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エピローグ ようこそ、むし屋へ

開店準備は冷静に

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「はあ?? この店に来れなくなってただと??」
「はい、まあ。えへへ」
 店内の壁に掛かる、小さいけれどめちゃくちゃ高そうな絵画の額縁の埃をはたきでぽふぽふ取りながら、ほたるはへらっとごまかし笑いを浮かべた。

「えへへ、じゃないだろ。全く」
「でも、こうしてまた来れるようになったわけだし、結果オーライですっ! てゆーか、実際、どういう仕組みで蜻蛉神社とフローライトのネックレスが関係しているのか不明なんですけど」

 やっぱり、原因はフローライトのネックレスだった。どうやらフローライトのネックレスをつけていないと蜻蛉神社へは行けないらしいのだ。
 ただ、その理由については、いくら考えてもぼんやり、ふんわりとしていて、わかるようなわからないような曖昧な感じのままだ。

 たとえて言うなら……数学の公式みたいなもの?
 公式って、仕組みはぼんやりとしか理解できないけれど、式に当てはめて計算すれば、パシッと解は出ちゃうみたいな、そんな感じ?
 数学が苦手なほたるの場合、ケアレスミスで間違うことも多いけれど。

「てゆーか、このはたきみたいなの、すんごいほわほわですね。素材はなんなんですか? 羽毛?」
「シロホコリの繭だ」
「え」

 開店前のむし屋で、ピシッとシワのない、ネイビーのスーツに身を包んだ向尸井さんが、美麗の樹の年輪テーブルを、若草色のハンカチのようなもので丁寧に拭きあげながら言う。
 この人いっぱいハンカチ持ってるなー。
 それより今、繭って言ったよね?

「繭って……まさか、これ、虫の繭?」
 思わずはたきを落としそうになったほたるに「店の中の飾りを壊したら、弁償して貰うぞ」と、向尸井さんが言い放つ。
 慌てて、はたきをキャッチ。絵画の額縁の傾きも直して、ほっと一息。

「むしはむしでも、体内に宿る方のむしだ。安心しろ」
「安心しろって、あたし的にはどっちもどっちなんですけど」

「むしが嫌いなら、さっさと辞めろ」
「イヤでーす。てゆーか、体内のむしはさておき、あたし、同年代の中では、いわゆる昆虫は平気な方なんですよ! カブトムシもクワガタも好きだし、チョウチョもトンボもバッタも、なんならゴキブリだって倒せます! 触れないけど。向尸井さんとか優太君とかが、昆虫マニアすぎるんですよ。あとアキアカネさんも」

 昆虫食をスナック菓子のようにぼりぼり貪る神経の方がおかしいのだ。
 好きのレベルが高層ビル並みに高すぎる。

「そういえば、優太とかいうあの子どもの周辺の異変はどうなった?」
 話のついでに、と、言った感じで、向尸井さんが何気なく尋ねてくる。

「もう、ぱしっとおさまったみたいです! 優太君のお父さんの法律事務所も、無事疑いが晴れて、没収された書類も返却され、風評被害で離れてしまった顧客たちも戻って来たそうですよ。優太君のおばあさんも通常通りのザマスさまに戻ったし、あたしの住んでいるハイツも全部元通りで、めでたしめでたしです」
「そうか」
 興味なさげに頷く向尸井さん。
 でも、テーブルを拭く口元が、ちょっぴり上がっていた。

 案外心配してたんだな、向尸井さんも。
 いい人なのか、悪い人なのか。ほんっと、掴めない人だ。

 それにしても。
(こうしてみると、やっぱりイケメンなのよねー)

 凛々しい眉、知的な二重に、黒々長いまつ毛。すっと通った鼻筋。上品な唇。ほたるよりすべすべな白肌と、黒髪のコントラストも完璧。背も高いし。

 これで性格が良かったらなー。
 つい、見惚れていたら、向尸井さんが振り返ってこちらを見たので、どきりと心臓が跳ねあがった。
 真剣な表情でほたるを見つめ、カツカツ、と、靴音を鳴らして向尸井さんがこちらに迫って来る。

「え? な、なんですか?」
 ほたるの問いに答えず、強引にパーソナルスペースの内側に分け入ってくる向尸井さん。
 そして、おもむろに長身をかがめた。

 ち、近い。
 心臓がバクバクして、ちょっとしたパニック。
 目を見開くほたるの頬へ、向尸井さんはしなやかな指先を伸ばしていく。

 な、な、な、なに、このシチュエーション。
 まさか、これって。
 耳と顔から、火が出そう。
 心臓も飛び出るかも。

 どどどど、どうしよう。
 頭の中がぐるぐる。
 思考回路がバチっとショートして、目の裏側がチカチカした。

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