまけに急かされ、鶴田は酢を飲んだような表情をしながら回れ右をして退出せざるをえないだろう。
「ほんじゃまあ、またよろしゅう頼んますわぁ」
「ああ……まあ、ほどほどにしとけよ、睦さん」
それだけ言って、鶴田は士官室を辞した。
一月六日。
……え? 主計長でありますか?
ううん……少佐は煙草を呑まれませんし、酒もお付き合い程度ですので、扱いやすいと言えば扱いやすい方であります。
ですが……少し、取っ付きにくいような……あ、いえ。なんでもありません。
それでは、私の方は今日のお勤めもあるのでこの辺りで失礼いたします。
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