永遠なる花苑~異聞枕草子

鶏林書笈

文字の大きさ
上 下
5 / 8

命婦のおもとと翁丸

しおりを挟む
 ある朝、中宮の御座所に向かうと女房たちの賑やかな話し声が聞こえた。中宮はいらっしゃらないようである。少し気楽な気分で小馬命婦は女房たちが集まっている場所に近付くと猫の声がした。人だかりの真ん中に白い子猫がいたのである。
「中宮さまの御猫ですか?」
 小馬は側にいた同僚に訊ねた。
「いえ、主上の御猫よ」
「主上は相変わらず猫がお好きなんだな」
小馬が呟くといつの間にか隣に来ていた左近が
「でも、この子は五位に叙されていないわ」
と笑いながら話しかけた。
「でも〝おもと〟と呼ばれているのでは?」
と小馬が応えた時、中宮が御出でになった。
 女房から猫を受け取った中宮は小馬に向かって
「おもとなどと呼ばれた猫がいたのかえ」
と訊ねられた。
「はい、母から聞いた話ですが…」
 中宮が興味をもたれたようなので、座られるのをまって小馬は話し始めた。

 主上がかつて飼われた御猫に女官並みに五位に叙されたものがいました。命婦のおもとと呼ばれたその御猫を主上はとても可愛がられていました。
ある日、命婦のおもとが縁側の端で寝ていたので、お世話係の馬命婦が
「お行儀の悪いこと、中にお入りなさいませ」
と言ったのですが、暖かな日差しのなかで気持ちよさげに眠っていた御猫は動きませんでした。目を覚まさせようとした馬命婦は宮中で飼っていた犬・翁丸が庭にいたので
「翁丸、命婦のおもとに噛み付きなさい」
と命じました。愚かな翁丸は真に受けてしまって御猫に飛びかかろうとしました。驚いた命婦のおもとは御簾の中に飛び込んでしまいました。
 その時、ちょうど主上は朝餉の間にいらっしゃって一部始終を御覧になっていらっしゃいました。逃げてきた御猫を懐に入れられた主上は侍臣を呼ばれ、参上した蔵人の源忠隆どのと源斉長どのに
「この翁丸を打ち懲らしめて犬島に流してしまえ!」
と命じられました。
 すぐさま二人は武官たちに翁丸を探し出させ宮中から追い出しました。
 馬命婦に対しても
「あの者も替えてしまおう、何をしでかすか分からん!」
とひどく叱責されたので彼女は表に出てきませんでした。
 女房たちは
「可愛そうな翁丸」
「いつも偉そうにお庭を歩いていたのに」
「三月の節句に頭の弁〈藤原行成)が柳のかずらを着けさせ、桃の花を簪にし、桜の花を腰につけさせて歩かせていた時には、このような身になるとは思ってもみなかっただろうに」
「中宮さまのお食事の時には必ず中宮さまの方を向いて控えていたのに……」
と口々に気の毒がるのでした。
 こうして三~四日経った昼頃、犬がひどく吠える声がしたので、どのような犬がこんな長鳴きしているのだろうと思っていると、多くの犬が集まってきたようでした。この時、
「大変です、蔵人二人が犬を叩いています。追放したのが戻ってきたといって懲らしめているのです」
と御厠人が走ってきて知らせて来ました。
 何と翁丸が戻ってきたというのです。
「忠隆さまと実房さまが叩いています」
と言うので、止めさせるように使いを出したところ、鳴き声は止みました。ただ、犬は死んでしまったので外に捨ててしまったとのことでした。
「可愛そうに…」
皆で悲しんでいるうちに日が西に傾いてきました。そして、ふと庭を見ると、ひどく腫れ上がったみすぼらしい犬が震えながら歩き回っているのが目に入りました。
「翁丸か! いや、こんな時間にいるはずがない」
皆があれこれ言うので母が
「翁丸」
と呼びかけましたが、犬は知らん顔していました。
「やはり違うのよ」
「いや確かに翁丸だ」
 なかなか結論が出ないので后宮さまが
「右近を呼びなさい、あの者なら分かるでしょう」
とおっしゃったので呼びにやりました。
 すぐに参上した右近に翁丸を見せると
「似ているようですが……。ひどい有様ですので」
と応えた後
「翁丸や」
と呼びかけましたがやはり知らんふりをしていました。
「翁丸ならば呼べば喜んで寄って来ますので、これは違う犬のようでございます。大の男が二人掛かりで打ち付けたのだから死んでしまったのでしょう」
と言いましたので、后宮さまはとてもがっかりされました。
 日が暮れて暗くなった頃、餌をやってみたところ食べなかったので「やはり違う犬なのだろう」ということになりました。
 翌朝、后宮さまの御身繕いのお手伝いで鏡を持っていた母が、柱の下で昨日の犬が寝ている姿を見つけて
「昨日、翁丸はひどく打たれて死んでしまったのね、可愛そうに。どんな思いをしたのだろう。今度は何になって生まれ変わるのかしら」
などと呟いたところ、その犬が起き上がり震えながら涙を流したのです。
「やはり翁丸なのね。昨夜は隠れ忍んでいたんだわ」
 母は御鏡を置いて呼びかけました。
「翁丸なのかい」
 犬は平伏して吠えました。
この様子を御覧になった后宮さまも嬉しそうに微笑まれました。
 后宮さまはさっそく右近をお呼びになり、このことをお話になると、側にいた女房たちも嬉しそうに笑いました。これをお聞きになった主上も后宮さまの御在所に御出でになり
「驚いたなぁ、犬などにもこのような心があるのだな」
とおっしゃいました。主上付きの女房たちもやって来て
「翁丸」
と呼びかけると今は隠すことなく応えるように吠えました。
こうしたなか、母が
「顔などの腫れているところを手当てしなくてはね」
と言ったので、
「犬嫌いのあなたも遂に翁丸には好意的になったわね」
と女房たちが笑いあうのでした。
 さて、翁丸が戻ったらしいという話を聞きつけた忠隆どのが台盤所の者を通じて
「本当なのでしょうか、確認しましょう」
と言ってきたので
「とんでもありません。そのようなものはいません」
と人をやって伝えたところ
「隠し通せるものではありませんよ」
との返事でした。
 間もなく翁丸は許されて元通り宮中で飼われるようになりました。
 それにしても同情の言葉を聞いて涙を流すのは人ばかりと思っていたのだけれど犬でもそのようなことがあるとは、実に興味深いことだったと母は申しておりました。

「まことに興味深いことだ。どのようなものにも心はあるのかも知れぬな」
話を聞き終えた中宮は膝に乗せていた御猫を撫でながら感心するのだった。
しおりを挟む

処理中です...