ファルシード叙事詩

瀧 東弍

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05 - アルバディア歴一五四年十月

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 アルバディア歴一五四年十月、夏の厳しい暑さがやわらぎ涼風が吹きはじめたころ、ファルシード皇女はマハシェを出立した。
 新王としてメディナへおもむく慶事でありながら、一行は物々しい雰囲気に包まれていた。
 都で準備を進めるあいだ、イラジーの動向があきらかに不審だったからである。
 道中での襲撃という可能性は真っ先に考えてしかるべきだった。
 ファルシードの王位獲得に激しく反発した皇子は、もはや憎悪にすらみえる苛だちを爆発させていた。
 「皇子が殿下との婚姻を承諾していたら、殿下はうけいれられたのですか」
 馬上のケイヴァーンが問うのに、ファルシードはわずかも思案しなかった。
 「それはあり得ない仮定だ。兄上の妹嫌いは筋金入りでな、私がこの姿・・・で生まれた瞬間から、兄上の敵役は決定づけられていたのさ」
 十歳上のイラジーは、ただひとりの正妻腹の皇子として周囲からかしずかれて育った。
 それが突然、神の現身うつしみ、始祖の再来と称えられる兄弟が現れたのである。
 規格外の存在に皇子が大いに焦燥をあおられたのは、想像にかたくない。
 しかし彼がもう少し賢明ならば、妹を囲いこみ、また監視するためにも婚姻という手段がどれだけ有効か気づいたはずだ。
 私情をおさえその選択ができなかったところに、皇子の為政者としての器が透けてみえる。
 次代の皇帝のもとで生きぬく困難を思うと、ケイヴァーンはいまから頭が痛かった。
 頭が痛いといえば、銀の子供の問題もある。
 皇女たちのすぐ後方、百騎長の馬に乗せられたソルーシュはおとなしく鞍に座っている。
 最後尾の荷馬車に乗せるつもりだったが、ファルシードの姿がみえないのを嫌がったためこうなった。
 皇女の護衛隊の長である百騎長は、さすがに彼女と長いつきあいだけあって、得体のしれない子供の身柄を任されても警戒することなく自分の馬に同乗させている。
 意外に子煩悩な百騎長の姿に、ケイヴァーンはため息を禁じえなかった。
 日が中天にさしかかったころ、一行のはるか後ろに小さく砂煙がたち、やがて一騎の武人が現れた。
 隊列の横を全速力で走りぬけ先頭へ達すると、息切れもおさまらないまま皇女へ謁見を請う。
 「近衛隊の者ではないか。陛下の御身になにかあったか」
 ファルシードのもとへ案内された武人は悲壮な表情で訴えた。
 「殿下、謀反です。陛下が暗殺されたのです!」
 周囲の者たちは息をのんで伝令兵を凝視し、次に皇女を見た。
 ファルシードは、眉根を寄せる以上の反応はみせなかった。
 「謀反人とは何者だ。兄上はどうした」
 「帝国人だということしかわかっていません。イラジー皇子は行方知れずのため、ファルシード殿下に討伐の指揮をとっていただきたく、早急に皇都へお戻りください」
 「兵五百は私とともに来い。残りは隊をまとめ後からマハシェへ戻れ」
 ファルシードは伝令兵に返事をする間もないというように、ひかえる武人たちへ命令を発し馬の綱をにぎった。
 そのとき、後方で子供の声があがった。
 百騎長が部下にソルーシュを任せるため馬からおろそうとして、本人から拒絶されたらしい。
 「ソルーシュ、ここに残って後から皆と来るがいい。我らは全速で馬を走らせるゆえ危険だ」
 ファルシードの言葉にも、少年は「ぼくもファルシードといっしょに行く」と言ってきかなかった。
 彼女は一瞬思案したが、すぐに百騎長へ命じる。
 「おまえがその子の身を守れ」
 言いながらも馬を動かしはじめると、瞬く間に速度をあげ続く騎兵たちを率いてマハシェを目指した。


 ファルシードが都に戻ったとき、快晴だった空は厚い雲に覆われ雨がふりはじめていた。
 王宮はいまだ混乱がおさまっておらず、そこかしこで剣を打ちあう音が響いている。
 「連れてきた兵だけで制圧するのは厳しい。偵察を出して後続を待ちますか」
 ケイヴァーンの進言に、皇女は首をふった。
 「待つ時間が惜しい。二十騎のみ私についてこい。残りは本殿の正面で派手に動け。本気でやりあう必要はない。敵方の気をひくだけでいい」
 本隊から離れた二十騎とケイヴァーン、ファルシードは一度城壁の外側へまわり、物見塔のひとつへ向かった。
 馬をおりて塔のなかへ入ると、巧妙に隠された地下への扉を開放し奥へ続く通路を先導する。
 「脱出のための秘密路から侵入することになるとはな」
 代々皇族に伝えられてきた石づくりの地下道は、こもった空気が充満している。
 「どこへ通じているのですか」
 「父上の私室の衣装小部屋だ」
 ファルシードとケイヴァーンの会話を聞きつつも兵たちは前後を警戒しながら進んだが、ひとりソルーシュだけは百騎長にかかえられて、おちつかなげに周りを見まわしている。
 一行がしばらく歩いた先に、壁から光が漏れている場所があった。
 ファルシードは兵たちに物音をたてないよう指示すると、壁のくぼみに指をかけ慎重に手前へひいた。
 漏れていた光が大きくなっていく。
 目の前に現れたのは、絹の長衣だ。
 まさにそこは衣装棚の後ろの壁だったのである。
 ファルシードが続き部屋になっている私室をうかがっているうちに、兵たちが隠し通路からでてきた。
 不意に彼女がこぶしをにぎったのに、ケイヴァーンは気づいた。
 顔を見ると、皇女は私室へ目をやったまま「父上の遺体がある」とつぶやく。
 さすがにケイヴァーンも奥歯を噛みしめずにはいられなかった。
 ほかの者たちも怒りと悔しさをにじませて沈黙する。
 「……首謀者らしき指揮官がそばにいる。私がその者をおさえると同時に、おまえたちは周りの敵兵を処理し扉を封鎖しろ」
 皇女は冷静だった。
 耳をそばだてれば、たしかに大声で尊大に命令をだす男の声が聞こえる。
 ケイヴァーンと百騎長へひとつうなずくと、ファルシードはしばらくのあいだ静止して私室を注視し、男の声がとぎれた次の瞬間、勢いよく小部屋をとびだした。
 ひときわ精緻な絨毯にふんぞりかえっていた初老の男が、突然現れた侵入者に驚きの声をあげる。
 そのあまりにも特徴的な容姿を目にし、すぐに正体を察した。
 「ファルシード皇女! なぜここに」
 あわてて立ちあがるまえに、ファルシードが踏みこんでこぶしをみぞおちへ叩きこむ。
 うめいて身を折る男を後ろ手に拘束し剣を抜くあいだ、室内にいた数人の兵士はケイヴァーンたちによって倒され、扉は内側から施錠された。
 「おまえの顔には見覚えがある。アリュメシアの宰相か」
 新年の祝賀に山のような献上品をもってきたときの姿を思いだしたファルシードに、男――ワウシュは口からよだれをたらしながらわめいた。
 「古き巨人族の赤い怪物めが、おとなしく辺境へ向かっていればいいものを」
 言いおわらないうちにケイヴァーンのこぶしが男の頬にめりこみ、口から血と歯がとび散った。
 「申し訳ありません、つい」
 言葉とは裏腹に反省のかけらもない腹心を横目に、皇女は本題へはいった。
 「このたびの首謀者はおまえか、兄上か」
 「愚かなイラジー皇子なら……自分の策略だと、言うだろうさ」
 血とよだれの泡をふきながら不明瞭にしゃべるワウシュは、ケイヴァーンの殴打で顎の骨がどうかしてしまったらしかった。
 男の口ぶりから察するに、兄は宰相にそそのかされて軽率な反乱をおこしたのだろう。
 アリュメシア王としてのイラジーに侍っていた宰相なら、皇子の性格はよく把握しているはずだ。
 しかし次の皇帝はほぼイラジーに決まっており、危険をおかして皇帝を殺す必要がない。
 あの皇子に父たる皇帝を手にかける甲斐性・・・があるとも考えにくかった。
 ファルシードは男に尋ねた。
 「兄上はどこだ。おまえの手駒としてつかう気なら、殺してはいまい」
 大規模な戦乱のさなかでもないのに、いち州国の宰相が皇位を簒奪して正当性を得られるわけがない。
 名目だけであろうとイラジーは生かされているだろう。
 ワウシュは不気味にくぐもった笑いを漏らして、露台にいると言った。
 不審を感じながら男を部下に任せ、ファルシードはケイヴァーンとともにいまや激しい雷雨となっている露台へでた。
 天幕が張られているものの横風で水びたしの手すりの端に、イラジー皇子は立っていた。
 髪も衣もずぶ濡れだというのに、気づいてもいないように呆けた様子である。
 「兄上」
 ファルシードの呼びかけにふりかえったイラジーは、目を見開いてぶるぶると震えだした。
 「ファルシード、なぜおまえがここにいるんだ。おれはおまえを消したかっただけなのに、ワウシュが父上を殺してしまった。おまえだけが消えればよかったのに、父上を殺したのはおれじゃない……」
 ケイヴァーンは皇子をにらみつけた。
 イラジーは、ファルシードやケイヴァーンが思うより妹を恐れていたのだった。
 おおかた皇女を殺してしまおうなどとワウシュの甘言にのせられ、資金と兵を与えたのだろう。
 しかし、ワウシュの目的は初めから皇帝の命を奪い皇子を傀儡皇帝にすることだったに違いない。
 ファルシードが足を踏みだしたとき、室内で怒号と叫び声があがった。
 部屋の真ん中で、とりおさえられていたはずの老宰相がソルーシュを抱きこみ、首に剣をおしあてていた。
 「つきはまだ、こちらにあるようだな」
 気力の尽きていない声に、子供はおびえて身をすくませる。
 衣装部屋を出るとき、百騎長はソルーシュを衣の陰に隠しておいた。
 襲撃に連れていくわけにはいかなかったからだ。
 喧騒がやみ静かになったのでソルーシュがそっと出ていくと、皆露台のファルシードとイラジーに気をとられていた。
 捕らえられたワウシュだけが子供に気づき、兵の隙をついて行動にでたのである。
 皇女が銀色の子供を特別に保護しているという噂は男の耳にも入っていた。
 だとしたら、人質としての価値はあるはずだった。
 「さあイラジー殿下、ご自身の手で妹君をおくってさしあげなさい。もはや後戻りはできないのです」
 ワウシュの言葉に操られるように、皇子は腰の剣に手をのばした。
 ひどい震えで鞘と柄が触れあい、耳ざわりな音をたてる。
 ファルシードはイラジーを見ていたが、ソルーシュを助けようと機をはかっているのがケイヴァーンにはわかった。
 彼女が兄の斬撃をかわすのはたやすいだろう、その隙にケイヴァーンにソルーシュを救出するよう望んでいるのも知っていたが、彼は皇女の盾そして剣であり、主人を助けるため皇子を斬る選択しかなかった。
 緊張が限界をこえたように、ソルーシュが叫んだ。
 「だめだ、ファルシード!」
 次の瞬間、いくつものことが同時におこった。
 子供の身体が落雷をうけたような鋭い光を放ち、皆が視界を奪われた。
 ワウシュが思わず子供の身体を離したのに気づいたファルシードがとっさに動いた、その背中へイラジーが剣を突きたてた。
 正気を失った彼だけが、突然の発光に反応することもなくただ震える手で目的を達したのである。
 直後にケイヴァーンはためらいなく抜剣すると一刀で皇子の首を飛ばした。
 「ファルシード殿下!」
 彼の手が触れるまえに、皇女の身体は剣に貫かれたままかしいで手すりにぶつかり、あっという間に外側へ落下した。
 皇帝の私室の露台は高台に面しており、その下には大河が流れている。
 「殿下―――!!」
 ケイヴァーンがとびついた手すりの向こうには、すでにファルシードの姿はどこにもなかった。
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