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第2章 Dynamism in New Life

第25話 魔導の深淵

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「まずは魔導書を具現させましょう。 マナの存在は知覚していますね?」
「はい」

 フリックによる魔法実技が始まる。

(マナっていうと……この村に来た時から感じてる違和感の正体、だよな?)

 ハジメがクレメント村で目覚めたその時から感じている違和感があった。 それはハジメの全身を覆う濃密な液体のイメージで、ゼリーの中に閉じ込められているような感覚をハジメに与えていた。 ただ、知覚できることがそのまま見えることには繋がらない。 漠然とそこにあるのを理解できる程度だ。

 マナはハジメの周囲だけでなく、日常の様々な所に散見できた。 またその濃度が濃くなった時、謎の頭痛に苛まれるという状態も多々見られた。

(魔法を使えるかもしれないってことには確かに興奮するけど、本当に大丈夫なのか……?)

 魔法という力は武器にもなるが、人間には過ぎた力だ。 銃社会が良い例で、身を守るはずのそれは他人を害することにも使われてしまう。 これがもし安全に使われないものであれば、その矛先はレスカに向いてしまうかもしれない。 だからハジメは魔法に対する期待よりも不安の方が勝っていた。

(でもまぁ、理由は分からないけど俺にも一つ手段が増えそうなのは事実。 あとはこれをどのように運用するかだな。 こんなことならもっとリバーやフエンちゃんに……って言うのはおかしな話か)

「ではそれを、ハジメさんの魔導印へ集めるイメージを」

 フリックが田舎では貴重な紙──羊皮紙に図を描いて示してくれる。

 ハジメの胸元には魔導印が出現しており、正確な時期は不明だがレスカの話では魔物を呼び出したあたりなのではないかということだ。 上の服を着ればギリギリ見えないので、エスナの右手だったりフリックの首元のようには分かりやすい場所には出現していない。

(説明されても、アニメとか漫画で見るような魔力?みたいなものって実感がないんだよな。 フリックの描いたものだと、体内のマナを集めてるイメージだけど……)

 ハジメは自分の体内にマナを知覚できない。 周辺には確実にあると認識できるのに、身体の中にはそれを全く感じられないのだ。

「無理」
「難しかったですか?」
「マナ、感じない」
「……少し失礼しますね」

 フリックはそう言ってハジメの胸に手を触れた。

「確かに、体内にはほとんどマナを感じませんね。 マナ容量が極端に少ないのでしょうか……?」

 結局この日は大した成果を得られず、フリックが忙しいということで授業は頓挫した。 魔導書が具現しなければハジメの魔法もどのようなものか分からないため、フリックはひとまずマナを感じられるようになれとの指示だけ残していった

「んー」
「ハジメ、何か分かった?」

 フリックが去ったことで、また平穏な時間が戻ってきた。

 ハジメほどではないがレスカもかなりの傷を負わされていたため、今は二人とも労働の義務から外れて屋内でのんびりしている。 だからといって、日本にいた時のようにゴロゴロ寝て過ごすという習慣は綺麗さっぱりと失われている。 そのため何かしていなければ不安になってしまうような精神状態なので、二人して室内を歩き回ったり、部屋を掃除したりと無駄なことばかりしてしまう。

「分からない。 レスカ、マナ見える?」
「見えないけど、ハジメの周りにはいつもあるよ?」

 レスカの目から見て、現在ハジメの周囲に漂っているマナは全く色のないぬるま湯の様な感覚で、それでいてレスカにはとても心地よい。

 あの事件の時、ハジメのマナはドス黒く濁った様な感覚をレスカに与えてきたが、今ではそれがない。 ただ、それは単なるイメージであって実際には色なんて見えないし、本当は気のせいなのかもしれない。

「んー」
「分かんないね。 そうだ、やることないなら言葉の勉強しよ?」
「そうする」

 レスカは勉強と言いつつハジメに触れたいだけかもしれない。 やけにスキンシップが激しいし、体温も高い。

(しゅ、集中できん……!)

 レスカが色っぽく見えるのは昨日のことがあったからなのか、それとも単にレスカ自身が女性として成長したからなのか。 理由は分からないが、ハジメの目に映るレスカはもう立派な大人の女だった。

「──ハジメ、聞いてる?」
「……ああ、うん」
「もう、ちゃんと覚えてよー」
「ごめん」
「怒ってないから大丈夫だよ」

 ハジメがこういった何気ない会話さえも幸福に感じるのは、日常的に苦労を知っているからだ。 それを本来の幸福と感じるかどうかは人それぞれだが、ハジメはこれを守りたいと思った。

 何かを守るためには力が必要で、たった今ハジメは新たな力を得始めている。 これは恐らくハジメが望んだ力であり、その本質を理解すればこそ魔導書も発現するとハジメは考えている。

(これまで俺が最も考えてきたことは何だ? 俺自身が強くなることか? それともレスカを守ることか? 俺の中にマナは存在せず、外側にばかり存在しているのはどういうことだ? そもそもこれは俺が発しているものなのか?)

 様々な疑問が湧き上がる。 少なくとも、これらの疑問は言語を習得したところで解決できるものではないし、ハジメ自身で解消しなければならないものだ。

(レスカは、俺の周囲のこれを俺のものだと自然に判断していた。 だとすればこれを生み出しているのは俺自身で、俺の意志とは無関係に生み出されているものだと推測できる。 でも、いつからこれがあったんだ……?)

 いつから、と言えば最初からだろう。 フエンはハジメの周囲で魔法威力上昇を指摘していたし、少なくともフエンとリバーがやってくる以前にはすでにハジメの周囲にはマナが存在していたと考えられる。

(どこか特別なタイミング……いや、分からないな。 この世界に来てからというもの、日常は激動の連続で、刺激は毎日受けていた。 だからいつからこれが存在していたかということを考える必要はない)

 では何を考えれば良いのか。 ここでまた一つ新たな疑問がハジメに湧いた。

(なぜレスカは俺のマナを知覚できて、フリックはできなかったんだ? ヤベェ、マジでわっかんねぇ……)

 知らないことを憶測だけで推理するのは、非常に困難な作業だ。 方程式を介さずに問題を解けと言うようなものなのだから。

(一つずつ……そう、一つずつ解決していこう。 俺の周囲にマナが存在していることに関して、“いつから”も“なぜ”も、今は一旦無視だ。 解決すべき疑問は……そうだな、この胸元の魔法陣がどうして発現したか。 そこから逆算するか)

 ハジメは思考が纏まりきらないことにヤキモキしつつ、レスカの話などを思い出す。

(でもまず、あの時の記憶が曖昧だからな……。 あれは今思い出しても恐ろしい体験だし、この世界に来た時のそれも同じ感じだよな。 あんなに悪意を浴びるのは今後勘弁だわ……)

 ただ、今はそんなことを考えるより、できることを最優先に模索すべきだ。

「レスカ、教えて」
「ん? 何を知りたいの?」
「前のこと」
「それって、あの時の……?」
「うん。 魔法、知るため」

 レスカにとっては辛い体験だろうし、それはハジメにとっても同じだ。 ハジメとしてはできればそんなことはしたくないが、魔法の成り立ちを知ることは結果的にレスカを守ることに繋がるはずなのだ。 そう信じてレスカに問う。

「……分かった。 フリックさんには言ってないこともあるから、それも教えるね」

 レスカの説明によって、ハジメは記憶のない間に起こった出来事を知ることができた。 その時にレスカが見聞きした内容は正直恐怖を感じる内容であり、ハジメの言動も理解の範疇を超えていた。

(俺が無意識に魔物を操ったとか、マナに俺の感情が乗ってたとか言われても意味が分からないな……)

「そんなとこかな……。 あまり役に立つ内容じゃないかもしれないけど、それはごめんね?」
「大丈夫」

(でも得られるものはあったな。 やはり俺の周囲のマナは外部に影響を齎すもので、同時に魔物すら操作できる危険なものでもある。 その効果は魔物を動きを止めたり意図的に操ったり、魔法威力を上げたり、その他にも新しい作用があるかもしれない)

「何か分かりそう?」
「うん」
「それならよかったぁ」

(ひとまずは、俺の感情を反映した効果が出るって考えるか。魔法威力を上げる効果は、誰かに守ってもらおうという俺の無意識の表れかもしれないな。 魔物を引き寄せる効果は分からないけど、動きを止めるのだって俺自身を守るための作用のはずだ。 つまり、俺のマナは魔法的な何かに対して作用するシロモノで、俺の無意識さえも反映するってことだろうな。 そうなると……)

 周囲のマナはハジメの意識・無意識を反映することから、もちろんハジメのもので間違いない。 そしてそれこそ体内に収まらないハジメの一部であり、これをうまく使いこなすことでハジメの魔法技能は機能していくはずだ。

(と言っても、意識をそこに向けたところで俺の魔法陣?に入ってくる気がしないんだよな……。 ただ、フリックの言う「マナを感じろ」という指示の意味は理解できた。 あとはこれを俺の手足のように操れば……いけるな)

 そうと分かれば、周囲のマナを停滞させておくには惜しい。 これからは日常的にそれらを動かしたり感じたりする必要があると考えられる。

「特訓する」
「もう身体はいいの?」
「大丈夫」

 ハジメの身体は未だに痛みが残る部分が多いが、これまでに生活で停滞は退化することだと感じている。

(思い立ったら動く。 これができなきゃこの世界で生きてけないんだ)

 何事も後回しにしてきたハジメの性格は、日々の生活で大きく変化してきた。 自分以外に目を向けられるようになったこともそうだし、現在のようにすぐに動けるようになったこともそうだ。

 環境は人を変えるとはよく言ったもので、たとえ強いられた変化だとしてもそれは確実に人間の適応力に作用する。 それを良い変化だと捉えて吸収できる人間が成長し、そうでなければ停滞して死を迎える。 無意識的に適応力を発揮しているハジメはすでにこの世界に馴染んでおり、生きるために最低限必要な過程を踏んでいると言える。

(しかし実際に身体を動かしながらマナを意識しようとすると、どっちつかずになるな。 手足のように動かしてこそだとは思うけど、この粘っこい液体みたいな感覚のマナを動かすのは骨が折れるんだよな……)

 特訓に関して新しいことを取り込もうとしていたハジメだが、マナという要素が加わったことで基本的な部分からやり直さざるを得なくなった。 つまり日常動作から何から、あらゆる所作にマナを伴わなければならない。 それは水中で自在に動き回れと言われているようなもので、現在は呼吸すら困難な状態だと言える。

(でも新たな課題ができたことは、俺に可能性が増えたことも同じだ。 楽しみってほどでもないけど、やっぱ魔法が使えるかもしれないって思うとテンションは上がるよな)

 これまでのハジメは、出来ないことや粗を潰していくような生活だった。 それがここにきて流れを変え、可能性を見出すまでの展開を見せている。 これはハジメがようやく手に入れたチャンスであり、見逃すことのできない蜘蛛の糸だ。 この糸を手繰っていけば見えてくるであろう頂きは、下を向いていたハジメを上に向けるに十分な力を備えていた。

 数日後──。

 ガタゴト、ガタゴトと、音を吐き出し荒野を走る物体がある。 ハジメとレスカは次なる場所を目指して馬車に揺られている。 行先はベルナルダンという中規模の町であり、まずはそこで諸登録を済ませるらしい。

「登録?」
「魔法使い登録です。 現在魔法使いとして能力を発揮した者やそれに準じる者の登録をすることで、能力や成果に応じた報酬や補助を受けることができます。 もちろんそれに対する義務も発生しますが、クレメント村に滞在するよりは遥かにマシですね」
「……?」
「えっとですね……。 レスカさんもいずれ魔法技能が発現するでしょう。 しかしあのクレメント村で生活を続けていた場合、私のように村に身を捧げなければならない状況に陥ります。 なので、お二人の拠点をベルナルダンに移します。 そうすれば村に搾取されなくなりますし、あの村に滞在するよりは遥かに安全です」
「……どうしてそこまでしてくれるんですか?」
「あなたがエスナさんの妹ということもありますし、ラクラ村のこともありますから……」
「……何か分かったんですか?」

 ここまでフリックはラクラ村に起こった事実を二人には伝えていない。 その内容を伝えようと思った時にはすでにレスカとハジメは心身ともに大きなダメージを受けており、フリックとしても傷口に更なる塩を塗り込む事態は避けたかったからだ。 それに、意識を新たにしている若者のモチベーションを奪う事態にも繋がりかねなかったため、ここまで説明が遅れたというわけだ。

「辛い内容をお伝えするのは大変忍びないのですが……結果を先に述べますと、ラクラ村はもう存在しません」
「え……」
「私たちが調査に赴いた時点で生存者はゼロでした」
「そん、な……」
「調査まで一週間ほどありましたので、それまでに脱出した人間もいるかもしれません。 事件の当初魔法使いが三人もいたのですから、エスナさんも逃げ出せているはずです」
「そう、ですよね……」
「気を強く持ってください。 レスカさんのお姉さんは弱い人間ではありませんでした。 なので今はあなたが元気に過ごして、お姉さんの帰りを待ちましょう」
「はい……そう、信じてます……」

 レスカが肩を震わせている。 その年齢なら不安で泣いても構わないのにそうしないのは、ハジメに心配させないためだろうか。

 今だってお互いに肩を預けて佇むハジメとレスカは誰がどう見ても通じ合った存在なのに、そのくせ互いに気を遣っているところを見ると、アンバランスというか壊れやすそうというか。 いずれにしても二人の精神的ケアをすることがフリックの役目だと信じて彼は内心意気込む。

「あと、レスカさんに一つお聞きしたいのですが、あなたが見た魔物はこういった姿でしたか?」

 フリックが鞄から紙を取り出し、そこに描かれた魔物の姿を見せてきた。

「え……っと、確かにこのままの姿でした……って、え……?」
「そうでしたか……」
「どうしてこれが?」
「現在ベルナルダンからラクラ村にわたる地域において、討伐依頼が出されている魔物です。 私たちがラクラ村で接触した魔物でもあります」

 魔物の姿を描いたそれは指名手配書のように各所に配布され、注意喚起と共に懸賞金さえ付けられている。

「それって……?」
「ラクラ村を襲った魔人と関係があるかもしれませんし、そうでないかもしれません。 私はそれがハジメさんと無関係だとはどうにも思えないのですよ」
「ハ、ハジメは魔物を使って悪さなんてしませんっ! 魔人が来たときも、あたしはハジメとフエンちゃんと居ました……! だからハジメが何かしたならフエンちゃんが気づいているはずだし、それに……」
「ええ、それは重々承知しています。 ですが、危険性を孕む力だということも理解していてください。 これは、お二人に言っておりますよ」
「……分かりました」
「はい……」

 ふぅ、と一呼吸置いてフリックが話し出す。

「嫌なことばかり言ってしまって申し訳ありません。 それもこれも、お二人に嘘を伝えたくないという私の思いからくるものですので」
「それは、分かってます……。 フリックさんが良くしてくれてることは、あたしもハジメも分かってますから」
「そう言っていただけると助かります。 ……ところで、ハジメさんの魔法はどう言った具合でしょうか? ここ数日はお会いできていませんでしたのでお教え願えますか?」
「まだ。 でも、もうすぐ」
「なるほど……何かを掴んでいるということですか、分かりました。 ベルナルダンに到着するのは明日なので、それまでご質問などあればいつでもどうぞ」

 フリックのアシストを得て、ハジメは魔法への理解を深めていく。

 しかしフリックはハジメの周囲に漂うマナをしっかりと知覚できないようなので、結局はハジメがどこまで自身の能力を把握できるかというところに掛かっている。

(うーん……未だ俺の中にはマナが無いってどういうことなんだ? 常に漏れてるってことであってるのか?)

 漏出し続けているのならいつかエネルギー切れを起こしそうなものだが、現にハジメの中にマナは無く、周囲に漂うのみだ。

(ってことは、マナは漏れてるけどある一定範囲内に停滞し続けているって認識でいいんだよな……? 俺が知覚できるだけでも直径10メートル弱には広がってんだよな)

 ここまでの特訓で、ゆっくりとした動きであればある程度周囲のマナが追随するようにはなってきている。 それは水中で腕を動かした時に水が撫でられるようなイメージだが、それでもハジメはマナの操作を掴み始めつつある。

(あとはこれが俺の手足のように自在に動いて、なおかつもっと密度を増して俺の周辺に集まればいいんだが……)

 停滞するマナはそこそこの範囲に広がってしまっているので、その全てに神経を伸ばして引き寄せるとなると、それはかなりの負担だ。

(先が思いやられるな……。 数日とか数週でできるようになるとかは考えるべきじゃないな。 下手したら数ヶ月から年単位で時間が掛かりそうだ)

 とはいえ、ある程度ゴールが見え始めたので、あとはそこに向かって突き進むだけだ。

 肉体の訓練に並行して魔法の理解を進めるとなると、これからは身体だけでなく脳も働かせなければならない。 頭を使って生きることができるようになったので人間としては成長しているが、頭脳労働は肉体労働以上にハジメの精神をすり減らし、疲労を蓄えさせるのであった。
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