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三十六
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窓の外は新緑が眩しかった。
花の時期は終わり、風の爽やかな季節になった。
「まさか、庭の風景の移り変わりを愛でられる身の上になるとは思わなかったわ」
あの夜、王の寝所に呼ばれてから、行首は王のお手付きということで承恩尚宮の身分になり、王の側室の一人と加えられた。そして、彼女の望みも半分叶い、身籠ったのであった。
「 驚いたよ、まさか、こんな形で“褒美”を与えるなんてな、行首、いや尚宮さまと呼ばねばならないな」
検診に来た許医員が嬉しそうに言うと
「今まで通り、行首と呼んでいただいて構いません。本当に自分に家族が出来ると思うと夢のようです」
と行首は応じた。
「御子はどちらでしょうね」
医員に着いて来た後輩の医女が言った。
「女の子だといいわね。娘が大人になって結婚したら一緒に暮らすの」
行首は笑顔で応えた。
もし男の子だったら、面倒に巻き込まれる可能性があった。身分卑しい母親の子であっても権力争いに利用されることもあり得るからだった。その点、女の子だったらそうした心配はない。降嫁後、共に暮らすことも出来るのである。
医女だった頃は、それこそ朝から晩まで忙しかったが、こちらに来てからは特にすることもなく、穏やかに日々は過ぎていった。お腹の子にはよいことなのだろう。
数日置きに検診に来る医員と医女たちは、元の職場の人々だったため、気兼ねなく話せるので、行首は彼らが来るのを心待ちにしていた。
「御子は順調だし、あなた様もお元気で何よりだ」
後宮女性らしい髪型になり、豪華な衣裳を身に付けているかつての部下に、許医員は以前のように気安く話せなくなった。行首は今まで通りに言って欲しいと言うのだが、なかなかうまくいかなかった。
反面、医女たちは
「行首さま、お元気で嬉しいです」
「行首さま、教えていただきたいことがあるのですが」
と以前と同じように接するのだった。
季節は移り、行首の御腹は膨らみ、身動きが少し不便になったが、別に仕事をしているわけでもないので気にならなかった。それよりも御腹の子が日々成長しているのが嬉しかった。
「人生って本当に不思議なものだわ」
御腹をさすりながら彼女はこれまでのことを思った。
物心ついた時から、彼女は一人ぼっちで、いつも誰かに使われていた。それに対し、彼女は不満を感じることはなかった~当たり前のことと思っていたのだった。
彼女は与えられた仕事をよくこなしたので、主人一家から可愛がられ、同僚の使用人たちからも愛された。
ある日、主人の家に来た医者が彼女を気に入り引き取られた。
彼女は医者のもとで彼の妻と共に仕事を手伝った。
この仕事はこれまでとは違い楽しいものだった。
医者と妻は、彼女に医療に関する様々なことを教えてくれたのである。
薬草畑では、薬草の名前や効用、栽培方法や使い方、患者を治療している時は鍼灸の効用と方法、診療の際は症状と病名等々など、分かりやすく伝えた。
彼女は薬草の名一つ、病状一つを知るたびに心ときめいた。ただの草だと思っていた薬草に名前があり、腹痛にも様々な種類があるのだ。目の前が開けたように感じた。
そして彼女は“疑問”というものを知った。以前にはなかったことだ。有難いことにそれらは医者や夫人に聞けば教えてくれた。こうして彼女は“知識”を得るようになったのである。
加えて嬉しかったのは、炊事洗濯等をするたびに主人夫婦からを慰労の言葉を掛けられることだった。
医師の妻は身体が弱く十分に家事をこなせなかった。それらを彼女がしていたのだが、仕事が終わるたびに「ご苦労さん」、「飯が美味かったよ」と言ってくれるのだった。これまで無かったことである。当初は戸惑ったが、そのうち「恐れいります」と笑顔で応じられるようになった。
医者の家での生活は“幸せ”だった。この暮らしが永遠に続くことを願った。
だが、そうはいかないのが世の中だった。
病弱だった妻が風邪がもとで体調を壊し、世を去ってしまったのである。
その喪失感により、医師は次第に気力を失くし、遂には仕事を彼女に押し付け、自身は何もしなくなってしまったのである。
その間、往診には同行し、医術も相当の水準に達した彼女だったので、患者たちからは特に文句は出なかった。
そんなさなか、家に大守がやって来て、彼女に都に行くように命じた。
王宮で医女が足りなくなったので、それを補うためだそうだ。
主人の状態がこのようなので彼女は断った。だが、
「これは良い機会だ、行きなさい。わしは大丈夫だ」
と医師は彼女に都行きを勧めた。そして
「これまで、お前に頼り過ぎた。明日からは以前のようにやるよ」
と言うのだった。
翌日、彼女は大守に連れられて都に発った。
別れ際、医師は銭の入った小袋を渡しながら
「これまで本当によくやってくれた。都でもお前なら十分やっていける。そして多くのことを学べるだろう」
と激励した。
彼女は涙を流しながら家を後にしたのだった。
花の時期は終わり、風の爽やかな季節になった。
「まさか、庭の風景の移り変わりを愛でられる身の上になるとは思わなかったわ」
あの夜、王の寝所に呼ばれてから、行首は王のお手付きということで承恩尚宮の身分になり、王の側室の一人と加えられた。そして、彼女の望みも半分叶い、身籠ったのであった。
「 驚いたよ、まさか、こんな形で“褒美”を与えるなんてな、行首、いや尚宮さまと呼ばねばならないな」
検診に来た許医員が嬉しそうに言うと
「今まで通り、行首と呼んでいただいて構いません。本当に自分に家族が出来ると思うと夢のようです」
と行首は応じた。
「御子はどちらでしょうね」
医員に着いて来た後輩の医女が言った。
「女の子だといいわね。娘が大人になって結婚したら一緒に暮らすの」
行首は笑顔で応えた。
もし男の子だったら、面倒に巻き込まれる可能性があった。身分卑しい母親の子であっても権力争いに利用されることもあり得るからだった。その点、女の子だったらそうした心配はない。降嫁後、共に暮らすことも出来るのである。
医女だった頃は、それこそ朝から晩まで忙しかったが、こちらに来てからは特にすることもなく、穏やかに日々は過ぎていった。お腹の子にはよいことなのだろう。
数日置きに検診に来る医員と医女たちは、元の職場の人々だったため、気兼ねなく話せるので、行首は彼らが来るのを心待ちにしていた。
「御子は順調だし、あなた様もお元気で何よりだ」
後宮女性らしい髪型になり、豪華な衣裳を身に付けているかつての部下に、許医員は以前のように気安く話せなくなった。行首は今まで通りに言って欲しいと言うのだが、なかなかうまくいかなかった。
反面、医女たちは
「行首さま、お元気で嬉しいです」
「行首さま、教えていただきたいことがあるのですが」
と以前と同じように接するのだった。
季節は移り、行首の御腹は膨らみ、身動きが少し不便になったが、別に仕事をしているわけでもないので気にならなかった。それよりも御腹の子が日々成長しているのが嬉しかった。
「人生って本当に不思議なものだわ」
御腹をさすりながら彼女はこれまでのことを思った。
物心ついた時から、彼女は一人ぼっちで、いつも誰かに使われていた。それに対し、彼女は不満を感じることはなかった~当たり前のことと思っていたのだった。
彼女は与えられた仕事をよくこなしたので、主人一家から可愛がられ、同僚の使用人たちからも愛された。
ある日、主人の家に来た医者が彼女を気に入り引き取られた。
彼女は医者のもとで彼の妻と共に仕事を手伝った。
この仕事はこれまでとは違い楽しいものだった。
医者と妻は、彼女に医療に関する様々なことを教えてくれたのである。
薬草畑では、薬草の名前や効用、栽培方法や使い方、患者を治療している時は鍼灸の効用と方法、診療の際は症状と病名等々など、分かりやすく伝えた。
彼女は薬草の名一つ、病状一つを知るたびに心ときめいた。ただの草だと思っていた薬草に名前があり、腹痛にも様々な種類があるのだ。目の前が開けたように感じた。
そして彼女は“疑問”というものを知った。以前にはなかったことだ。有難いことにそれらは医者や夫人に聞けば教えてくれた。こうして彼女は“知識”を得るようになったのである。
加えて嬉しかったのは、炊事洗濯等をするたびに主人夫婦からを慰労の言葉を掛けられることだった。
医師の妻は身体が弱く十分に家事をこなせなかった。それらを彼女がしていたのだが、仕事が終わるたびに「ご苦労さん」、「飯が美味かったよ」と言ってくれるのだった。これまで無かったことである。当初は戸惑ったが、そのうち「恐れいります」と笑顔で応じられるようになった。
医者の家での生活は“幸せ”だった。この暮らしが永遠に続くことを願った。
だが、そうはいかないのが世の中だった。
病弱だった妻が風邪がもとで体調を壊し、世を去ってしまったのである。
その喪失感により、医師は次第に気力を失くし、遂には仕事を彼女に押し付け、自身は何もしなくなってしまったのである。
その間、往診には同行し、医術も相当の水準に達した彼女だったので、患者たちからは特に文句は出なかった。
そんなさなか、家に大守がやって来て、彼女に都に行くように命じた。
王宮で医女が足りなくなったので、それを補うためだそうだ。
主人の状態がこのようなので彼女は断った。だが、
「これは良い機会だ、行きなさい。わしは大丈夫だ」
と医師は彼女に都行きを勧めた。そして
「これまで、お前に頼り過ぎた。明日からは以前のようにやるよ」
と言うのだった。
翌日、彼女は大守に連れられて都に発った。
別れ際、医師は銭の入った小袋を渡しながら
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