漆黒の碁盤

渡岳

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第六章 本能寺の変の前夜

本能寺前夜の三コウが現れた対局

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【六】
三日後の六月一日、信長の御前、本能寺で日海は鹿塩利玄と対局した。
「本日は、日海のたっての要望にて、木画紫檀棊局を用いて対局を行うものである。この信長が判者を務める上、双方死力を尽くし戦うがよい」
 信長が対局開始の合図をする。 
互先、握りで、先手黒鹿塩、後手白日海となった。
既に、木画紫檀棊局にて、師の仙也に一敗、家康に一敗しており、鹿塩に負けたとしたら三敗で、日海は死ぬことになる。鹿塩に勝っても、七日を経ても、家康は亡くならず、信長は本能寺での日海と家康との対局に疑念の念を抱くはず。その時は、自分自身が葬り去られるのだ、日海はそう思うと体が震え始めた。
家康もこの難局を乗り切ったところで、信長の殺意は止むことなく、家康に変わらず殺意を抱き続けるのだろう。
――今この時を持って、信長を亡き者にするしかない。
対局の判者は信長が務めている。判者の一存で、対局を中止させれば、信長に木画紫檀棊局の呪いが降りかかるに違いない。鹿塩も手堅い碁を打ち、極めて困難ではあるが、手はある、やるしかない、日海はそう信じ碁笥の碁石に手を突っ込んだ。
鹿塩は、左下隅の左辺側の小目に黒石を置く。日海も、すかさず、小目に掛かっていく。鹿塩は、右下隅の下辺側の小目に石を置くと、日海も、小目に白で掛かっていく。
序盤ながら、早くも小競り合いが起き、大戦の準備が始まっている。
――ここからが本当の戦じゃ。
日海は、再び呼吸を整え、深く息を吸うと、落ち着いて大きく吐き出し、石を置いた。
鹿塩に自分の意図を読まれず、三劫を出現させられるか。三劫とは、一群の石の上に劫が三つでき、どちらかが譲らなければ永久に対局が終わらない状態のことをいう。表立って狙えば、阻止される。気取られず、勝ちを狙いながら、十数手先でその形が見えるように誘い込めるかどうかだ。
夜半の蠟燭の炎で盤面が赤く揺らめいている。盤上に描かれた星々に照応するように、欄干の上部からも闇夜に幾つかの星が輝いている。対局開始から点し始めた蝋燭も、その生命を終えるが如く、今では小さくなり果てていた。
日海と鹿塩は対局を続けていたが、ふと、鹿塩は、盤面を見ながら不思議そうな顔つきをした。
盤上の隅の戦いの一群で、鹿塩が、劫の石を取り、当りにすると、他の石を取られ逆に当たりにされる。今度はもう一つ残った劫の石を取り当りにすると、最初に取った劫の石が取り返され当りにされる。お互いに取って取り返されが、これが延々と続く。
「はて、これは一体」
「なんじゃ、先ほどから同じ場所で、取って、取り返しを繰り返しておるではないか。ふむ、これは、なんと、三つの劫ができているということか」
 信長が不思議がり、堪まらず口を挟んできた。
「某も始めて見る形でござりまする。ですが、これでは対局が進みませぬ」
 鹿塩は信長に苦悶の表情を浮かべ訴えかけた。
「拙僧も三劫は未だ嘗て見たことがござりませぬ。史上稀な手として書物にて読んだことはござりまする。はて、しかし、これは、毛利攻めを控えた手前、信長様の幸運の兆しかもしれませぬ」
日海は、信長を直視できず、盤面を見ながら、声を大きくして吉兆を強調した。
「であるか。確かにこれでは、勝ち負けがつかぬのう。よいよい、今日はこれで中止じゃ。対局はまたの機会じゃ」
 幸運の兆しと聞いて心持を良くしたのか、日海と鹿塩の対局にそもそも興味がなかったのか、対局はこれで終了となった。
「異存ござりませぬ。またの機会とあらば幸甚にござりまする」
 日海は、肩の荷が下りたのか、猫のように背筋が曲がり尻餅をついたように座りこんだ。
「助かった」
 日海は誰にも聞き取れない小さな声で呟いた。
夜、子刻(午後十二時)過ぎ、日海と鹿塩は共々本能寺を辞し、宿坊に帰って行った。

翌日未明、まだ朝も早いというのに、何やら周りが騒がしい。昨日の対局の疲れが残っているのか、目覚めも悪い。宿坊の小僧を呼び尋ねたところ、何やら本能寺の方で小競り合いが起き、火が燃え出でているとのこと。既に卯刻半(午前七時)を過ぎている。
何事かと、急ぎ、身支度を整え、本能寺に向かう。道々に兵士が満ち溢れて、慌てふためき逃げ惑う女、子供、町人で騒めきかえっている。走り去る足軽の指物を見ると水色の『桔梗』の紋が見て取れる。
(桔梗紋、明智様が、一体、京に何用か。丹波亀山で中国攻めの準備をされていると聞いていたが。何者かのご謀反を防いでおられるのか)
明智の兵が要所要所を封鎖しており、本能寺に近づけない。日海は、やむを得ず、宿坊に戻ることにした。
「明智ご謀反なり!」
「信長、信忠親子が誅殺!」
徒事(あだごと)とも、真ともつかぬも妄言が飛びかえっている。このまま京にいることに危険を覚え、宿坊に戻ると、身づくろいを整え、出立する準備に取り掛かる。
すると、火の粉をくぐったように顔から全身煤だらけの町人が、包みに覆われた大箱を抱えながら宿坊の庭先から縁側に駆け寄ってくる。
「日海様」
「そちは、本能寺で信長様に仕えていた原宗安殿ではないか。この騒ぎは何事ぞ。何故、明智様の軍勢が京におられるのじゃ。信長様は如何」
 原宗安の子を寺で弟弟子として面倒を見ていたこともあり、原宗安とは顔見知りであった。
「明智様のご謀反でござりまする。拙者もこのように町人の装いで、本能寺から抜け出してきました。日海様も急ぎ京を出られませ」
「明智様がご謀反とな。それで信長様は」
「わかりませぬ。拙者にこの黒い碁盤を日海殿に渡せとお命じになり、軒先での戦いに戻られ、明智の兵と自ら槍で奮戦されておりました」
 日海は、煤に汚れた包みを開き、木画紫檀棊局を見て、ようやく昨日の本能寺の対局のことを思い出した。
(そうか、信長様が対局の中止をお命じになったことで、早くも呪いが信長様に降りかかったのだ。対局を邪魔し台無しにした者は三回の負けとみなされて死ぬという、あの秘した呪いが降りかかったのだ)
 延暦寺で焼き討ちにあった僧侶、女子供の姿、安土で罪なき罪で首を刎ねられた普伝和尚、寂光寺で対局した時の光秀の苦悩、様々な信長の仕打ちがふと日海の脳裏に浮かぶ。
――これが信長の業であったのだ。
一方で、仏界のためとはいえ自身の意思で人の命を殺めたことに、日海は恐怖で身震いがした。もちろん、自らが殺めたのではない、しかし、その契機を作ったことは間違いない。因果応報、この業は、いずれ我が身に降りかかってくるのではないか。
そのまま事切れるのではないかと思うぐらい、日海の心の臓の鼓動は早まった。
「それで、宗安殿、そちはこれからどうするのじゃ」
「はい、本能寺に戻ります。父や兄もまだ本能寺で奮戦しておりまする」
「間に合うのか」
「わかりませぬ。しかし、やれるだけのことはやるつもりです」
「そうか。仮に、信長様の死に目に出会うことがあれば、その御首級は雑兵に渡してはならぬ。いずれ信長様の後継者が誰かはっきりする時が来よう。それまで隠し覆すのじゃ」
「承知仕りました」
(明智様では、織田家の諸将はおろか天下をまとめきれまい。信長様の御首級が明智様に渡れば、幾ばくばかりかの戦いは、優位に進めることができよう。結局は、明智様では、戦国の世はいたずらに長引き、人が人の命を奪い合う時代は長引くばかりじゃろう)
 日海は、死ぬ間際に木画紫檀棊局を送り届けようとした信長に対して、何か大きな返すべき義理のようなものを感じた。いや、むしろ、これが信長が自分に引き継がせた『業』なのではないか、そうとも思えた。
用い方次第では、邪とも、正ともなり得る禍々しき碁盤。碁盤を用いるべき時に用いよ、そう自分に下知を下したのではないか。
日海は、抱えていた木画紫檀棊局に、今にも落としそうになる程の石の塊のような重みを感じた。
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