軍艦乗りの献立表─海軍主計科こぼれ噺─

春蘭

文字の大きさ
29 / 66
第六週「鮪の刺身」

(28)昭和のニコポン

しおりを挟む
 残された睦郎にとっては居心地の悪い時間の始まりだ。罰の悪そうな表情で天井を見た後、恐る恐る艦長に向き直る。

「あの……艦長?」
「うーん、ちょっと仕組んだみたいになっちゃったけどごめんなさいね。そういえば鷹山クンとはあまり話していなかったなぁって思ってさ。ほとんどボクの我が儘で引き抜いてきたようなものなのに、これはどうかなと思って」

 しかし艦長はニコニコとした笑顔を絶やさない。昭和のニコポンだの言われているだけのことはある。
 ちなみにニコポンというのは「ニコニコ笑ってポンと肩を叩き、相手を懐柔する」処世術のことだ。ニコポンと言ったらニコポン宰相、桂太郎だろうか。語源も彼の人心収攬しゅうらん術から来ていた。
 
「実はねー。これはしばらく内密にしておいてほしいんだけど」
「はい……」

 机を挟んだ睦郎の向かい側に回って、よっこらせと椅子に座りながら艦長は何事かをぼやいている。睦郎はもう何も考えられずに、促されるがまま着席した。

「ちょっとした幸運があってね。数日後に来る補給艦からマグロを仕入れられそうだから、節分は鮪の刺身にできなかなぁって思って交渉に来たんだ」
「え?」

 いきなりの提案だった。まさか艦長の口から献立に関する交渉が出てくるなんて思ってもいなかった睦郎は、しばしの間ぽかんと口を開けて固まってしまう。
 確かに、主計長には献立に関する権限を与えられているが、なにも艦長自らが交渉に来ずとも副長に任せてしまえば良いのに。そも、予定献立表を提出する先も副長だ。艦長が直接来るよりそちらの方がよっぽど円滑に事が進むと思うのだが。

「冷凍じゃなくて冷蔵の赤身を仕入れてくれるって。どうしても無理なら刺身じゃ無くて火を通した料理でも良いけど、できれば刺身が食べたいなぁって。大丈夫だよ。ちゃぁんと副長から許可は貰っているからさ」
「は、はあ……」

 おさんどんとして日々忙しく艦を切り盛りしている副長が「良い」と言ったのならば、睦郎にも断る理由など無いのではないか。急にそう思い始め、睦郎は操られたかのように二度三度と首を縦に振る。人はそれを思考放棄と呼ぶだろう。

「艦長と副長がそれでよろしいと仰るのでしたら、当官といたしましてもお断りする理由などございませんとお答えするしかありませんが……」

 さすがの睦郎も普段の口調をかなぐり捨てた敬語で話すしか無いようだ。無理矢理とって付けた感のある標準語は、いつも方言を使って話をしている者特有の癖なのか。

「では、節分の夕食は鮪の刺身をメインに添える方針で行きます」
「うん、よろしくね」

 そういえば、最近は魚を刺身で食べていないような気がする。特に鮪など、このご時世であるし赤身でもかなり値が張るのではと思うのだが、艦長が仕入れられると断言しているのなら信じても良いだろう。そう思えるくらいの信用が、この男にはあった。

(そういえば、鮪の刺身なんて何年ぶりやろ)

 睦郎も忙しい艦艇勤務が続いていたので、私生活でも見たような記憶がない。いや、それどころか何年前に食べたか判らないくらいに記憶が随分薄れてしまっている。当然だが「古鷹」に来てからも食べていない。
 おそらくだが「古鷹」でも刺身が出るのは久しぶりなのではないのか。睦郎が来るまでのことなど知らないが、きっとそうに違いない。
 なら、烹炊員の腕を鈍らせないためにも艦長の提案に乗るのが最適だろう。

「あの……」
「ん?」
「もしや、先ほどの寿司の下りはこれのため……」
「ハハハッ! いやぁ、バレちゃったかぁ」

 カラカラと朗らかに笑い声を上げながら、艦長はポンポンと自分の腹鼓を軽く叩いた。

 お前、寿司だけにネタに困って適当に刺身を題材にしただけだろうって? いいや、そんなまさか。鮪の刺身は主計兵が海兵団教育中の教科書として使用する『海軍主計兵調理術教科書』にも載っている、れっきとした海軍料理なのだ。

 ツマはシャキシャキの食感が楽しい大根、わさびは少々。贅沢を言うなら大葉を一枚下に敷きたいが、艦上では中々手に入れられる物でも無いので、おごのりで勘弁してやろう。
 脂は少なめだが、引き締まった赤身は旨味がぎゅっと詰まっている。そのままで食べて素材本来の味を楽しむのも乙だが、わさびを溶かした醤油に付けて食べればまた新しい味に変わる。塩気がたっぷり染みつつもツーンとくるわさび醤油は、魚の味をよく引き立ててくれるだろう。
 それか、わさびは刺身の上にちょこんと乗せるだけでも良いかもしれない。下手に醤油全体にわさびの辛味を絡ませるより、味を邪魔されずに楽しめるから。

「とまあ、前置きはこのあたりで良いかな」
「へぁい?」

 艦長の一声に、睦郎の口から変な声が上がった。この艦長、今なんと言った?

「今のは本題に入る前に程よく力を抜かせるための会話ね。まあ、鮪の話は本当だから安心してちょうだいな」

 むしろそっちの方が大本命なのではなかったのか? これ以上に大きな話など、睦郎はまっぴらごめんという奴だ。なにせ彼は怠惰が具現化したような男。面倒臭がりなのだからしょうがない。

「ここから先はボクからの個人的なお願いになるのかな」
「は、はあ……」
「キミ、気付いているよね。テッポウ砲術科の瀧本クンの様子が、ここ最近おかしいことに」

 睦郎でさえ知っているようなことだ。艦長が気付いていない訳がない。
 だが、なぜ今その話を艦長は振ってくるのだろう。それも、彼とは数回話しただけでほとんど面識の無い、しかも主計科の睦郎に。

「もし、もし良ければの話なんだけどね。キミの時間が空いたら、頃合いを見計らって彼の相談に乗ってやってほしいんだ」
「……は、」

 益々意味が判らなくなって、睦郎は艦長の前にも関わらず首を傾げて困惑する。

「い、いえ……別に、当方は構わないのでありますが、なぜ自分なのでしょう」

 思った疑問を口にする。ここで聞いておかないと、おそらく艦長は一生答えてくれなさそうだから。
 艦長は特に機嫌を損ねるわけでもなく、あの狸のような笑顔を絶やさないまま静かに語りかけた。

「鷹山クンはあれだね。キミは誰のことも嫌いじゃないけど、誰のことも好きじゃない・・・・・・・・・・・でしょ?」
「……」

 ビク、と身を震わせそうになった。まるで自分でも気付いていなかったことを、他人からキッパリ指摘されたよう。
 いや、実際にそうなのだろう。睦郎はそういう男だ。そんな本性を隠してきた男なのだ。

 怠惰でズボラ。そのくせ、自分の仕事はマメにこなす。そして誰とでも短期間でそこそこ仲良くなれて、いち早く周囲に馴染めてしまう。これらを統合して反転させると、それは誰にも肩入れしていないことになってしまうのだろう。言い換えれば、誰にも執着していない。それが鷹山睦郎という、できそこないの人間だ。

「薄情だと謗られそうだけどね。それは反面、誰に対しても中立的な立場で意見が言えるってことさ」
「それは……」
「この艦にはボクも含めてお節介が大勢いるからねぇ。それはとても良い才能でもあるんだよ。西洋風に言うなら“ギフト贈り物”かな。だからそれは大切にしなさいね」

 誰に対しても中立的な立場を保てる。それは、きっと希な才能なのだろう。
 睦郎は、それを後天的に・・・・獲得した。いや、獲得せざるをえなかった。彼はそれをずっと恥だと思って隠してきたのだが、まさかこの歳になってそれを肯定されるなんて。
 初めてだったかもしれない。今まで自分の欠点だとばかり思っていたそこ・・を肯定されたのは。


しおりを挟む
感想 0

あなたにおすすめの小説

今まで尽してきた私に、妾になれと言うんですか…?

水垣するめ
恋愛
主人公伯爵家のメアリー・キングスレーは公爵家長男のロビン・ウィンターと婚約していた。 メアリーは幼い頃から公爵のロビンと釣り合うように厳しい教育を受けていた。 そして学園に通い始めてからもロビンのために、生徒会の仕事を請け負い、尽していた。 しかしある日突然、ロビンは平民の女性を連れてきて「彼女を正妻にする!」と宣言した。 そしえメアリーには「お前は妾にする」と言ってきて…。 メアリーはロビンに失望し、婚約破棄をする。 婚約破棄は面子に関わるとロビンは引き留めようとしたが、メアリーは婚約破棄を押し通す。 そしてその後、ロビンのメアリーに対する仕打ちを知った王子や、周囲の貴族はロビンを責め始める…。 ※小説家になろうでも掲載しています。

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

没落貴族か修道女、どちらか選べというのなら

藤田菜
キャラ文芸
愛する息子のテオが連れてきた婚約者は、私の苛立つことばかりする。あの娘の何から何まで気に入らない。けれど夫もテオもあの娘に騙されて、まるで私が悪者扱い──何もかも全て、あの娘が悪いのに。

どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~

さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」 あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。 弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。 弟とは凄く仲が良いの! それはそれはものすごく‥‥‥ 「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」 そんな関係のあたしたち。 でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥ 「うそっ! お腹が出て来てる!?」 お姉ちゃんの秘密の悩みです。

父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

四季
恋愛
父親が再婚したことで地獄の日々が始まってしまいましたが……ある日その状況は一変しました。

上司、快楽に沈むまで

赤林檎
BL
完璧な男――それが、営業部課長・**榊(さかき)**の社内での評判だった。 冷静沈着、部下にも厳しい。私生活の噂すら立たないほどの隙のなさ。 だが、その“完璧”が崩れる日がくるとは、誰も想像していなかった。 入社三年目の篠原は、榊の直属の部下。 真面目だが強気で、どこか挑発的な笑みを浮かべる青年。 ある夜、取引先とのトラブル対応で二人だけが残ったオフィスで、 篠原は上司に向かって、いつもの穏やかな口調を崩した。「……そんな顔、部下には見せないんですね」 疲労で僅かに緩んだ榊の表情。 その弱さを見逃さず、篠原はデスク越しに距離を詰める。 「強がらなくていいですよ。俺の前では、もう」 指先が榊のネクタイを掴む。 引き寄せられた瞬間、榊の理性は音を立てて崩れた。 拒むことも、許すこともできないまま、 彼は“部下”の手によって、ひとつずつ乱されていく。 言葉で支配され、触れられるたびに、自分の知らなかった感情と快楽を知る。それは、上司としての誇りを壊すほどに甘く、逃れられないほどに深い。 だが、篠原の視線の奥に宿るのは、ただの欲望ではなかった。 そこには、ずっと榊だけを見つめ続けてきた、静かな執着がある。 「俺、前から思ってたんです。  あなたが誰かに“支配される”ところ、きっと綺麗だろうなって」 支配する側だったはずの男が、 支配されることで初めて“生きている”と感じてしまう――。 上司と部下、立場も理性も、すべてが絡み合うオフィスの夜。 秘密の扉を開けた榊は、もう戻れない。 快楽に溺れるその瞬間まで、彼を待つのは破滅か、それとも救いか。 ――これは、ひとりの上司が“愛”という名の支配に沈んでいく物語。

私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。

MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。

無能なので辞めさせていただきます!

サカキ カリイ
ファンタジー
ブラック商業ギルドにて、休みなく働き詰めだった自分。 マウントとる新人が入って来て、馬鹿にされだした。 えっ上司まで新人に同調してこちらに辞めろだって? 残業は無能の証拠、職務に時間が長くかかる分、 無駄に残業代払わせてるからお前を辞めさせたいって? はいはいわかりました。 辞めますよ。 退職後、困ったんですかね?さあ、知りませんねえ。 自分無能なんで、なんにもわかりませんから。 カクヨム、なろうにも同内容のものを時差投稿しております。

処理中です...