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第一章「立志」

第5話『南興社会主義人民共和国・政変の年』

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 財務省桜俊一参事官の号令で行われた(とされる)公文書偽造問題に端を発した数々の官僚による忖度案件、首相夫人の汚職疑惑により、物部政権の支持率は下落。この危機に物部は北朝鮮の拉致問題、核、ミサイル開発をしきりに脅威として喧伝し、国難突破解散と銘打った伝家の宝刀を抜き放つ。すなわち、衆議院解散総選挙だ。
 脅威を煽り、都合の良いタイミングで解散。物部の力の源泉は実にここにある。
 この頃より、保守党として物部泰三が行う街頭演説の会場に、プラカードや横断幕を掲げて抗議する活動家「RESISTANCE」が出現する。RESISTANCEは、第二次物部政権発足以前より活動する右翼団体在日外国人を追放する会「外追会」と徹底対決し、激しい抗争を繰り広げる。
 外追会は物部政権の岩盤支持層と化し、自らを選挙にサクラとして動員し、SNSに人種差別を煽る投稿を繰り返す所謂ネトウヨ集団だ。物部政権はこのような集団に支えられているのだ!
 秋津悠斗は桜香子との失恋のショックから、国会議員の息子として湯水のように使える小遣いを武器に、デモ会場などに足を運び、RESISTANCEと外追会の小競り合いを冷めた気持ちで野次馬していた。
 そのような道草の日々、解散総選挙の前哨戦となった東京都議会議員選挙にて事件は起こった。その場に秋津悠斗は居合わせていた。
 演説会場に突如、車を覆い隠せるほどの大きな横断幕が掲げられた。
「物部辞めろ」
 そう書いてある。展開するのは、演説会場に支持者に偽装して潜伏していたRESISTANCEだ。
 慌てて「保守党青年局」という沢山ののぼり旗で横断幕を隠す選挙スタッフ。
 物部泰三は彼らを乱暴に指さし、言い放つ──
「こんな人たちに皆さん、私たちは負けるわけにはいかない!」
 負けじとRESISTANCEはコールする。
「物部辞めろ! 物部辞めろ! 物部辞めろ!」
 岩盤支持層が日の丸の旗を振る。盛り上げようと必死だ。
 秋津悠斗は喧騒の中、呆然と立ちすくむしかなかった……

     *    *

 結局、東京都議選で保守党は惨敗した。物部総理大臣が応援に入ったにも関わらず、いや、物部が応援に入ったのが逆効果であったのだ。
 都議選で勝利したのは東京都知事池谷みどり自らが率いる望みの党だ。
 望みの党は衆議院解散総選挙の機運が高まると、比例代表名簿第一位を池谷のために用意した上で民衆党に合流を持ちかける。なにわ維新の会とも候補者調整を行っているとの報道もあった。
 野党が政権交代の野望を抱き、女性内閣総理大臣候補池谷みどりを旗印に枢軸を組んだのだ。
 あわや、物部政権惨敗か!?
 二〇一七年九月二十八日。衆議院解散総選挙突入!
 同日、民衆党は常任幹事会を開き、望みの党への合流を全会一致で決定した。これにより民衆党は解党となった。
 民衆、維新の翼賛を経て池谷旋風が巻き起こったが、翌日の都知事定例記者会見にて池谷は以下のような失言をする。
「(民衆党内のリベラル派は)排除されないということはございません。排除いたします」
 きっと池谷は第一次物部政権で国家安全保障担当内閣総理大臣補佐官、防衛大臣を歴任したから、シビアな安保政策を理解できる同志を望んだのだろう。だがこれに民衆党が大反発。
 今を時めく女性都知事とかつて政権交代を実現させた民衆党による枢軸態勢はこじれ、十月二日、まっとうな野党を標榜する護憲民衆党が野党支持層の期待を背負い結党される。
 望みの党と護憲民衆党は票を分散させ、共倒れする選挙区もあった。
 気まずくなった池谷みどりは投開票当日、さっさとパリに公務出張に行ってしまい、青梅一郎副総理兼財務大臣に選挙演説で揶揄された。結局のところは保守党が漁夫の利を得て、物部の長期政権が更に続く……かくして国難突破解散は保守党公民党連立政権の勝利に終わった。

     *    *

 二〇一七年年十二月九日午前十時。衆議院解散総選挙により第四次政権を盤石なものとした日本国内閣総理大臣物部泰三は、南興社会主義人民共和国大統領楠木沙織を東京に招き、首脳会談を開いた。
 本来であれば南南興は社会主義国であるはずだ。この首脳会談の背景を分析する必要があろう。
 南南興において、親日派の楠木沙織と親中派の楠木正朝兄妹の後継者争いがあった。大統領の息子と娘。両者ともに二十代も前半であった。激情的な正朝とまだ若すぎる沙織のどちらを支持するかで党幹部は割れた。
 物部政権で連立政権を組んでいた改新党の荒垣健防衛大臣と立花康平事務局長は、日本に融和的な楠木沙織への政略的な接近を以前より始めていた。元々森田正好衆議院議員の娘や秋津文彦衆議院議員の息子との縁もあった。
 そして大統領の危篤。党幹部らは後継者について喧々諤々の議論を繰り広げたものの、大統領の鶴の一声で沙織に定められた。
 楠木沙織大統領は副大統領兼党副委員長を駐日大使にするなど、西側寄りの路線変更を行う。
 そして今がある。
 会談では経済協定が結ばれた。
 南興島では採掘技術の未熟さから手つかずのメタンハイドレートがあり、その採掘で両国は合意した。
 メタンハイドレート使用権は南興に譲渡する代わりに、日本から青梅グループ、立花グループなどの関連企業を進出させ採掘権と主導権はきっちりと得るスタンスだ。
 それでも、現地での雇用を生み出し、経済効果が波及するから南南興にとってもうまみのある話だ。
 尚、メタンハイドレートの具体的な埋蔵量は特定機密扱いされる。将来の国際社会に対する交渉カードとするためだ。
 これで日本は、戦略的互恵関係である中国に代わる新たなパートナーを得たことになる。このことは、たちまち親中派の御屋敷芳弘幹事長の知るところとなり、そして、逆鱗に触れた……
 日興議連の秋津文彦、岸本勇雄に向けられた陰謀の魔の手はのちに明らかとなる。
 豊かだが行き詰った日本、食料や資源に豊かだが発展途上の南南興、二つの国が紡ぐ二重螺旋は秋津悠斗内閣総理大臣と楠木沙織大統領の代にまで持ち越される。
 さて、この時、アジア大洋州局長柏木信継と大洋州課長岡崎昌也が交渉にあたっていた。彼らの子息らはともに将来の秋津政権を支える若き功臣となる。外務大臣柏木神璽、そして警察出身秘書官岡崎英一である。
 また、政府は南南興との軍部との連携を強化するため、将来の統合幕僚長候補たる東城幸一一等海佐をかの国への防衛駐在官に起用。駐在官の息子の東城洋介は秋津悠斗の先輩であり、彼もまた、さらにその恋人美咲も、のちの秋津政権の功臣である。

     *    *

 二〇一七年は、世界と日本にとって激動の年であった。
 一月、ロナルド・ジョーカーが第四十五代アメリカ合衆国大統領に就任。
 五月、フランスにて最年少大統領が当選。
十月、中華人民共和国では周陣兵国家主席が中国共産党大会において自身の名を党規約に刻んだ。これにより周の権威は強まり一強体制が確立される。覇気を隠さない中国の台頭に、南南興が恐れるのも無理もない話だ。
 奇しくも、この年は日米中露で強権的な指導者が同時期に君臨している。この年に百二十二ヵ国が採択した核兵器禁止条約に当然この国々は参加していない。
 実際、ジョーカー大統領はこの年に、中東の宗教系テロリストの組織的抵抗力を奪っている。
 北朝鮮、中国という共通の敵を前にした物部総理大臣とジョーカー大統領の蜜月も見逃せない。だがそれはかえって北朝鮮の反発を招くものではなかったか。
 激動はこれにとどまらない。
 朝鮮半島においては、北朝鮮の金正運委員長が二月に異母兄をマレーシアで暗殺。韓国では三月、政変があり、金独裁体制に寛容な大統領が誕生する。
 この年、天皇の退位が特例法により二〇一九年と定められた。
 日本と世界の歴史は進み続ける……前へ、前へと……




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