海辺のハティに鳳仙花

春蘭

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なんでもない日

(49)海辺のハティに鳳仙花⑤

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 辞令が来たのだろう。命令であるならば行かねばならぬ。
 行き先は大陸に左遷か、はたまた東京に栄転か……

「仙……」
「昨日、な。戸田少佐が来たのは私の次の配属先が決まったっていう内示のためだったんだ」
「内示……ってことは、まだ正式には決まってねぇってことだな」
「ああ……ここから先は何を聞かれても私の独り言になる。だから、この場を離れたら忘れてくれ」

 おそらくほぼ内定だろうが、内示は内示。正式な辞令ではないので、確定的なことは言えない。

「………それで、行き先は?」
「───東京だ」

 東京の技術本部だ。そう言われてひとまず安心した。大陸に飛ばされたらどうしようかと思っていたから。
 今、大陸はかなりキナ臭くなってきている。三年前の昭和三年に起きた張作霖爆殺事件以降、大陸の対日感情は日に日に悪化していっているのが現状だ。そう、いつ有事が起きても全くおかしくない、一触即発の状況。
 いくら自分達が死を恐れないよう教育されているとはいえ、テロで殉職なんて死んでも死にきれない。

「米国でディーゼルエンジンのことを研究していた縁でな、技術本部の車両班に引き抜かれることになった。砲兵科で二十七期の原少佐が是非にとおっしゃったらしい」
「ふぅん………海軍の俺に陸軍の組織のことはよくわかんねぇけど、東京ってことは結構な栄転ってことだよな」
「…………まあ、な」

 隊附ではなく、さりとて中央三官衙のどこかでもない。だがそれなりの厚待遇だと言っても過言では無いだろう。
 それに、引き抜かれたということは、彼自身の能力が認められたということ。家柄も出自もなにも関係なく、正真正銘間違い無く彼自身の実力で掴みとった栄転だ。

 ───だからこそ、これだけは聞いておきたかった。

「一応、栄転の部類に入っているだろうけどさ……お前自身はどう思ってんだ?」
「……!」

 零士の一言で、仙は何かに気付いたらしい。あからさまに固まる。

 どう思っているか、だなんて。そんなこと、聞かれなかった。

 これは間違いなく栄転の部類だ。仙の努力が報われた瞬間に間違いない。実際に奥池や戸田も喜んでいたし、師団長にも労って頂けた。それに仙自身もようやく自分のやってきたことが無駄ではなかったことを証明されて、胸がいっぱいになったことに偽りはない。

 だからこそ───行きたくない、なんて。この胸の内に湧き上がった矛盾する思考が存在していたことを、吐き出せずにいたのだ。

 だが、零士は聞いてくれた。行きたいのか、行きたくないのか。それを、しっかり問いかけてくれた。
 それで、この矛盾するもうひとつの気持ちを認めることができて………ボロボロと涙が溢れる。

「うおっ!? ど、どうした?俺、またなんか変なこと言っちまった……」
「────行きたくない」

 震える声が紡ぎだす。今まで隠していた、いいや認めることができなくて。そして心の奥底にしまって見なかった振りをして、目を背け続けた本音としっかり向き合う時がやってきたのだ。
 ポロポロ、ポロポロ。と、止めどなく涙を流しながら、零士の胸にすがり付いた仙は思いの丈をぶちまけていく。

「行きたくない、行きたくないんだ、零士。どうして、どうして」
「仙、」
「やっと認めてもらえたのに、なんで。ううん、違う。そうじゃない。違う、東京に行きたくない。広島から離れたくない。ずっとここにいたいだけなんだ」

 それが答えだった。
 そう、仙は───広島から、離れたく無かっただけなのだ。
 
 自分の能力を存分に奮える部署に配属されることに不満は無いし、むしろ誇らしいと思っている。だとすれば問題はその場所。行きたくない、と思ったのは転属先が広島から遠く離れた東京だったから。
 それですべてに合点がいく。この矛盾した感情の正体をようやく暴けて、そして仙は自分の本音にようやく気付いて涙した。

「ぅう………広島から離れたくないよぉ………ぅっぐ………やだよ、やだぁ…………」

 広島にいたい。どれだけそう願っても、それは叶えられない。

 だって、彼らは軍人だから。

 命令に従うのが軍人だ。たとえそれがどれほど受け入れがたいものであっても。文句一つ言わずに粛々と受け入れる。それが、国家に尽くす者の義務だからだ。

「えぐっ…………ぅ、ぼく、にとって、ここはっ……ぅあ………とくべつ……んっ、ぁ………特別な、場所、だから、ぁ………あ……」
「うん……」
「だって、だって…………うぅ……………九条院の家を出てっ……はじめてっ………初めて…自分の足で…………行った場所がここだったんだよぉ………!」
「うん……」

 トントン、と零士が軽く背を擦ってくれる。
 大きな手にあやされながら、脳裏に浮かべるのはあの日のこと。



『仙、英国に行くから準備をしておきなさい』



 それは十六年前のあの冬の日。前日に落ち込むことがあって項垂れていた自分の様子など、まるで気付かないとばかりに浮かれる侯爵が告げてきた言葉に頭の中が真っ白になったあの日のことだ。
 中学に入学してから出張と仕事が重なり、中々姿を見なかった父親が久し振りに帰ってきたかと思えばこんなことを言ってきたのだ。驚かない訳がない。
 なぜ急に、英国なのだ。と、硬直の解けた仙は問いかけた。
 答えは簡単、侯爵に辞令が来たからだ。それも、駐英大使という重役。

 それがどうして自分の英国行きに繋がるのかと、混乱する頭で必死になって問いかけた。それも、長男次男を差し置いて三男の自分だけがなぜ、と。
 侯爵の答えはなんともあっさりした物だった。

 ────だって、お前を英国の知人達に紹介したかったから。

 行きたくない、と何度も懸命に訴えた。だが、侯爵は取り合ってさえくれなかった。あまつ、我儘を言って困った子だね、とまで言って。仙に言うことを聞かない悪い子という扱いまでした。

 離れたくなかったのだ。日本を。いいや、零士の元を。
 前日に起きたことも相まってか、もうどうして良いのか判らなくて。それで、一晩中一睡もできずに悩んで悩んで。
 ふと、思い立ったのは空が明るくなってきてから。
 そうだ、あいつだったらどう言うのだろう。
 零士は自分が英国に行くと言ったらどのような反応を返してくれるのだろうか。気に食わない顔を見ることがなくなって清々すると言われるだろうか。それとも、張り合いが無くなると言われるだろうか。もしくは……

 気が付いたら制服を着て外に出ていた。外は猛吹雪で一メートル先も見えない。
 それでも歩いた。歩いて歩いて歩き続けた。
 零士に会いたい。会って話がしたい。喧嘩がしたい。いつもと同じように、明日もまた同じように。それだけが一筋の光だったのだ。

 でも、会ったら会ったで何もできなかった。寒さと恐怖でいっぱいいっぱいになって、それでも変わらず自分に接する零士の姿にどうしようもなく安心して。それで、頭の中が真っ白になって、泣きわめいて帰ってしまった。零士が何をしようとしたかは記憶が曖昧だが、彼があやしてくれてたことだけは覚えている。

 声が聞けただけでも良かった。何も理由を聞かずにただただあやしてくれただけで良かった。それだけで満足だった。

 だが……無理だった。ほんの少しだけでも自我が芽生えてしまった仙にとって、もうこれ以上侯爵の言う通りになるお人形の人生は耐え難い苦痛となっていた。
 これ以上侯爵の元にいたら気が狂ってしまう。さりとて、誰も侯爵から自分を助けてくれる人などいない。
 で、あるならば……もはや残された道は一つだけ。
 当て付けのために侯爵の部屋で死んでやろうと思った。それくらいに追い詰められていたのだ。思い立ったが吉日。さっそく縄を片手に侯爵の書斎を訪れ、そして………なぜかいつもは気にならないはずの机の上を見てしまい……

 そこで仙は運命の出会いを果たした。

 『九条院 仙 様』

 侯爵の机の上、いつもなら気にも止めないような場所に目が行って。そこでぞんざいに置かれていた封筒に書かれた名前に驚いて縄を落としてしまったことを今でも覚えている。
 なぜ、侯爵の書斎に自分宛の手紙が置いてあるのだろうか。疑問は尽きなかったが、手紙は自分宛。
 ならば開封しても特段問題などなかろうと、こっそり自室に持ち帰って中を拝見して驚いた。

 手紙の差出人欄に書かれていたのは『尾坂 隼三郎』という見慣れぬ名前。書いた本人の性格を表すかのように文字の隅々まで丁寧に書かれたその手紙が仙の運命を変えた。

 拝啓から始まって、最初は「突然、このような手紙を送りつける不躾な振る舞いをお許しください」という文から入っていたと記憶する。差出人は広島の歩兵第十一聯隊の聯隊長という人物からだった。当然、その当時の仙はなんの接点も持たない、赤の他人のはずだった。
 手紙はそのあと、差出人の自己紹介と……そして、仙との関係を記していたと思う。なにせ十六年も前のこと。さすがに記憶が掠れている。そして最後は「もしも貴方が今、苦しんでいるのならばこの手紙に返信をください」という言葉で締め括られていた。
 手紙の最後に書かれた日付が数ヵ月も前のものだったことが気になったが、まるで図ったかのような完璧なタイミングだ。これこそが天啓か、と衝撃を受けたことを覚えている。

 この手紙を書いた人物に会いたくなった。いいや、会わなければいけないと思った。

 だからその翌日に、行動を起こしたのだ。金をかき集めて交通費にして、そして仙は……次の日に、学校に行くフリをして駅に向かうという暴挙に出た。
 幸い、誰にも自分が九条院家の三男とはバレずにすんだ。学校の制服を着た少年が、どうしてこんな場所にいるんだと駅員に聞かれたが……それを逆手に取った。

 広島にいる祖父が危篤状態だと連絡が入ったために、自分だけ先に行っておきなさいと親から言われた。だけど、広島への行き方を聞くのを忘れていたから教えてほしいと。

 思えば、嘘を吐いたのもあれが初めてだった。わたわたしたせいで酷く拙いものであったと思ったが、駅員はあっさり騙されてくれた。もしかして罠なのでは、と思うほどコロッと騙されてくれて、ご親切に紙に書いてまで広島への行き方を教えてくれたのだ。

 罪悪感に胸を締め付けられながら、仙は一路広島に向かった。交通費を抜いてわずかに残った現金と、隼三郎から届いた手紙を持って。生まれて始めて、たった一人で家を離れて自由を手にした。

 そう、つまり。仙にとって、広島とは自由の象徴なのだ。

 生まれて初めて、自分の意思で行くことを決意した場所。それが広島だった。

「それ、に……きょう、色んなところを回って……ひぐっ……初めて知ったんだ………ぅうっ………ぼくのこと、ここにいても良いって言ってくれるひと、が………ひっぐ………ちょっと勇気を出して、えぐっ………一歩前に、う……踏み出して見てみれば………ぅう………ぼくが、思っていた以上にっ……たくさん、いて………」
「うん……薬局の親父さんとか、な。優しい人だったもんな」
「それからっ……それから……ぅ…………ああぁぁぁぁあああぁぁ………」

 意外な、本当に意外なことだったのだが、仙のことを幼い頃からよく見ていた人は広島市内に多かった。
 笑って、手を振って。朗らかな表情で話しかけてくれて。もしかせずとも仙が彼らに受け入れられていることは明白だった。あの薬局の店主を筆頭に、そういう人を今日だけでもたくさん見た。
 だからこそ、仙は……ここを離れたくないと思うことができたのだろう。

「うわぁぁぁぁああああ、あ、あ………あああああああああ!!!」
「うん……そっか……」

 また泣きじゃくり始めた仙の背を擦って、そして零士はそっと空を見上げる。

(そっか……お前、ちゃんと自分の故郷を見付けられたんだな……)

 帰りたい場所、帰ってきたい場所。たとえどれだけ空が暗くても、たとえ前に歩く力を失ってその場に踞ったとしても。それさえあったら、人はまたきっと頑張れる。

 空には星が変わらず瞬いていた。美しく、そして当たり前のように。

「仙……」

 呼び掛ける。ただ、伝えたかった。彼自身でさえ気が付いていなかったことを。

「……お前さー。今、行きたくないって言ったな。帰りたくない、じゃなくて?」
「ぅんっ………え?」

 ようやく気付いたのだろうか。仙が泣くのを止めてポカンと口を開けたまま零士を見上げている。

 仙は言った。行きたくない、と。
 だが、東京は仙が子供時代を過ごした場所。であるならばここは────帰りたくない、というものでは無いのか?

「じゃあ、いつでも帰ってくりゃ良いんだよ」
「………え?」
「今は無理でも、いつか必ず帰ってくりゃ良いんだよ────広島に」

 今はきっと無理だろう。だったら、いつか必ず帰ってくれば良いのだ。軍を離れて、自由になれたら。ここに戻ってくればいいのだ。

「れい……れいっ………!」
「なあ、仙。もしもさ。もしもその時まで俺が生きていたら………俺もここに住んで良いか?」

 彼が、ここが良いというのなら。自分も一緒にここに住もう。二人で一緒に。

「いや、一緒に住もう。なあ、またここに星を見に来よう」
「れい」
「秋になったら紅葉を見に行ってさ。冬は釣りに行って、鍋作って。そんで春が来たら花見をしてさ。夏になったらまたここで一緒に星を見よう。毎年、何度でも。何度だって、ここで星を見上げよう」

 だって。と、間を置いて。そっと夜空を見上げる。
 月が昇って来たため暗い星は見えなくなっているが、それでも見えないだけで星はそこにあるのだ。

「────何があっても、星は変わらず空で輝いているからさ」

 奮える肩をそっと抱き締めて、大切な存在を腕の中に納める。
 仙はまだ泣いていた。だが、それは不安や恐怖によるものでは無く、安心しきって身体から力が抜けたことによる安堵の涙だ。

 もう大丈夫、もう心配ない。ちゃんと前を向いて歩いていけるから。

「せーん」
「……なんだよ」
「俺、海大受けるわー」

 不意に口を突いて出たのはそんな言葉だった。

「上手くいったら、来年は俺も東京だ。それで、俺が海大に合格して通うようになったら、東京で一緒に暮らそう」

 いつか、終の棲家で最期の瞬間を迎える時のために。今から少しずつ、誰かと共に暮らすことに慣れておこう。

 その意図を汲み取って、仙はその優しさにまた涙をぼろっと溢すしか無かった。

「……なあ」
「ん……なに?」
「左手貸して」

 左手に何をするのだろうか。不思議に思ったが、零士のことだからきっと意味があるに違いない。素直に埋めていた胸板から顔を離しておずおずと左手を差し出す。
 すると零士はその左手をそっと手に持ち、そしてひょいと手袋を外すと……次の瞬間、露になった仙の左手薬指をパクリと口に含んでしまった。

「ちょっ……おまっ、何を……いたっ!?」

 何をするんだと困惑していたら、左手薬指の付け根に痛みが走る。噛み付かれたのだ。
 昼間の話が脳裏をよぎった。まさか、このまま食いちぎるつもりか。

「あっ………待て………ぁ…」
「ん……」

 しかし、予想は外れて零士は離れていった。
 ちゅ……と名残惜しげに唇が離れて、繋がった銀糸が月明かりにキラリとした煌めきを残す。

 零士が離れた後の左手薬指には、綺麗な歯形が残っていた。それも、根本をくるりと一周して、まるで指輪のような形の………

「零士……」
「………十五……いや、十六号くらい?」

 いきなり妙な数字が出た。いや、話の流れからしておそらくこの数字は指輪の大きさだろう。

「お前……まさか………」
「いつかここに本物を着けさせてやるからさ」

 くるりと付けた歯形を指先でなぞり、そしてそっと仙の両手を取って一言だけ。

「だから……今日はこれで勘弁しといてくれねぇか?」

 いつかここに、本物の指輪を贈ってやるから。と、誓いを立てる。
 だからそれまで生きろ。たとえ進む道は違っても、いつか必ず再び道は交わるだろうから……

「れいっ……!」

 感窮まって胸がいっぱいになり、仙は思わず叫んだ。

「なあっ、零士!これが夢じゃないなら、お前の左手の薬指も差し出せ!!」

 差し出せ、と言いつつ手首をガシッと掴んできた。零士が応じると判っていたから、待ちきれなかったのだろうか。
 仙も同じように零士の左手の手袋を外すと、彼の左手薬指をパクリと口の中に迎え入れる。ほどなくして赤い唇が零士の薬指から離れると、そこには自分の左手薬指にあるものと同じような歯形が一周。

「お前が海大に合格したら、いの一番にここに指輪を贈ってやるからな。約束だからな!」
「ああ、待ってるよ。仙」

 なんの屈託も無く笑うことができるようになった彼をこれ以上無いくらいにいとおしく思った零士が、仙の痩躯をぎゅっと抱き寄せて、そして唇を奪う。


「───Je t'aime plus que quiconque au mondeもう、いつ死んだって構わない!」


 口付けに応じる前にそれだけ叫んで、仙は零士に飛び付いていった。


 星はいつだって、空の向こうで輝いている。人を導く北極星ポラリスを抱き締めて。
 そうして陽は沈むしまた昇る。月は変わらず輝き照らす。

 憎しみに狂う怪物にしかなれなかった狼が、海辺で鳳仙花を贈られ、人になった話。


 そんな二人の物語を、空に浮かんだ丸い月が優しく見守っていた。



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