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第一章 サイレント・マドンナ
第十六話 足音
しおりを挟む部室の扉を開くと、先程九十度回転させた部屋は全ての備品が元の位置に戻されていた。
「どういうつもりだ」
俺が以前使った珈琲メーカーで、珈琲を淹れている北条の背中に問い掛けると、彼女はゆっくりとこちらに振り返り、口角を上げた。
「確かに気分転換は必要だと思うけれど、使い勝手の方が重要でしょ。模様替えは二人で相談してからにし・・」
「そのことじゃない」
北条の言葉を遮り本題を促す。
そもそも、学校に残るのであれば俺の形跡を消す必要などない。
北条はカップに珈琲を注ぐと俺がいつも使っている席に丁寧に置き、横に砂糖とミルクを添え、珈琲メーカーまで戻って自分の珈琲を注ぎ始めた。その落ち着いた所作に、以前の取り乱した様子はない。
「俺が辞めるのに罪悪感があるなら、それは勘違い・・」
「そんなもの、微塵もないわ。貴方は無理やりこの学校に入学させられたのでしょ」
今度は北条が俺の言葉を遮る。
俺の自主退学に罪悪感を持っていないのであれば尚更、俺を留まらせようとする理由がない。北条が何を考えているのか掴めない。
「私の目的、いえ野望と言った方がいいかしら。その為には貴方に居てもらわないと困るのよ」
注いだ珈琲を自分の席までゆっくりと運ぶと、北条は席に着かずに俺に正対して言った。
「何だ、その野望とは」
「貴方を篭絡することよ」
「へっ・・・」
府抜けた声が漏れた。何を言っているのだこの女は、気でも狂ったか。
「悔しいじゃない、私だけが篭絡されるなんて。言っている意味わかるかしら、朴念仁さん」
「おま・・な・何を・・って・・お前・・・」
顔から汗が吹き出す。
上手く言葉を紡げない。
「フフフッ・・不思議ね。慌てた顔ですら可愛くて愛おしいなんて。ねえ、知っている、女は異性を格好いいと思っている間は大丈夫だけれど、可愛いと思うようになったら負けなのですって」
未だ固まったままの俺を余所に、楽しげな表情で席に着いた北条はカップに口を付ける。
「うん、まあまあね。息吹君が淹れてくれる珈琲には遠く及ばないけれど」
ニコりと笑みを見せるが、俺は更に頭が混乱する。
何故、呼び方が変わった・・・・
俺の心情を悟ったのか、北条が眉を寄せる。
「御祖母様に名前呼びさせておいて、私が駄目だなんてことはないでしょ。息吹君だって私のことを勝手に「お前」って呼ぶじゃない。あと、私はもう北条ではなく、正式に片桐志摩子になったのだから「北条」と呼んでは駄目よ。推奨は「志摩子」なのだけど息吹君にだけ特別に「お前」と呼ぶことを許可するわ」
悪戯に話す表情は以前の北条にはないものだったが、不思議と違和感がない。違和感があったのは今迄のほうであり、本来の彼女「片桐志摩子」はよく話し、良く笑う。
「珈琲が冷めてしまうわ」
「ああ。頂くよ」
自分を落ち着かせる為、砂糖とミルクを念入りに掻き混ぜ、珈琲を一口啜る。珈琲のリラックス効果を借りて徐々にクリアになっていく思考で、彼女の行動の意味を紐解く。
春京さんが聞いて欲しいと言っていた思いを勘違いしていた。「思い」ではなく「想い」ということか・・・
若い女性が行動を起こす最大の原動力は恋心だ。だが、その殆どは若輩ゆえの錯覚であり「恋に恋する」というやつである。
何かを吹っ切ったような彼女の表情や言動が俺に対する想いからだとするならば、それは間違いなく錯覚だ。自分の苦境に手を差し伸べた俺に対する感謝を恋心だと勘違いしているに過ぎない。
姉さんが言っていた言葉を思い出す。心に負った傷が癒えることはない。彼女が再び立ち上がる原動力にするには、俺への「想い」が好都合だったのだろう。
実質、俺たちが出会ったのは二週間前で、彼女は俺のことなど殆ど知らない。そういった感情を持つには不確定すぎる。
錯覚は、いずれ覚める。そうであるなら俺を心の拠り所にするべきではない。彼女には春京さんや宮下社長のような人が周りに居るのだから。
「片桐、お前が抱いている想いは錯覚だ」
「馬鹿にしないで」
間、髪を容れず否定された。
「貴方がすぐに私を受け入れられる状態にないのはわかっているわ。けれど、私の想いを錯覚なんて言うのは傲慢よ。私の幸せは、私にしかわからないもの」
その通りだ。
俺が春京さんに言ったのと同じだ。近い将来訪れるであろう、彼女が俺に幻滅した時に学べばいい。
「悪かった」
その後は会話もなく、並んだ机でお互い正面を向き珈琲を飲んだ。
彼女の想いは聞いたが、俺の決断は変わらない。利用するようで申し訳ないが、母さんの許へ帰る折角のチャンスを放棄する気にはなれなかった。
しかし、安心はできた。やはり彼女は強い。俺が持っていない、真の強さを持っている。これからは、そこに本来の彼女も加味され、より魅力的な女性へ成長していくだろう。
彼女は嫌がるだろうが、今迄以上にチヤホヤされるに違いない。
そんなことを思いながら珈琲を飲み終え隣席に目を向けると、片桐は泣いていた。
慟哭でも号泣でも嗚咽でもなく、大きな瞳から静かに涙が流れる。
正面を向いたまま涙を流す片桐は俺の視線に気付くと、膝こちらに向き直り、スクりと立ち上がった。
「息吹君、お礼を言わせてください」
美しい姿勢で涙も拭わずこちらを見る彼女の真摯な姿に、自然と俺も立ち上がり姿勢を正す。
「私のことを、見ていてくれてありがとう。気にしてくれてありがとう。気付いてくれてありがとう。傍に居てくれてありがとう。身を盾にして助けてくれてありがとう。そして・・救ってくれて・・・本当に・・・本当に・・・ありがとうございました」
言い終えると片桐がまだ北条だった頃、俺がした様に後頭部が見えるほど深々と頭を下げた。
思ったことが、口から漏れる。
「俺は・・本当に・・お前を救えたのか・・・」
その問いに、頭を上げた彼女が、濡れたままの瞳ながら笑顔で答える。
「ええ。だって私・・・明日が待ち遠しいもの」
俺が守りたいと思った微笑みが、そこにあった。
運命に翻弄され、孤独に耐え、最後まで敵に屈しなかった彼女が、遂に取り戻した真の微笑は、学園のマドンナに相応しく、見蕩れるほどに美しい。
数日間の疲れが一気に押し寄せ、立っているのがやっとな程に身体中から力が抜けた。
「お願いします。残された高校生活を、共に学んでください」
片桐が右手をスっと差し出す。
その手を掴もうと、俺も右手を差し出した。それは、彼女の願い、俺が学校に残る決断をした意思表示でもある。
刹那、掴もうとした右手ではなく、左手で俺の右手首を掴まれると、強引に左胸に押し当てられる。
「なっ・・・・・」
想像でしか知らなかった感触がムニュリと右手のひらから脳を刺激すると、全神経が右手に集中してしまい身動きが取れない。
ようやく視線を片桐の左胸から顔へ移すと、彼女の顔は目前にあった。
慌てて顔を逸らそうとするが、本来掴む筈だった彼女の右手に後頭部を押さえつけられ頭を動かせない。
ぶつかる・・・・・
「んっ・・・」
完全に思考が停止した。
どれだけの時間そうしていたのだろう。俺と彼女の唇がぶつかっていたのが、ほんの一瞬だったのか数分間だったか、今、自分がどんな表情をしているかわからない。
頬を赤らめ、じっと俺の目を見つめる彼女が、ようやく口を開く。
「ノーカンなんて言わせないから」
そうか、これがファーストキスか・・・なんだ、レモンの味なんてしないじゃないか。次、誰かに説明する際にはこう言おう「ファーストキスはちょっと苦めの珈琲の味がする」って。
未だ身動きの取れない俺に、彼女が耳元で囁く。
「いつでも奪って構わないから・・・私の処女」
そのまま部室を後にする彼女を、凝固した俺は見送ることすら出来ない。
それにしても、なんて台詞を吐くんだ。春京さんが聞いたら卒倒するぞ。
「息吹くーん」
部室を出て数歩の所で片桐に呼ばれ振り返ると、彼女は厳しい表情で半身に構えた。
「ハッ!」
奇声と共に上段回し蹴りが繰り出される。
目に見えない何かを薙ぎ倒すかのような美しい放物線を追うように、制服のスカートが捲れ上がる。中からは以前見た年相応の白い下着ではなく・・・
「薄い紫の・・レース・・・だと」
蹴りの勢いのまま、クルりと回って元の構えに戻ると、姿勢を正し軽く一礼し満面の笑みを見せる。
「もう・・ガールなんて言わせないから」
そう叫ぶ彼女の顔は、この距離でもはっきりとわかるほど真っ赤だ。
「じゃあね。また明日」
「ああ」
余程、恥ずかしかったのだろう。手を振りながら、逃げるように昇降口へ駆けて行く。
パタパタと・・・大きな足音を鳴らして。
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