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天使は愛され

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 オユトルゴイ王国は広い。
 単に地理的な面積という点でも、バブルイスク連邦、オクシアナ合衆国に次ぐ大国だが、それだけではない。南北に広いこの国では各地域でいくつかの民族がそれぞれにいくつかのコミュニティを形成して、多種多様な文化を築いている。大きな共通点としては、たった一人の皇帝に全人民が忠誠を誓うごく古典的な統治体制に属しているということと、人口のほぼすべてが黄色人種である、という点であろう。もっとも後者に関しては、バブルイスク連邦との国境近く、同じくスンダルバンス同盟との国境近くに混合人種が多く見られる、という例外はある。
 いずれにしても、王国と一括ひとくくりに形容しても、地域によって大きな違いがあるということだ。
 スミンは、この国の最も南東に位置するダリ地方、カンヌン村に生まれた。
 この一帯は、人が快適に暮らすには少々、難がある気候だ。一年を通して大きな天候の変動があり、雨期はうだるような暑さの合間に雷雨やハリケーンに見舞われ、乾季は冷たく乾いた強風がひたすらに吹き荒れる。ダリ地方の中心であるダリ港は、北方の連邦領ミンスク港とのあいだに南北の海上交易路を引いてそれはなかなかの繁栄ぶりだが、それ以外の小都市や村落地帯は、過酷な気象条件もあり、またしばしば疫病も発生して、発展が遅れている。
 カンヌン村も貧しい農村で、スミンの生まれた頃はちょうどコレラの大流行期であった。人がばたばたと倒れて、白っぽい異様な便を日に数十度とまき散らし、たちまち枯れ木のようにしわが寄りせ細って死に至る。恐ろしい病気で、当時のカンヌン村は人が半分に減ってしまったという。村人たちの記憶も生々しく、スミンがコレラという言葉を口にするたび、老いも若いも誰もが眉をひそめ、口元を苦そうにゆがめた。
 カンヌン村がコレラによる危機を乗り越えたのは、この村で唯一の医師で薬師くすしでもある両親が、コレラの感染経路を感染者の吐瀉物としゃぶつや糞尿にあると断定し、共有している井戸や便所の割り当てを変えるなどして、感染状況を制御することができたためである。つまり、スミンの両親の提言がなければ、この村は全滅していたかもしれない。
 村人がしきりと彼女の両親を礼賛らいさんする都度、その一人娘であるスミンは鼻が高い思いであった。彼女は高潔で献身的に働く両親を敬愛していたし、誇りにも思っていた。いずれは自分も、同じように人から尊敬を受ける職に就きたいとも思っていた。できれば、医師か、教師になりたい。
 この時代、例えば天災とか、疫病とか、そういった禍々まがまがしい災いから人を救うのは、もっぱら呪術師じゅじゅつしや宣教者の仕事であった。占いや神の力に頼って、災厄から逃れようとしたのである。医師や薬師の処方というのは、むしろまがい物で、怪しげだと見られてしまう。
 だがカンヌン村では、特にコレラ流行からの回復を通じて、医学に対する信頼が一挙に広まったようである。村人は、誰も彼も、困りごとがあればクォン家に行け、というのが合言葉になった。いわば、この村の名士のごとき扱いである。
 スミンは利口な娘で、8歳の頃には母親のそばで薬の調合を手伝い、11歳のときに両親と初めての行商ぎょうしょうに出た。仕事熱心で、まるで人助けが生きがいだとでも言わんばかりに、行く先々で患者を見つけ、両親のもとへ引っ張ってきては、診察を受けさせた。愛想がよく、明るい春の日差しをまとったようなこの健気けなげな少女には、よそ者でもついほだされて笑顔を浮かべてしまうような、そういう魅力があったらしい。
 それに、美しい。11歳といっても、顔立ちはすっかり整い、しっとりと豊かな水分を含んだ肌や、はずむような質感の唇には、しばしば女のにおいがただよっている。
 両親も、そのことには気づいていた。
「ソユン」
「なんです、あなた」
「スミンは、どうやら初潮を迎えたようだな」
「あなたもそのことに」
「気づくとも。私も父親だし、それにこの家は狭い。血のにおいがすればすぐに分かる」
 スミンの父ユチャンは、医師であり名士として鳴らしているだけあって、重厚で沈着な人柄で通っている。それは家庭内でも同様であった。およそ、軽はずみなところがない。
 一方、母のソユンはそうした夫を陰ながら支える控えめな妻といったところで、娘に対してもあふれるような愛を注ぎ、良妻賢母のかがみだと人からは言われている。
「11歳ともなればもう大人ですよ。良縁を見つけるにはあと3、4年は待たねばなりませんが」
「縁づく前に、考えねばならんだろう」
「何をです」
「導くか、否かをだ」
 はっ、とソユンは息を呑んだ。そのことについては、彼女は夫から折につけて聞いている。術者の家系は、代々、導きと呼ばれる儀式、というより試練を通じて、子孫に力を伝える。血脈とともに術者としての力を引き継ぎ、受け継ぐことこそ彼らの大いなる使命なのである。導きの対象は、資質に優れたる直系の子や孫のみに限られる。それ以外の者に導きを行うことは、術者の血統にあっては絶対の禁忌である。もし直系子孫に術者たるに足る者なきときは、導きを行わない。
 ユチャンには、娘の資性を見極め、これを導くべきかを判断する義務がある。それこそは、術者が数十世代、あるいはもしかするとそれ以上にわたって続けてきた営みなのである。
 ただ、ソユンはそれが恐ろしい。彼女は確かに術者であるユチャンの嫁となったが、自身は術者ではない。いわば、半身は術者の家系に入ってはいるが、半身は部外者である。その部外者の視点からすると、術者になるということは何やらそら恐ろしい。そもそも、導きを受ける者も、それによって自分にどのような力が開花するのか、分からないのだ。例えばユチャンも、青年期になってようやく父からその資質を認められ、導きを受け、風の術者になった。が、風の加護を受けることになったと彼が知ったのは、導きが終わってからだったという。
 術者は、力をみだりに使うことは許されない。たとえ善なることでも。一生のうち、自らの力を一度も行使せぬままに生を終える術者も少なくはなく、むしろそれが望ましいとされている。そのわりに、術者は重きごうを生涯にわたって負うことになる。術者の存在、また自らが術者であることは必ず秘匿ひとくせねばならず、一方で術者は術者としてのさだめに従って生きなければならない。母親であれば、そのような足かせを娘に強制することに抵抗があるというのも当然である。
 言い知れぬ不安にさいなまれつつ、ソユンは口を開いた。
「あなた、まだ導きを与えるのは早いのではありませんか?」
「あれはもう大人だ、と言ったのはお前ではないか」
「そうですが、焦らずとも、もう少し成熟してからにしては」
「まぁ、私も今すぐにというわけではない。ただ、スミンが術者に足るかどうか、見定める時期に入ったということだ。お前も、覚悟をしておくことだ」
 はい、という返事の明瞭さほど、ソユンの憂いは晴れたわけではない。
 黙りこくって薬研やげんを使っていると、夕方になってスミンが帰宅した。
「スミン、おかえり」
「母上、ただいま帰りました」
 スミンは母への挨拶もそこそこに、父の正面に座った。目を輝かせ、微笑んでいる。父と話したいことが山ほどあって、うずうずしているらしい。
 こういう表情を見せられると、ユチャンもつい口元が緩む。ソユンの手前、厳しいことを言ったものの、普段の彼は意外なほど子煩悩こぼんのうな、娘に甘い父親である。娘の方も、威厳を保ちつつも、自分に対しては愛情深く甘やかしがちなこの父親によくなついている。
「父上、ただいま戻りました」
「あぁ、やしろでの稽古けいこはどうだった」
「今朝は、手習いを少々」
「そうか。貧しくとも、文字の読み書きはできるようにな」
「はい。それと大陸の地図を見ながら、各地の風土や文化について、大変興味深くうかがいました。午後は、ダリの商家で奉公人をしていたという方が、口伝えに色々なことをお話しくださって」
「それはためになったろう」
「はい。それで、私ももっと行商に出とうございます」
「なぜだ」
「知らないところ、遠いところへ行くのは楽しいです。聞いているだけでももちろん楽しいですが、やはり実際に行ってみたいのです」
「呆れたな。お前は風来坊になりたいのか」
「はい、できることなら!」
 スミンの目の輝きは増すばかりだ。世間は楽しいばかりではない、危ないこともあればつらいこともある。寂しくも、恐ろしくもなるだろう。見知らぬ土地ともなれば、よそ者に人情を向けてくれる者も少ない。この娘にはそういう世のありようというものを諄々じゅんじゅんさとしてやらねばなるまい、と思いつつ、口では意図せぬことを言ってしまうユチャンであった。
「そうか、なら次はもう少し遠くへ行商に連れて行ってやろう。お前はまだダリへ行ったことがなかったな」
「え、ダリへお連れくださるのですか?」
「あぁ、面白いぞ」
「父上、ありがとうございます!」
 表情が、それこそヒマワリの咲き誇るようにぱっと花開き、スミンは母に駆け寄り、抱きついてそこら中を踊り始めた。よほどうれしいらしい。
 ユチャンはスミンが12歳になったミネルヴァ暦1384年1月、妻子とともにカンヌン村を発し、王国有数の大都市であるダリに向け旅立った。スミン自身、その両親、そしてこの大陸に住まう人間すべての命運を一変させる、そのきっかけとなる旅となることを予感していた者は、この時点では無論、一人として存在しない。
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