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第六週「鮪の刺身」
(28)昭和のニコポン
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残された睦郎にとっては居心地の悪い時間の始まりだ。罰の悪そうな表情で天井を見た後、恐る恐る艦長に向き直る。
「あの……艦長?」
「うーん、ちょっと仕組んだみたいになっちゃったけどごめんなさいね。そういえば鷹山クンとはあまり話していなかったなぁって思ってさ。ほとんどボクの我が儘で引き抜いてきたようなものなのに、これはどうかなと思って」
しかし艦長はニコニコとした笑顔を絶やさない。昭和のニコポンだの言われているだけのことはある。
ちなみにニコポンというのは「ニコニコ笑ってポンと肩を叩き、相手を懐柔する」処世術のことだ。ニコポンと言ったらニコポン宰相、桂太郎だろうか。語源も彼の人心収攬術から来ていた。
「実はねー。これはしばらく内密にしておいてほしいんだけど」
「はい……」
机を挟んだ睦郎の向かい側に回って、よっこらせと椅子に座りながら艦長は何事かをぼやいている。睦郎はもう何も考えられずに、促されるがまま着席した。
「ちょっとした幸運があってね。数日後に来る補給艦から鮪を仕入れられそうだから、節分は鮪の刺身にできなかなぁって思って交渉に来たんだ」
「え?」
いきなりの提案だった。まさか艦長の口から献立に関する交渉が出てくるなんて思ってもいなかった睦郎は、しばしの間ぽかんと口を開けて固まってしまう。
確かに、主計長には献立に関する権限を与えられているが、なにも艦長自らが交渉に来ずとも副長に任せてしまえば良いのに。そも、予定献立表を提出する先も副長だ。艦長が直接来るよりそちらの方がよっぽど円滑に事が進むと思うのだが。
「冷凍じゃなくて冷蔵の赤身を仕入れてくれるって。どうしても無理なら刺身じゃ無くて火を通した料理でも良いけど、できれば刺身が食べたいなぁって。大丈夫だよ。ちゃぁんと副長から許可は貰っているからさ」
「は、はあ……」
おさんどんとして日々忙しく艦を切り盛りしている副長が「良い」と言ったのならば、睦郎にも断る理由など無いのではないか。急にそう思い始め、睦郎は操られたかのように二度三度と首を縦に振る。人はそれを思考放棄と呼ぶだろう。
「艦長と副長がそれでよろしいと仰るのでしたら、当官といたしましてもお断りする理由などございませんとお答えするしかありませんが……」
さすがの睦郎も普段の口調をかなぐり捨てた敬語で話すしか無いようだ。無理矢理とって付けた感のある標準語は、いつも方言を使って話をしている者特有の癖なのか。
「では、節分の夕食は鮪の刺身をメインに添える方針で行きます」
「うん、よろしくね」
そういえば、最近は魚を刺身で食べていないような気がする。特に鮪など、このご時世であるし赤身でもかなり値が張るのではと思うのだが、艦長が仕入れられると断言しているのなら信じても良いだろう。そう思えるくらいの信用が、この男にはあった。
(そういえば、鮪の刺身なんて何年ぶりやろ)
睦郎も忙しい艦艇勤務が続いていたので、私生活でも見たような記憶がない。いや、それどころか何年前に食べたか判らないくらいに記憶が随分薄れてしまっている。当然だが「古鷹」に来てからも食べていない。
おそらくだが「古鷹」でも刺身が出るのは久しぶりなのではないのか。睦郎が来るまでのことなど知らないが、きっとそうに違いない。
なら、烹炊員の腕を鈍らせないためにも艦長の提案に乗るのが最適だろう。
「あの……」
「ん?」
「もしや、先ほどの寿司の下りはこれのため……」
「ハハハッ! いやぁ、バレちゃったかぁ」
カラカラと朗らかに笑い声を上げながら、艦長はポンポンと自分の腹鼓を軽く叩いた。
お前、寿司だけにネタに困って適当に刺身を題材にしただけだろうって? いいや、そんなまさか。鮪の刺身は主計兵が海兵団教育中の教科書として使用する『海軍主計兵調理術教科書』にも載っている、れっきとした海軍料理なのだ。
ツマはシャキシャキの食感が楽しい大根、わさびは少々。贅沢を言うなら大葉を一枚下に敷きたいが、艦上では中々手に入れられる物でも無いので、おごのりで勘弁してやろう。
脂は少なめだが、引き締まった赤身は旨味がぎゅっと詰まっている。そのままで食べて素材本来の味を楽しむのも乙だが、わさびを溶かした醤油に付けて食べればまた新しい味に変わる。塩気がたっぷり染みつつもツーンとくるわさび醤油は、魚の味をよく引き立ててくれるだろう。
それか、わさびは刺身の上にちょこんと乗せるだけでも良いかもしれない。下手に醤油全体にわさびの辛味を絡ませるより、味を邪魔されずに楽しめるから。
「とまあ、前置きはこのあたりで良いかな」
「へぁい?」
艦長の一声に、睦郎の口から変な声が上がった。この艦長、今なんと言った?
「今のは本題に入る前に程よく力を抜かせるための会話ね。まあ、鮪の話は本当だから安心してちょうだいな」
むしろそっちの方が大本命なのではなかったのか? これ以上に大きな話など、睦郎はまっぴらごめんという奴だ。なにせ彼は怠惰が具現化したような男。面倒臭がりなのだからしょうがない。
「ここから先はボクからの個人的なお願いになるのかな」
「は、はあ……」
「キミ、気付いているよね。テッポウの瀧本クンの様子が、ここ最近おかしいことに」
睦郎でさえ知っているようなことだ。艦長が気付いていない訳がない。
だが、なぜ今その話を艦長は振ってくるのだろう。それも、彼とは数回話しただけでほとんど面識の無い、しかも主計科の睦郎に。
「もし、もし良ければの話なんだけどね。キミの時間が空いたら、頃合いを見計らって彼の相談に乗ってやってほしいんだ」
「……は、」
益々意味が判らなくなって、睦郎は艦長の前にも関わらず首を傾げて困惑する。
「い、いえ……別に、当方は構わないのでありますが、なぜ自分なのでしょう」
思った疑問を口にする。ここで聞いておかないと、おそらく艦長は一生答えてくれなさそうだから。
艦長は特に機嫌を損ねるわけでもなく、あの狸のような笑顔を絶やさないまま静かに語りかけた。
「鷹山クンはあれだね。キミは誰のことも嫌いじゃないけど、誰のことも好きじゃないでしょ?」
「……」
ビク、と身を震わせそうになった。まるで自分でも気付いていなかったことを、他人からキッパリ指摘されたよう。
いや、実際にそうなのだろう。睦郎はそういう男だ。そんな本性を隠してきた男なのだ。
怠惰でズボラ。そのくせ、自分の仕事はマメにこなす。そして誰とでも短期間でそこそこ仲良くなれて、いち早く周囲に馴染めてしまう。これらを統合して反転させると、それは誰にも肩入れしていないことになってしまうのだろう。言い換えれば、誰にも執着していない。それが鷹山睦郎という、できそこないの人間だ。
「薄情だと謗られそうだけどね。それは反面、誰に対しても中立的な立場で意見が言えるってことさ」
「それは……」
「この艦にはボクも含めてお節介が大勢いるからねぇ。それはとても良い才能でもあるんだよ。西洋風に言うなら“ギフト”かな。だからそれは大切にしなさいね」
誰に対しても中立的な立場を保てる。それは、きっと希な才能なのだろう。
睦郎は、それを後天的に獲得した。いや、獲得せざるをえなかった。彼はそれをずっと恥だと思って隠してきたのだが、まさかこの歳になってそれを肯定されるなんて。
初めてだったかもしれない。今まで自分の欠点だとばかり思っていたそこを肯定されたのは。
「あの……艦長?」
「うーん、ちょっと仕組んだみたいになっちゃったけどごめんなさいね。そういえば鷹山クンとはあまり話していなかったなぁって思ってさ。ほとんどボクの我が儘で引き抜いてきたようなものなのに、これはどうかなと思って」
しかし艦長はニコニコとした笑顔を絶やさない。昭和のニコポンだの言われているだけのことはある。
ちなみにニコポンというのは「ニコニコ笑ってポンと肩を叩き、相手を懐柔する」処世術のことだ。ニコポンと言ったらニコポン宰相、桂太郎だろうか。語源も彼の人心収攬術から来ていた。
「実はねー。これはしばらく内密にしておいてほしいんだけど」
「はい……」
机を挟んだ睦郎の向かい側に回って、よっこらせと椅子に座りながら艦長は何事かをぼやいている。睦郎はもう何も考えられずに、促されるがまま着席した。
「ちょっとした幸運があってね。数日後に来る補給艦から鮪を仕入れられそうだから、節分は鮪の刺身にできなかなぁって思って交渉に来たんだ」
「え?」
いきなりの提案だった。まさか艦長の口から献立に関する交渉が出てくるなんて思ってもいなかった睦郎は、しばしの間ぽかんと口を開けて固まってしまう。
確かに、主計長には献立に関する権限を与えられているが、なにも艦長自らが交渉に来ずとも副長に任せてしまえば良いのに。そも、予定献立表を提出する先も副長だ。艦長が直接来るよりそちらの方がよっぽど円滑に事が進むと思うのだが。
「冷凍じゃなくて冷蔵の赤身を仕入れてくれるって。どうしても無理なら刺身じゃ無くて火を通した料理でも良いけど、できれば刺身が食べたいなぁって。大丈夫だよ。ちゃぁんと副長から許可は貰っているからさ」
「は、はあ……」
おさんどんとして日々忙しく艦を切り盛りしている副長が「良い」と言ったのならば、睦郎にも断る理由など無いのではないか。急にそう思い始め、睦郎は操られたかのように二度三度と首を縦に振る。人はそれを思考放棄と呼ぶだろう。
「艦長と副長がそれでよろしいと仰るのでしたら、当官といたしましてもお断りする理由などございませんとお答えするしかありませんが……」
さすがの睦郎も普段の口調をかなぐり捨てた敬語で話すしか無いようだ。無理矢理とって付けた感のある標準語は、いつも方言を使って話をしている者特有の癖なのか。
「では、節分の夕食は鮪の刺身をメインに添える方針で行きます」
「うん、よろしくね」
そういえば、最近は魚を刺身で食べていないような気がする。特に鮪など、このご時世であるし赤身でもかなり値が張るのではと思うのだが、艦長が仕入れられると断言しているのなら信じても良いだろう。そう思えるくらいの信用が、この男にはあった。
(そういえば、鮪の刺身なんて何年ぶりやろ)
睦郎も忙しい艦艇勤務が続いていたので、私生活でも見たような記憶がない。いや、それどころか何年前に食べたか判らないくらいに記憶が随分薄れてしまっている。当然だが「古鷹」に来てからも食べていない。
おそらくだが「古鷹」でも刺身が出るのは久しぶりなのではないのか。睦郎が来るまでのことなど知らないが、きっとそうに違いない。
なら、烹炊員の腕を鈍らせないためにも艦長の提案に乗るのが最適だろう。
「あの……」
「ん?」
「もしや、先ほどの寿司の下りはこれのため……」
「ハハハッ! いやぁ、バレちゃったかぁ」
カラカラと朗らかに笑い声を上げながら、艦長はポンポンと自分の腹鼓を軽く叩いた。
お前、寿司だけにネタに困って適当に刺身を題材にしただけだろうって? いいや、そんなまさか。鮪の刺身は主計兵が海兵団教育中の教科書として使用する『海軍主計兵調理術教科書』にも載っている、れっきとした海軍料理なのだ。
ツマはシャキシャキの食感が楽しい大根、わさびは少々。贅沢を言うなら大葉を一枚下に敷きたいが、艦上では中々手に入れられる物でも無いので、おごのりで勘弁してやろう。
脂は少なめだが、引き締まった赤身は旨味がぎゅっと詰まっている。そのままで食べて素材本来の味を楽しむのも乙だが、わさびを溶かした醤油に付けて食べればまた新しい味に変わる。塩気がたっぷり染みつつもツーンとくるわさび醤油は、魚の味をよく引き立ててくれるだろう。
それか、わさびは刺身の上にちょこんと乗せるだけでも良いかもしれない。下手に醤油全体にわさびの辛味を絡ませるより、味を邪魔されずに楽しめるから。
「とまあ、前置きはこのあたりで良いかな」
「へぁい?」
艦長の一声に、睦郎の口から変な声が上がった。この艦長、今なんと言った?
「今のは本題に入る前に程よく力を抜かせるための会話ね。まあ、鮪の話は本当だから安心してちょうだいな」
むしろそっちの方が大本命なのではなかったのか? これ以上に大きな話など、睦郎はまっぴらごめんという奴だ。なにせ彼は怠惰が具現化したような男。面倒臭がりなのだからしょうがない。
「ここから先はボクからの個人的なお願いになるのかな」
「は、はあ……」
「キミ、気付いているよね。テッポウの瀧本クンの様子が、ここ最近おかしいことに」
睦郎でさえ知っているようなことだ。艦長が気付いていない訳がない。
だが、なぜ今その話を艦長は振ってくるのだろう。それも、彼とは数回話しただけでほとんど面識の無い、しかも主計科の睦郎に。
「もし、もし良ければの話なんだけどね。キミの時間が空いたら、頃合いを見計らって彼の相談に乗ってやってほしいんだ」
「……は、」
益々意味が判らなくなって、睦郎は艦長の前にも関わらず首を傾げて困惑する。
「い、いえ……別に、当方は構わないのでありますが、なぜ自分なのでしょう」
思った疑問を口にする。ここで聞いておかないと、おそらく艦長は一生答えてくれなさそうだから。
艦長は特に機嫌を損ねるわけでもなく、あの狸のような笑顔を絶やさないまま静かに語りかけた。
「鷹山クンはあれだね。キミは誰のことも嫌いじゃないけど、誰のことも好きじゃないでしょ?」
「……」
ビク、と身を震わせそうになった。まるで自分でも気付いていなかったことを、他人からキッパリ指摘されたよう。
いや、実際にそうなのだろう。睦郎はそういう男だ。そんな本性を隠してきた男なのだ。
怠惰でズボラ。そのくせ、自分の仕事はマメにこなす。そして誰とでも短期間でそこそこ仲良くなれて、いち早く周囲に馴染めてしまう。これらを統合して反転させると、それは誰にも肩入れしていないことになってしまうのだろう。言い換えれば、誰にも執着していない。それが鷹山睦郎という、できそこないの人間だ。
「薄情だと謗られそうだけどね。それは反面、誰に対しても中立的な立場で意見が言えるってことさ」
「それは……」
「この艦にはボクも含めてお節介が大勢いるからねぇ。それはとても良い才能でもあるんだよ。西洋風に言うなら“ギフト”かな。だからそれは大切にしなさいね」
誰に対しても中立的な立場を保てる。それは、きっと希な才能なのだろう。
睦郎は、それを後天的に獲得した。いや、獲得せざるをえなかった。彼はそれをずっと恥だと思って隠してきたのだが、まさかこの歳になってそれを肯定されるなんて。
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