海辺のハティに鳳仙花

春蘭

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昭和六年広島

(18)常磐薺④─追想、昭和五年広島─

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 知らぬ間にそれほどの信頼を彼から向けられていた。その事実がどうしようもないほど嬉しくて、むず痒い感覚をもたらして。
 そしてその瞬間──あまりにも卑怯で狡い考えが天啓のように頭の中にパッと顕れた。

───これはもしかしなくとも、絶好の機会チャンスなんじゃないのか?と。

 抱き締めてやろうと中途半端に腕を上げたままの姿勢で固まりながら、零士は唐突に思い浮かんだ卑怯ひきょう卑劣ひれつな計画の算段が固まっていくのを止められずに冷や汗を流す。
 おそらく零士は仙にとって唯一、この世で最も信頼する人間だ。でなければわざわざ探し出して会いに行ったりしない。自分が最も隠しておきたいであろう汚くて醜い部分を剥き出しにして感情をぶつけてきたりしない。

 その信頼を利用して、仙を我が物にしようというずるい考えが零士の頭の中に思い浮かんだのだ。

 だがそれは、利己的で自己中心的な醜い欲求に他ならない。仙から信用されていることを良いことに、その信頼を利用して己の欲を満たしているだけだ。仙のことを手篭めにして欲望の対象にした連中と何が違う?いいや、まったく同じかそれよりもおぞましいことを自分はこの青年に行おうとしている。
 その事実に気付いて零士は自分が恐ろしくなった。

──ああ、そうだ。お前の汚い部分も醜い部分も全部まとめて受け留めてやれるのは俺しかいない。

 しかし同時にその自制さえ上回る勢いで育ち続けるタールのように澱んでねっとりと絡み付く暗い感情が、零士の淡い初恋の上に黒い染みを残していく。


───さあ、その耳元で砂糖菓子より甘い誘惑を口にしろ。そして優しく抱き締めて、この青年が二度と自分無しでは生きていけないようにしてしまえ。


 十五年前の雪の日に、彼の手を取り損ねた中学一年生の自分がそっと囁く。
 まるで、そう──哀れな子羊を奈落の底に誘う悪魔のような甘言を。

───何を躊躇ためらうんだ? こいつは、最初っから、お前のものだったのだろう? こいつだってそう言っているじゃないか

 それでもまだギリギリで理性が働いていた。せめて自分だけは、この青年を欲望の対象にしてなるものか。
 自分の淡く儚い初恋を、これ以上汚してなるものか──と。

「…………」

 不意に自身の胸板に添えられていた仙の指先が離れていったのを感じてハッと我に返った。
 仙はまた黙りこくって静かに顔を伏せている。

「………帰って」
「は?」

 唐突に呟かれた台詞に一瞬目が点になって、零士は変な声を出す。

「もう帰って」
「まっ……ちょ、待て、なんでっ……」

 まさか自分の汚い欲にまみれた思考を読まれたのか、と思ってギクリと身を強張らせた。

ぼく・・の我が儘に付き合わせてごめん。瀧本は兵学校を上から十番以内の成績で卒業したんでしょ?海大に行ってどこかの将官のお嬢さんを奥さんに迎えて出世してよ。今日あったことは……ぼくの事なんて忘れて生きて」
「はっ?えっ?」

 どうやら自分の思考を読まれた訳では無かったようだ。ひとまず安心したが、突然仙の口から出てきた自分の人生計画に仰天してしどろもどろに言葉を返す。

「いやいやいや、ちょっと待て。えっ……そんな予定全然無い………」
「勧められてるんでしょ? 結婚。親族だけじゃなくて同期や上官からも」
「いや、確かに勧められてるんだけど……全部断ってるんだが!?」
「そういえばこの間も断ってたね。妹さんの結婚相手の親族で、関西の造船会社の社長令嬢」

 ひゅっ、と喉から変な音が鳴った。
 “関西の造船会社の社長令嬢”──それは横須賀を出港する前に一度実家に寄った際、親に勧められてその場で断った見合い話の相手のことだ。それに気付いて息を呑む。

「おまっ……なんでそんなこと………知って……」
「探偵」

 短い単語だったが、それで全てを悟るには充分だった。
 つまり仙は、探偵を雇って零士の事を調べていたという訳だ。道理で合点がいく。今回のことだって、いやにタイミングが良かったじゃないか。
 まるで零士が呉に移籍することになったあの重巡に異動する事を知っていたかのように、仙は零士の前に姿を見せた。その情報を既に仙が手に入れていたのだとしたら納得のいく答えだ。

「六月に帰国した時にいつも世話になってる探偵に依頼してね………ちょうど先週、入り用で東京に行ったときについでに報告書を受け取ったんだ」

 ふっと自嘲気味な息を漏らして、仙は虚しく呟いた。

「………我ながら女々しいとは思っているさ。昔、ほんの少しの間喧嘩相手だった奴のことを忘れられずに今どうしているか……なんて」
「………」
「ありがとう、会えて嬉しかったよ……お前にとっては私との再会は災厄以外の何物でも無かっただろうが」

 濡れた肌に水滴が伝う。零士にこれ以上泣いている顔を見られたく無いとばかりに顔を背け、仙は静かに別れを告げた。

「尾坂……」
「ああ、それともなんだ?私に同情したのか?っは……止めてくれ。あまり自惚れるなよ。これは全部、私が自分で選んだことだ。あの家から出て外の世界に行くことと引き換えに、私は自分の自由と人生全てを陸軍に、国に売ったんだ。犯されたのは想定外だったがな。だが私は、それを後悔したことなど無い。だから私をこれ以上惨めな気持ちにさせないでくれよ…………せめてお前だけは、私の事を憐れまないでくれていると……この先の人生でも思っていたいんだ………」
「───」

 ああ、まったく……とんだ殺し文句だ。と零士は密かに嗤う。
 理性を総動員させてあと一歩で越えそうになった一線を踏みとどまっていたというのに、わざわざ当の本人がその一歩を後押ししてくれるだなんて。

 その時点で零士の中でこの青年を逃がすつもりは無くなった。


「────自惚れてんのはお前の方だろ」


 相手が何か言う前に、ガッと顎を掴んで無理矢理視線を上に持っていく。突然の暴挙に驚く間も無かった仙は当然のようにされるがままで、何が起きたのかまったく判らないというように大層間抜けな表情をしていた。

「なにが………んっ!!?」

 反論など許さないとばかりに仙の赤い唇を自分のそれで塞ぐ。ついでに何か言いかけて半開きになった口の中に舌を捩じ込んで口腔内に侵入してやった。

「ふぅっ………ぁ……ん……」

 戸惑いつつも慌てて逃げる舌を追いかけて捕まえ、根本からたっぷりと絡ませて吸い上げる。その流れのままぐるりと口の中を探るように舌で撫で上げ歯列をなぞる。

「ぁ……ふ……んっ………ふぁ……ゃめ……」

 そういえばこいつと口付けをするのは初めてだったかと他人事のように考えながら、零士は自分の存在を刻み付けるかのように仙の口を好き勝手に堪能していった。

「ふ………ん……………」

 体を少し前にずらして逃げ腰になった彼の足の間に滑り込ませ、抵抗しようと胸板を押した両手を握って浴槽に磔にする。
 冬の冷たく張り詰めた空気の中で、まぐわいを思わせる淫靡な水音が静かに響く。

「ぁっ……」

 息ができなかったのか彼がピクピクと痙攣し始めた頃合いを見計らって互いの間に銀の糸を引きながら、ちゅ……と名残惜しげに離れていった。

「は……ぁ…………」

 頬を紅潮させて、腰が抜けたようにへたりこむ仙。情欲に潤んだ青い瞳が何をされるか判らない僅かな恐怖を孕んで零士をじっと見つめている。

「あのな、俺はお前が思っているほど扱い易い奴じゃないぞ。何せ──大昔の喧嘩相手の事が忘れられずにいつまでもうじうじと引きずり続けている面倒なタチでな」
「……は?」
「おまけに俺は存外、天の邪鬼らしい。昔の喧嘩相手を心の拠り所にしてすがりついてきた面倒な奴があれこれ注文を付けてきたら、ついつい逆の事をしたくなってくる」

 口の端をぺろりと舐めながら、ひとつひとつ刷り込むように囁いてやる。
 しばらく時間を置いてようやくその言葉の意味を理解したのか、仙の目が大きく見開かれていった。

「瀧本、お前………」
「勘違いするなよ。俺が昔、お前に喧嘩を吹っ掛けたのも俺の意思だし、それでお前の事を忘れられずに引きずっていたのも俺の選択が招いたこと。お前の誘いに乗ったのも俺の責任。さっきお前にこういうことをしたのも、全部俺が自分で決めたことだ。お前は関係ない。自惚れんなよバァーカ」

 自分の醜い本音を悟られぬようにわざと軽い口調で話し、零士は次の瞬間真面目な顔を作ってじっと仙の目を見つめる。

「……なんだ、それは」

 ぎゅっと唇を噛んで、仙はうつむいた。その拍子に目にいっぱい溜まっていた涙の雫がぽろりと落ちる。

「っ………期待させるな………このバカっ…………そんなっ……こと……言われたら……」

 その先は言えなかった。ただ零士は仙をその腕にそっと納めて、あやすように背中を擦ってやるだけだ。

───意外にも早く堕ちたな、と思いながら。



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