軍艦乗りの献立表─海軍主計科こぼれ噺─

春蘭

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第十二週「茶碗蒸し」

(56)くれふとしーば

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 その時、瀧本の脳裏ではつい昨夜に某陸軍将校と交わした会話が鮮明に走り抜けていった。これはいわゆる走馬灯という奴だろうか。違うと言ってほしい。

「順を追って、解説いたします」
「ほぉん」
「昨日の夜、あいつと喧嘩した後にあいつの自宅に行った後の話です……」

 しおらしい態度だったのでさらっと流されそうになったが、相手の家に一晩お泊まりしてきたことをシレッと自慢しなかったかこの男。

「はぁん。おれが化け猫の相手をさせられている最中に、自分は恋人と逢い引きしてPOSポスっとったんかい。良いご身分やな、全治一週間」
「止めてください、人を怪我が全治するまでの期間で呼ぶのは止めてくだせぇ」

 睦郎は思わずこめかみの血管をピクピクさせてしまいそうになったのを懸命に堪えた。若干堪えきれずに思ったことが口を吐いて出てしまったのはご愛嬌で許して貰おう。
 もしこの場に赤岡がいれば睦郎をそっと窘めてくれていただろうが、あいにく彼はここにはいない。彼らが現在いる場所は主計長私室なのだ。軍医長が根城にしている医務室は遠い。

 なお、POSポスるとは海軍隠語で、男と女──場合によっては同性二人で行う寝台上の夜戦・・・・・・を意味する言葉である。

「話を戻すんですが、昨日……というより今朝ですね」
「ふぅん」
「話の流れでせ……あいつが朝に何を食べてるのか聞いたんですよ」
「そんで?」
「それが……信じられますか。あいつ、朝食を食べていなかったとか言うんです」
「なに?」

 ギラッと睦郎の目が光った。目元に影がかかったせいで、余計にその光が強調される。しかもそれは、希望とか未来への展望に溢れたものとかそういったキラキラしたものではない。人を殺していそうな輝きだ。もしや本職の方ですかと聞いてしまいそうになった。

「何を考えとるねん、あの糞ボンボン。朝飯食わんとか、倒れても知らんぞ」
「俺もそれにはきっちり言及しましたぜ。そしたら最近は食べているとか抜かして、戸棚にある食パンを見せてきて……」
「あー、一斤まるごと食うとんのか。それでも栄養偏っとることに違いはないがな」
「いえ、一切れです」
「は?」

 気のせいだったか、今おぞましい発言をしなかったか。たしか例の糞気にくわない陸助、朝食を食パン一切れで済ませていると言われた気がするが。

「……冗談?」
「いいえ、本気でした」
「は?」

 信じられない。睦郎は愕然となった。本人はそれで良いかもしれないが、朝食を抜くどころか良くてもパン一切れで済ませるとか、睦郎にとっては正気の沙汰ではない。
 朝ごはんは、一日の活力。その日の仕事は朝食にかかっていると言っても過言では無いだろう。それを疎かにするとは何事か。
 朝食は重すぎると動きが鈍くなるのは確かだが、かといって少なすぎても腹が減っては戦にならぬ。かといって食い意地が張っているなどと思われたら、スマートが売りの誉れ高き帝国海軍としてのメンツが廃る。その辺り、食道楽を極めていると自認した睦郎であっても、結局は彼も海軍軍人であるのでしっかり士官のメンツを汲み取ってやっているつもりだ。

「うわぁ……」
「さすがに……ですよね。でもあいつ、何だか食に対してそれほど執着してねぇらしくてですね。何なんでしょうか、食事を単なる駆け引きの道具として使うモンだと思い込んでいるみたいでして」

 ポリポリと後頭部をかいて酢を飲んだような表情をしている瀧本を見て、そこまで聞いてようやく「はた」と気が付いた。

 瀧本が一晩逢い引きしてきたのは、間違いなく例の陸軍将校で間違いない。本人もハッキリと件の工兵大尉を指していること前提で話を進めているのは明白。
 そしてその陸軍将校というのは、メシマズで有名な国である英国と深い関わりを持つ九条院侯爵が溺愛していた三男。彼の父君である九条院侯爵は外交官兼貿易会社の経営者であるわけなのだから、交渉の場に出る機会が多いに決まっている。当然ながらそれらには会食もついて回っただろうから、侯爵が食事は楽しむものではなく仕事で使う手札のひとつと認知していたってなんら可笑しな話ではない。
 ならば、その侯爵の影響をモロに受けたであろう三男が、私的な食事を蔑ろにしてしまうのにも頷けるのではないか。

(あー……それはちょお悲しいなぁ)

 嫌いな相手とは言え、これにはさすがの睦郎も同情せざるをえない。食に並々ならぬこだわりを見せる睦郎にとって、食事を楽しめないのは悲しいことなのだ。

「いや、ちゃう。そうやない。おれが聞きたかったんは、なんでそれがザリガニを食うとか、そういう話に飛ぶねんて話や」
「あっ」

 そうだ。元はと言えば、そのザリガニ云々の話のインパクトで全部を持っていかれたことが始まりだったはず。話が完全にそれているではないか。

「それです。俺はザリガニをどうしたら安全に食えるか、その処理の方法をお聞きしたくてここまで馳せ参じた次第であります」
「だから何で自分はザリガニを食おうと思い付いてん」

 そもそもなぜ瀧本はその辺で捕まえてきた野生のザリガニを食べようとか、そんなトチ狂った思い付きを実行に移そうとしているのだろう。そこが最大の謎だ。

「おれは、お前らに、ごっつエエもん食わせとると思ってたんやけどな……なんや、GF連合艦隊司令部で出るような仏蘭西料理とかやないと舌が満足せえへんのか?」
「いえ、違います。断じて違います。ここの食事は、今まで俺が乗り組んできた艦の中でも最高であります」
「ほうか」

 確かに仏蘭西料理にはザリガニのスープなども出てくるが、あれは養殖された輸入物なので非常に高い。ザリガニの分際で。
 瀧本は何かのきっかけでザリガニのスープのことを知り、そして食べたいと思ったのだろうか。しかも土下座までして。

「で、なんでお前は野生のザリガニを調理する必要があんねん。そんで、それがなんで例の陸助の話と繋がんねん。とうとうトチ狂ったか」
「だ・か・ら、違います!」

 こういうとき、睦郎が相手に対してかなり悪意がある質問をするのはなぜだろう。おそらく普段は潜めてある、彼のひねくれた本性の一端だろうか。
 そんな睦郎からのチクチクとした攻撃を喰らった瀧本が、とうとう我慢できなくなったのかガバッと立ち上がって吠えた。

「俺が、ザリガニを、食べるとか言い出したのは! あいつが、俺のことを、クレフトシーヴァに誘って来たからですっ!!!」

 クレフトシーヴァ。耳慣れぬ単語が、睦郎の鼓膜を突き抜けていった。いったいどこの国の言葉だ。少なくとも英語ではない。

「くれふとしーば」
「英語だとザリガニパーティーとか、そういう意味だそうです」

 拙い発音で復唱していると、瀧本からの補足説明が飛んできた。

「えっ……ザリガニ…………?」

 ザリガニ・パーティーとはなんぞ。字面からまったく想像のできない物をお出しされ、睦郎は先ほどまでの苛立ちさえ忘れて思わず真顔になってしまった。

 ザリガニ・パーティー。睦郎の怒りさえ一時とは言え忘れさせるほどの破壊力を秘めた単語。これが示すものとはなんだ。ザリガニが主役のパーティーか。巨大なザリガニの彫像でも御神体として祭り上げるつもりか。まったく判らない。

「北欧は瑞典スウェーデンで夏になると行われる伝統文化だそうですぜ」
「ああ、くれふとしーばって瑞典語か」

 道理で聞き慣れぬわけだ。独逸語に似ていると思ったが、まさか瑞典語だったとは。さすがの海軍士官といえでも瑞典語は専門外だ。

「で、何をする祭りや」
「文字通りに塩茹でしたザリガニを、アクアビットという蒸留酒と一緒に踊り食いする祭りだとか……又聞きなんで詳細は知りませんが」
「ザリガニ……」

 ザリガニ・パーティーとは。北欧瑞典や瑞典系の多い米国ルイジアナ州で毎年行われる、ザリガニが主役を飾る伝統文化である。
 現在であったら地球の裏側のできごとさえ瞬時に情報が手に入るが、彼らがいるのは二十世紀も三十年を過ぎた頃。インターネットなどというハイカラな物は産声さえ上げていない。なので、遠く離れた北の果ての地で受け継がれてきた伝統文化など、極東で軍艦に乗って遥々海を渡っている彼らが知るよしもない。

「あいつ、亡くなった母方のじいさんが瑞典人だったらしくて……それで、最近米国に渡ってそれを知ったらしくてですね……珍しく積極的にやるとか言い出したんで、つい了承しちまったんでさぁ……」

 そこでハッと気付いた。そういえばあの陸軍将校は、北欧の血が流れていたと。

 ならば彼は三十年近く生きてきて、ようやく自分の祖父の故郷で受け継がれてきた伝統文化に触れることができたのだろうか。ひとつ、何かが違っていれば、自分の祖国になっていたかもしれぬ国の文化の一端を。

(せやったら断れんよなぁ)

 瀧本がザリガニ云々の話を出してきた理由をようやく全て理解し、睦郎は閉口する。
 かの陸軍将校は、好いた男と自分のルーツで受け継がれてきた伝統文化を共有したかったのだろうか。自分が触れてきたもの、これから触れるであろうもの。その全ての時間を瀧本と共に過ごしたかったのでは。
 なんともいじらしいものだ。ほんの少し、本当の本当にほんの少しだけ、あの陸軍将校のことを愛らしいと思った睦郎であった。


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