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第一章
夜の闇のなかを走る
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わたしが一体何をしたって言うんだろう。
ルカは夜の闇の中を走っていた。
ひらひらしたレースが足にまとわりつくのも構わず、ひたひたと裸足の足裏が石畳を打つ音を響かせながら、ただひたすらに走っていた。
真っ白だった衣装の裾はすでに真っ黒だ。頭につけられていたベールは途中で投げ捨てた。どうせならそのベールで裸足の足をくるめばよかったとすぐに気がついたが、取りに戻る余裕はない。
王都はしんと静まり返っていた。
聖バッケル王国の中枢都市。中央に聳える王宮を取り囲む形で広がっている。ずっと王宮付き奴隷として暮らしてきたルカだが、すぐそこにある王都に出ることは許されず、今まで王都の街並みを見たことはなかった。
ルカの想像では、まだ見ぬ王都は真夜中でも賑やかにさざめく街だった。当初の目論見では、その賑々しい街並みに悠然と溶け込んで、王宮から、王都からさよならするつもりだった。
けれどこの辺りは王都でも繁華な場所からは離れているらしい。
初めて見る王都の街並みに、左へ行けばいいのか。右へ行けばいいのか。それとも真っ直ぐ進めばいいのか。
どの方向へ向かえば最も追っ手を引き離せるのかもわからぬままに、時々振り返っては月明かりのもと、煌々と照らされた一際荘厳で真っ白な王宮を背に走っていることだけを確認する。
なぜこんな目に遭わなければならない。
静かな街並みに、ルカの荒い呼気が静寂を乱す。
傷を負った背中と大腿が悲鳴をあげている。つつうと背中と大腿から血が流れ出し、肌を伝う。
痛みは限界で、もはや感覚もおかしくなりつつある。
でも不思議と神経だけは研ぎ澄まされていた。
辺りを注意深く観察し、追っ手が迫っていないことを確かめる。今のところ、ルカを追ってきているであろう王宮騎士団の影も形も見えない。それなのに今にも目の前に建ち並ぶ家の扉が開き、軍服を着た騎士団が出てくるのではないか。
そんな恐怖に近い妄想に襲われ、足が恐怖で止まりそうになる。
止まるな、ルカ。
恐怖で萎えそうになるたび、ルカは自分を鼓舞した。
絶対につかまるわけにはいかない。もし連れ戻されれば、どんな目に遭わされるか。殺されるだけではすまないはずだ。
想像するだけで恐怖が駆け上がり、ごくりとつばを飲んだその時。
右手前、石造りの家の扉が開いた。
「……っ…」
つい今しがたの想像が現実になったかとルカは息をのんだが、扉から出てきたのは、エプロンをしたお腹の大きな女性で、花嫁衣裳にも似たレースの衣服を纏ったルカが、必死の形相で走ってくるのへ、ぎょっとしたように目を見開いた。
「……希少種…」
女性は月明かりの中でもわかるルカの漆黒の瞳と髪を見て呟くや、家の中へ駆け込んでいった。
「あなたっ! どこかの希少種の奴隷が逃げ出したみたいだよっ!」
女性が奥へ向かって声を張り上げるのが聞こえてくる。
まずい。
ルカは行く手に現れた裏路地へと飛び込んだ。
雑多に積まれた木箱やゴミ箱の間に身を隠しながら、また違う路地へと飛び込み、追跡を受けないよう頻繁に道筋を変えた。
金髪や薄い茶色の髪、碧眼や薄茶の瞳など、色のついた容姿の者が多いこの大陸では、ルカのように漆黒の髪と瞳を持つ者は珍しく、希少種として人とは区別されている。
生まれたときから希少種は虐げられている。
誰それの奴隷。どこそこの奴隷。
自由はなく生まれたときから誰かの所有物だ。
こんな風に夜の王都を一人で走り回っている希少種はいない。もしいるとすれば可能性は一つ。
必死に走るルカの姿は、ご主人様のもとから脱走した奴隷そのものにしか見えないことだろう。
王都では希少種の奴隷の脱走は珍しくないのかもしれない。
ルカを見つけた女性が、主人を呼んでそのあとどうするのか。人とは思われていない希少種の奴隷が逃げているとなれば、おそらく捕まえることを考える。隣近所にも呼びかけて捕獲に乗り出す可能性もある。人々は希少種を野放しにはしないだろう。
王宮騎士団だけではなく、もし街ぐるみで追跡の手をかけられては、ルカに逃げ場はない。
「どうしよう、どうしたら」
ルカは積まれた木箱の間に身を押し込み、恐怖に震えながら悔しさに涙を滲ませた。足はもう一歩も動かない。体も石のように固まった。それでもルカはなんとか自分を励ました。
「まだ走れる。走らないと…。走れ、走れ…」
繰り返し呪文のように唱え、重い荷物を引きずるように体を起こそうと地面に手をついた。そこに体よく落ちていたぼろぎれを引っつかむと頭に被った。
とにかく黒髪を隠して、王都から抜け出して、北へ行くんだ。
明確な目標を思い描くと、ルカは深呼吸して立ち上がった。
少なくともこの国を出さえすれば、王宮からの追っ手の手はかからない。
王都からは北へ向かうのが、一番国境線に近いと聞いた。
とりあえずこの国から出て、あとのことはそれからゆっくり考えればいい。
食べたいものを食べたことも、行きたい場所に行ったことも、着たいものを着たこともない。寒い夜に震えるだけのそんな生活とはさよならするんだ。
希少種っていうだけで。見かけは人間とおんなじなのに。もううんざりだ。
「絶対に逃げ切ってみせる……」
振り返った後方に、篝火の炎が見える。
ルカは迷わず水路と思われる掘り込みに飛び込んだ。先ほどからずっと気になっていた。王都にはあちこちに水路が張り巡らされているが、水が流れていない。
もう水が枯れて随分経つのか、水路の底のレンガはひび割れている。
水がないならないで、今のルカには好都合だ。
かがんで水路を走れば、夜の闇も手伝って姿を隠せる。
ルカは足にまとわりつくレースを引きちぎり、今度は捨てずに裸足の足にきっちりと巻いた。
ルカは夜の闇の中を走っていた。
ひらひらしたレースが足にまとわりつくのも構わず、ひたひたと裸足の足裏が石畳を打つ音を響かせながら、ただひたすらに走っていた。
真っ白だった衣装の裾はすでに真っ黒だ。頭につけられていたベールは途中で投げ捨てた。どうせならそのベールで裸足の足をくるめばよかったとすぐに気がついたが、取りに戻る余裕はない。
王都はしんと静まり返っていた。
聖バッケル王国の中枢都市。中央に聳える王宮を取り囲む形で広がっている。ずっと王宮付き奴隷として暮らしてきたルカだが、すぐそこにある王都に出ることは許されず、今まで王都の街並みを見たことはなかった。
ルカの想像では、まだ見ぬ王都は真夜中でも賑やかにさざめく街だった。当初の目論見では、その賑々しい街並みに悠然と溶け込んで、王宮から、王都からさよならするつもりだった。
けれどこの辺りは王都でも繁華な場所からは離れているらしい。
初めて見る王都の街並みに、左へ行けばいいのか。右へ行けばいいのか。それとも真っ直ぐ進めばいいのか。
どの方向へ向かえば最も追っ手を引き離せるのかもわからぬままに、時々振り返っては月明かりのもと、煌々と照らされた一際荘厳で真っ白な王宮を背に走っていることだけを確認する。
なぜこんな目に遭わなければならない。
静かな街並みに、ルカの荒い呼気が静寂を乱す。
傷を負った背中と大腿が悲鳴をあげている。つつうと背中と大腿から血が流れ出し、肌を伝う。
痛みは限界で、もはや感覚もおかしくなりつつある。
でも不思議と神経だけは研ぎ澄まされていた。
辺りを注意深く観察し、追っ手が迫っていないことを確かめる。今のところ、ルカを追ってきているであろう王宮騎士団の影も形も見えない。それなのに今にも目の前に建ち並ぶ家の扉が開き、軍服を着た騎士団が出てくるのではないか。
そんな恐怖に近い妄想に襲われ、足が恐怖で止まりそうになる。
止まるな、ルカ。
恐怖で萎えそうになるたび、ルカは自分を鼓舞した。
絶対につかまるわけにはいかない。もし連れ戻されれば、どんな目に遭わされるか。殺されるだけではすまないはずだ。
想像するだけで恐怖が駆け上がり、ごくりとつばを飲んだその時。
右手前、石造りの家の扉が開いた。
「……っ…」
つい今しがたの想像が現実になったかとルカは息をのんだが、扉から出てきたのは、エプロンをしたお腹の大きな女性で、花嫁衣裳にも似たレースの衣服を纏ったルカが、必死の形相で走ってくるのへ、ぎょっとしたように目を見開いた。
「……希少種…」
女性は月明かりの中でもわかるルカの漆黒の瞳と髪を見て呟くや、家の中へ駆け込んでいった。
「あなたっ! どこかの希少種の奴隷が逃げ出したみたいだよっ!」
女性が奥へ向かって声を張り上げるのが聞こえてくる。
まずい。
ルカは行く手に現れた裏路地へと飛び込んだ。
雑多に積まれた木箱やゴミ箱の間に身を隠しながら、また違う路地へと飛び込み、追跡を受けないよう頻繁に道筋を変えた。
金髪や薄い茶色の髪、碧眼や薄茶の瞳など、色のついた容姿の者が多いこの大陸では、ルカのように漆黒の髪と瞳を持つ者は珍しく、希少種として人とは区別されている。
生まれたときから希少種は虐げられている。
誰それの奴隷。どこそこの奴隷。
自由はなく生まれたときから誰かの所有物だ。
こんな風に夜の王都を一人で走り回っている希少種はいない。もしいるとすれば可能性は一つ。
必死に走るルカの姿は、ご主人様のもとから脱走した奴隷そのものにしか見えないことだろう。
王都では希少種の奴隷の脱走は珍しくないのかもしれない。
ルカを見つけた女性が、主人を呼んでそのあとどうするのか。人とは思われていない希少種の奴隷が逃げているとなれば、おそらく捕まえることを考える。隣近所にも呼びかけて捕獲に乗り出す可能性もある。人々は希少種を野放しにはしないだろう。
王宮騎士団だけではなく、もし街ぐるみで追跡の手をかけられては、ルカに逃げ場はない。
「どうしよう、どうしたら」
ルカは積まれた木箱の間に身を押し込み、恐怖に震えながら悔しさに涙を滲ませた。足はもう一歩も動かない。体も石のように固まった。それでもルカはなんとか自分を励ました。
「まだ走れる。走らないと…。走れ、走れ…」
繰り返し呪文のように唱え、重い荷物を引きずるように体を起こそうと地面に手をついた。そこに体よく落ちていたぼろぎれを引っつかむと頭に被った。
とにかく黒髪を隠して、王都から抜け出して、北へ行くんだ。
明確な目標を思い描くと、ルカは深呼吸して立ち上がった。
少なくともこの国を出さえすれば、王宮からの追っ手の手はかからない。
王都からは北へ向かうのが、一番国境線に近いと聞いた。
とりあえずこの国から出て、あとのことはそれからゆっくり考えればいい。
食べたいものを食べたことも、行きたい場所に行ったことも、着たいものを着たこともない。寒い夜に震えるだけのそんな生活とはさよならするんだ。
希少種っていうだけで。見かけは人間とおんなじなのに。もううんざりだ。
「絶対に逃げ切ってみせる……」
振り返った後方に、篝火の炎が見える。
ルカは迷わず水路と思われる掘り込みに飛び込んだ。先ほどからずっと気になっていた。王都にはあちこちに水路が張り巡らされているが、水が流れていない。
もう水が枯れて随分経つのか、水路の底のレンガはひび割れている。
水がないならないで、今のルカには好都合だ。
かがんで水路を走れば、夜の闇も手伝って姿を隠せる。
ルカは足にまとわりつくレースを引きちぎり、今度は捨てずに裸足の足にきっちりと巻いた。
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