神を喰らい、君を隠す

才賀ゆう

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 ぬるい空気が肌にまとわりついていた。微かに湿った土の匂い、どこかで焚かれた香の残り香が、鼻の奥をくすぐる。
 意識がぼんやりと浮上する中、水澄はゆっくりと目を開けた。目に映ったのは、薄暗く無機質な天井。木ではない――石と土が組み合わされた、閉ざされた空間の気配。

「ここ、は……?」

 掠れた声が、喉の奥でかすかに割れた。ひどく乾いている。寝返りを打とうとして――その瞬間、身体が動かないことに気づいた。
 左右の手首が、それぞれ固い何かに引かれている。寝台の上で仰向けのまま、両腕は外へと開かれ、片手ずつ金属製の鎖でどこかに繋がれていた。鈍く冷たい感触が、皮膚を通して伝わる。
 ――動けない。完全に、拘束されている。
 
「っ……っく……」

 徐々に、意識が現実に引き戻されていく。頭の奥に残る鈍い痛みと共に、水澄はようやく思い出した。
 そうだ。自分は焔狩ほのおがり……黒焔こくえん達から逃げる途中で、崖から足を滑らせた。そして転落し、意識を失ったのだ。
 その後、焔狩に見つかりこの場所へと連れてこられた。
 気を失う寸前、聞こえたあの声と、かすかな温もり。あれは……夢だったのか、それとも――
 
(いや、今はそんなことを考えている場合じゃない)
 
 水澄は静かに、自分の身体を確認した。崖から転落したときの衝撃はまだ記憶に新しい。背中を岩に打ちつけた瞬間の鈍い痛みも、確かに感じていた。
 それなのに今、特に目立った外傷はない。骨も折れていない。致命的だったはずの傷が、まるで最初から存在しなかったかのように、癒えていた。

(……また、勝手に……)

 水澄の持つ神気――治癒の力は、他者に向けて発動させるには、強く意識して力を込める必要がある。
 だが、自分自身に限っては、命の危機に瀕したときだけ、本能のように反応してしまう。
 助かったのはこの力のおかげだ。けれどそれは、死ぬはずだった場面から引き戻され、結局処刑の未来へと導かれているということでもあった。

(……皮肉なものだな)

 ここは森の中ではない。結界の内側でもない。冷たい石床と無機質な空気……地下か、それとも一時的な仮設の拘束所だろうか。
 いずれにせよ、焔狩に捕まったのは確かだ。

 そして次に待つのは、都への移送だろう。神気を持つ者の処刑は、王都でのみ執行される。ここはただその前段階にすぎない。

(連れていかれる。あの場所へ)

 思わず、喉がひりついた。だがその思考を遮るように視界の端――寝台の先、部屋の奥にある扉が、軋む音と共にゆっくりと開いた。
 
「目が覚めたか」

 静かに、だが確かな威圧を帯びた声が、室内に落ちた。
 その声が響いた瞬間、水澄は思わず全身を強張らせた。一定のリズムで迷いのない足音が近づいてくる。
 
 水澄は寝台に横たわったまま、顔だけをわずかに動かして、かすかに視線を向ける。両手首は左右に金属の鎖で引かれ、動かすことは叶わない。
 視界の端に、赤に煤けた黒が滲む異様な外套が映った。暗がりに溶け込むその衣の気配だけで、ただの焔狩ではないと直感する。

(……まさか……)

 薄暗い室内では顔までは見えない。だがその外套、その歩み、その気配――それだけで十分だった。
 赫焔令軍の幹部。焔狩の中でも異端と呼ばれる存在。

「……黒焔」

 絞り出すように呟いた声が、乾いた喉を震わせた。男の足音が止まり、寝台のすぐ傍らに立つ。
 影の中から顔が現れる――その瞬間、水澄の瞳が大きく見開かれた。

 懐かしさと信じがたい現実が、胸の奥で激しく衝突する。

「……火鷹ひだか……?」

 ――村が焼かれ、自分だけが生き残り、神籠の里へと逃げ延びてから、もう十年。

 すらりとした長身は、昔よりもさらに大きく感じられた。漆黒の髪は肩を越えて伸び、一束にまとめられて背に垂れている。その佇まいは、どこか厳かで、近寄りがたいほどの静けさを纏っていた。
 目元の形も、低く響く声も、あの日々をともに過ごした彼の面影を残していた。
 けれど、そこに宿るものだけが、決定的に違っていた。
 かつての優しさも、揺れも、そこにはない。ただ、すべてを凍らせたような、冷えた眼差し――それが、今の彼の瞳だった。

 水澄は震える声で、問わずにはいられなかった。

「なんで……なんで火鷹が、焔狩に……?黒焔って、まさか……」

 目の前の男は、しばし沈黙した。そして、ふと目を伏せるようにして、静かに答える。

「その名前は、もう捨てた」

 低く落ち着いた声だった。懐かしさも迷いも微塵も感じられない。

「火鷹は、お前を逃がしたあの日に死んだ」
 
 ただ、そう言った。水澄の中で何かが、ひどく静かに崩れた気がした。

 の腰元で、霊鈴が静かに揺れている。微かに赤く脈打ちながら、小さく、美しい音を立てている。水澄の神気に反応して、いまだに死の鈴音を奏でているのだ。

「嘘、だろ……」
「嘘じゃない」

 その一言が、胸の奥を鋭く突き刺す。本当に――もう、あの日の火鷹はいないのだろうか。そう思った瞬間、どうしようもなく、胸が痛んだ。

「俺を、殺すのか?」

 自分でも驚くほど、掠れた声だった。けれど黒焔の表情は少しも変わらなかった。

「選べ、水澄」

 抑揚のない、淡々とした声。けれどその奥には、どうしようもなく執着じみた意志が滲んでいた。

神縛令しんばくれいに従って処刑されるか。それとも――俺のものになるか」

 静かで、冷たい。乾いた声音。だが、その選択肢に本当の自由などないことは、水澄にもすぐにわかった。
 処刑という言葉を口にしながらも、その瞳はただ――ひたすらに、水澄を見据えている。

 選ばせるふりをしながら、自分のもとへ来ること以外は最初から認めていない。その冷えた眼差しの奥に宿る光が、すべてを物語っていた。
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