あなたのすべて

一条 千種

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第3話 FY2010 WBS Ver1.0.0

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 何もかもが、夢のようだ。
 授業中も、幸太は終始、上の空だった。無理もない。
 30歳まで必死に生きてきたのが、いきなり監督を名乗る人物によって18歳の自分からやり直しをさせられているのだ。望んではいたが、期待も予想もしてはいなかったことではある。
 (何もかもが、あの頃と同じだ……)
 深緑色の黒板、つやのある木の机、四つ脚の硬い椅子いす、シャープペンシルと消しゴム、大学ノートや教科書。何もかもが、12年後のビジネスパーソンならば決して使わないようなツールばかりだ。
 思春期の男女が発する体臭と、舞い上がるほこりの混じった特有のにおい。がやがやとかしましい雑多な人の声。ひっきりなしに誰かが歩き、あるいは走る足音に、椅子が動く金属的な響き。日当たりがよく、まぶしいほどに採光のいい教室。五感を通して、思い出がよみがえってくる。
 そして誰もが、あの頃と同じだった。何も変わってはいなかった。
 無論、美咲もである。彼女も、高校生の頃に戻っている。
 長く光沢のある髪、やわらかそうな頬と細いあご、微笑を浮かべたかたちのよい唇、まっすぐ通った高い鼻、知性と慈愛が宿りつつもときにいたずらっぽく変化する目、なだらかな眉、一点のくもりもない白磁はくじのように若々しくなめらかな肌。さらに赤いスカーフを結んだセーラー服。
 (なんという美しさ……)
 幸太はそのことに感動さえ覚えた。人間の表現力を超えた美しさを持った人、存在そのものが芸術的なまでにまばゆい人。
 思い返すと、確かに幸太にとっての美咲は、少なくともそう見えていたものだ。
 何も変わってはいない。
 いや、ひとつだけ変わったものがある。
 幸太自身である。
 トイレに行ったとき、鏡で確認した。どうやら肉体は18歳の当時のままのようだ。だが意識、記憶、知識、人格はすべて30歳の自分を引き継いでいる。いわゆるタイムリープの状態らしい。
 (タイムリープ……? バカバカしい、なろう小説でもあるまいし)
 だが、18歳当時の自分を、30歳の自分でリスタートできるというなら、これは利用しない手はない。
 (例えば……)
 幸太は一瞬、不埒ふらちなことを考えた。自分はこれからの12年間に何が起こるかを知っている。つまり、未来を予知できる。競馬や投資で一発当てたり、ビジネスを立ち上げて成功させたり、ほかにも考えればいくらでも人生のアドバンテージはあるだろう。
 (けど、ちょっと待てよ。俺が本当にほしいのは、金や地位や名誉なのか?)
 そうではなかった。そのようなものは、12年後の自分でさえ、それなりに手に入れている。よほど強欲ごうよくにならないかぎり、たいていのものは手に入った。だから、人は彼を恵まれていると思ったのだ。だが結局、自分はかわいていた。後悔と不甲斐ふがいなさをむなしく引きずって、生きていたじゃないか。
 (俺が本当にほしいのは……)
 慌てなくても、金や地位はいずれ手に入る。今は、今しかできないことに専念すべきだ。高校生活は、あと1年もない。
 幸太は教室の黒板とカレンダーを見た。
 (今は、高3の4月。落ち着け、まだあわてるような時間じゃない……!)
 とにかく、今日という日を無事に終わろう。そして明日、18歳の自分でいられたら、そのときは今度こそ、悔いのない人生を送ろう。必ず、美咲と一緒になろう。彼女を幸せにしよう。
 幸太はそれを大それた望みとは思わなかった。むしろ必ずできる、そうしなければならないとさえ思った。
 終業のホームルームのあとすぐ、幸太は美咲に改めて礼を言った。
「松永、ハンカチありがとう。明日、洗って返すよ」
「よだれ、キラキラ光ってたよ。洗って落ちるかな?」
「そのときは、ド〇ガバのワンピースで返すよ」
「すごい、100倍になって返ってくるんだ!」
 美咲は単に夢のある冗談と受け取ったのであろう。爽やかな笑みを残し、親友の伊東千尋ちひろと連れ立って、教室を出ていった。彼女たちは、これから吹奏楽部の活動がある。
 (よし、家に帰ろう)
 幸太は走り出した。
 (おっほほ、体が軽い!)
 やはり30歳と18歳では、体の感覚がまるで違う。いくら走っても、すぐに呼吸や心拍が安定する。若いというのは、ただそれだけでこれほど気分がいいことなのか。精神と肉体に12年ものずれがある幸太だからこそ分かることだ。
 電車に飛び乗り、車窓からノスタルジーを呼び起こす風景を食い入るように見つめた。
 (あそこのローカルスーパー、卒業したあとつぶれて、確かイ〇ンになるんだよな)
 電車の座席から、首をひねってひたすら外をながめている幸太は、まるで子どものように人からは見えただろう。
 家に帰ると、母が夕食の下ごしらえをしている。当たり前だが、若い。24歳のときに幸太が生まれているから、42歳ということになる。白髪もまだほとんど目立たない。体型も、後ろから見るとまるで別人だ。
「ただいま!」
「おかえりー」
「今日はハンバーグか、手伝うよ。まず玉ねぎから炒める?」
「……え?」
「母さん休んでなよ。毎日、料理するの大変でしょ。あれ、ナツメグってあったっけ」
「熱でもあんの、あんた」
 不審な顔をするのも、まぁ当然ではあった。実家で料理の手伝いをしたことなど、記憶のかぎり一度もないからだ。
 だが、30歳の幸太は、料理が趣味になっている。伊達に家庭内別居で鍛えられてはいない。
「あんたは毎日、テレビを見てゲラゲラ笑ってるだけでしょ。家事の手伝いなんて」
「テレビなんて時間の浪費だ。不快で役に立たない情報を一方的に押しつけてくる。さっさと捨てた方がいいよ。それにもう子どもじゃないんだから、母親をいたわるのは当然だろ」
「きもちわる……きもちわるっ!」
「いいから、ソファで雑誌でも読んでなって」
 幸太がハンバーグの下ごしらえをすっかり終えた頃、ちょうど父親が帰宅した。幸太の親孝行な姿に目を丸くするその表情が、息子にとってはたまらなくなつかしい。
 父は、幸太が27歳の頃、脳梗塞をわずらい、後遺症で半身まひと認知症が残るようになってしまう。元気な父親の姿が、これほどうれしいとは。
「父さん、おかえり」
 幸太はそれだけしか言えず、涙をこらえて父親を抱きしめた。
 両親、ともに気味の悪い化け物を見るような顔をしている。
 夕食後、食器の片づけと洗い物まで完璧にやってのけて、ようやく幸太は自室で集中できる時間を得た。
『FY2010 WBS Ver1.0.0』
 幸太はまず、PCにそのように銘打めいうったファイルを作成した。
 FY2010は、2010年度を意味する。この場合は、2010年4月から2011年3月までのことで、要するに高校3年生の一年分、ということである。
 WBSとは、ワールドビジネス……ではない。これはWork Breakdown Structureの略で、日本語訳は作業分解構造図。目標に向かって必要なタスクを洗い出し、Y方向に時系列順に羅列し、X方向には日付を並べて、ガントチャートで表示する。これを作成しておけば、いつどのようなタスクをこなさなければならないかが可視化できる。
 Ver.1.0.0とは、このWBSのバージョンである。進捗を管理していくうち、大小さまざまなアジャスト(調整)やアップデート(最新化)が入る。どのような変更があったかのエビデンスが残るよう、バージョンごとにWBSを管理していくのだ。
 幸太は高校最後の1年間のスケジュールをにらみながらタスクを書き出し、階層化して、新規WBSを一晩で完成させた。5月は体育祭、9月は文化祭、11月は修学旅行、3月は卒業旅行、ほかにも恋する高校生にはバレンタインデーやホワイトデーといったイベントも用意されている。
 これらの各行事と、さらに日常においてこなすべきタスクをきれいに整理して、幸太はWBSの一番左上、まず最初に手をつけるべきその部分に着目した。
 (ビジネスの基本はリサーチだ。これは恋愛でも同じだろう。ついでに外堀も固められたらいいが……)
 名門と言っていい国立大学に突破し、さらに社内、社外とも競争の激しい商社で戦い抜き、キャリアを築いた幸太である。この経験、大人パワーをもってすれば、彼が人生で最も大切に想う人のハートも射止められるだろう。
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