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氷の死神αと余命宣告五年の悪役
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春の光が差し込む王宮の大広間は、その日に限って、ミアン・セルフィアの目には灰色に映った。
天井に描かれた壁画の天使たちも、窓から溢れる白い陽光も、よく磨かれた大理石の床も、何もかもが色を失っていた。
周囲の視線が刺さる。
侯爵家の嫡男として、第二王子の婚約者として、長年かけて磨き上げてきた完璧な佇まいで、ミアンは正面を見据えた。銀髪が光を弾き、碧眼は静かに前を向いていた。その顔に浮かぶのは、穏やかな微笑みにも見えるし、感情を殺した仮面にも見える。
人々は言う。セルフィア侯爵家の長男は、美しいが冷たい、よくできた人形のようだと。
ミアンは、その評価を否定したことがない。否定する術を、誰も教えてくれなかったから。
「ミアン・セルフィア」
第二王子ライエンの声が、広間に響いた。ついに断罪が始まった。
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ミアンがドーラ・ナルミスに対して「いじめ」を行ったとされる証拠は、五点あった。
一、ドーラに向けて侮辱的な言葉を放ったとする侍女の証言。
二、ドーラの刺繍が台無しにされた件でミアンの指示があったとする証言。
三、ドーラが王宮の庭園で転倒した際にミアンが突き飛ばしたとする目撃証言。
四、ドーラの招待状が故意に差し止められた件。
五、ミアンがドーラについて否定的な発言を行ったとされる書簡の写し。
ライエン王子はそれらを一つ一つ読み上げ、最後にこう言った。
「ミアン。お前は婚約者の立場を利用して、罪もないドーラを苦しめた。王家の品位を傷つけた罪として、婚約を破棄し、王宮への立ち入りを禁じる。セルフィア家もこの件の責任を取るべく、爵位の一段降格を命ずる」
広間が静まり返った。
ミアンは一言も反論しなかった。
反論したところで、何も変わらないことを知っていた。すでに結論は出ていた。この断罪は、はじめからそういうものだった。
ドーラ・ナルミスはライエン王子の隣で、涙をそっとぬぐっていた。可憐な男爵令息で、亜麻色の巻き毛に紫色の瞳を持つ愛らしい青年だ。ミアンよりも三つ年下で、去年の晩餐会から突然王子の側に現れるようになった。
ミアンは彼を苦しめたつもりはなかった。
ただ、王子の婚約者として、社交界で相応しくない振る舞いをする者を少しばかり諌めた。それだけだった。あるいは、それは苦しめることと同じだったのかもしれない。自分では気づかぬうちに、冷たく鋭い言葉を使うことが多いと、言われてきたから。
黙っているのが一番だ。両親からずっとそう教わってきた。
Ωは美しくあれ。教養を持て。余計なことを喋るな。
ミアンは唇を結んだまま、礼をして踵を返した。
その背中に、誰一人として声をかけなかった。
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幼い頃から、ミアンの日常は学習と礼儀の繰り返しだった。
セルフィア侯爵家の嫡男として生まれ、五歳でΩだと判明した日から、両親の態度が変わった。正確には、「Ωとして価値ある存在になれ」という方向性に、教育が急激に傾いた。
この国ではΩは珍しい存在だった。千人に一人程度しか生まれないとされ、優秀なαとの間に優れた子を産む存在として重視されていた。だからこそ貴族のΩは、見目麗しく、教養があり、品位を保つことを求められた。
ミアンは確かにその素質があった。銀髪と碧眼という珍しい組み合わせは美しく、頭もよく、音楽も刺繍も語学も、教えればすぐに習得した。
だが習得するための過程は、決して楽ではなかった。
指先が震えるほど寒い冬の朝も、体調が優れない日も、練習は休めなかった。失敗すれば厳しい言葉が飛んだ。それだけではなく、指導者の手が飛ぶこともあった。白い美しいふくらはぎに刻まれた無数の鞭のあとは今も消えることはない。
「それが礼儀というものだ」と父は言った。「痛みを知らなければ、本物の淑やかさは身につかない」
ミアンは泣かなかった。泣いても何も変わらないことを、早々に学んだ。
弟のレオは、ミアンが九歳の時に生まれた。αとして生まれたレオは、両親の寵愛を一身に受けた。当然のことだった。αの男児は家を継ぎ、外で活躍する存在だ。ミアンはΩで、いずれどこかへ嫁ぐ。
そのことを、ミアンは恨んでいなかった。
ただ、少しだけ。
弟がはしゃぐ声や、父が笑う声が聞こえるたびに、なぜ自分はあの輪に入れないのだろうと、不思議に思った。
十四歳の時、第二王子との婚約が決まった。家中が沸いた。父も母も、珍しくミアンを褒めた。
「さすがだ、ミアン。お前を産んだ甲斐があった」
それが、両親に褒められた最初で最後の言葉だった、かもしれない。
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断罪の日から三日後、ミアンは屋敷に謹慎となった。
謹慎といっても、外出が禁じられているだけで、室内での生活は普段と変わらなかった。ただ、使用人たちの視線が変わった。憐れむような、あるいは値踏みするような目が、廊下ですれ違うたびに向けられた。
両親は面会に来なかった。
レオだけが一度訪ねてきた。まだ十三歳の弟は、ミアンの部屋の前でもじもじしながら言った。
「兄上、大丈夫ですか」
「大丈夫だよ」とミアンは答えた。「心配してくれてありがとう」
それだけの会話だった。レオは何か言いたそうにしていたが、何も言えないまま帰っていった。
謹慎から一週間が経った頃、ミアンは体の異変に気づいた。
疲れやすくなっていた。朝起き上がる時に、以前より力が要った。夜中に汗をかいて目が覚めることが増えた。最初は断罪の疲れと精神的な消耗だと思っていたが、二週間が経っても三週間が経っても、症状は良くなるどころか徐々に悪化していった。
食欲も落ちた。階段を上ると息が上がった。
ミアンは侍女に頼んで医師を呼んでもらった。
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医師はフォルタン老師といい、王都で長年開業している白髭の老人だった。彼はミアンの診察を終えると、長い沈黙の後、静かに口を開いた。
「白冷病でございます」
白冷病。ミアンはその名を知っていた。貴族の子弟向けの医学書に記載のある、希少な病だ。体内の熱を生み出す魔力の流れが徐々に滞り、最終的には体温を保てなくなる。完全に進行すれば、真夏でも体が冷え切って死に至る。
「完治はしないのですか」
「いいえ。治療法はございます。ただし——」
老師はそこで言葉を切り、視線を手元の鞄に落とした。
「月に一度、希少な薬草を用いた薬を服用し続けることが必要です。それに加え、定期的な魔法治療も。費用はかなりのものになります。継続して治療すれば、完全な回復も望めますが——治療を中断した場合は」
「寿命は」
ミアンは静かに聞いた。老師は目を伏せた。
「おそらく、五年ほどかと存じます。現在の症状の進行速度から見て」
五年。
ミアンは繰り返した。声には出さずに、心の中で。
五年。自分には、あと五年しかない。
「ありがとうございます」とミアンは言った。「費用の見積もりを書いてください。両親に相談します」
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両親の反応は、予想通りだった。
父は見積書に目を通してから、書類を机に置いた。
「そうか…」
母は窓の外を見ながら言った。
「どこまでも迷惑かけるわね。」
それだけだった。
ミアンは待った。続きの言葉を。援助の言葉を。あるいは、心配する言葉を。
何も来なかった。
「お力を貸していただけませんか」とミアンは言った。「治療を継続すれば、完全に回復できると医師が——」
「ミアン」と父が遮った。「お前は今、家に損害を与えた状態だ。爵位が下がった。我が家の財政も決して余裕があるわけではない」
「ですが——」
「それに」と母が振り返った。「お前はもう婚約を破棄された。次の婚約がまとまるかどうかも分からない状況で、多額の治療費を出す理由が——」
ミアンは何も言わなかった。
言葉が、出てこなかった。
喉の奥が詰まるような感覚があった。泣くつもりはなかった。泣かない。泣いたところで、何も変わらない。
「分かりました」とミアンは言った。「失礼します」
部屋を出て、廊下を歩いて、自室に戻って扉を閉めた。
ベッドに腰を下ろして、天井を見上げた。
五年。
両親は自分を助けてくれない。治療費は自力では賄えない。つまり自分には、あと五年しか生きられない。
不思議と、涙は出なかった。
ただ、胸の中心に、冷たい石が一つ落ちてきたような感覚があった。
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一ヶ月が経った頃、両親がミアンを父の書斎に呼んだ。
「話がある」と父は言った。そこには母と、若い男爵が一人いた。「ラウシェ男爵だ。縁談の仲介をしていただいた」
縁談。ミアンは静かに聞いた。
「フォルスト伯爵という方をご存じか」
「お名前は存じております」とミアンは答えた。知らない者はいない。北方の辺境を治める伯爵で、「北の死神」と呼ばれる戦闘の猛者だ。「氷を自由に操り、戦場では敵を皆殺しにする」などという物騒な噂が、王都にまで届いていた。
「フォルスト伯爵から婚約の申し出があった。お前をそちらへやることにした」
ミアンは一瞬、聞き間違いかと思った。
「婚約、ですか」
「正確には、婚姻だ。来月には先方の屋敷へ向かってもらう」
来月。ミアンは繰り返した。
「先方はなぜ、このような状況の私との婚姻を望まれているのでしょうか」
「それはこちらの知ったことではない」と父は言い、視線を外した。
ラウシェ男爵が咳払いをした。「フォルスト伯爵は結婚を望んでおられまして。ご縁談を探しておりましたところ、セルフィア家のご事情を伺い——」
「引き取ってくださると」とミアンは言った。
男爵が目を逸らした。父も母も、何も言わなかった。
つまりそういうことだ。婚約ではなく、体よく厄介払いをされるのだ。
ミアンは胸の奥で、また一つ石が落ちるのを感じた。しかし今度は、少しだけ形が違った。
悲しみではなく、奇妙な静けさだった。
「分かりました」とミアンは言った。「お受けします」
「ただし」と父が言い、書類を取り出した。「先方へ嫁ぐにあたり、お前の病気のことは一切口にしないこと。不良品を送り込んだと知られれば我が家の品位が下がるからな。フォルスト伯爵にも、先方の使用人にも。この契約書にサインをしてもらう」
ミアンは書類を見た。
魔法的拘束力を持つ契約書だった。この国の魔法師が作成できる、法的効力を持つ特殊な契約だ。違反すれば身体に直接苦痛が及ぶ。
ミアンは静かに羽ペンを取った。両親の決定は拒否することができない。
インクをつけて、サインをした。
手が、少しだけ震えた。
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自室に戻って、ミアンは窓の外を見た。
夕暮れの空は橙と紫が混じり合い、美しかった。こういう空の色を、誰かと一緒に見たいと思ったことが、昔あった。しかし婚約者であったライエン王子は、ミアンと並んで空を眺めるような人ではなかったし、両親もそういうことをしない人たちだった。
五年。
病気を治さなければ、あと五年しか生きられない。
両親は助けてくれない。そして今、北の果ての辺境へ、死神と呼ばれる伯爵のもとへ嫁ぐことが決まった。
ミアンは深く息を吸った。
このまま絶望するのは簡単だった。諦めて、ただ時間が過ぎるのを待つことも、できる。
でも。
——私には、夢があった。
子供が欲しかった。
小さな命を腕に抱いて、笑顔で「おかえり」と言えるような家庭を作りたかった。それがΩとしての役割だからではなく、ただ純粋に、自分がそれを望んでいた。
誰かに無条件で愛されることを、知りたかった。
ライエン王子との結婚でそれが実現できると信じていたわけでもなかった。でも、家族を持つことはできると、漠然と思っていた。
今でも、その夢は諦めたくない。
五年という時間がある。その間に、子供を授かることができれば——。
身勝手だとは分かっていた。相手である伯爵への配慮を欠いているとも分かっていた。
でも、これが今の自分にできる精いっぱいの希望だった。
辺境へ行こう。伯爵と向き合おう。できる限り誠実に、できる限り相手を思いやって、それでもこの夢だけは、諦めないでいよう。
ミアンは窓の外の夕空を、今度は少し違う目で見た。
橙色は、あたたかかった。
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出発の準備は一週間あまりで終わった。
持参できる荷物には制限があり、ドレス数着と日用品、書籍数冊が許された。嫁入り道具と呼べるものはほとんどなく、両親からの餞別の言葉もなかった。
レオだけが、前日の夜にミアンの部屋を訪ねてきた。
「兄上」と弟は言った。「本当に行ってしまうんですか」
「ええ」
「寂しくないですか」
ミアンは少し考えた。正直に答えるべきかどうか。
「寂しいとか、寂しくないとか、考える前に決まってしまったので」とミアンは言った。「でも、新しい場所で、新しい生活を始めるのは、少し楽しみでもあります」
嘘ではなかった。少しだけ、本当のことだった。
「兄上」とレオはもう一度呼んだ。「僕は——」
「レオ」とミアンは静かに遮った。「あなたが気にすることは何もないですよ。健やかに育ちなさい。それが私の望みです」
弟は何か言いかけて、飲み込んで、最後に「気をつけて」とだけ言った。
翌朝、質素な馬車が屋敷の前に停まった。セルフィア家の紋章もなく、護衛も最低限の、地味な旅仕度だった。両親は見送りに出なかった。
ミアンは一人で馬車に乗り込んだ。
馬車が動き出し、屋敷の門を出た時、ミアンは窓を開けて一度だけ振り返った。
見送る者は、誰もいなかった。
それでいい。ミアンは静かに思った。これが、私の旅立ちだ。そしてもう戻ることはないのだろう。
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フォルスト伯爵領は、王都から馬車で五日かかる北方の辺境にあった。
最初の二日は平野が続いた。麦畑と牧草地が広がる穏やかな景色だったが、三日目からは様相が変わった。木々が高く密集し、空気が冷えてきた。日が短くなり、夕方には吐く息が白くなった。
四日目の朝、目を覚ますと窓の外が白かった。
雪だった。
王都では春が終わり夏の入り口の季節なのに、ここにはまだ雪が残っていた。木々の枝に積もった雪が、朝の光を受けて静かに輝いていた。
ミアンは窓に手をついて、その景色をじっと見た。
寒かった。馬車の中でも分かるほどに、温度が下がっていた。白冷病を抱えた体には、この寒さは堪えるかもしれない。しかしその一方で、純白の雪景色には、ミアンの心を奪うような美しさがあった。
——これが、これからの私の世界。
五日目の昼過ぎ、馬車はフォルスト伯爵領の中心地にある村を抜け、さらに山の方へ向かった。雪がより深くなり、針葉樹の森が広がった。道は細くなったが、しっかりと踏み固められており、よく整備されていることが分かった。
「もうすぐでございます」と御者が告げた。
木々の間から、巨大な石造りの建物が見えてきた。
フォルスト伯爵の屋敷は、正確には「城」と呼ぶ方が相応しかった。高い石壁が聳え立ち、塔がいくつも天に向かって伸びていた。かつては軍事要塞として機能していたと聞いたことがある。今でもその面影は十分に残っていた。
冷たく、硬く、美しい城だった。
まるで、氷を固めて作ったような。
馬車が城門の前に停まった。
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出迎えたのは、老齢の執事と数名の使用人だった。
執事はウォルタと名乗り、白髪を丁寧に撫でつけた小柄な老人だった。物腰は穏やかで、ミアンを城に案内しながら要所を説明してくれた。
「旦那様はただいま不在でございます。明後日には戻られる予定ですので、それまでは屋敷に慣れていただければと存じます」
「ありがとうございます。伯爵はどちらへ」
「領内の巡回でございます。定期的に行われております」
案内された部屋は、城の東棟の二階にあった。石造りで天井が高く、寒々しい印象があったが、暖炉には火が入れられており、分厚い絨毯が敷かれていた。窓からは、雪に覆われた松林が見渡せた。
「ご不満な点がございましたら、何なりと」とウォルタは言った。
「いいえ、十分です。ありがとうございます」
ミアンはそう答えて、部屋に一人残された。
荷物を解きながら、窓の外の雪景色を見た。
静かだった。王都とは比べ物にならないほど静かで、聞こえるのは風の音と、時折遠く鳥の声だけだった。
ミアンはその静寂の中に、奇妙な安堵を感じた。
誰も見ていない。
初めて、一人でいることを「楽だ」と感じた気がした。
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伯爵が帰還したのは、翌々日の夕方だった。
ミアンは執事から告げられ、玄関ホールへ向かった。
扉が開き、冷たい外気と共に、ダリウス・フォルスト伯爵が入ってきた。
身長は高かった。ミアンより頭二つ分以上ある。肩幅が広く、鍛えられた体つきをしていることは、旅装姿からでも分かった。黒い長外套に、黒い手袋。雪が肩に積もっていたが、当人は気にしていない様子だった。
そして——黒髪に、金色の瞳。
その目が、ミアンを捉えた。
ミアンは反射的に姿勢を正し、礼をした。「ミアン・セルフィアと申します。このたびはお受け入れいただき、ありがとうございます」
完璧な礼儀だった。声も、立ち居振る舞いも、一点の隙もない。長年の教育の賜物だった。
伯爵はしばらくミアンを見ていた。
金色の目には、感情が読めなかった。冷たいとも、温かいとも、好奇心があるとも、ない。ただそこに、圧倒的な存在感があった。
「ダリウスだ」と彼は言った。声は低く、簡潔だった。「まあ、ゆっくりしろ」
それだけ言うと、ミアンの横を通り過ぎて奥へ歩いていった。
ミアンは彼の背を見送った。
確かに、噂通りの人物だと思った。冷たく、気難しそうで、言葉が少ない。しかし同時に、ミアンには分かった。
あの人は、悪い人ではない。
根拠はなかった。ただ、そう感じた。
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フォルスト伯爵家での生活は、ミアンが予想していたものとは少し違った。
怖い人と聞いていたダリウスは、確かに寡黙で近寄りがたい雰囲気があった。食事の席でも言葉数は少なく、領地の報告書や書簡を読みながら食べることが多かった。しかし、ミアンに対して直接的に冷たくするということはなかった。
ただ、興味がなさそうではあった。
婚約者として扱っているというより、客人として扱っているような距離感だった。同じ食卓につくが、必要以上の会話はない。廊下ですれ違えば目礼する程度。それが日常だった。
ミアンはそれで構わないと思った。むしろ、余計な干渉がない分、自分らしく過ごせる気がした。
朝は早起きをして、城の図書室で本を読んだ。フォルスト家の蔵書は軍事や魔法に関するものが多かったが、歴史書や植物図鑑なども揃っていた。ミアンは特に植物の本に興味を持った。北方特有の植物が多く載っており、その中に薬草の項目もあった。
午後は裁縫や刺繍をした。王都にいた頃は義務として行っていたが、ここでは誰に見せるわけでもなく、ただ自分のためにやっていた。
そして夕方には、窓から雪景色を見た。
雪は毎日降った。強い日も、細かく降る日も、全く降らず青空が広がる日も。雪の降り方一つで、空の表情がこれほど変わるのかと、ミアンは少し驚いた。
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変化が起きたのは、屋敷に来て十日ほど経った頃だった。
夕食後、ミアンは図書室で本を読んでいた。暖炉の火が心地よく、眠気を感じながらページをめくっていたところに、不意に扉が開いた。
ダリウスだった。
彼は入ってきてから、ミアンが座っているのを見て少し止まった。
「使っていたか」
「あ——いいえ、お邪魔でしたら」
「いい。俺も少し読むだけだ」
彼は奥の棚から迷いなく一冊取り出すと、向かいの椅子に腰を下ろした。
二人は同じ火の前で、それぞれの本を読んだ。
しばらくして、ダリウスが言った。「何を読んでいる」
「植物図鑑です。この地域の薬草の項が面白くて」
「薬草に興味があるのか」
「少し、はい。植物を育てるのが好きなので」
ダリウスはちらりとミアンを見た。「意外だな」
「そうでしょうか」
「王都の貴族が、薬草などに興味を持つとは思わなかった」
ミアンは少し考えた。「植物は正直です。日を当てて、水をやって、適切な環境を整えれば、ちゃんと育ちます。嘘をつかないし、見栄を張らない。それが好きで」
ダリウスは何も言わなかった。しかし、ミアンの方を向いていた視線が、少しだけ柔らかくなったような気がした。
気のせいかもしれない。
その夜は、それ以上の会話はなかった。
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「あの、一つお願いがあるのですが」
翌朝、ダリウスが朝食をとっている最中に、ミアンは切り出した。
彼は顔を上げず「何だ」と答えた。
「城の裏手に、使われていない庭があると聞きました。そこを少し使わせていただけないでしょうか。雪が積もっていますが、温室に改修できれば、薬草や野菜を育てられるかと思って」
ダリウスはようやく顔を上げた。「温室を作りたいのか」
「費用はなるべくかけないよう、工夫します。材料の調達なども自分でできることはしますので——」
「費用のことはどうでもいい」と彼は遮った。「やりたいなら好きにしろ。ウォルタに言えば人員も出す」
ミアンは少し驚いた。断られるかと思っていた。
「ありがとうございます」
ダリウスは再びパンを手に取り、視線を書類に戻した。しかしその横顔が、ほんの少しだけ、何かを考えているように見えた。
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温室の改修は、思いのほか楽しかった。
城の裏手に放置されていた古い倉庫を転用することになり、ウォルタが手配した職人が壁に採光窓を設け、床に石を敷いた。ミアンは設計に口を出し、棚の配置を考え、必要な道具のリストを作った。
完成まで二週間かかったが、その間毎日現場を見に行った。職人たちとも少しずつ言葉を交わした。最初は「お嬢さん」「あの方はいつも静かだ」などと陰で言われていたが、ミアンが設計の意図を丁寧に説明したり、差し入れの菓子を持っていくうちに、打ち解けていった。
「よく喋る人だったんですね」と若い職人が驚いたように言った。
ミアンは少し苦笑した。「そうでしょうか」
「遠くから見てると、氷みたいだと思ってたんですが」
氷。ミアンは内心で笑った。自分が「氷のようだ」と評される一方で、城の主は「北の死神」と呼ばれている。
二人の氷が、一つ屋根の下に住んでいる。
おかしなことだと思った。しかし、どこか居心地が悪くはなかった。
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ある日の夕方、温室の棚に鉢を並べていたところ、不意に後ろに気配を感じた。
振り返ると、ダリウスが扉の前に立っていた。
「邪魔したか」
「いいえ」
彼は温室の中に入ってきた。棚の鉢を一つ一つ眺め、ミアンが丁寧に書いたラベルを読んだ。
「これは全部、薬草か」
「多くはそうです。あとは食用の葉野菜と、少しだけ花を」
「花か」
「見てもいいだけの余裕があれば、育てたくて」
ダリウスは一番端の鉢の前で立ち止まった。まだ発芽したばかりの小さな芽が、いくつか土から顔を出していた。
「これは」
「ハゼリソウです。春に白い花を咲かせます。この地域でも育つかどうか試しているところで」
「雪の中でか」
「室内ですし、工夫次第で」
ダリウスはしばらく芽を見ていた。
「うまくいくといいな」
それだけ言って、彼は温室を出ていった。
ミアンはその後ろ姿を見ながら、なぜか胸が少しだけあたたかくなるのを感じた。
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季節はいつの間にか、夏の盛りを過ぎようとしていた。
この地域では「夏」と言っても、雪が若干薄くなる程度だ。空気は相変わらず冷たく、屋外を歩けば吐く息は白い。それでも、日の光は長くなり、午後の温室には柔らかな日差しが差し込むようになった。
薬草たちは順調に育っていた。
ハゼリソウはまだ花をつけていなかったが、葉が広がり、生き生きとしていた。ミアンは毎日水をやり、土の状態を確認した。弱った株には追肥を施し、光の当たり方を調整するために棚の向きを変えた。
ウォルタが時々様子を見に来ては、「旦那様もよく覗いておられますよ」と言った。
「伯爵が?」とミアンは驚いた。
「ええ。早朝、旦那様がご自分で水をやっておられるのを見ました」
ミアンは少し間を置いた。「伯爵は植物がお好きなのですか」
「さあ。以前はそんなご様子はなかったんですが」とウォルタは言い、にこりとした。「何かきっかけがあったのでしょう」
ミアンはそれ以上聞かなかった。
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ダリウスとの会話が、少しずつ増えていった。
きっかけはたいてい、食事の席や図書室での何気ないやり取りだった。植物の話、領地の話、北方の気候の話。ダリウスは口数が少なかったが、ミアンが話すと必ず聞いていた。相槌を打つわけでもなく、ただ静かに聞いた後で、短く何かを言った。
その短い言葉には、意外なほど中身があった。
「王都ではどんな生活をしていたのか」とある日聞かれた。
「勉強と礼儀の練習を、毎日。王子の婚約者として恥ずかしくないよう」
「楽しかったか」
ミアンは少し考えた。「楽しいというより、それが当然のことだと思っていました。やらなければならないこととして、こなしていたので」
「今は楽しいか」とダリウスは続けた。
ミアンは思わず、ちょっと笑ってしまった。「温室の植物を育てている時は、楽しいと思います。本を読む時も。ここは静かで、好きです」
「ここが」ダリウスはわずかに眉を上げた。「辺境が好きか」
「はい。空が広くて、雪が綺麗で。王都より好きかもしれません」
ダリウスはしばらく黙っていた。それから、ほんの少し、表情が緩んだような気がした。
「そうか」
それだけだったが、ミアンにはそれで十分だった。
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ある夜、城の外が嵐になった。
北方特有の猛吹雪で、窓が激しく揺れ、風の音が唸った。暖炉の火を大きくしてもらったが、それでも部屋の隅は冷えた。
ミアンは毛布を肩にかけて本を読んでいたが、寒さと疲れが重なり、うとうとしかけた時、部屋の扉がノックされた。
「入るぞ」ダリウスの声だった。
「はい」とミアンは答えた。
彼は分厚い布の包みを持って入ってきた。「これを持ってこい、と料理長に言われた。嵐の夜は使うといい、とのことだ」
包みを開くと、羽毛を詰めた大判の上掛けだった。分厚くて重く、触れると柔らかかった。
「ありがとうございます」とミアンは言った。「伯爵は、このような嵐は慣れておられるのですか」
「慣れている。生まれた時からこの地にいる」
「そうでしたか。ずっとここで」
「ああ」と彼は言い、しかしなぜか、出ていく気配を見せなかった。「眠れそうか」
「おそらく」
「嵐は明朝まで続く。屋根の一部が古いから、万が一の時は声をかけろ」
「分かりました」
ダリウスはそこで出ていくかと思いきや、壁際の椅子に腰を下ろした。「少し座っていてもいいか」
ミアンは意外に思ったが、「どうぞ」と言った。
二人は嵐の音の中で、また並んで静かに過ごした。
ダリウスは目を閉じていた。眠っているのか、ただ休んでいるのか分からなかった。ミアンは彼の横顔を、こっそり見た。
近くで見ると、顔の造りが整っていることが分かった。彫りが深く、引き締まった顎のラインが、暖炉の光の中に浮かんでいた。戦場で「死神」と恐れられる人が、こんなふうにただ静かにとなりに座っているとは、誰が想像するだろう。
ミアンはそっと視線を戻して、本のページをめくった。
嵐の夜は、そのままゆっくりと更けていった。
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白冷病の症状は、波があった。
調子のいい日は、何ともない。寒いとも感じず、普通に動ける。しかし調子の悪い日は、体の芯から冷えるような感覚があり、疲れやすく、酷い頭痛を伴った。
ミアンは調子の悪い日を、できる限り悟られないようにした。
部屋に閉じこもって本を読む、と言えば誰も不審に思わなかった。食欲のない日は、少し体調が、と言えば料理人がスープを作ってくれた。使用人たちは親切で、ミアンを気にかけてくれたが、根掘り葉掘り聞くような人はいなかった。
ダリウスは——気づいていないと、ミアンは思っていた。
彼は観察眼の鋭い人だと感じていたが、ミアンは長年の訓練で表情を制御することに慣れていた。痛みを顔に出さない術は、幼い頃からの体罰の中で、いつの間にか身についていた。
それでも、いつか限界が来ることは分かっていた。
この病気は、放置すれば確実に進行する。
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「ミアン」
ある日の昼下がり、図書室でダリウスに呼ばれた。
「今日の午後、少し外に出るが、一緒に来るか」
「外に、ですか」
「領内に、野生のハゼリソウが群生している場所がある。見に行こうと思って」
ミアンは少し驚いた。ハゼリソウ——温室で育てている植物の話を、覚えていてくれたのだ。
「行きます」と即答した。
厚着をして外に出ると、空は晴れており、雪の上に青白い光が弾けていた。ダリウスは馬で、ミアンは馬の前に乗せてもらった。彼の腕が後ろからミアンを支え、馬が雪の中を静かに歩いた。
森の中に入ると、木々の合間に光が差し込んだ。
「あそこだ」とダリウスが低い声で言った。
見ると、雪の中に白い花が咲き乱れていた。ハゼリソウの群生だった。雪の中から白い花びらが顔を出している様子は、まるでこの世のものとは思えないほど美しかった。
ミアンは思わず声を出した。
「綺麗——」
それだけ言った。言葉は他に出てこなかった。
ダリウスは何も言わなかった。ただ、その場に静かにいた。
ミアンは雪の中のハゼリソウを眺めながら、胸の奥に熱いものが湧くのを感じた。
誰かと一緒に、綺麗なものを見ている。
それだけのことが、こんなにも嬉しいと思ったことが、今まであっただろうか。
「ありがとうございます」とミアンは言った。「連れてきてくださって」
「温室のが咲いた時に比べるものがあった方がいいと思った」
「伯爵は、優しいのですね」
ダリウスは少し黙った。「そんなことを言われたのは初めてだ」
「本当ですか」
「俺のことを優しいと言う者はいない。たいていは怖いか、冷たいかだ」
「怖くはないです」とミアンは言った。正直に。「ここに来た時は少し緊張しましたが、今は全然」
「怖くないのか」
「はい」
ダリウスはしばらく間を置いた。
「なぜ」
「分かりません」とミアンは正直に答えた。
「ただ、そう思います。言葉は少なくても、行動が、その人の本心を表しているように思うので」
ダリウスは何も言わなかった。
馬の足元の雪が、きらきらと光っていた。
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秋が深まった。
この地では秋と冬の区別がつきにくいほど似ているが、空気の質が少し変わった。乾燥が強まり、雪が細かく硬くなった。風が鋭くなった。
ミアンの体調は、徐々に悪化していた。
朝が特に辛かった。起き上がるのに、以前より時間がかかった。食欲は落ち、味がよく分からない日があった。温室の作業をすると、夕方には疲れ果てて動けなくなった。
それでも、悟られないようにした。
ある朝、廊下で壁に手をついた時、後ろから足音が近づいてきた。
「ミアン」
ダリウスだった。彼はミアンのすぐ後ろに立ち、その顔を見ていた。
「顔色が悪い」
「少し寝不足で。昨夜は風が強かったので」
「嵐ではなかった」
「ええ、でも風の音が——」
「医師を呼ぼうか」
ミアンは首を振った。「大丈夫です。しばらくすれば良くなります」
ダリウスは何か言いたそうな顔をしたが、押し通すように言わなかった。ただ、「分かった」と短く言って、自分の部屋の方向へ歩いていった。
しかしその夕方、使用人が部屋に来て、「旦那様から」と言いながら、滋養のある薬湯と、保温効果の高い特別な膏薬を渡してくれた。
ミアンはその薬湯を見て、少しだけ胸が痛くなった。
——ありがとう、旦那様。でも、これでは治らない。
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ある夜、夢を見た。
子供が笑っていた。小さな手が、ミアンの指を握っていた。
子供の顔は見えなかったが、その笑い声は温かくて、ミアンはその声を聞きながら泣いていた。夢の中で、自分が泣いていることは分かった。しかしなぜ泣いているのかは、分からなかった。
嬉しくて泣いているのか、悲しくて泣いているのか。
目が覚めた時、頬に涙の跡があった。
ミアンは天井を見上げた。
子供を産みたい。その夢は、まだ持っていた。しかし、このまま体が弱っていけば——自分は子供を産める体でいられるのだろうか。
今のダリウスとの関係は、友人に近かった。婚約者という形ではあったが、まだ夫婦としての関係には至っていなかった。ミアンからそれを求める勇気は、まだなかった。
これ以上悩むより、今日を大切にしよう。
ミアンは起き上がって、窓を開けた。
外は白かった。吐く息が白くなった。しかしその白さが、今は嫌いではなかった。
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「一つ聞いてもいいか」
ある日の夕食後、ダリウスが珍しく先に口を開いた。
「はい」
「お前は、この婚姻をどう思っている」
ミアンは少し驚いた。直接的な問いだった。
「どう、とは」
「俺との生活が、苦痛ではないか」
ミアンはしばらく考えた。正直に答えるべきかどうか、ではなく、どう正直に言葉にするかを考えた。
「苦痛ではないです」とミアンは言った。「むしろ——ここでの生活は、今まで生きてきた中で、一番穏やかだと思っています」
「本当に」
「はい」
「俺はお前に、何もしてやれていない」
「そんなことはありません」ミアンは首を振った。「温室を使わせてもらって、植物を育てられています。図書室の本も自由に読めます。ハゼリソウの群生も見せてもらいました。雪の中で咲く花を誰かと見たのは、あれが初めてでした」
ダリウスは少し間を置いた。「そんなことでいいのか」
「私にとっては、十分以上のことです」
彼はしばらく黙っていた。暖炉の火が、パチリと音を立てた。
「ミアン」とダリウスは言った。「俺は、お前のことをもっと知りたいと思っている」
ミアンは目を上げた。
ダリウスの金色の瞳が、真っすぐミアンを見ていた。それは、ミアンが今まで見たことのない表情だった。冷たくも、無関心でもなく——温かい何かが、そこにあった。
「私も」とミアンは言った。声が、少し揺れた。「伯爵のことを、もっと知りたいです」
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それからの日々は、少し変わった。
食事の時間が長くなった。二人とも食べ終わっても、そのまま話し続けることが増えた。ダリウスは昔のことを話すようになった。父親が厳しい人で、幼い頃から戦闘の訓練をさせられたこと。氷の魔法は生まれた時から強く、制御するのが難しかったこと。この城が、小さい頃から好きだったこと。
ミアンも、少しずつ話した。
両親のこと。弟のこと。ライエン王子との婚約がどんなものだったか。教育の厳しさ。しかし自分が諦めたくなかったもの——植物のこと、静かな時間のこと、いつか家族を持ちたいという夢のこと。
最後の話をした時、ダリウスはじっとミアンを見ていた。
「家族か」
「はい。漠然とした夢ですが」
「漠然としていない」とダリウスは言った。「お前の目が、そこだけ違う光り方をする」
ミアンは少し驚いた。
「そうですか」
「ああ」
彼はそれ以上言わなかったが、ミアンは不思議と恥ずかしくはなかった。
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冬が本格的に始まった。
ある朝、ミアンは目を覚ますと、体に力が入らなかった。
それ自体は珍しくなかった。しかし今日は特に程度がひどく、ベッドから出ようとした途端に眩暈がした。壁に手をついて数歩歩き、そこで力が抜けた。
床に座り込んだ。
冷たい石の床に手をつき、息を整えようとした。しかし息が上手く入ってこない。体の芯が冷えていた。真冬の屋外に、何時間も裸でいるような感覚だった。
(大丈夫。少しすれば落ち着く)
そう思っていた。
しかし今日は、落ち着かなかった。
意識が遠のきかけた時、扉が開いた。
「ミアン——」
駆け寄る足音。ダリウスの声。それからミアンは、自分の体が床に崩れ落ちるのを感じながら、意識を手放した。
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目が覚めた時、ベッドにいた。
暖炉の火が大きくされており、部屋は暖かかった。毛布が何枚も重ねられていた。
「目が覚めたか」
ダリウスが椅子に座って、こちらを見ていた。
「……すみません、ご心配をおかけして」とミアンは言おうとした。しかし声が掠れた。
「医師を呼んだ」
ミアンは固まった。
「城に常駐している医師だ。一通り診てもらった」
「……何か」
ダリウスは真っすぐミアンを見た。
「俺は、この城にいる者全員の健康を管理する義務がある。だから医師には、考えられる病名を全部挙げるよう命じた」
ミアンは黙っていた。
「白冷病だという診断が出た」とダリウスは言った。声は静かだった。
「症状と、診察の所見から、ほぼ間違いないと」
ミアンは天井を見た。
魔法的契約書の存在が、体の中で重く感じられた。余命のことは口にできない。それでも、何かを言わなければならない気がした。
「知っていたのか」とダリウスは続けた。怒鳴ることも、責めることもなかった。ただ静かに聞いた。
「……はい」
一言答えた途端、胸の奥で何かが裂けるような感覚がした。
「いつから」
「ここへ来る前から」
沈黙が落ちた。長い沈黙だった。
「なぜ言わなかった」
ミアンは喉に力を入れた。
「事情があって、言えなかったのです。詳細は——言えないのですが」
「言えない、というのは?」
「魔法的拘束のある契約を、交わしていて」
ダリウスの顔が変わった。静かな表情の奥で、何かが動いた。「誰と」
ミアンは黙った。
「……お前の家族か」
答えなかった。しかしそれが答えだった。
ダリウスは立ち上がり、窓の方へ歩いた。背を向けたまましばらく動かなかった。
ミアンは彼の背を見ながら、心の中で謝った。
言えなくてごめんなさい。だまして、ごめんなさい。
「余命は」とダリウスが言った。振り返らないまま。
ミアンは一瞬、迷った。余命のことを「言わないよう」と契約書には書かれていた。
しかし、それ以上、隠していることに耐えられなかった。
「……五年と、言われました。治療を続ければ完治できると、でも費用が多くかかるため」
「治せるのか」とダリウスは素早く振り返った。
「理論上は。ただ高価な薬と魔法治療が必要で——」
「それだけか」
「…はい」
ダリウスは一瞬だけ目を閉じた。それから扉の方へ歩き始めた。
「待っていろ」と彼は言った。「俺が何とかする」
「そんな——」
「待っていろ」
それだけ言って、彼は部屋を出た。
-----
その夜、ミアンは眠れなかった。
天井を見ながら、ダリウスの顔を思い出した。怒っているのか、悲しんでいるのか、呆れているのか——あの表情の読めない男の、何かを決意したような目を思い出した。
俺が何とかする。
そんなことを言ってくれる人が、今まで自分の人生にいただろうか。
両親は、ミアンを「何とかしてくれる」立場にありながら、何もしなかった。ライエン王子は、ミアンを断罪した。
ダリウスは、隠されていたことを知った上で、怒鳴ることも詰ることもなく、「俺が何とかする」と言った。
ミアンは目を閉じた。
泣かないようにしようと思ったが、目頭が熱くなった。泣いてもいいかどうか分からなかったが、体が勝手に反応した。
静かに、ゆっくりと、涙が流れた。
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三日後、ダリウスが部屋に来た。
「ウィリス薬師を呼んだ。王都でも随一の薬師で、白冷病の研究をしている人物だ。明日には着く」
ミアンは目を見開いた。「王都から?」
「王都でも特急の馬便を使えば数日だ」ダリウスは当然のように言った。「治療方針を確認してもらう。薬の手配は俺がする。費用は俺が出す」
「そんな——私は、伯爵の財産を——」
「俺の財産の使い道は俺が決める」と彼は遮った。「お前が心配することではない」
「でも——」
「ミアン」
名を呼ばれた。静かな声だったが、有無を言わせぬ重みがあった。
「俺はお前に、ここで死んでほしくない」
ミアンは言葉を失った。
ダリウスは真っすぐ、ミアンを見ていた。金色の瞳に、いつもの冷たさはなかった。
「俺が何とかすると言った。それはそういう意味だ」
ミアンの喉が詰まった。何か言おうとしたが、言葉が出なかった。
「……なぜ」とようやく言えた。「なぜ、そこまで」
ダリウスはしばらく黙っていた。
「理由が必要か」
「……普通は、必要だと思います」
「そうか」と彼は言い、一度だけ視線を外した。「なら——お前に生きていてほしいから、だ」
それだけ言って、彼はまた部屋を出た。
ミアンはその後、しばらく動けなかった。
胸の奥が、じわじわとあたたかくなっていた。
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ウィリス薬師は、七十代の小さな老婦人だった。
白髪を厳しく束ね、丸い眼鏡をかけ、皺の刻まれた手で丁寧に診察をした。ミアンの体を触れて確認し、魔力の流れを計測する特殊な道具を当て、長い時間をかけて状態を評価した。
「白冷病、それも中期から後期の入り口ですね」と老婦人は言った。「放置していれば、三年以内に急速に悪化したでしょう。よく今まで気づかれなかったものです」
「気づいていましたが、対処ができなかったのです」とミアンは答えた。
老婦人はじっとミアンを見た。それから、視線をダリウスに移した。
「治します。ただし、定期的な治療と投薬を最低でも二年は続けること。その間、激しい体への負荷は禁物です。しかし二年が経過し、状態が安定すれば、完全回復の見込みは高い」
「必要なものは全て用意する」とダリウスが言った。「費用も手段も」
「そうですね」と老婦人は言い、また眼鏡の奥でミアンを見た。「あなたには、こんなにも生きていてほしいと思う人がいるのです。治療頑張りましょうね」
ミアンはダリウスを見た。
彼は窓の外を見ていて、表情は見えなかった。しかし耳の先が、わずかに赤くなっていた。
「……はい」とミアンは言った。「いるかもしれません」
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治療は月に一度、ウィリス薬師が城を訪問する形で行われることになった。
薬は複数種類あり、ウィリス老師が用意したものと、ダリウスが北方の山に自生するという薬草を採取して補うものがあった。北方の山にはΩの白冷病に効く希少な薬草が数種類自生しており、ダリウスの領内の山は特にその宝庫だという。
「偶然ではないと思いますよ」
ウィリス老師は言った。
「この土地の魔力の質が、体を守る働きがある。よく選ばれましたね、あなたの住処として」
ミアンはそれを聞いて、静かに笑った。
死神の城が、自分の病を癒す場所だった。
皮肉ではなく、その奇妙な縁を、なぜかとても嬉しいと感じた。
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治療を始めて二ヶ月が経った頃、少しずつ変化が出てきた。
朝の眩暈が減った。食欲が戻った。温室での作業をしても、夕方まで体が持つようになった。
ハゼリソウが、冬の終わりに白い花を咲かせた。
温室の中で、小さな白い花が十数個、いっせいに開いた。ミアンはその前でしゃがみ込んで、一つ一つの花をじっくりと見た。
「咲いたか」
振り返ると、ダリウスが温室の入口に立っていた。
「はい。雪の中のものと比べると、少し小さいですが」
「充分きれいだ」
彼は中に入ってきて、ミアンの横にしゃがんだ。
二人で、小さな白い花を見ていた。
「ダリウス」とミアンは言った。
「ん」
「感謝しています。治療のことだけでなく——ここでの時間全部を」
ダリウスは花を見ながら、少し間を置いた。
「俺も」と彼は言った。「お前が来てから、この城が変わった」
「変わった?」
「うまく言えないが——あたたかくなった気がする。ここが」
ミアンは胸の奥が、じわりと溶けるような感覚を覚えた。
「ダリウス」
「何だ」
「私、あなたのことが好きです」
言ってしまってから、ミアンは少し驚いた。自分でも気づかないうちに、言葉が出ていた。慌てて取り消そうとしたが、ダリウスが先に言った。
「知っている」
「……え?」
「知っていた、というか、俺も——」彼は一度言葉を切り、珍しく視線を外した。「そう思っている。お前のことが、好きだ」
ミアンは何も言えなかった。
ダリウスがゆっくりこちらを向いた。金色の瞳が、暖かい光の中で、温かく輝いていた。
「正式な婚姻をしたい」と彼は言った。「お前と、ちゃんと夫婦になりたい。その前に——怖くないか?俺のことが」
「怖くない」とミアンは即座に答えた。
「最初からそう思っていました」
ダリウスは少し目を細めた。それが、ミアンが初めて見る彼の笑顔だった。
不器用で、照れくさそうで、しかし確かに温かい笑顔。
ミアンも笑った。
温室の白い花が、二人の間でそっと揺れた。
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春の終わり、二人は正式に婚姻の儀を行った。
城の礼拝堂で、使用人たちとウィリス老師が見守る中、静かな式だった。
ミアンは白いドレスを着た。銀髪に小さな花冠をつけた。ダリウスは珍しく礼服を着て、いつもの黒装束ではなく濃紺のコートを纏っていた。
誓いの言葉を交わす時、ダリウスの手がミアンの手を握った。
大きくて、温かい手だった。
氷を操る手が、こんなに温かいなんて、とミアンは思った。
「ミアン・フォルスト。よろしく頼む」とダリウスは言った。
「ダリウス様こそ」とミアンは答えた。
使用人たちから小さな拍手が起きた。
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一年が経った。
北方の城に、春が訪れた。
フォルスト伯爵領は一年中雪の地だが、それでも春には雪の解ける場所がある。城の南向きの庭に、去年ミアンが種を蒔いた花が、今年は地面から顔を出した。白い花、紫の花、柔らかな黄色の花。
ミアンはその庭に立って、花を見ていた。
「ミアン、外は冷える」
後ろからダリウスの声がした。振り返ると、彼が分厚い外套を持って立っていた。
「大丈夫です。少しだけ」
「少しだけ、が長い」と彼は言いながら、外套をミアンの肩にかけた。「ウィリス老師が、無理はするなと言っていた」
「無理はしていません」とミアンは言った。「ただ、花を見ていただけです」
ダリウスはミアンの横に立ち、庭を見た。
「よく咲いた」
「ええ」
二人は並んで、春の庭を眺めた。
ミアンの体調は、著しく改善していた。ウィリス老師によれば、「回復が思いのほか早い」とのことで、あと半年ほど治療を続ければ、完全回復の見込みが立っていた。
北方の土地の魔力が、確かに体に良い影響を与えているのだと言われた。そしてもう一つ——αの愛情が、Ωの体に安定をもたらすという古い研究があると、老師は静かに笑いながら教えてくれた。
「ダリウス」
「何だ」
「春が来ましたね」
「来た」
「去年の今頃は、馬車でこちらへ向かっていました。雪を初めて見て、綺麗だと思って」
「一年前か」
「はい。あの時は——」ミアンは少し間を置いた。「もっと孤独だったと思います」
ダリウスがちらりとミアンを見た。
「今は?」
ミアンは彼を見上げた。
「今は、あたたかいです」
ダリウスは何も言わなかった。ただ、ミアンの肩にかけた手が、少しだけ力を込めた。
それだけで十分だった。
庭の花が、春風に揺れた。
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ある朝、ミアンはウィリス老師に診察を受けた後、静かな声で告げられた。
「おめでとうございます」
ミアンはしばらく、その言葉の意味を理解できなかった。
「子を授かっておられます。まだ初期ですが、状態はとても良好です」
ミアンは手を口に当てた。
目頭が熱くなった。
ずっと夢見ていたことが——子供を持ちたいという、身勝手かもしれないけれど諦めきれなかった夢が、今ここに、現実として存在していた。
「……本当、ですか」
「本当です」とウィリス老師は優しく言った。「あなたは、よく頑張りましたね」
その言葉で、ミアンの目から涙が溢れた。
声を上げて泣いたのは、久しぶりだった。
-----
その夜、ミアンはダリウスに伝えた。
城の図書室で、暖炉の前で。いつも二人で過ごす場所で。
「伝えたいことがあります」
ダリウスは本から顔を上げた。
「子供ができたようです」
彼は一瞬、動かなかった。
それから本をそっと閉じて、ミアンを見た。
「……本当か」
「はい。ウィリス老師に確認していただきました」
ダリウスは長い沈黙の後、ゆっくりとミアンのそばに来て、その両手を取った。
「ミアン」
「はい」
「お前が来てよかった」
それだけだった。しかしミアンには、それがこの世で最も美しい言葉のように聞こえた。
「私も」とミアンは言った。涙声になった。「ここに来てよかった。あなたに会えてよかった」
ダリウスはそっとミアンを引き寄せた。
大きな腕が、ミアンを包んだ。温かかった。
氷を操る腕が、こんなにも温かい。
窓の外では、春の夜の星が瞬いていた。雪は少しずつ溶け、川の音が遠くに聞こえた。
北の果ての城に、新しい命が宿った。
余命五年と言われた少年は、今、最も生を愛しいと感じていた。
-----
十ヶ月後の冬の始め、フォルスト伯爵家に一人の赤子が生まれた。
黒髪と銀髪が混ざったような、やわらかな灰色がかった髪を持つ子供で、目は父親譲りの金色だった。ミアンはその小さな体を抱いて、ただ泣いた。
「名前はどうする」とダリウスは隣でぶっきらぼうに聞きながら、しかし赤子から目を離せなかった。
「エリス、はどうでしょう」とミアンは言った。「この地に咲く花の名前から」
「エリス・フォルスト」とダリウスは言った。試すように、確かめるように。「いい名だ」
赤子は二人の声を聞いてか、ぱちりと目を開いた。金色の目が、まだ焦点の合わない視線で、何かを探すように動いた。
ミアンはその小さな顔を見ながら、胸の中に、これ以上望むものは何もないという感覚を覚えた。
——望んでいたものが、全部ここにある。
城の外では、今年最初の雪が降り始めていた。
北の果ての、氷の死神と呼ばれた伯爵の城に、小さな命の声が響いた。
その声は、城の石の壁に吸い込まれ、暖炉の温かさの中に溶け、永く永く、響き続けた。
天井に描かれた壁画の天使たちも、窓から溢れる白い陽光も、よく磨かれた大理石の床も、何もかもが色を失っていた。
周囲の視線が刺さる。
侯爵家の嫡男として、第二王子の婚約者として、長年かけて磨き上げてきた完璧な佇まいで、ミアンは正面を見据えた。銀髪が光を弾き、碧眼は静かに前を向いていた。その顔に浮かぶのは、穏やかな微笑みにも見えるし、感情を殺した仮面にも見える。
人々は言う。セルフィア侯爵家の長男は、美しいが冷たい、よくできた人形のようだと。
ミアンは、その評価を否定したことがない。否定する術を、誰も教えてくれなかったから。
「ミアン・セルフィア」
第二王子ライエンの声が、広間に響いた。ついに断罪が始まった。
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ミアンがドーラ・ナルミスに対して「いじめ」を行ったとされる証拠は、五点あった。
一、ドーラに向けて侮辱的な言葉を放ったとする侍女の証言。
二、ドーラの刺繍が台無しにされた件でミアンの指示があったとする証言。
三、ドーラが王宮の庭園で転倒した際にミアンが突き飛ばしたとする目撃証言。
四、ドーラの招待状が故意に差し止められた件。
五、ミアンがドーラについて否定的な発言を行ったとされる書簡の写し。
ライエン王子はそれらを一つ一つ読み上げ、最後にこう言った。
「ミアン。お前は婚約者の立場を利用して、罪もないドーラを苦しめた。王家の品位を傷つけた罪として、婚約を破棄し、王宮への立ち入りを禁じる。セルフィア家もこの件の責任を取るべく、爵位の一段降格を命ずる」
広間が静まり返った。
ミアンは一言も反論しなかった。
反論したところで、何も変わらないことを知っていた。すでに結論は出ていた。この断罪は、はじめからそういうものだった。
ドーラ・ナルミスはライエン王子の隣で、涙をそっとぬぐっていた。可憐な男爵令息で、亜麻色の巻き毛に紫色の瞳を持つ愛らしい青年だ。ミアンよりも三つ年下で、去年の晩餐会から突然王子の側に現れるようになった。
ミアンは彼を苦しめたつもりはなかった。
ただ、王子の婚約者として、社交界で相応しくない振る舞いをする者を少しばかり諌めた。それだけだった。あるいは、それは苦しめることと同じだったのかもしれない。自分では気づかぬうちに、冷たく鋭い言葉を使うことが多いと、言われてきたから。
黙っているのが一番だ。両親からずっとそう教わってきた。
Ωは美しくあれ。教養を持て。余計なことを喋るな。
ミアンは唇を結んだまま、礼をして踵を返した。
その背中に、誰一人として声をかけなかった。
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幼い頃から、ミアンの日常は学習と礼儀の繰り返しだった。
セルフィア侯爵家の嫡男として生まれ、五歳でΩだと判明した日から、両親の態度が変わった。正確には、「Ωとして価値ある存在になれ」という方向性に、教育が急激に傾いた。
この国ではΩは珍しい存在だった。千人に一人程度しか生まれないとされ、優秀なαとの間に優れた子を産む存在として重視されていた。だからこそ貴族のΩは、見目麗しく、教養があり、品位を保つことを求められた。
ミアンは確かにその素質があった。銀髪と碧眼という珍しい組み合わせは美しく、頭もよく、音楽も刺繍も語学も、教えればすぐに習得した。
だが習得するための過程は、決して楽ではなかった。
指先が震えるほど寒い冬の朝も、体調が優れない日も、練習は休めなかった。失敗すれば厳しい言葉が飛んだ。それだけではなく、指導者の手が飛ぶこともあった。白い美しいふくらはぎに刻まれた無数の鞭のあとは今も消えることはない。
「それが礼儀というものだ」と父は言った。「痛みを知らなければ、本物の淑やかさは身につかない」
ミアンは泣かなかった。泣いても何も変わらないことを、早々に学んだ。
弟のレオは、ミアンが九歳の時に生まれた。αとして生まれたレオは、両親の寵愛を一身に受けた。当然のことだった。αの男児は家を継ぎ、外で活躍する存在だ。ミアンはΩで、いずれどこかへ嫁ぐ。
そのことを、ミアンは恨んでいなかった。
ただ、少しだけ。
弟がはしゃぐ声や、父が笑う声が聞こえるたびに、なぜ自分はあの輪に入れないのだろうと、不思議に思った。
十四歳の時、第二王子との婚約が決まった。家中が沸いた。父も母も、珍しくミアンを褒めた。
「さすがだ、ミアン。お前を産んだ甲斐があった」
それが、両親に褒められた最初で最後の言葉だった、かもしれない。
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断罪の日から三日後、ミアンは屋敷に謹慎となった。
謹慎といっても、外出が禁じられているだけで、室内での生活は普段と変わらなかった。ただ、使用人たちの視線が変わった。憐れむような、あるいは値踏みするような目が、廊下ですれ違うたびに向けられた。
両親は面会に来なかった。
レオだけが一度訪ねてきた。まだ十三歳の弟は、ミアンの部屋の前でもじもじしながら言った。
「兄上、大丈夫ですか」
「大丈夫だよ」とミアンは答えた。「心配してくれてありがとう」
それだけの会話だった。レオは何か言いたそうにしていたが、何も言えないまま帰っていった。
謹慎から一週間が経った頃、ミアンは体の異変に気づいた。
疲れやすくなっていた。朝起き上がる時に、以前より力が要った。夜中に汗をかいて目が覚めることが増えた。最初は断罪の疲れと精神的な消耗だと思っていたが、二週間が経っても三週間が経っても、症状は良くなるどころか徐々に悪化していった。
食欲も落ちた。階段を上ると息が上がった。
ミアンは侍女に頼んで医師を呼んでもらった。
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医師はフォルタン老師といい、王都で長年開業している白髭の老人だった。彼はミアンの診察を終えると、長い沈黙の後、静かに口を開いた。
「白冷病でございます」
白冷病。ミアンはその名を知っていた。貴族の子弟向けの医学書に記載のある、希少な病だ。体内の熱を生み出す魔力の流れが徐々に滞り、最終的には体温を保てなくなる。完全に進行すれば、真夏でも体が冷え切って死に至る。
「完治はしないのですか」
「いいえ。治療法はございます。ただし——」
老師はそこで言葉を切り、視線を手元の鞄に落とした。
「月に一度、希少な薬草を用いた薬を服用し続けることが必要です。それに加え、定期的な魔法治療も。費用はかなりのものになります。継続して治療すれば、完全な回復も望めますが——治療を中断した場合は」
「寿命は」
ミアンは静かに聞いた。老師は目を伏せた。
「おそらく、五年ほどかと存じます。現在の症状の進行速度から見て」
五年。
ミアンは繰り返した。声には出さずに、心の中で。
五年。自分には、あと五年しかない。
「ありがとうございます」とミアンは言った。「費用の見積もりを書いてください。両親に相談します」
-----
両親の反応は、予想通りだった。
父は見積書に目を通してから、書類を机に置いた。
「そうか…」
母は窓の外を見ながら言った。
「どこまでも迷惑かけるわね。」
それだけだった。
ミアンは待った。続きの言葉を。援助の言葉を。あるいは、心配する言葉を。
何も来なかった。
「お力を貸していただけませんか」とミアンは言った。「治療を継続すれば、完全に回復できると医師が——」
「ミアン」と父が遮った。「お前は今、家に損害を与えた状態だ。爵位が下がった。我が家の財政も決して余裕があるわけではない」
「ですが——」
「それに」と母が振り返った。「お前はもう婚約を破棄された。次の婚約がまとまるかどうかも分からない状況で、多額の治療費を出す理由が——」
ミアンは何も言わなかった。
言葉が、出てこなかった。
喉の奥が詰まるような感覚があった。泣くつもりはなかった。泣かない。泣いたところで、何も変わらない。
「分かりました」とミアンは言った。「失礼します」
部屋を出て、廊下を歩いて、自室に戻って扉を閉めた。
ベッドに腰を下ろして、天井を見上げた。
五年。
両親は自分を助けてくれない。治療費は自力では賄えない。つまり自分には、あと五年しか生きられない。
不思議と、涙は出なかった。
ただ、胸の中心に、冷たい石が一つ落ちてきたような感覚があった。
-----
一ヶ月が経った頃、両親がミアンを父の書斎に呼んだ。
「話がある」と父は言った。そこには母と、若い男爵が一人いた。「ラウシェ男爵だ。縁談の仲介をしていただいた」
縁談。ミアンは静かに聞いた。
「フォルスト伯爵という方をご存じか」
「お名前は存じております」とミアンは答えた。知らない者はいない。北方の辺境を治める伯爵で、「北の死神」と呼ばれる戦闘の猛者だ。「氷を自由に操り、戦場では敵を皆殺しにする」などという物騒な噂が、王都にまで届いていた。
「フォルスト伯爵から婚約の申し出があった。お前をそちらへやることにした」
ミアンは一瞬、聞き間違いかと思った。
「婚約、ですか」
「正確には、婚姻だ。来月には先方の屋敷へ向かってもらう」
来月。ミアンは繰り返した。
「先方はなぜ、このような状況の私との婚姻を望まれているのでしょうか」
「それはこちらの知ったことではない」と父は言い、視線を外した。
ラウシェ男爵が咳払いをした。「フォルスト伯爵は結婚を望んでおられまして。ご縁談を探しておりましたところ、セルフィア家のご事情を伺い——」
「引き取ってくださると」とミアンは言った。
男爵が目を逸らした。父も母も、何も言わなかった。
つまりそういうことだ。婚約ではなく、体よく厄介払いをされるのだ。
ミアンは胸の奥で、また一つ石が落ちるのを感じた。しかし今度は、少しだけ形が違った。
悲しみではなく、奇妙な静けさだった。
「分かりました」とミアンは言った。「お受けします」
「ただし」と父が言い、書類を取り出した。「先方へ嫁ぐにあたり、お前の病気のことは一切口にしないこと。不良品を送り込んだと知られれば我が家の品位が下がるからな。フォルスト伯爵にも、先方の使用人にも。この契約書にサインをしてもらう」
ミアンは書類を見た。
魔法的拘束力を持つ契約書だった。この国の魔法師が作成できる、法的効力を持つ特殊な契約だ。違反すれば身体に直接苦痛が及ぶ。
ミアンは静かに羽ペンを取った。両親の決定は拒否することができない。
インクをつけて、サインをした。
手が、少しだけ震えた。
-----
自室に戻って、ミアンは窓の外を見た。
夕暮れの空は橙と紫が混じり合い、美しかった。こういう空の色を、誰かと一緒に見たいと思ったことが、昔あった。しかし婚約者であったライエン王子は、ミアンと並んで空を眺めるような人ではなかったし、両親もそういうことをしない人たちだった。
五年。
病気を治さなければ、あと五年しか生きられない。
両親は助けてくれない。そして今、北の果ての辺境へ、死神と呼ばれる伯爵のもとへ嫁ぐことが決まった。
ミアンは深く息を吸った。
このまま絶望するのは簡単だった。諦めて、ただ時間が過ぎるのを待つことも、できる。
でも。
——私には、夢があった。
子供が欲しかった。
小さな命を腕に抱いて、笑顔で「おかえり」と言えるような家庭を作りたかった。それがΩとしての役割だからではなく、ただ純粋に、自分がそれを望んでいた。
誰かに無条件で愛されることを、知りたかった。
ライエン王子との結婚でそれが実現できると信じていたわけでもなかった。でも、家族を持つことはできると、漠然と思っていた。
今でも、その夢は諦めたくない。
五年という時間がある。その間に、子供を授かることができれば——。
身勝手だとは分かっていた。相手である伯爵への配慮を欠いているとも分かっていた。
でも、これが今の自分にできる精いっぱいの希望だった。
辺境へ行こう。伯爵と向き合おう。できる限り誠実に、できる限り相手を思いやって、それでもこの夢だけは、諦めないでいよう。
ミアンは窓の外の夕空を、今度は少し違う目で見た。
橙色は、あたたかかった。
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出発の準備は一週間あまりで終わった。
持参できる荷物には制限があり、ドレス数着と日用品、書籍数冊が許された。嫁入り道具と呼べるものはほとんどなく、両親からの餞別の言葉もなかった。
レオだけが、前日の夜にミアンの部屋を訪ねてきた。
「兄上」と弟は言った。「本当に行ってしまうんですか」
「ええ」
「寂しくないですか」
ミアンは少し考えた。正直に答えるべきかどうか。
「寂しいとか、寂しくないとか、考える前に決まってしまったので」とミアンは言った。「でも、新しい場所で、新しい生活を始めるのは、少し楽しみでもあります」
嘘ではなかった。少しだけ、本当のことだった。
「兄上」とレオはもう一度呼んだ。「僕は——」
「レオ」とミアンは静かに遮った。「あなたが気にすることは何もないですよ。健やかに育ちなさい。それが私の望みです」
弟は何か言いかけて、飲み込んで、最後に「気をつけて」とだけ言った。
翌朝、質素な馬車が屋敷の前に停まった。セルフィア家の紋章もなく、護衛も最低限の、地味な旅仕度だった。両親は見送りに出なかった。
ミアンは一人で馬車に乗り込んだ。
馬車が動き出し、屋敷の門を出た時、ミアンは窓を開けて一度だけ振り返った。
見送る者は、誰もいなかった。
それでいい。ミアンは静かに思った。これが、私の旅立ちだ。そしてもう戻ることはないのだろう。
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フォルスト伯爵領は、王都から馬車で五日かかる北方の辺境にあった。
最初の二日は平野が続いた。麦畑と牧草地が広がる穏やかな景色だったが、三日目からは様相が変わった。木々が高く密集し、空気が冷えてきた。日が短くなり、夕方には吐く息が白くなった。
四日目の朝、目を覚ますと窓の外が白かった。
雪だった。
王都では春が終わり夏の入り口の季節なのに、ここにはまだ雪が残っていた。木々の枝に積もった雪が、朝の光を受けて静かに輝いていた。
ミアンは窓に手をついて、その景色をじっと見た。
寒かった。馬車の中でも分かるほどに、温度が下がっていた。白冷病を抱えた体には、この寒さは堪えるかもしれない。しかしその一方で、純白の雪景色には、ミアンの心を奪うような美しさがあった。
——これが、これからの私の世界。
五日目の昼過ぎ、馬車はフォルスト伯爵領の中心地にある村を抜け、さらに山の方へ向かった。雪がより深くなり、針葉樹の森が広がった。道は細くなったが、しっかりと踏み固められており、よく整備されていることが分かった。
「もうすぐでございます」と御者が告げた。
木々の間から、巨大な石造りの建物が見えてきた。
フォルスト伯爵の屋敷は、正確には「城」と呼ぶ方が相応しかった。高い石壁が聳え立ち、塔がいくつも天に向かって伸びていた。かつては軍事要塞として機能していたと聞いたことがある。今でもその面影は十分に残っていた。
冷たく、硬く、美しい城だった。
まるで、氷を固めて作ったような。
馬車が城門の前に停まった。
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出迎えたのは、老齢の執事と数名の使用人だった。
執事はウォルタと名乗り、白髪を丁寧に撫でつけた小柄な老人だった。物腰は穏やかで、ミアンを城に案内しながら要所を説明してくれた。
「旦那様はただいま不在でございます。明後日には戻られる予定ですので、それまでは屋敷に慣れていただければと存じます」
「ありがとうございます。伯爵はどちらへ」
「領内の巡回でございます。定期的に行われております」
案内された部屋は、城の東棟の二階にあった。石造りで天井が高く、寒々しい印象があったが、暖炉には火が入れられており、分厚い絨毯が敷かれていた。窓からは、雪に覆われた松林が見渡せた。
「ご不満な点がございましたら、何なりと」とウォルタは言った。
「いいえ、十分です。ありがとうございます」
ミアンはそう答えて、部屋に一人残された。
荷物を解きながら、窓の外の雪景色を見た。
静かだった。王都とは比べ物にならないほど静かで、聞こえるのは風の音と、時折遠く鳥の声だけだった。
ミアンはその静寂の中に、奇妙な安堵を感じた。
誰も見ていない。
初めて、一人でいることを「楽だ」と感じた気がした。
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伯爵が帰還したのは、翌々日の夕方だった。
ミアンは執事から告げられ、玄関ホールへ向かった。
扉が開き、冷たい外気と共に、ダリウス・フォルスト伯爵が入ってきた。
身長は高かった。ミアンより頭二つ分以上ある。肩幅が広く、鍛えられた体つきをしていることは、旅装姿からでも分かった。黒い長外套に、黒い手袋。雪が肩に積もっていたが、当人は気にしていない様子だった。
そして——黒髪に、金色の瞳。
その目が、ミアンを捉えた。
ミアンは反射的に姿勢を正し、礼をした。「ミアン・セルフィアと申します。このたびはお受け入れいただき、ありがとうございます」
完璧な礼儀だった。声も、立ち居振る舞いも、一点の隙もない。長年の教育の賜物だった。
伯爵はしばらくミアンを見ていた。
金色の目には、感情が読めなかった。冷たいとも、温かいとも、好奇心があるとも、ない。ただそこに、圧倒的な存在感があった。
「ダリウスだ」と彼は言った。声は低く、簡潔だった。「まあ、ゆっくりしろ」
それだけ言うと、ミアンの横を通り過ぎて奥へ歩いていった。
ミアンは彼の背を見送った。
確かに、噂通りの人物だと思った。冷たく、気難しそうで、言葉が少ない。しかし同時に、ミアンには分かった。
あの人は、悪い人ではない。
根拠はなかった。ただ、そう感じた。
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フォルスト伯爵家での生活は、ミアンが予想していたものとは少し違った。
怖い人と聞いていたダリウスは、確かに寡黙で近寄りがたい雰囲気があった。食事の席でも言葉数は少なく、領地の報告書や書簡を読みながら食べることが多かった。しかし、ミアンに対して直接的に冷たくするということはなかった。
ただ、興味がなさそうではあった。
婚約者として扱っているというより、客人として扱っているような距離感だった。同じ食卓につくが、必要以上の会話はない。廊下ですれ違えば目礼する程度。それが日常だった。
ミアンはそれで構わないと思った。むしろ、余計な干渉がない分、自分らしく過ごせる気がした。
朝は早起きをして、城の図書室で本を読んだ。フォルスト家の蔵書は軍事や魔法に関するものが多かったが、歴史書や植物図鑑なども揃っていた。ミアンは特に植物の本に興味を持った。北方特有の植物が多く載っており、その中に薬草の項目もあった。
午後は裁縫や刺繍をした。王都にいた頃は義務として行っていたが、ここでは誰に見せるわけでもなく、ただ自分のためにやっていた。
そして夕方には、窓から雪景色を見た。
雪は毎日降った。強い日も、細かく降る日も、全く降らず青空が広がる日も。雪の降り方一つで、空の表情がこれほど変わるのかと、ミアンは少し驚いた。
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変化が起きたのは、屋敷に来て十日ほど経った頃だった。
夕食後、ミアンは図書室で本を読んでいた。暖炉の火が心地よく、眠気を感じながらページをめくっていたところに、不意に扉が開いた。
ダリウスだった。
彼は入ってきてから、ミアンが座っているのを見て少し止まった。
「使っていたか」
「あ——いいえ、お邪魔でしたら」
「いい。俺も少し読むだけだ」
彼は奥の棚から迷いなく一冊取り出すと、向かいの椅子に腰を下ろした。
二人は同じ火の前で、それぞれの本を読んだ。
しばらくして、ダリウスが言った。「何を読んでいる」
「植物図鑑です。この地域の薬草の項が面白くて」
「薬草に興味があるのか」
「少し、はい。植物を育てるのが好きなので」
ダリウスはちらりとミアンを見た。「意外だな」
「そうでしょうか」
「王都の貴族が、薬草などに興味を持つとは思わなかった」
ミアンは少し考えた。「植物は正直です。日を当てて、水をやって、適切な環境を整えれば、ちゃんと育ちます。嘘をつかないし、見栄を張らない。それが好きで」
ダリウスは何も言わなかった。しかし、ミアンの方を向いていた視線が、少しだけ柔らかくなったような気がした。
気のせいかもしれない。
その夜は、それ以上の会話はなかった。
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「あの、一つお願いがあるのですが」
翌朝、ダリウスが朝食をとっている最中に、ミアンは切り出した。
彼は顔を上げず「何だ」と答えた。
「城の裏手に、使われていない庭があると聞きました。そこを少し使わせていただけないでしょうか。雪が積もっていますが、温室に改修できれば、薬草や野菜を育てられるかと思って」
ダリウスはようやく顔を上げた。「温室を作りたいのか」
「費用はなるべくかけないよう、工夫します。材料の調達なども自分でできることはしますので——」
「費用のことはどうでもいい」と彼は遮った。「やりたいなら好きにしろ。ウォルタに言えば人員も出す」
ミアンは少し驚いた。断られるかと思っていた。
「ありがとうございます」
ダリウスは再びパンを手に取り、視線を書類に戻した。しかしその横顔が、ほんの少しだけ、何かを考えているように見えた。
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温室の改修は、思いのほか楽しかった。
城の裏手に放置されていた古い倉庫を転用することになり、ウォルタが手配した職人が壁に採光窓を設け、床に石を敷いた。ミアンは設計に口を出し、棚の配置を考え、必要な道具のリストを作った。
完成まで二週間かかったが、その間毎日現場を見に行った。職人たちとも少しずつ言葉を交わした。最初は「お嬢さん」「あの方はいつも静かだ」などと陰で言われていたが、ミアンが設計の意図を丁寧に説明したり、差し入れの菓子を持っていくうちに、打ち解けていった。
「よく喋る人だったんですね」と若い職人が驚いたように言った。
ミアンは少し苦笑した。「そうでしょうか」
「遠くから見てると、氷みたいだと思ってたんですが」
氷。ミアンは内心で笑った。自分が「氷のようだ」と評される一方で、城の主は「北の死神」と呼ばれている。
二人の氷が、一つ屋根の下に住んでいる。
おかしなことだと思った。しかし、どこか居心地が悪くはなかった。
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ある日の夕方、温室の棚に鉢を並べていたところ、不意に後ろに気配を感じた。
振り返ると、ダリウスが扉の前に立っていた。
「邪魔したか」
「いいえ」
彼は温室の中に入ってきた。棚の鉢を一つ一つ眺め、ミアンが丁寧に書いたラベルを読んだ。
「これは全部、薬草か」
「多くはそうです。あとは食用の葉野菜と、少しだけ花を」
「花か」
「見てもいいだけの余裕があれば、育てたくて」
ダリウスは一番端の鉢の前で立ち止まった。まだ発芽したばかりの小さな芽が、いくつか土から顔を出していた。
「これは」
「ハゼリソウです。春に白い花を咲かせます。この地域でも育つかどうか試しているところで」
「雪の中でか」
「室内ですし、工夫次第で」
ダリウスはしばらく芽を見ていた。
「うまくいくといいな」
それだけ言って、彼は温室を出ていった。
ミアンはその後ろ姿を見ながら、なぜか胸が少しだけあたたかくなるのを感じた。
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季節はいつの間にか、夏の盛りを過ぎようとしていた。
この地域では「夏」と言っても、雪が若干薄くなる程度だ。空気は相変わらず冷たく、屋外を歩けば吐く息は白い。それでも、日の光は長くなり、午後の温室には柔らかな日差しが差し込むようになった。
薬草たちは順調に育っていた。
ハゼリソウはまだ花をつけていなかったが、葉が広がり、生き生きとしていた。ミアンは毎日水をやり、土の状態を確認した。弱った株には追肥を施し、光の当たり方を調整するために棚の向きを変えた。
ウォルタが時々様子を見に来ては、「旦那様もよく覗いておられますよ」と言った。
「伯爵が?」とミアンは驚いた。
「ええ。早朝、旦那様がご自分で水をやっておられるのを見ました」
ミアンは少し間を置いた。「伯爵は植物がお好きなのですか」
「さあ。以前はそんなご様子はなかったんですが」とウォルタは言い、にこりとした。「何かきっかけがあったのでしょう」
ミアンはそれ以上聞かなかった。
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ダリウスとの会話が、少しずつ増えていった。
きっかけはたいてい、食事の席や図書室での何気ないやり取りだった。植物の話、領地の話、北方の気候の話。ダリウスは口数が少なかったが、ミアンが話すと必ず聞いていた。相槌を打つわけでもなく、ただ静かに聞いた後で、短く何かを言った。
その短い言葉には、意外なほど中身があった。
「王都ではどんな生活をしていたのか」とある日聞かれた。
「勉強と礼儀の練習を、毎日。王子の婚約者として恥ずかしくないよう」
「楽しかったか」
ミアンは少し考えた。「楽しいというより、それが当然のことだと思っていました。やらなければならないこととして、こなしていたので」
「今は楽しいか」とダリウスは続けた。
ミアンは思わず、ちょっと笑ってしまった。「温室の植物を育てている時は、楽しいと思います。本を読む時も。ここは静かで、好きです」
「ここが」ダリウスはわずかに眉を上げた。「辺境が好きか」
「はい。空が広くて、雪が綺麗で。王都より好きかもしれません」
ダリウスはしばらく黙っていた。それから、ほんの少し、表情が緩んだような気がした。
「そうか」
それだけだったが、ミアンにはそれで十分だった。
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ある夜、城の外が嵐になった。
北方特有の猛吹雪で、窓が激しく揺れ、風の音が唸った。暖炉の火を大きくしてもらったが、それでも部屋の隅は冷えた。
ミアンは毛布を肩にかけて本を読んでいたが、寒さと疲れが重なり、うとうとしかけた時、部屋の扉がノックされた。
「入るぞ」ダリウスの声だった。
「はい」とミアンは答えた。
彼は分厚い布の包みを持って入ってきた。「これを持ってこい、と料理長に言われた。嵐の夜は使うといい、とのことだ」
包みを開くと、羽毛を詰めた大判の上掛けだった。分厚くて重く、触れると柔らかかった。
「ありがとうございます」とミアンは言った。「伯爵は、このような嵐は慣れておられるのですか」
「慣れている。生まれた時からこの地にいる」
「そうでしたか。ずっとここで」
「ああ」と彼は言い、しかしなぜか、出ていく気配を見せなかった。「眠れそうか」
「おそらく」
「嵐は明朝まで続く。屋根の一部が古いから、万が一の時は声をかけろ」
「分かりました」
ダリウスはそこで出ていくかと思いきや、壁際の椅子に腰を下ろした。「少し座っていてもいいか」
ミアンは意外に思ったが、「どうぞ」と言った。
二人は嵐の音の中で、また並んで静かに過ごした。
ダリウスは目を閉じていた。眠っているのか、ただ休んでいるのか分からなかった。ミアンは彼の横顔を、こっそり見た。
近くで見ると、顔の造りが整っていることが分かった。彫りが深く、引き締まった顎のラインが、暖炉の光の中に浮かんでいた。戦場で「死神」と恐れられる人が、こんなふうにただ静かにとなりに座っているとは、誰が想像するだろう。
ミアンはそっと視線を戻して、本のページをめくった。
嵐の夜は、そのままゆっくりと更けていった。
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白冷病の症状は、波があった。
調子のいい日は、何ともない。寒いとも感じず、普通に動ける。しかし調子の悪い日は、体の芯から冷えるような感覚があり、疲れやすく、酷い頭痛を伴った。
ミアンは調子の悪い日を、できる限り悟られないようにした。
部屋に閉じこもって本を読む、と言えば誰も不審に思わなかった。食欲のない日は、少し体調が、と言えば料理人がスープを作ってくれた。使用人たちは親切で、ミアンを気にかけてくれたが、根掘り葉掘り聞くような人はいなかった。
ダリウスは——気づいていないと、ミアンは思っていた。
彼は観察眼の鋭い人だと感じていたが、ミアンは長年の訓練で表情を制御することに慣れていた。痛みを顔に出さない術は、幼い頃からの体罰の中で、いつの間にか身についていた。
それでも、いつか限界が来ることは分かっていた。
この病気は、放置すれば確実に進行する。
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「ミアン」
ある日の昼下がり、図書室でダリウスに呼ばれた。
「今日の午後、少し外に出るが、一緒に来るか」
「外に、ですか」
「領内に、野生のハゼリソウが群生している場所がある。見に行こうと思って」
ミアンは少し驚いた。ハゼリソウ——温室で育てている植物の話を、覚えていてくれたのだ。
「行きます」と即答した。
厚着をして外に出ると、空は晴れており、雪の上に青白い光が弾けていた。ダリウスは馬で、ミアンは馬の前に乗せてもらった。彼の腕が後ろからミアンを支え、馬が雪の中を静かに歩いた。
森の中に入ると、木々の合間に光が差し込んだ。
「あそこだ」とダリウスが低い声で言った。
見ると、雪の中に白い花が咲き乱れていた。ハゼリソウの群生だった。雪の中から白い花びらが顔を出している様子は、まるでこの世のものとは思えないほど美しかった。
ミアンは思わず声を出した。
「綺麗——」
それだけ言った。言葉は他に出てこなかった。
ダリウスは何も言わなかった。ただ、その場に静かにいた。
ミアンは雪の中のハゼリソウを眺めながら、胸の奥に熱いものが湧くのを感じた。
誰かと一緒に、綺麗なものを見ている。
それだけのことが、こんなにも嬉しいと思ったことが、今まであっただろうか。
「ありがとうございます」とミアンは言った。「連れてきてくださって」
「温室のが咲いた時に比べるものがあった方がいいと思った」
「伯爵は、優しいのですね」
ダリウスは少し黙った。「そんなことを言われたのは初めてだ」
「本当ですか」
「俺のことを優しいと言う者はいない。たいていは怖いか、冷たいかだ」
「怖くはないです」とミアンは言った。正直に。「ここに来た時は少し緊張しましたが、今は全然」
「怖くないのか」
「はい」
ダリウスはしばらく間を置いた。
「なぜ」
「分かりません」とミアンは正直に答えた。
「ただ、そう思います。言葉は少なくても、行動が、その人の本心を表しているように思うので」
ダリウスは何も言わなかった。
馬の足元の雪が、きらきらと光っていた。
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秋が深まった。
この地では秋と冬の区別がつきにくいほど似ているが、空気の質が少し変わった。乾燥が強まり、雪が細かく硬くなった。風が鋭くなった。
ミアンの体調は、徐々に悪化していた。
朝が特に辛かった。起き上がるのに、以前より時間がかかった。食欲は落ち、味がよく分からない日があった。温室の作業をすると、夕方には疲れ果てて動けなくなった。
それでも、悟られないようにした。
ある朝、廊下で壁に手をついた時、後ろから足音が近づいてきた。
「ミアン」
ダリウスだった。彼はミアンのすぐ後ろに立ち、その顔を見ていた。
「顔色が悪い」
「少し寝不足で。昨夜は風が強かったので」
「嵐ではなかった」
「ええ、でも風の音が——」
「医師を呼ぼうか」
ミアンは首を振った。「大丈夫です。しばらくすれば良くなります」
ダリウスは何か言いたそうな顔をしたが、押し通すように言わなかった。ただ、「分かった」と短く言って、自分の部屋の方向へ歩いていった。
しかしその夕方、使用人が部屋に来て、「旦那様から」と言いながら、滋養のある薬湯と、保温効果の高い特別な膏薬を渡してくれた。
ミアンはその薬湯を見て、少しだけ胸が痛くなった。
——ありがとう、旦那様。でも、これでは治らない。
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ある夜、夢を見た。
子供が笑っていた。小さな手が、ミアンの指を握っていた。
子供の顔は見えなかったが、その笑い声は温かくて、ミアンはその声を聞きながら泣いていた。夢の中で、自分が泣いていることは分かった。しかしなぜ泣いているのかは、分からなかった。
嬉しくて泣いているのか、悲しくて泣いているのか。
目が覚めた時、頬に涙の跡があった。
ミアンは天井を見上げた。
子供を産みたい。その夢は、まだ持っていた。しかし、このまま体が弱っていけば——自分は子供を産める体でいられるのだろうか。
今のダリウスとの関係は、友人に近かった。婚約者という形ではあったが、まだ夫婦としての関係には至っていなかった。ミアンからそれを求める勇気は、まだなかった。
これ以上悩むより、今日を大切にしよう。
ミアンは起き上がって、窓を開けた。
外は白かった。吐く息が白くなった。しかしその白さが、今は嫌いではなかった。
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「一つ聞いてもいいか」
ある日の夕食後、ダリウスが珍しく先に口を開いた。
「はい」
「お前は、この婚姻をどう思っている」
ミアンは少し驚いた。直接的な問いだった。
「どう、とは」
「俺との生活が、苦痛ではないか」
ミアンはしばらく考えた。正直に答えるべきかどうか、ではなく、どう正直に言葉にするかを考えた。
「苦痛ではないです」とミアンは言った。「むしろ——ここでの生活は、今まで生きてきた中で、一番穏やかだと思っています」
「本当に」
「はい」
「俺はお前に、何もしてやれていない」
「そんなことはありません」ミアンは首を振った。「温室を使わせてもらって、植物を育てられています。図書室の本も自由に読めます。ハゼリソウの群生も見せてもらいました。雪の中で咲く花を誰かと見たのは、あれが初めてでした」
ダリウスは少し間を置いた。「そんなことでいいのか」
「私にとっては、十分以上のことです」
彼はしばらく黙っていた。暖炉の火が、パチリと音を立てた。
「ミアン」とダリウスは言った。「俺は、お前のことをもっと知りたいと思っている」
ミアンは目を上げた。
ダリウスの金色の瞳が、真っすぐミアンを見ていた。それは、ミアンが今まで見たことのない表情だった。冷たくも、無関心でもなく——温かい何かが、そこにあった。
「私も」とミアンは言った。声が、少し揺れた。「伯爵のことを、もっと知りたいです」
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それからの日々は、少し変わった。
食事の時間が長くなった。二人とも食べ終わっても、そのまま話し続けることが増えた。ダリウスは昔のことを話すようになった。父親が厳しい人で、幼い頃から戦闘の訓練をさせられたこと。氷の魔法は生まれた時から強く、制御するのが難しかったこと。この城が、小さい頃から好きだったこと。
ミアンも、少しずつ話した。
両親のこと。弟のこと。ライエン王子との婚約がどんなものだったか。教育の厳しさ。しかし自分が諦めたくなかったもの——植物のこと、静かな時間のこと、いつか家族を持ちたいという夢のこと。
最後の話をした時、ダリウスはじっとミアンを見ていた。
「家族か」
「はい。漠然とした夢ですが」
「漠然としていない」とダリウスは言った。「お前の目が、そこだけ違う光り方をする」
ミアンは少し驚いた。
「そうですか」
「ああ」
彼はそれ以上言わなかったが、ミアンは不思議と恥ずかしくはなかった。
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冬が本格的に始まった。
ある朝、ミアンは目を覚ますと、体に力が入らなかった。
それ自体は珍しくなかった。しかし今日は特に程度がひどく、ベッドから出ようとした途端に眩暈がした。壁に手をついて数歩歩き、そこで力が抜けた。
床に座り込んだ。
冷たい石の床に手をつき、息を整えようとした。しかし息が上手く入ってこない。体の芯が冷えていた。真冬の屋外に、何時間も裸でいるような感覚だった。
(大丈夫。少しすれば落ち着く)
そう思っていた。
しかし今日は、落ち着かなかった。
意識が遠のきかけた時、扉が開いた。
「ミアン——」
駆け寄る足音。ダリウスの声。それからミアンは、自分の体が床に崩れ落ちるのを感じながら、意識を手放した。
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目が覚めた時、ベッドにいた。
暖炉の火が大きくされており、部屋は暖かかった。毛布が何枚も重ねられていた。
「目が覚めたか」
ダリウスが椅子に座って、こちらを見ていた。
「……すみません、ご心配をおかけして」とミアンは言おうとした。しかし声が掠れた。
「医師を呼んだ」
ミアンは固まった。
「城に常駐している医師だ。一通り診てもらった」
「……何か」
ダリウスは真っすぐミアンを見た。
「俺は、この城にいる者全員の健康を管理する義務がある。だから医師には、考えられる病名を全部挙げるよう命じた」
ミアンは黙っていた。
「白冷病だという診断が出た」とダリウスは言った。声は静かだった。
「症状と、診察の所見から、ほぼ間違いないと」
ミアンは天井を見た。
魔法的契約書の存在が、体の中で重く感じられた。余命のことは口にできない。それでも、何かを言わなければならない気がした。
「知っていたのか」とダリウスは続けた。怒鳴ることも、責めることもなかった。ただ静かに聞いた。
「……はい」
一言答えた途端、胸の奥で何かが裂けるような感覚がした。
「いつから」
「ここへ来る前から」
沈黙が落ちた。長い沈黙だった。
「なぜ言わなかった」
ミアンは喉に力を入れた。
「事情があって、言えなかったのです。詳細は——言えないのですが」
「言えない、というのは?」
「魔法的拘束のある契約を、交わしていて」
ダリウスの顔が変わった。静かな表情の奥で、何かが動いた。「誰と」
ミアンは黙った。
「……お前の家族か」
答えなかった。しかしそれが答えだった。
ダリウスは立ち上がり、窓の方へ歩いた。背を向けたまましばらく動かなかった。
ミアンは彼の背を見ながら、心の中で謝った。
言えなくてごめんなさい。だまして、ごめんなさい。
「余命は」とダリウスが言った。振り返らないまま。
ミアンは一瞬、迷った。余命のことを「言わないよう」と契約書には書かれていた。
しかし、それ以上、隠していることに耐えられなかった。
「……五年と、言われました。治療を続ければ完治できると、でも費用が多くかかるため」
「治せるのか」とダリウスは素早く振り返った。
「理論上は。ただ高価な薬と魔法治療が必要で——」
「それだけか」
「…はい」
ダリウスは一瞬だけ目を閉じた。それから扉の方へ歩き始めた。
「待っていろ」と彼は言った。「俺が何とかする」
「そんな——」
「待っていろ」
それだけ言って、彼は部屋を出た。
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その夜、ミアンは眠れなかった。
天井を見ながら、ダリウスの顔を思い出した。怒っているのか、悲しんでいるのか、呆れているのか——あの表情の読めない男の、何かを決意したような目を思い出した。
俺が何とかする。
そんなことを言ってくれる人が、今まで自分の人生にいただろうか。
両親は、ミアンを「何とかしてくれる」立場にありながら、何もしなかった。ライエン王子は、ミアンを断罪した。
ダリウスは、隠されていたことを知った上で、怒鳴ることも詰ることもなく、「俺が何とかする」と言った。
ミアンは目を閉じた。
泣かないようにしようと思ったが、目頭が熱くなった。泣いてもいいかどうか分からなかったが、体が勝手に反応した。
静かに、ゆっくりと、涙が流れた。
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三日後、ダリウスが部屋に来た。
「ウィリス薬師を呼んだ。王都でも随一の薬師で、白冷病の研究をしている人物だ。明日には着く」
ミアンは目を見開いた。「王都から?」
「王都でも特急の馬便を使えば数日だ」ダリウスは当然のように言った。「治療方針を確認してもらう。薬の手配は俺がする。費用は俺が出す」
「そんな——私は、伯爵の財産を——」
「俺の財産の使い道は俺が決める」と彼は遮った。「お前が心配することではない」
「でも——」
「ミアン」
名を呼ばれた。静かな声だったが、有無を言わせぬ重みがあった。
「俺はお前に、ここで死んでほしくない」
ミアンは言葉を失った。
ダリウスは真っすぐ、ミアンを見ていた。金色の瞳に、いつもの冷たさはなかった。
「俺が何とかすると言った。それはそういう意味だ」
ミアンの喉が詰まった。何か言おうとしたが、言葉が出なかった。
「……なぜ」とようやく言えた。「なぜ、そこまで」
ダリウスはしばらく黙っていた。
「理由が必要か」
「……普通は、必要だと思います」
「そうか」と彼は言い、一度だけ視線を外した。「なら——お前に生きていてほしいから、だ」
それだけ言って、彼はまた部屋を出た。
ミアンはその後、しばらく動けなかった。
胸の奥が、じわじわとあたたかくなっていた。
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ウィリス薬師は、七十代の小さな老婦人だった。
白髪を厳しく束ね、丸い眼鏡をかけ、皺の刻まれた手で丁寧に診察をした。ミアンの体を触れて確認し、魔力の流れを計測する特殊な道具を当て、長い時間をかけて状態を評価した。
「白冷病、それも中期から後期の入り口ですね」と老婦人は言った。「放置していれば、三年以内に急速に悪化したでしょう。よく今まで気づかれなかったものです」
「気づいていましたが、対処ができなかったのです」とミアンは答えた。
老婦人はじっとミアンを見た。それから、視線をダリウスに移した。
「治します。ただし、定期的な治療と投薬を最低でも二年は続けること。その間、激しい体への負荷は禁物です。しかし二年が経過し、状態が安定すれば、完全回復の見込みは高い」
「必要なものは全て用意する」とダリウスが言った。「費用も手段も」
「そうですね」と老婦人は言い、また眼鏡の奥でミアンを見た。「あなたには、こんなにも生きていてほしいと思う人がいるのです。治療頑張りましょうね」
ミアンはダリウスを見た。
彼は窓の外を見ていて、表情は見えなかった。しかし耳の先が、わずかに赤くなっていた。
「……はい」とミアンは言った。「いるかもしれません」
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治療は月に一度、ウィリス薬師が城を訪問する形で行われることになった。
薬は複数種類あり、ウィリス老師が用意したものと、ダリウスが北方の山に自生するという薬草を採取して補うものがあった。北方の山にはΩの白冷病に効く希少な薬草が数種類自生しており、ダリウスの領内の山は特にその宝庫だという。
「偶然ではないと思いますよ」
ウィリス老師は言った。
「この土地の魔力の質が、体を守る働きがある。よく選ばれましたね、あなたの住処として」
ミアンはそれを聞いて、静かに笑った。
死神の城が、自分の病を癒す場所だった。
皮肉ではなく、その奇妙な縁を、なぜかとても嬉しいと感じた。
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治療を始めて二ヶ月が経った頃、少しずつ変化が出てきた。
朝の眩暈が減った。食欲が戻った。温室での作業をしても、夕方まで体が持つようになった。
ハゼリソウが、冬の終わりに白い花を咲かせた。
温室の中で、小さな白い花が十数個、いっせいに開いた。ミアンはその前でしゃがみ込んで、一つ一つの花をじっくりと見た。
「咲いたか」
振り返ると、ダリウスが温室の入口に立っていた。
「はい。雪の中のものと比べると、少し小さいですが」
「充分きれいだ」
彼は中に入ってきて、ミアンの横にしゃがんだ。
二人で、小さな白い花を見ていた。
「ダリウス」とミアンは言った。
「ん」
「感謝しています。治療のことだけでなく——ここでの時間全部を」
ダリウスは花を見ながら、少し間を置いた。
「俺も」と彼は言った。「お前が来てから、この城が変わった」
「変わった?」
「うまく言えないが——あたたかくなった気がする。ここが」
ミアンは胸の奥が、じわりと溶けるような感覚を覚えた。
「ダリウス」
「何だ」
「私、あなたのことが好きです」
言ってしまってから、ミアンは少し驚いた。自分でも気づかないうちに、言葉が出ていた。慌てて取り消そうとしたが、ダリウスが先に言った。
「知っている」
「……え?」
「知っていた、というか、俺も——」彼は一度言葉を切り、珍しく視線を外した。「そう思っている。お前のことが、好きだ」
ミアンは何も言えなかった。
ダリウスがゆっくりこちらを向いた。金色の瞳が、暖かい光の中で、温かく輝いていた。
「正式な婚姻をしたい」と彼は言った。「お前と、ちゃんと夫婦になりたい。その前に——怖くないか?俺のことが」
「怖くない」とミアンは即座に答えた。
「最初からそう思っていました」
ダリウスは少し目を細めた。それが、ミアンが初めて見る彼の笑顔だった。
不器用で、照れくさそうで、しかし確かに温かい笑顔。
ミアンも笑った。
温室の白い花が、二人の間でそっと揺れた。
-----
春の終わり、二人は正式に婚姻の儀を行った。
城の礼拝堂で、使用人たちとウィリス老師が見守る中、静かな式だった。
ミアンは白いドレスを着た。銀髪に小さな花冠をつけた。ダリウスは珍しく礼服を着て、いつもの黒装束ではなく濃紺のコートを纏っていた。
誓いの言葉を交わす時、ダリウスの手がミアンの手を握った。
大きくて、温かい手だった。
氷を操る手が、こんなに温かいなんて、とミアンは思った。
「ミアン・フォルスト。よろしく頼む」とダリウスは言った。
「ダリウス様こそ」とミアンは答えた。
使用人たちから小さな拍手が起きた。
-----
一年が経った。
北方の城に、春が訪れた。
フォルスト伯爵領は一年中雪の地だが、それでも春には雪の解ける場所がある。城の南向きの庭に、去年ミアンが種を蒔いた花が、今年は地面から顔を出した。白い花、紫の花、柔らかな黄色の花。
ミアンはその庭に立って、花を見ていた。
「ミアン、外は冷える」
後ろからダリウスの声がした。振り返ると、彼が分厚い外套を持って立っていた。
「大丈夫です。少しだけ」
「少しだけ、が長い」と彼は言いながら、外套をミアンの肩にかけた。「ウィリス老師が、無理はするなと言っていた」
「無理はしていません」とミアンは言った。「ただ、花を見ていただけです」
ダリウスはミアンの横に立ち、庭を見た。
「よく咲いた」
「ええ」
二人は並んで、春の庭を眺めた。
ミアンの体調は、著しく改善していた。ウィリス老師によれば、「回復が思いのほか早い」とのことで、あと半年ほど治療を続ければ、完全回復の見込みが立っていた。
北方の土地の魔力が、確かに体に良い影響を与えているのだと言われた。そしてもう一つ——αの愛情が、Ωの体に安定をもたらすという古い研究があると、老師は静かに笑いながら教えてくれた。
「ダリウス」
「何だ」
「春が来ましたね」
「来た」
「去年の今頃は、馬車でこちらへ向かっていました。雪を初めて見て、綺麗だと思って」
「一年前か」
「はい。あの時は——」ミアンは少し間を置いた。「もっと孤独だったと思います」
ダリウスがちらりとミアンを見た。
「今は?」
ミアンは彼を見上げた。
「今は、あたたかいです」
ダリウスは何も言わなかった。ただ、ミアンの肩にかけた手が、少しだけ力を込めた。
それだけで十分だった。
庭の花が、春風に揺れた。
-----
ある朝、ミアンはウィリス老師に診察を受けた後、静かな声で告げられた。
「おめでとうございます」
ミアンはしばらく、その言葉の意味を理解できなかった。
「子を授かっておられます。まだ初期ですが、状態はとても良好です」
ミアンは手を口に当てた。
目頭が熱くなった。
ずっと夢見ていたことが——子供を持ちたいという、身勝手かもしれないけれど諦めきれなかった夢が、今ここに、現実として存在していた。
「……本当、ですか」
「本当です」とウィリス老師は優しく言った。「あなたは、よく頑張りましたね」
その言葉で、ミアンの目から涙が溢れた。
声を上げて泣いたのは、久しぶりだった。
-----
その夜、ミアンはダリウスに伝えた。
城の図書室で、暖炉の前で。いつも二人で過ごす場所で。
「伝えたいことがあります」
ダリウスは本から顔を上げた。
「子供ができたようです」
彼は一瞬、動かなかった。
それから本をそっと閉じて、ミアンを見た。
「……本当か」
「はい。ウィリス老師に確認していただきました」
ダリウスは長い沈黙の後、ゆっくりとミアンのそばに来て、その両手を取った。
「ミアン」
「はい」
「お前が来てよかった」
それだけだった。しかしミアンには、それがこの世で最も美しい言葉のように聞こえた。
「私も」とミアンは言った。涙声になった。「ここに来てよかった。あなたに会えてよかった」
ダリウスはそっとミアンを引き寄せた。
大きな腕が、ミアンを包んだ。温かかった。
氷を操る腕が、こんなにも温かい。
窓の外では、春の夜の星が瞬いていた。雪は少しずつ溶け、川の音が遠くに聞こえた。
北の果ての城に、新しい命が宿った。
余命五年と言われた少年は、今、最も生を愛しいと感じていた。
-----
十ヶ月後の冬の始め、フォルスト伯爵家に一人の赤子が生まれた。
黒髪と銀髪が混ざったような、やわらかな灰色がかった髪を持つ子供で、目は父親譲りの金色だった。ミアンはその小さな体を抱いて、ただ泣いた。
「名前はどうする」とダリウスは隣でぶっきらぼうに聞きながら、しかし赤子から目を離せなかった。
「エリス、はどうでしょう」とミアンは言った。「この地に咲く花の名前から」
「エリス・フォルスト」とダリウスは言った。試すように、確かめるように。「いい名だ」
赤子は二人の声を聞いてか、ぱちりと目を開いた。金色の目が、まだ焦点の合わない視線で、何かを探すように動いた。
ミアンはその小さな顔を見ながら、胸の中に、これ以上望むものは何もないという感覚を覚えた。
——望んでいたものが、全部ここにある。
城の外では、今年最初の雪が降り始めていた。
北の果ての、氷の死神と呼ばれた伯爵の城に、小さな命の声が響いた。
その声は、城の石の壁に吸い込まれ、暖炉の温かさの中に溶け、永く永く、響き続けた。
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