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◇3 ラッセル街

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 泥を体に塗りたくる。上質な衣服を脱いで、用意された古びた服に袖を通す。
 金縁の鏡の中に写るテセウスは王子ではなく、ただの十七歳の少年だった。色白の肌は少し汚れて浅黒くなり、普段履くことのない半ズボンからは程よく筋肉のついている太ももが覗いている。布でできた靴は軽く、どこまでも走っていけそうだ。輝く金髪にもテセウスは泥を塗った。
 馬車に揺られながら、テセウスはマルセルが用意してくれた資料を読んだ。今回行く場所は、ラッセル街。山のふもとにある街で、王都ほどではないが、そこそこ栄えているようだ。
 民の声を聞く調査──一人の少年として街の人たちと触れ合うことのできるこの時間が、テセウスはとても好きだった。城での生活は息が詰まる。勉強も剣術も堅苦しいマナーも別に苦手ではなかったけれど、常に監視されていると時々どうしても逃げたくなる。

 ──お前は真面目だからな。

 記憶の中で誰かが笑った。

 ──もっと肩の力を抜いていいんだぞ。

 綺麗な顔を持つ彼はその顔をくしゃくしゃにして笑って、そうして頭を撫でてくれた。やさしい手付きだった。あれはそう、兄と稽古をしていた時のことだ。どうしても兄に勝つことができなくて、十歳のテセウスは悔しくて泣いたのだった。兄は国中の誰よりも強かったと思う。どうしてそんなに強いの、と問えば、彼は困ったように眉を下げて「なんでだろなぁ」と言った。その余裕ぶった表情も悔しくて、また泣いた。
 日の光に透けた黒髪が、きらきら、きらきら輝いていた。テセウスが持たない黒髪。テセウスとは似ても似つかない切れ長の瞳。「悪魔の子」と呼ばれていた──父にも母にも似ていないその人のことを美しいと思った。
 そんなことはもう、遠い記憶だ。
 
 ラッセル街の近くでテセウスは馬車を降りた。「お気をつけて」とマルセルが深々とお辞儀をする。石畳に足を付けると、テセウスは駆け回りたくなった。王子ではなく、ただの少年みたいに。たったった、とテセウスは小走りでラッセル街まで走っていく。

「そこの兄ちゃん、お腹空いてない?」
「君だよ君、金髪の」
「あ、僕?」
 
 まさか自分に声を掛けているとは。気安い様子で声を掛けてきた赤毛の女の子は馴れ馴れしく「入ってかない? あたしの店」と言った。そこの兄ちゃんと呼ばれたことがどうにもむず痒く、テセウスはなんだか照れて「へへ……」と笑ってしまった。女の子は訝しげに眉を顰め、「入るってことでいいんだよね? 父さーん、お客さんだよ!」と大声を張り上げた。 

「これ、メニューね」

 芋を混ぜたご飯。海で取れた貝を入れたスープ。珍しくて、まじまじとメニューを見ていると、女の子は「なに? お客さん、お店くるの初めて?」と笑った。

「それとも違う国から来たの? それにしては発音がきれいだけど」

 ──正体がバレるかもしれない! 
 テセウスは慌てて首を振った。メニューの一番上にあったものを適当に指差し、「これひとつ!」と宣言する。
 女の子はアンナと名を名乗った。年はテセウスと同じ十七歳。将来は父親が開いているこの店を継ぐのが趣味だという。笑顔で夢を語るアンナの瞳はきらきら輝いていた。

「あたし、学校にも通ってなくて馬鹿だけど、ここのお客さんはみんなあたしのこと褒めてくれるから」

 テセウスは頭の中で、マルセルに習った授業や読んだ書物の内容を思い出していた。この国には学校が少ない。それに、学費も高額だ。学校に通えるのは貴族や裕福な商人だけ。

「学校に通いたいとは思わないの?」

 テセウスがそう聞くと、アンナは「分かんない!」と元気よく言った。

「だってこの街には学校に通ってる人がいないんだもん!

 でも、本は読めるようになりたい。隣の国のレシピとか、さ」

 アンナはにこにこと笑う。自分が王になったら、もっと手軽に教育を受けられるようにしたい。テセウスはそう思った。もっと、街の人たちが何を考えているのか知りたい。そう思い、アンナに聞いてみる。
 
「あの、さ。最近不満とかない?」
「不満? 何に……?」

 聞き方を間違えたのか、アンナはきょとんとする。

「ええと、税が重いとかさ、そういうの」
「変なこと聞くね」

 アンナはからからと笑った。それから、ふと神妙な顔をした。

「困ってることは──魔王かな」
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